第二話 県教委の女、渡瀬有希。

 年が明けて、今日は仕事始め。いつものように化粧は薄目。

 スーツの胸に下げた名札……「渡瀬有希(わたせゆき)」と私の名が印字された紙がビニールケースに入れられたものを正し、深呼吸をひとつして受話器を取った。


 ここは県庁の九階、N県教育委員会のオフィス。でも私がいるのはその広大なフロア北側の隅、段ボールが詰まれたスペースの、さらに奥にある狭い一室だった。

 入り口には、この三月で定年を迎える古谷課長の書による「高等学校教学課特別分室」の看板が掲げられている。


 でもここって、きっと本来は倉庫だったはずよね? 打ちっぱなしのコンクリートがむき出しになった壁。他の部署と違いカーペットもフローリングもないから、暖房を入れても寒いったらないわ。


 私はN県職員の滅多にない中途採用(それもつい最近)だから、まだきっと正規の部署につけないのだろうけれど、こんなところじゃ活躍しようがないじゃない?!

 部署が決まる四月まで時間もないって言うのに、どうやって評価上げろっていうのよ?!


 私が仮に配属された「高校教学課」……ここでは教職員の人事も扱っている。というと聞こえはいいけれど、県全体に関わる大きな人事は同じフロアの「本室」でやっているから、この「分室」に回される仕事は、年度途中で急に不足した高校教師の穴を埋めるための手配師のような地味な仕事ばかり。

 本当なら私、もっとこう、子どもたちの未来へ希望を描くための教育の一助を担える仕事をしたいのにッ!


 でもそんな思いはおくびにも出さず、私は今朝一番にかかってきた電話に懇切丁寧に応対していた。

 せめて相手への印象は、良くしておかないとね。


 その電話は、年末にノイローゼで休職してしまった美術教師の代替を探しているという、ある高校の学校長からだった。

 電話をしながら相手の校長に、講師の紹介ファイルをメール添付して送信。こんなのお茶の子さいさい♪

 受話器の向こうで「なんて手際がいい」なんて感嘆の言葉が。それは是非是非総務部に伝えてちょうだい。でも舞い上がらずに応対は落ち着いて。

 女ですもの。頭で考えてることと手を動かすことと話すことは、きちんと分けてます。


「急な欠員補充で校長先生も大変でしたね。

 いえ、それが私どもの仕事ですから。

 添付ファイル、あ、ハイ。

 ご覧になられましたね。

 ちょうど昨年末にS市の高校を退職した方なんです。

 この方を派遣いたします。

 いえ、あまもりじゃありません。

 あ、め、も、り。

 はい。

 では、そのように伝えます。」


 受話器を静かにおいて……よし。これにて一件落着。すんなりいって良かったわ。この時期の調整って大変だもの。

 非常勤講師を探す側はやんごとない事情でどうしても必要なんだろうけれど。

 たいていの場合は今の学校のように前任者の心身失調が多いわね。それと過労による突然死。教師の世界でも結構多くてびっくりしちゃったわ。

 そうは言っても年度途中で自由に動かせそうなコマって、そうそういないんだもの。だいたいほとんどの登録講師は年度当初に契約成立してるし。この時期に空いてる人など、普通ならいないはずだから。

 だから本当に良かったわ。運よく一人、フリーなのがいて。


「でも、この雨守って、なんて人なのかしら?!」


 この男の経歴をモニターでスクロールしながら、呆れかえってしまった。民間だったら絶対こんな人と組んで仕事なんてできないわ?

 するとそこに給湯室から古谷課長が戻ってきた。今私が組んでいるのは、この人の良さそうな年配の男性一人だけなんだけど。


「おやおや、渡瀬さん。新年早々、なにか不機嫌なことでも?」


 私はモニターをにらみながら説明する。


「いえ、古谷課長。

 非常勤講師を一人欲しがってる学校長から電話があって、

 ちょうどいい人を派遣することにしたんですが。」


「おや、そういう時は私の決済を受けてくださいね。」


「あっ! すみません。」


 民間にいた時は私にも決済権があったから、つい! 焦る私に、古谷課長はにこやかな表情を変えないままモニターを覗き込んだ。


「ああ、彼……雨守君ね。

 この人なら問題ないですよ。はい、コーヒーをどうぞ。」


「あ! ありがとうございます。」


 恐縮してカップを受け取る私。上司なのに、いつもコーヒーやお茶菓子まで……。何年か前に奥様に先立たれたそうで、暮らしの一切はすべてご自身でなさってるそうだけど、女子力高そうなところも少しやりにくいのよね。


「古谷課長、この人のこと、ご存知なんですか?」


「まあ、噂程度にはちらほら、ね。」


 コーヒーをすすりながら、古谷課長は自分のデスクについた。


「やっぱり噂があるような人ですか。どおりで。」


「何か、気になるのですか?」


 眉を上げて不思議そうに尋ねる古谷課長に、つい鼻息が荒くなってしまう。


「どう考えてもおかしいですよ。

 この人、一年契約だったのに自己都合で十二月末付けで退職しちゃって。

 調べてみたら過去派遣された学校は、

 どこも満足に一年も務めていないんですよ?

 最短で三カ月とか。問題の講師じゃないですか。

 教育って大切な仕事、舐めてるんですかね?」


 古谷課長は澄まして答えるだけだった。


「……でも彼が務めた学校からは苦情は来ていないでしょう? 

 今まで、ただの一度も。」


「え?」


 そんなバカなと思いながらスクロールして……。


「……本当だわ。

 それどころか、どこの学校長からも高評価が。

 信じられない。

 でも民間だったらこんな人、普通ブラックリスト行きですよ?」


「渡瀬さんはその民間企業……28歳の若さで、

 それも外資系企業からヘッドハンティングのお呼びがかかるほどの人なのに、

 一念奮起して転身、

 給料だってこれまでの半分以下のはずの『全体の奉仕者』としての道を選び、

 競争率の激しい本県の採用試験を突破したんだものねえ。」


 私は憮然とした。


「古谷課長。

 それ、嫌味ですか? セクハラですか?

 経済や文化で世界とやりあうには今のこの国には体力がありません。

 いえ、そればかりかこの国は未来のことをまるで考えてません。

 それを憂えるだけで済ませず、

 教育行政から見直す必要があると確信したから……。」


 そう。私だってこの国を明るくしたい。女だからって舐められる覚えはない。

 私にしか、できないことがある……って、ムキになりかけた時、ずっと穏やかな目を向けている古谷課長に気づき、ちょっと恥ずかしくなった。


「す、すみません。」


「渡瀬さん、違いますよ。

 そんな努力家で、先見性のある渡瀬さんから見れば、

 彼はいい加減な男に映るのかも知れない、と言いたかったのです。

 でも、彼のような人を待ち望んでいる現場は、案外多いんですよ?」


「え? こんな人がですか?

 だいたい美術という教科だけでこんなに何校も何校も、

 非常勤講師が必要になるものですか?」


「ほう。さすがに鋭い洞察力ですね。」


「私は疑問に感じたことは、はっきりさせたいだけです。」


「そうですか。でもね。」


 ふっと古谷課長の目に、いつもの穏やかさとはかけ離れた、別人のような鋭い光が走ったのがわかった。

 背中にいきなり冷たいものが走るって感覚、初めてだわ?!

 なに?

 なになになに?!


「渡瀬さん。

 あなたがこんな部署に配属されたのは、

 あなたのその鋭さが仇になったからなんですよ?」


「は? どういう意味ですか?」


 古谷課長は一段、声のトーンを下げた。


「もしもあなたがこの部署を出て、

 これから先もこの大きな役所という箱の中で過ごしたいと願うなら、

 これだけは覚えておいてください。

 いいですか?

 彼のこと……雨守君について詮索することは、どうか止めてください。」


「え?」


**********************************


 コーヒーを飲み終えた古谷課長が席を外してから、私は口に出して悪態をついた。


「もう、なによ! 古谷課長ったら!!

 そんなに定年前にかき回されたくないのかしら?」


 詮索するなって言われれば、余計したくなるじゃない。いいわ。どうせこの雨守って人に、今度の赴任校の話を伝えなきゃならないんだもの。

 書類を送るだけでいい? まさか! どんな男か、この目で確かめてやろうじゃないの。

 私は改めて受話器を取った。


「もしもし、雨守先生ですか?

 わたくし、県教育委員会、高等学校教学課の渡瀬と申します。

 はい。

 雨守先生に、非常勤講師の依頼がありまして……


**********************************


 高校教学課特別分室の手前に積まれた段ボールの陰に、古谷課長は立っていた。彼は静かに、でもなぜか嬉しそうに微笑んでいた。


『計画どおり、か。

 渡瀬さん。

 他の部署でも欲しがったあなたを、ここに引っ張ったのは、この私です。

 あなたが期待をかけてくれている教育の現場は、一筋縄ではいかないのです。

 彼のような人間が、おかしなことをおかしいと言えるあなたのような人間が、

 必要なのです。

 偶然? いいや、

 渡瀬さんが民間からこの職に転じてくれたのは、必然だったと私は信じている。

 後のことは、お願いしますよ。』


 彼は今、声に出して語っていたわけではなかった。

 すると古谷課長の陰から、そこにはいないはずの男の声がした。


『うぬの考えていることはわかっておる。

 だが、うぬがここを去るまでに、まだ三月あまりあるのだ。

 身を引くのはまだ早い。

 それに、あの娘はどうも心配だ。』


 古谷課長はその声に答える。まるで生まれた時からの知り合いのように。


「そうですね。

 荒療治になるかも知れませぬな。それも仕方ありますまい。

 彼女にはいないのですから……兄者のように、憑いてくれている者が。」


『それだけに見極めねばならぬ。』


「それは……雨守君次第でしょうか。」


『ふふふ。一度、会うてみたい男よな。』


「そうですねえ。」


そうつぶやくと、古谷課長は少し寂しそうに微笑んだ。

 

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