第2章 いつでもどこでも誰とでも

 同日、約12時間前――

 乗り換え駅からどっと乗客が乗り込み、車内が混み合ってきた。貴美子が文庫本から顔を上げると、目の前に大きな荷物を抱えた老婦人が立っている。 

「あの、どうぞ」

 貴美子は小さな声で言い、立ち上がった。

「まあ、ご親切に。ありがとう」

 喜んでもらえたのは良かったが、こういう時、すごく落ち着かない気分になってしまう。こんなことなら、始めから立っていればよかった。

 でも、毎日通勤電車で2時間あまり揺られることを考えると、座れる時には座りたい。しかも、今日から2か月間は、いつもより長く電車に乗らなければならない。貴美子が勤務する観賞魚飼育用品メーカー、ペトラ社が都内の生物学研究所と共同研究をすることになり、貴美子も研究員の一人として派遣されることになったからだ。

 電車を降り、しばらく歩くと国立生物学研究所に着いた。敷地内に入ったまでは良かったが、2階、3階建ての建物がいくつかあり、目的の研究室がどこにあるのか分からない。

 案内板を探し、見取り図を確認していると、後方から声をかけられた。

「どちらへ行かれるんですか?」

 振り向くと、貴美子と同年代くらいの若い男が立っていた。その背の高さにも驚いたが、モデルか俳優かと思うような端正な顔立ちに、思わず数歩あとずさってしまった。

「た、淡水魚の研究室に行きたいんですが」

 貴美子の回答に、男はまぶしいくらいの笑顔を返してきた。

「本当ですか?」

 なぜかは分からないが、すごく嬉しそうだ。宇宙空間を何日も一人ぼっちで漂っていた人が、ようやく自分と同じ遭難者に出会ったかのような。

「だったら、ご案内しますよ。俺の職場ですから」

 え、この人も研究者ってこと?

「ありがとうございます」

 少し前を行く男の後に続いて歩きながら、貴美子はさっと辺りを見回した。実は映画か何かを撮影しているのでは、という気がしたからだ。それほど、男の雰囲気はこの研究所に合わなかった。

 背が高い。145センチの貴美子と比べると、すごい身長差だ。話す時は見上げないといけないかも。貴美子が思っていると、男が話しかけてきた。

「もしかして、ペトラの方ですか」

「は、はい。そうです」

「じゃあ、共同研究でいらしたんですね」

 貴美子がうなずくと、また“宇宙遭難者”の微笑みが降ってきた。

「俺もメンバーなんです。よろしく」

 男は山本と名乗った。

「町田です。よろしくお願いします」 

 ほんとに研究者なんだ。この人。素敵だな、と思った瞬間、貴美子はさえない自分の容姿を思い出して、ひどく落ち着かない気分になった。

 ペトラ社からは貴美子を含めて女性ばかり四人が派遣された。貴美子ともう一人が研究開発部で、もう二人はマーケティング部の所属だ。

 貴美子から少し遅れて研究室にやってきた三人は、山本――山本健司の顔を見るなり、並んだまま固まってしまった。みんな、口開いてるよ、と貴美子がそっと叩いて正気に戻さなかったら、ずっとそのままだったかもしれない。

 当然のことながら、その日の昼休みは健司の話題で持ちきりになった。

「国生研に行けって言われた時はめんどくさ、って思ったけど」

「来てよかったね~」

 手を取り合って喜んでいる。

「何かもう、すっごいご褒美もらった気がする」

 2年後輩の篠田ゆかりが頬を押えた。

「まだ、何にも成果出してないのに?」

 ゆかりと同じマーケティング部の小島浩子が苦笑した。

「来たからには真面目にやんなさいよ」

 と、いつものように、容赦なく意見する。

「とか言って、浩子さんも大好きでしょ。彼みたいな人」

 からかうように言ったのは、清水亜紀だ。

「もちろん。私、のっぽフェチだもん」

「耕介さんと、どっちが高いですかね」

 亜紀が出した名前で、貴美子は浩子がまもなく結婚するのを思い出した。

「さっき、聞いたらね。同じだった」

 187センチ、と言い、浩子は何か思い出したように笑った。

「どうしたんです?」

「格っていうか、何かオーラが違うよね。山本君は」

「まあ、そうですね」

「耕介には悪いんだけど、高いだけじゃダメだな、ってちょっと思った」

 ゆかりと亜紀が爆笑した。

「それ、婚約者に言います?」

「耕介さんかわいそ~」

「もちろん一緒に暮らすんだったら、耕介みたいな方が安らげるけどさ」

 貴美子もそのやりとりをおかしく思いながら聞いていた。そこへ、昼食を終えた男性研究員が二人戻ってきた。

「吉崎さん、大野さん」

 ゆかりが二人に呼びかけた。

「何?」

「山本さんって、本当に金魚の研究者なの?」

 吉崎と大野は顔を見合わせて苦笑すると、傍の椅子に腰を下ろした。

「もうさすがに慣れたな」

 二人とも似た雰囲気を持っているが、中肉中背の方が吉崎で、小柄でがっちり系なのが大野だ。

「みんな同じ質問するからね」

 身長はさっき聞かれてたな、と大野が手のひらを返して親指を折った。

「本当に研究してるの? 何でこんなとこいるの? ほんとは何者? 何歳? 彼女いるの?」

 ここまで数えて、大野は手を開き、笑った。

「ま、いいや。何でも教えてあげるよ」

 吉崎も笑っている。

「ヤマケン博士こと山本健司のプロフィール。ぜーんぶ」


* * *


 聞くんじゃなかった――とげんなりしたのは、貴美子だけらしい。ゆかりたちは嬉しそうに騒いでいるが、何だか気分が悪くなってきた。

 山本健司については、朝、研究室まで案内してくれた時の笑顔や親切な様子から、好印象を持っていた。それだけにショックを受けた。

 そりゃあ、モテるのは分かるけど。一晩楽しんだらそれっきり、って……。

 貴美子とはまったく別次元の話だし、今日知り合った他所の研究員が、プライベートで何をしようが関係ない。それでも、何とも言えない不快感は拭えなかった。

 金魚をこよなく愛し、職場では真面目に研究をしている、と吉崎と大野は最後に付け加えたが、何のフォローにもならなかった。

 初日の作業が終わり、貴美子が帰り支度をしていると、噂の健司がやってきた。

「お疲れ様です。メシ食いに行きましょう」

 すごく嬉しそうだ。ゆかりや亜紀が健司を誘ったのは知っていたが。まさか、自分みたいな女にわざわざ社交辞令を言いにくるとは思わなかった。

「いえ、私は失礼します」

 努めて冷静に断ると、

「え、そうなんですか。それは残念だな」

 広い宇宙で出会い、唯一無二の相棒を得たのに、お互いの帰る星が違うなんて、みたいな雰囲気だ。私、最近SFばかり読んでたから、こんなこと考えるのかな。

「じゃ、また今度」

 健司は少し寂しそうに微笑み、去って行った。

 あの話を聞くまでは、素敵な人だと思ったのにな。残念なのはこっちの方だ。


* * *


 翌日、健司は昨日と同じ時間の同じ車両に乗ってみた。だが、でめちゃんこと町田貴美子の姿はなかった。  

 でも、研究所に行けば彼女に会える。

 期待と緊張でぴりぴりしながら職場に着くと、すぐに同僚の吉崎と大野が寄ってきた。

「ペトラの娘たちに誘われたろ、行ったか?」

 昨晩の食事のことを言っているらしい。白衣に腕を通しながら健司がうなずくと、

「ちくしょ~」

「初日からがっつきやがって」 

 二人で唸った。吉崎がなじるように言う。

「お互い三人ずついるんだぞ。何で平等に分けねえかな」

 今回の共同開発チームは、健司を含む国生研側の研究者が男ばかり三人、ペトラ社から派遣されてきたのは女性四人だ。ペトラ側の誰かが、一人勘定に入っていないようだったが、面倒なので口には出さなかった。大野が言った。

「お前、顔見知りは食わねえ主義じゃなかったのかよ」

 朝から何の話をしてるんだ。相手をするのもバカバカしかったが、言った。

「その通り。だからメシだけ食って解散した」

 そもそも町田貴美子が来ないと分かっていたら、ペトラ社の女性たちの誘いに応じるつもりはなかった。食事の後でさらに飲みに行こうと誘われたのを、逃げるようにして帰ってきたのだ。

「メシだけ? 本当だろうな」

 うんざりしながらうなずくと、

「よかったあ」

「オレたちのゆかりちゃんは無事だったらしい」

 大吉コンビが手を取り合って喜んだ。

「それにしても、彼女たち、本当に誘ったんだな」

「忠告しといたのに」

 にやにやしながら健司を見ている。

「忠告? お前ら何吹き込んだ」

 いつになく激しい健司の口調に、二人は意外な表情を浮かべたが、すぐにからかうように言った。

「あの娘たちがさ、どうしても聞きたいっていうからさ。なあ」

「ああ、ヤマケン博士のプロフィールをちょこっとな」

「プロフィール?」

「国内外のおいしい誘いをぜーんぶ蹴って、こんなとこで地味―な研究してる、金魚大好き好青年」

「高身長で、面もいい。だけど、生まれて27年彼女ナシ」

「余計なことを」 

 うんざりして言うと、吉崎は笑った。

「ホントは野郎専門だって言おうと思ったんだ」

「何だって?」

「女に惚れねえんだから、似たようなもんだろ」

 絶句していると、

「安心しろ。彼女たちには真実を伝えといた」

 吉崎は楽しそうだ。大野が賛同するように言った。

「そう。女性に紳士的な奴じゃねえから、期待しない方がいいよ~って」

「正確には?」

「いつでも、どこでも、誰とでも」

「一晩楽しんだらそれっきり、の超悪党」

「お前ら……」

 ぶっ殺しモードにスイッチが入りかけたが、

「真実だろ? 違うか、この冷血人間が」

「真実なら何言ってもいいのか!」

「問題ねえって。どうせ本気にはしてないさ」

 二人はけろっとしている。健司はもしやと思い、聞いてみた。

「その話、誰が聞いてた?」

「ペトラの人たちだよ」

「全員? 四人ともか」

 祈るような思いで問うと、吉崎が思い出すようにして言った。

「四人? ああ、そうだな」

 町田さんにも聞かれた? ショックのあまり健司が顔を覆って煩悶していると、ペトラ社の研究員が連れ立って入ってきた。貴美子も一緒だ。

 朝の挨拶を交わしあうや、昨夜食事をした三人の女性たちが健司に向かって、意味ありげな視線を投げてきた。

「昨日はどうも」

「楽しかったわ。また行きましょ」 

 食事しかしなかった、ともう少し明確に言ってもらいたいものだ。もし町田さんに誤解されたら、そう思うと、気が気ではなかった。

「そうですね。今度は“みんな”で」

 吉崎と大野を見ながら言うと、

「わあい、合コンだあ」

 密告者二人は、高々と万歳をした。

「ねえ」

 一人が咎めるように吉崎に言った。

「昨日の話、やっぱりでたらめなんでしょ」

 すでに男どもから“オレたちの”付きで呼ばれている篠田ゆかりだ。

「山本情報? 全部真実だって」

「そう? 御飯食べたらすぐに帰っちゃったわよ」

 すっごく残念だった、とゆかりが妖しげな笑みを浮かべた。

「わお。期待してたの?」 

 大野がにやけながら言った。もはや朝の職場の話題ではない。何がプロフィールだ。彼女がこの場にいなかったら、秒殺してやるところだ。

「冗談よ。あんなの本気にするわけないでしょ」 

 千人って、とおかしそうに言うゆかりに、他の女性たちも同調した。あいつら、そんなことまで話したのか。

「いくらなんでも、あれは盛り過ぎよね」

「そうそう、全然現実味ないもん」

「なんだか、可哀想」

 風向きが変わってきた。いい傾向だ。

「くっそ~、嘘じゃねえのに」 

「そもそも、こいつの存在自体が非現実的なんだよ!」

 吉崎と大野は悔しそうだ。

「いいの? めちゃくちゃ言われてるけど」

 浩子から、気の毒そうに言われた。

「ええ、こういうの慣れてますから」

 少し目を伏せてみる。

「お前、汚ねえぞ!」

 二人が噛みつくように健司に言ったが、あまりやっているとかえって自分たちの株が下がると思ったらしい。文句を言いながらも、作業の準備に取りかかった。

 結局、吉崎たちがペトラの女性たちに吹き込んだ健司情報は、その信憑性を疑われることになった。だが、肝心なのは噂そのものを町田貴美子がどう受け取ったかだ。健司がそっと目をやると、貴美子は特に表情を変えることもなく、一人、資料を手に計算を始めていた。


* * *


 すぐそばで仕事をしているにも関わらず、貴美子とまともに話す機会はなかなかめぐってこなかった。タイミングを計って、何とか話しかけようとするのだが、大抵、他の研究員が間に入ってきてしまう。

 今のところ二人だけで話をしたのは、共同研究初日の昨日、案内板の前で戸惑っていた貴美子を研究室に案内する間の5分程度だ。研究室の場所を尋ねられた時のことを思い出すと、今も胸が踊る。

 貴美子は内気な性格らしく、仲間と一緒にいる時も、穏やかな表情で話を聞いていることが多い。一度全員でいる時に健司が話をふったら、うつむいたまま、短い答えだけが返ってきた。

 小学生のころ、好きな女の子にどうやって接したらいいのか悩んでいた同級生がいたが、その気持ちがやっと理解できた。高校時代、悲愴な形相で恋人を求める級友を、冷ややかな目で見ていた健司だったが、今となっては彼らを笑えなかった。

 同じ年頃の人間が、成長とともに少しずつ経験してきたことを、この歳から一度に始めていると思うと、もどかしい気がしなくもない。それに職場にいるだけで、これまでの何倍もエネルギーを消耗している気がする。貴美子はもちろん、自分の一挙手一投足までが気になるのだ。正直なところ、人を好きになっただけでこんなに疲れるとは思わなかった。だが、胸の奥を刺激する不思議な緊張感は、悪いものではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る