第3章 からかわないで
共同研究開始から数日後、初めての片想いに少し疲れを感じた健司は、心を落ち着けようと生体管理室に向かった。そこには研究用の他に、自宅から緊急避難させた、健司個人のペット“でめこ”がいる。
中に入ろうとして、足を止めた。貴美子が水槽の水をチェックしている。少し開いた戸の間からそっと見つめていると、確認作業を終えた貴美子が、研究用とは別の、部屋の隅に置いてある水槽に気が付いた。
「わ。大きい」
小さく声を上げた貴美子が水槽に近づくのが見えた。くりくりと愛くるしく太った、ソフトボール大の黒でめきんは健司の宝物だ。
「可愛い」
こんにちは、と貴美子が水槽に指を伸ばす。健司は高鳴る胸を押さえながら、そっと近づいた。
「可愛いでしょ、でめこ」
小さな背中越しに声をかけると、貴美子が弾かれたように振り返った。
「俺の家族なんです」
そのでめこが、研究所にいるわけを健司は簡単に伝えた。
「このところ調子が悪かったから、心配してました。元気になってくれて良かった」
でめこを見ながら言ったせいか、あまり緊張せずに話せた。貴美子も水槽を見つめたまま、小さな声で言った。
「ずいぶん、大きいんですね」
「7歳になります。でめこは二匹目ですが、初めに飼ったのは10年半生きました。もっと大きかったな」
貴美子は何度かうなずくと、再び水槽に指を伸ばした。水中のでめこが、自分によく似た貴美子を見返しているのが微笑ましい。
「最初のでめきんは、子どもの時に夏祭りで出会いました」
「金魚すくいで、ですか?」
「ええ。母が動物嫌いでペットを飼わせてもらえなかったんですが、“持って帰ってしまえば、こっちのもんだ”って、叔父にそそのかされて」
ほんの少しだが、貴美子が微笑んだような気がした。健司は続けた。
「露店の金魚って、おもちゃみたいに扱われますよね。それに」
すぐに死ぬと思ってる人が多い、そう言うと、
「ええ」
顔は上げなかったが、貴美子が同調してくれたのが分かった。
「うちにきたからには、長生きしてほしいと思って、がんばって育てました。気付いたら、10年経ってた」
10年、と貴美子がつぶやいた。
「大事な友達でした」
かつての愛魚、でめ太の面影を、目の前のでめこに重ねながら健司は語った。
「それ以来、金魚に惹かれて、ずっと一緒に暮らしています」
少し気持ちが落ち着いてきた。そっと貴美子に目を移すと、でめきんスタイルの頭は健司の胸の辺りにある。健司は、自分がずっと相手を見下ろす形で話していたことに気づき、体を屈めた。一瞬貴美子と目が合う。
貴美子はすぐにうつむいてしまったが、大きな眼鏡の奥にある瞳を、健司はしっかり目に焼き付けた。やっぱりそっくりだ。
大好きな金魚のそばで、でめきん似の女性と金魚の話ができるなんて。幸せをかみしめつつ、健司はこのまま時間が止まってくれればいいと思った。
貴美子が体を動かした。このまま黙っていると立ち去られてしまうと思った健司は、急いで言葉をつないだ。
「俺のことばかり話してすみません。町田さんも、金魚お好きなんですよね」
「え?」
貴美子が驚いたような声を上げた。
「たくさん飼ってらっしゃるって。でめきんと琉金、らんちゅうも。篠田さんたちから聞きました」
「それは……」
初日の夜、ペトラの女性三人と食事をしたのも無駄ではなかった。少しではあるが、貴美子の情報を得られたのだから。
「金魚が好きで研究してるなんて、俺と同じですね」
本当に運命の出会いだと思う。
「今度ぜひ金魚について語りましょう。なかなか話が合う人いなかったから、嬉しいです」
今まで女性に興味が持てなかったのは、大本命、つまり貴美子に出会うためだ。健司は確信した。
「――ないでください!」
突然、鞭を振るうような勢いで言葉が発せられ、健司は我に返った。
「え?」
「私に、構わないで」
呆然とする健司を残し、貴美子は飛び出すように出て行った。
* * *
何なの? どういうこと?
慌てて避難した階段の踊り場で、貴美子は深呼吸し、自分を落ち着かせようとした。
私はここに研究員として来てる。成果を出して、新薬を完成させるのが仕事。
彼、なぜ私なんかと話そうと思ったんだろう。
“町田さんも、金魚お好きなんですよね”
“金魚が好きで研究してるって”
どこから、そういう話に? 確か、篠田さんたちから聞いた、と言っていた。先日の食事の席で、自分のことが話題に上ったということだろうか。でめきんみたいな女が金魚の研究をしてる、なんて話して、笑ったに違いない。
同期入社の浩子や、研究員の亜紀からは感じないが、ゆかりが自分を侮っていることは分かる。不快な気持ちになった。
金魚は可愛いと思う。でも、でめきんと呼ばれ出してからは、父が育てる金魚からも何となく距離を置いていた。今はたまたま金魚――淡水魚向けの水の研究をしている、というだけのことだ。
でも、あの子は可愛いかった。でめこちゃん。父の愛魚にもあそこまで大きなものはいなかった。貴美子が挨拶したら、胸びれを広げておじぎをした。気のせいかな。
でめこちゃんや、自分が育てたでめきんの話をしている時の彼は、とても幸せそうで優しい声だった。その話を聞いている時は、貴美子もほのぼのした気分になり、語っているのが悪魔的な女ったらしだということをつい忘れてしまった。
悪魔的――そもそも、あの噂話って、どこまで本当なんだろう。
すごくもてる、というのは間違いないとしても、それだけなら、彼が悪いわけじゃない。
まあ、いずれにせよ、私は彼がまともに相手をしようと思うような女じゃない。
彼には、からかわないで、構わないでときちんと意思表示をしておいたつもりだ。まあ、言わなかったとしても、でめきん女をからかうなんて、すぐに飽きるだろうけど。
何か、すごく疲れた……。
* * *
幸い、今日の昼休みは予定があった。こんな気分のまま、研究メンバーと顔を合わせたくないし、今は同僚とも離れていたかった。
貴美子は上階にある教授室を訪ねた。ノックすると応答があったので、ドアを開ける。
室内は香ばしい香りに満ちていた。これは、かば焼き?
貴美子は一礼して挨拶を述べた。
「ようこそ、いらっしゃい」
放り出すような口調で言いつつ、手を広げて歓迎してくれたのは、父の友人・金枝だ。貴美子が学生のころまでは、よく家に来て父と話していた。銀縁眼鏡に椎茸のかさのようなヘアスタイルは今も変わっていない。“シイタケおじさん”と、敬愛の気持ちを込めつつ、こっそりあだ名を付けていたことを思い出した。
「お父さんは、元気?」
「はい」
金枝は満足そうにうなずくと、貴美子にソファを勧め、腰を下ろした。
「ずいぶんご無沙汰しててね。今度また会っていろいろ話したいと思ってます。まあ、町田君自身も忙しそうなんだけれども」
そっくり返るような座り方も、すさまじい早口も、町田家で談笑していた時と同じだ。
「お父さん、相変わらず金魚可愛がってます?」
「ええ」
「あなたのお父さんほど金魚好きな男はね、僕、この世にいないと思ってたんですが、なかなかどうしているもんですよ。彼に匹敵するツワモノが。町田君に会わせたら絶対面白いことになるぞ、って、僕いつも思ってます」
機関銃のような話し方が懐かしい。貴美子はひたすら相槌を打って聞いていた。
「それはそれとして、共同研究は進んでますか? いい機会ですから、うちの連中にいろいろ教えてやってください。よろしくね。で、今日はあなたに、僕のうなぎをご馳走しようと思って来てもらったの」
「ありがとうございます」
入室した時のかば焼きの香りは、目の前の重箱から漂っているのだった。
「僕が育てた特別なうなぎですから。よそでは食べられないんですよ。調理はね、ご近所のうなぎ屋さんに持ってって、お願いしてます」
金枝はわざわざ、お茶まで淹れてくれた。
「いただきます」
重箱の蓋に手をかけた時、ノックの音がした。
「あれ、噂をすれば、なんとやらかな。どうぞ」
失礼します、と入ってきたのは山本健司だった。淡水魚研究室の面々は金枝の部下にあたるらしいから、訪ねてきても不思議はないが、さっきのことがあるので、ひどく気まずい。
「頼まれていた資料、お持ちしました」
「ああ、どうもね。ありがとう。僕のデスクに置いといてくれますか」
奥に進みかけた健司は、貴美子がソファに座っているのに気付いた。
「町田さん?」
当然ながら驚いている。気まずさと、何と言えばいいのか分からないのとで、ひとまずぺこりと頭を下げた。
健司は資料を金枝の机に置いて、退室しようとしたが、ふと足を止めると言った。
「教授」
「何です?」
「すごく、うらやましいです」
「うなぎ? 君にはあげないよ」
金枝が再びそっくり返った。
「君は、僕の研究手伝わないじゃない。金魚だけじゃ食ってけないよって、僕いつも言ってるでしょ。だいたい、うな吉さんにうなぎ運んでくれてるの大野君だからね。バケツに入れて。逃げ出した時なんか大変だよ。だからタダで食べられるのは彼の特権なの」
意外にも、健司は真っ向から反論した。
「お手伝いはしてます。うなぎだって、運んでよければ運びますよ」
「お店に行くのは止めときなさい。あちらが混乱しますから。ところで、君、いつもの豪華弁当は持ってきてますか」
「いえ、今日は」
健司が首を振った。
「今度、僕の分も作ってきてください。そしたら金枝うなぎと交換してあげます」
早口なだけでなく、その言い方がひどく意地悪そうに聞こえるのが金枝の話し方だ。話の合間にほんの一瞬見せる照れ笑いに気づかない人や、付き合いが短い人間からは、誤解されることも多い。貴美子は父親がそんな話をしていたのを思い出した。
「それは構いませんが。別にうなぎがうらやましいわけじゃありません」
「じゃあ、何なんです」
「この状況、と言いますか」
「ん? じゃあ君は、僕がこちらのお嬢さんをご指名で教授室に呼んで、特別うなぎを一緒に食すってことが面白くないわけ? なるほど、そのきれいな顔に“職権乱用反対!”って書いてありますね。でも、彼女は僕の友人の、大事な娘さんなの。文句言われる筋合いありません」
「え、そうなんですか」
拍子抜けしたように、健司が言った。どちらに発した質問か分からなかったので、貴美子はひとまずうなずいた。金枝は、そうなんですっ、と語気を強めて言ったあと、顔を隠すようにして少しだけ笑った。
「というわけですから。ご苦労様」
「失礼しました」
健司は肩を落とし、出て行こうとした。
「あ、そうだ。ちょっと待ちなさい」
金枝が健司を呼び止め、手招きした。割り箸を割ると、重箱の蓋を取って裏返し、そこにうなぎを一枚載せた。健司に差し出す。
「うな吉さんの、すごくおいしいんだけどねえ。実は僕のうなぎにはちょっとこのタレ、合わないんじゃないかなって気がしてまして。君なら何が余分で何が足りないか分かるかもしれない。ちょっと探ってもらえませんか」
「分かりました」
健司は重箱の蓋を受け取り、
「今、こちらでいただいても――」
「それはだめ。僕、彼女といろいろ話したいから、邪魔しないで。君は自分のデスクでどうぞ」
金枝教授、容赦ないなあ。貴美子は気の毒に思いつつ、少しおかしくなった。
健司が出て行くと、
「彼はね。面白い男です。なかなか見どころありますよ。料理の腕だけじゃなくてね」
料理が上手なんだ。でも、あの姿からはちょっとイメージしにくい。
「僕ね、ここ一番、という時に着るシャツや白衣は彼にアイロンをかけてもらいます」
「そうなんですか」
金枝は後方の棚を差し、そこに道具一式を用意してあるのだと言った。
「何と言いますか、いい感じで仕上がるんです。僕が着てるの見て、他の教授たちも頼むようになっちゃいました。ほんとはちゃんとお金取ってもらいたいんですよ。優れた技術にはそれに見合う対価を、ってのが僕のモットーですから。でも家事を極めたいって理由で鍛えてもらったんだから、ってどうしても取らない。アイロンの師匠に義理立てしてるんだねえ」
一体、彼は何者なんだろう。よく分からなくなってきた。そして、結局ここでも彼の話を聞かされた。
「ああ、ずいぶん、お待たせしちゃいました。ごめんなさい」
金枝は貴美子にうなぎを勧めつつ、自分でも頬張った。
「わ、おいしいですね」
「でしょう?」
ほどよく脂が乗っている。こんなにふっくらとした食感のうなぎは今までに食べたことがない。
貴美子が感じたままを述べると、金枝は椎茸ヘアを揺らして喜んだ。
「これで、ベストなタレが見つかれば、最高のかば焼きになります。山本君の研究報告が楽しみですねえ」
研究報告って、今やってる共同研究や、本業の方はいいのかな……。
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