Dragon-Jack Co. 金魚博士の恋

千葉 琉

第1章 好きな人が、できた

 今日起きた大事件、健太は信じてくれるだろうか。とにかく早く聞いてもらいたい。何から話そう? 高揚した気分のまま健司がドアを開けると、

「おかえり」

 従弟の健太が出迎えてくれた。

 高校3年生の健太は、健司のマンションを“別宅”と称して、ちょくちょく勉強部屋として使っている。今日がその日で良かったと健司は思った。

「待たせて悪かったな」

「いや、大丈夫。勉強してた」

「えらいな。夏休み終わったばかりなのに」

「一応、受験生なんで!」

 そう言う従弟の声を背中に聞きつつ、健司はシャツの襟を緩めた。ベッドに腰を下ろし、唸ったり髪を掻き上げたりしていたら、健太が笑った。

「どしたの? 何かいつもと違うね」

「分かるか。俺も自分が自分でなくなったような気がしてる」

 これから話す大事件については、健太ならきっと喜んでくれると思う、健司がそう言うと、健太は驚き、期待に満ちた笑みを浮かべた。

「この部屋、暑くないか?」

「そう? 窓からいい風入ってくるよ」

 暑いのは俺だけか。どうも落ち着かない。こんな気持ちになるのは滅多にないことで、ひとまず水でも飲もう、と立ち上がると、健太の携帯電話が鳴った。

 ふんふん、としばらく相手が話すのを聞いていた健太だったが、

「え、今から?」

 言いながら、ちらりと健司の方を見た。

「うん、今ちょうど帰ってきたとこ」

 嫌な予感がした。電話の相手、まさか――。

「一緒に行くって言うかも。なんかさ、今日――」

「健太! 待て」

 その先、言うなよ!

「すっげえいいことあったみたいで、ん?」

 手を伸ばしたまま固まっている健司を見るや、健太が口を押えた。

「あ、えっと、けんにいは行けないっぽい」

 オレもやっぱいいや、と言いつつ健司に詫びるように顔の前で手をかざした。

「三人で行ってきて。え? ちょ、何言ってんの、親父、ダメだって!」

 叫ぶように言ったが、相手に切られてしまったらしい。健太は電話を置くとため息をついた。

「けん兄、ごめん」

 言っちゃだめだって思わなくて、とうなだれている。

「いや、健太が悪いんじゃない」

 先に健太だけに話したいと言っておかなかった自分が悪いのだと健司は言ったが、健太は気が済まなかったようで、哀しそうな顔で再度詫びを言った。

 ぴっぽ、ぴぽ、ぴぽ、ぴっぽーん!

 それから何分も経たないうちに、玄関のチャイムがふざけたリズムで鳴った。相手は分かっているから、ドアを蹴破られる前に開けにいく。

「やっほー」

 予想に反して、一番に顔をのぞかせたのは、健太の妹、美春だった。

「けん兄、元気だった?」

 続いて、その母親である恵子が入ってきた。

「いつ来ても、カンペキな部屋ね」

 モデルルームみたい、と微笑む。

 そして孝志――先ほど健太に電話をかけてきたのは、叔父の孝志だ。孝志は部屋に上がりながら、健司を見て一瞬何か言いたそうにしたが、そのまま黙って奥へ進んだ。

「ったく。食べ放題行くんじゃなかったのかよ」  

 健太が悔しそうに言った。

「いや、こっちに来た方が絶対面白えと思ってさ」

 孝志は笑っている。

「けん兄、でめこがいないよ?」

 美春が声を上げた。空の水槽に張り付くようにしている。

「どこいったの?」

「今、研究所にいるんだ」

 5日ほど前、落雷で深夜に水槽の機器が突然使用不能になった。愛魚を危機から救うため、ひとまず職場に運びこんだと健司は説明した。

 話しながら、でめこの姿が脳裏に浮かび、そこから、今日の大事件のことを思い出してしまった。顔が熱くなる。

「あれ、赤くなった」

「健司君が、動揺してるわ!」

 初めて見た!と、美春と恵子はおかしそうだ。

「何だ、すっげえいいこと、ってでめきんのことかよ」

 孝志がわざとらしく肩を落とす。

「いや、違うんだ」

 でも無関係、ではない。ますます落ち着かなくなってきた。

「おい、用がねえんなら、帰るぞ」

「そうしてくれ。俺、呼んだつもりないし」

 ドアを指すと、睨みつけられた。

「相変わらず、むかつく奴だな」

 竹中家集合~と面倒くさそうに言いながら、床に座り込む。孝志に倣って、恵子も美春も腰を下ろした。健太も家族の輪に加わったが、まだ申し訳なさそうにしている。

 健太がつい口を滑らせてしまったのも無理はない。健司は思った。5歳で父を亡くして以来、健司は母と二人で暮らしてきたが、母は、健司が大学に入った年の夏に、パートナーと英国に渡った。母の弟である孝志はともかく、その家族である竹中家の面々は、孤独な健司を日ごろから何かと気にかけてくれている。普段、あまり感情を表に出さない健司の「いいこと」は、竹中家にとっても吉報、健太はそう思ったのだろう。

「で?」

 こうなると、長年の付き合いで、叔父から逃げられないのは分かっている。まずは健太にだけ聞いてもらいたかったが、いずれは皆に話すつもりだった。それがかなり早まっただけのこと、と健司は自分を強引に納得させた。

「もったいぶらねえで、早く言え」

 それでも、孝志に話すのは癪だったので、あえて健太の方を向いて言った。

「――好きな人が、できた」

「ぶ」

 孝志と美春が派手にひっくり返った。健太と恵子は顔を見合わせている。

 あれ、なぜ誰もコメントしない?

「ぶはははは!」

 孝志の高笑いが聞こえた。

「お前にしちゃあ、上出来だ」

「やだ、最悪だよ」

 隣で美春がきっぱりと言った。

「けん兄らしくないよ、ちゃんと話して」

「いや、冗談じゃないんだ」

 真剣に言ったのだが、

「まだあんなこと言ってる」

「しょうがねえ奴だな」

 熱でもあるのか、と親子で健司の額に手を伸ばしてきたので振り払う。孝志と美春は顔を見合わせて笑っている。話すんじゃなかった。健司は深くため息をついた。

「二人のことは気にしなくていいから」

 恵子は真面目に聞いてくれそうだ。

「でも、今、好きな”人”って言ったわよね」

「はい」

「じゃあ、相手は人間、てこと?」

 健司が頭を抱えていると、

「母ちゃんのは天然だから、許してやって」

 健太が笑った。

「まあ、今までのこと考えたら、そう思うのも無理ないけどさ」

「当たり前だよ」

 美春が笑いを収めて、健司をにらんだ。

「女の人に関しては、けん兄極悪人なんだから」

 これまで健司は一度も女性に(男性にも)恋愛感情を抱いたことがない。特定の恋人を持つ気もなく、一晩限りのつまみ食いを繰り返していたのだが、1年と少し前、その素行が美春にばれた。当時中学2年生だった美春の嫌悪感は大変なもので、憧れの従兄から一転、極悪ナンパ師と認定された健司は、しばらく“竹中家出入り禁止”になったことがあった。

「いやいや、最近はかなり改心してたんだぜ」

 健太がフォローしてくれた。

「ちゃんと相手の名前聞いて、顔も覚えるようにしてたし」

「覚えたって意味ないよ。二度と会う気ないんだから」

 サイッテー、と美春は吐き捨てるように言った。

「まったくだ、この外道が」

 孝志も一緒になって責めてきた。

「過去の過ちは認める」

 健司は言った。

「でも、今までとは違う」

 関係した女性の顔や名前を一切記憶に残さないという健司を、友人や同僚は“氷男”“冷血人間”などと呼んでいた。その心が今日初めて、激しく揺れたのだ。健司は胸を押さえた。

「こんな気持ち、初めてなんだ」

「大事件って、そういうことか!」

 健太が叫んだ。美春はまだ信じられないという顔をしている。

「ねえ」

 恵子が聞いてきた。

「初めてなのに、どうして”好きになった”って分かったの?」

「前に健太が教えてくれました。”胸が苦しくなって、その人のことしか考えられなくなる”と」

 健司が答えると、

「お兄ちゃんはピュアだねえ」

 美春が健太を見て冷やかすように言った。

「例えば、の話だよ」

 きまり悪そうに言うと、健太は健司に尋ねた。

「その人、どこで知り合ったの?」

 健司は今朝、通勤電車で見初めたと答えた。

「一目惚れ? 嘘だろ」

「いや、初めて、人間の女性を見て可愛い、と思った」

「けん兄が? 可愛いって……」

 健太がうーんと唸った。

 電車の中で老人に席を譲った後、悪いことでもしたかのようにうつむいていた女性の姿を健司は思い浮かべた。

「彼女を見た時は、一瞬息が止まった」

 鼓動が早くなる。

「なんで電車の中にでめこがいるんだ、って」

「は?」

 一同顔を見合わせた。

「でめこって」

「けん兄が飼ってる?」

「でめきん、だよな」

 健司はうなずくと、体の震えを押えながら女性の容姿を語った。

 大きな黒ぶち眼鏡、後ろでまとめた豊かな黒髪。背が低くて、ころんとした体型。容姿から雰囲気までひっくるめたすべてが、健司の愛魚“でめこ”そのものなのだった。

「奥ゆかしいっていうのかな。すごく素敵なんだ」

「やだ、けん兄変だよ!」

 おののく美春に、

「こいつは、いつだって変だろうよ」

 孝志がおかしそうに言った。

「できるもんなら金魚を肩に乗せて散歩したいって男だぞ。でめきん似の娘に一目惚れしても、不思議はねえだろ」

 美春はとんでもない、というように首を振ったが、孝志は笑っている。

「こいつが突然女に関心持つなんて、妙だと思った」

「ええ。でもこれなら納得よね」

 恵子もうなずいた。

「ちょっと待ってよ。なんで?」

 美春はぶんぶん頭を振っている。

「喜んでやれよ、美春」

 健太がなだめるように言った。

「初めてけん兄が人を好きになれたんだぞ」

「そうよ。これをきっかけに、健司君、普通の人になれるかもしれないわ」

 恵子がしみじみと言う。普通の人? 健司が考えていたら、恵子が微笑みかけてきた。

「27歳の初恋ね、おめでとう」

「ど、どうも」

「これからどうするつもり? 電車で見かけただけの人なんでしょ」

 恵子に問われて、

「実は」

 健司は声を落とした。

「彼女の後をつけ――」

「やっぱ、気持ち悪いよ~!」

 美春が嘆き、孝志がぽつりと言った。

「ホンモノの変態だな、お前は」

「いや、つけようかって一瞬考えたけど、さすがにそれは悪いなって思ってたら」

 偶然にも一目惚れの相手は、健司がいつも降りる駅で下車し、健司が研究者として勤める、国立生物学研究所(国生研)の門をくぐったのだった。

「今日から2か月間、ペトラ社と共同で新薬の開発をするんだけど、彼女、そこの研究員だったんだ」

「ペトラって、水槽とか熱帯魚のエサで有名なメーカーだよな」

 孝志の問いに健司はうなずいた。

「ペトラの人によると、彼女も金魚が好きでこの道に進んだらしい。あだ名はもちろん“でめきん”」

 彼女にぴったりだ、とかみしめるように言う。

「こういうのを、運命の出会いっていうんだろな」

 健太がつぶやいた。

「金魚博士にはぴったりの相手じゃん。良かったね」

「ありがとう」

 自分でも驚くほど自然に顔がほころんだ。

「けん兄が笑ってる……」

 美春が呆然としながら、つぶやいた。

「ほんとに好きなんだ、その人のこと」

 健司がうなずくと、美春は少し寂しそうに言った。

「じゃあ、応援してあげる。すっごく複雑だけど」

 健司は従妹に礼を言った。

「おい、ロンドンにも電話しとけよ」

 孝志が言った。

「母さんに? するわけないだろ」

 いくら大事件とはいえ、こんなことを母親に話そうとは思わない。

「お前なあ、人並みの恋愛もできねえ一人息子を一番心配してんのは誰だと思ってんだよ」

「それは分かってるけど」

「ま、いいや。うまくいくとも限らねえしな」

「親父、縁起でもねえこと言うなよ」

 健太が苦笑した。

「けん兄、慎重に進めた方がいいよ」

 恋愛の師匠たる、従弟のアドバイスを聞いて、健司は思い出した。

「今日、仕事の後で食事に誘ったんだけど」

「え、いきなり?」

「いや、他の研究員たちに誘われたから、彼女にも声をかけてみたんだ」

 残念ながら断られた、と言うと、

「さすがに初日だからね。疲れてたんじゃない?」

 健太が言い、美春もうなずいた。

「次は大丈夫だよ。けん兄、見かけは超かっこいいから」

「超かっこいい、だ?」

 孝志が眉をひそめた。

「おれ様の足元にもおよばねえ未熟者のくせに」

“けん兄の性格と髪の色を思いっきり明るくしたらお父さんになる”と美春が言うほど、叔父の孝志と健司はよく似た顔立ちをしていた。そのためか、自称“世界一いい男”の孝志はやたらと健司に対抗意識を燃やす。孝志に言わせれば、健司は“フェロモン垂れ流し”であるがゆえに女性の視線を集めるのであって、あふれ出る魅力を抑え込んでいる自分の方が、格段に上だと何かにつけて主張していた。

「おい、今までとは違うぞ」

 孝志が健司を見据えた。

「簡単に引っ掛かるなんて思うなよ」

 脅すように言う。

「分かってる」

「忘れんな。お前にはとんでもねえハンデがあるってことをな」

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