非常勤講師、雨守の霊能事件簿。
紅紐
第一章
第一話 非常勤講師、雨守。
「武藤先生が怖いから、皆、なんにも言えないんだよ。ねえ、酷いと思わない?
あ~めもり先生ッ!」
俺は目だけ声の主に向け、キャンバスに走らせていた木炭を脇の小さなテーブルに置いた。
「お前もだろ? 浅野。」
浅野は唇をかむ。
「ん……。だって武藤先生に睨まれたら、進学危なくなるっていうしィ。」
十二月に入ったばかりの水曜の放課後、木造旧校舎の片隅にある美術準備室……美術部二年生の浅野るみは、口を尖らせ、栗色ショートの前髪の間から上目遣いで俺を一度見ると、窓の外に目をそらせた。
いまにも今年初めての雪が降り出しそうな空だ。木製の窓枠が、時折風にカタカタと鳴っている。
浅野は俺のデッサンを邪魔するように彫像モデルの前に陣取っていた。スカートなのに前後反対向きにした椅子をまたぎ、ブレザーの袖をめくりあげ、絆創膏を貼った右肘を椅子の背もたれにかけ、頬杖をつくと天井を睨んだ。こいつは普段から「スパッツだから平気だもんね」などとほざいて、同じ姿勢で俺の目の前に座る。ただ今日は、年末の生徒絵画展の出品も近いというのに、浅野は作品制作が全く手につかないのだ。
「るみちゃん、はしたないわよ? ほら、足を閉じて。」
浅野の隣に立つセーラー服、三つ編みおさげの深田薫が、鼻の上の黒縁眼鏡を右の薬指で持ち上げながらたしなめる。
浅野は不貞腐れながら横向きに座りなおすと、左手に持った箱からポッキーを四、五本無造作につかんで口に突っ込んだ。
「そりゃねッ。
超がつく難関大学に毎年先輩達を大勢進学させてきたって先生だから、
とっても偉いんだろうけどさ。」
さらに深田は頬を赤く染め、浅野と俺を交互に見ながらおろおろする。
「るみちゃん、またお菓子を口にしたまま話したりして。
……確かに他の先生方も、見ているこちらが恥ずかしくなるほど、
武藤先生にはペコペコしていますしね。」
武藤というのは、県下では進学校と呼ばれ教師が七十人もいるこのマンモス校で、その名を知らない生徒はいないベテラン教師だ(普通、生徒は自分が直接教えてもらう教師以外の名前と顔など、覚えないものだ)。
教育熱心で、生徒にだけではなく同僚に対しても厳しい態度で接する……いわばこの学校のご意見番。つまりお局様だ。
俺はとっくに無駄になっていた下描きをついに諦めた。どこに出品するでもなし……そして二人に顔を向けた。
「偉いんじゃないの? 俺にはそんな真似、できないがな。」
「雨守先生は非常勤講師だし。進学に関係ない教科だし。しょうがないよ。」
失礼なんだよ。浅野はいつも。
確かに非常勤講師の俺は、授業のある日しか学校に来ない。授業さえしていればいい教員だし、進学指導や生活指導といった校務分掌にも関係がない。金曜は勤務日ではないし先週末のその一件については浅野から聞くのがこれが初めてだった。
その浅野にしたって、ようやく今日になって俺に不安を口にしたところなのだが……。
「るみちゃん、そんな失礼なことを言うものじゃないわ。
雨守先生がおっしゃったのは……」
だが言いかけた深田の言葉に被せるように、浅野は目を見開き、ポッキーの欠片を口から四散させながら一段と大きな声を上げた。
「でも絶対おかしいよ!
真面目な久美子が武藤先生にあんなに怒鳴られる理由なんてないもの。」
「本当に。
あの時の武藤先生の怒り方は、それはそれは尋常ではありませんでしたわ?
奥原さんに怒るだけではなく、
『あなた方は全員だらしがない』と、学級の皆に向かって叫んで。
教室を出ていかれる時、ひどく乱暴に戸を閉めたので、
はめ込まれたガラスが割れたくらいです。
その直後、奥原さんは学校を飛び出してしまって……。」
そう言いながら深田は浅野を落ち着かせるように、その肩にそっと手を置く。
すると浅野は、今度は座面をつかんだ腕を伸ばし、Ⅴ字バランスをとるような姿勢になりながら、深いため息をついた。
束の間の沈黙ののち、浅野はグイっと上半身を俺に向けた。
「それより雨守先生、どうしよう?
土日挟んだら大丈夫かなって思ったけど、
久美子、学校に来なくなっちゃったばかりか、メールに返事もくれないんだよ?
私になんにも言ってくれないなんて初めてだよ。
このままじゃ、嫌だよ!」
同じ美術部で浅野の同級生・奥原久美子は(浅野と違って優等生だが)、ここ三日、連続で学校に来ていなかった。
「俺に一体何が出来るって言うんだ? 一番仲がいいお前に何も話さないのに。」
「雨守先生、私達の話、よく聞いてくれるじゃん?
きっと久美子、雨守先生になら話せるはずだよ。
だって久美子、雨守先生のこと尊敬してるし!!
お願い! なんとかしてよッ?!」
浅野はともかく、奥原は確かに俺の指導には素直な生徒だ。ただ迷惑なことに、どうやら俺の過去の作品を知ってのことらしい。美術関係の雑誌、数冊に取り上げられた俺の『ある作品』を。そんな、どうでもいい過去を。
「お前らが勝手にしゃべるから、ただ聞かされてるだけだ。
そもそも俺は、人から尊敬されるような人間じゃない。
なんともしようがないじゃないか。」
瞬きもせずギロッと俺を睨む浅野の隣で、深田は首を振った。
「いいえ、雨守先生は他の方とは違いますもの。私も是非に、お願いいたします。」
だが今度は俺が窓外に目をそらせた。するとガタン、と勢いよく椅子が響いた。
「もういいッ! 雨守先生なんか知らない!
『放課後の幽霊』にとり憑かれて殺されちゃえばいいんだ!!」
床に置いていたカバンを乱暴につかむと、浅野は準備室の戸を開け放って走り去っていった。深田は悲しげに一礼すると、すぐその後を追っていった。
急に冷たい空気が廊下から準備室に流れ込んでくる。ぞくっとしてきたな。
仕方なしに自分で戸をしめる。
ふん……『放課後の幽霊』ね。どこの学校にも、よくある噂。この学校の場合は『放課後になると旧校舎に女子生徒の幽霊が出る』なんて、そんなつまらない噂だ。
直情径行猪突猛進な浅野が、煮え切らない態度の俺に腹を立てるのも無理はない。だけど、あんな言い方したら気の毒じゃないか……お前が生まれた時から、ずっとお前に寄り添い、お前を守っている深田に。
深田はもう何十年も前に死んだ女学生だ。この街にも前の戦争で爆撃があったらしい。世間一般には『守護霊』と呼ばれる存在だ。
だが彼らは実のところ、先祖というわけではないし、直接何かをするというものでもない。それに守護霊は、誰にでも憑いているとは限らない。
むしろ、憑いているほうが少ないのかもしれない。
もちろん、俺にもそんな霊など憑いてはいないが。
いや。正確には俺を死霊から守ってくれた『女』がいた。
あわや四肢を千切られ取り殺される、という時。突如目の前の空間を切り裂いて現れた、直径一メートルもない漆黒の『闇』の球体?に飲まれて消えてしまった『女』はいた。おそらく成仏もしていまい。
思えばそれが業となってしまったのだろう。俺に霊の姿が見えるだけでなく、彼らと話ができるようになったのは。
供養になるとも思っていなかったが、俺が描いたその『女』の肖像画がどういうわけか人目にとまり、新進気鋭だなんて大袈裟な評価を受けた。しかし死人を描いていたことが発覚し(俺が暴露したんだが)、倫理的にどうとか騒がれ、画壇を去るきっかけになった絵でもある。
もっとも奥原も、そこまでは知らないようだが。
準備室の電気ストーブ(これもほぼ浅野に占領されていた)の電源を落とすと、隣の美術室に通じるドアを開け、そこでキャンバスに向かっていた一人の女子生徒の背中に声をかけた。
「なぁ、後代(ごだい)。俺、先に帰るわ。」
美術部三年生、後代縁(ゆかり)はその手を休めると、ブレザーの中ほどまである黒髪を静かに揺らしながら振り向いた。
「はい。後は任せてください。」
「いつもすまんな。」
「いえ。でも、今日は激しかったですね、浅野さん。無理もないけど。
……また武藤先生ですか。」
「ああ。うるさかったろ。作品制作の邪魔したな。」
顔をしかめた俺に、後代は大きく澄んだ瞳を、まっすぐ向ける。
「でも雨守先生は、これから奥原さんのところ、行くんでしょう?」
「後代には敵わないな。ああ、そのつもりだ。
だが浅野にそう言うと、一緒に行くだのなんだのと、またうるさいからな。」
「うーん、確かにそうですね。
悪気はないんだろうけど、奥原さん、余計に参っちゃいそう。」
「だろ?」
後代も苦笑したが、すぐに真顔になった。
「雪になりそうです。気を付けてくださいね。」
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俺は美術室を後にした。
「よく頑張るな。後代は。」
あいつの絵を見るたびに、ため息をつく。後代の才能は高校生としては群を抜いていた。きっと俺と違って愛される画家に……。
と、その時。
長い廊下の中ほどで俺は足を止めた。嫌な気配がする。俺は耳を澄ませた。すると、背中に声をかけられた。
男だ。
「あ、あまもり先生。」
それは、いつもならとっくに誰もいなくなっているはずの教室からだ。振り向くと、その戸口に立っていたのは国語科教師の……たしか、比留間だよな。俺より年上で真面目そうなのだが、なんだかどこか頼りない感じの男。ただでさえ肩を押されたら簡単によろけそうなほど痩せたマッチ棒のような体に、青白い顔が浮いている。
しかし、普段話などしたこともない俺をわざわざ待っていたとは。
「比留間先生。私は『あめもり』なんですけどね?」
「あ! こ、これは失礼を。」
「別に、かまいません。」
非常勤講師は授業のある日、その時間だけ学校に来ていればいい(部活動だって当然指導する義務はないが、そこは校長に依頼されて時間外手当がついている)。
だから他の教師と直接会うことも稀だったし、実際名前もよく間違えられるし。別に不機嫌になったわけではないが、恐縮したままの比留間から次の言葉が出てきそうもないので、俺から先に声をかけた。
「比留間先生。私になにか用ですか?」
「いえ、その……立ち話も、なんですので……。」
更に腰を低くした比留間に招かれ、彼が俺を待っていた教室の椅子に、二人だけで向かい会うようにして腰を下ろした。すると比留間がズッと、俺に自分の椅子を近づける。俺の右の頬が痙攣を起こしたようにピクッと震えた。俺はズッと、椅子を下げた。
一瞬、比留間は戸惑った様子だったが、すぐに謝った。
「す、すみません!」
「近すぎるの、誰彼構わず嫌なんですよ。気にしないでください。」
それは本当だ。
別に比留間に限ったことではない。こういう生きた人間の無神経さには辟易する。人が落ち着ける相応の距離感というものは、大切なはずだ。あの浅野でさえ守ってくれているのだ。
少し、空間も時間もあけて、ばつが悪そうに比留間は話し出した。
「あの。奥原さんのことですが……その、どんな様子かと……。」
「奥原? ああ、そう言えばこの二、三日、授業も部活も来てませんね。」
まるで今初めて気がついたように、俺は天井を見上げた。
「……そうですか。美術部にも顔を出していないんですか。」
比留間はうなだれて黙り込んでしまった。これじゃ埒が明かないな。
「なにかあったんですか? 比留間先生。」
比留間は俺の問いかけに、ぎょっとしたように顔を上げたが、すぐに喉の奥からかすれた声を絞り出した。
「ええ……実は、先週のことなんですが。
奥原さんは、うちの科主任の武藤先生に、厳しく叱られて。
でも実際は理不尽な、とても酷いことを言われたようなんです。
それで武藤先生の誤解だと、私が間に入ったのですが……私も散々罵倒されて。
出勤できないほど滅入ってしまって……。」
ほとんど初めて話をするのに、いきなり愚痴ですか。反射的に俺は、思い切り嫌な顔をしていたと思う。
だが比留間は俺のそんな反応に、何を勘違いしたのか『武藤に対してなにか不満を持っている同士だ』とでも思いこんだのだろう。
それまでの陰鬱な表情から打って変わって、まるで闇の中に一筋の光明を見つけたかのように顔を上げ、いかに武藤が自分ばかりでなく、日常的に周りに酷い言動をとっているかと、長々と話しだしていたのである。
確かに俺も武藤から、初対面でいきなり「受験に必要のない教科など学校にはいらない」と、あざ笑われたけどな。
「……というわけですから、武藤先生には誰も何も言えないんです。
私自身、この有様で。
でも、奥原さんはもっと傷ついてるだろうと……。
それがずっと、気になって……。」
「担任でもない比留間先生が、ですか?」
俺の問いに、比留間は初めて怒気を吐くように声を荒げた。
「それは、教師とすれば当然じゃないですか!
考えてもみてください。
このまま奥原さんの欠席が続いたりしたら、
場合によっては、進級も危ぶまれますし……。」
確かに高校ってところは、欠課がのせば進級はできない。
だが、奥原は今まで皆勤で通してきた優等生だ。そんな心配は、ないに等しいはずだ。
「それなら、まずクラス担任が家庭訪問でもすべきでしょう?」
「もちろんです。
ですが、担任の田代先生は生徒の心情には無関心な人ですから!」
そこ、胸張って言うところかな?
いや、同僚への信頼はないという点では俺と同じか。比留間は既に誰に対する不満を隠すこともない。
「あの日、私は学校長にも事情を説明しましたが
武藤先生に反抗的な態度をとったという奥原さんにも非があることは否めない、
というのが学校長の考え方のようで。ふざけてますよね。」
ふーん。学校長がとりあえず日和見になるのは何処も大差ないが。
だが、あの奥原が反抗的な態度を示すとも思えない。そこは生徒より優位にある教師・武藤からすれば、どうにでも説明がつくのだろう。
比留間の言わんとすることはわかる。
その比留間はどこか床の一点を見つめて続ける。
「私が武藤先生の反感を買うのは構いません!
でも奥原さんが……あ、いえ。
生徒が傷つくようなことは、決してよくないことです。
このまま彼女が学校に来られないだけでなく、もしも……。」
「もしも?」
言い淀んだ比留間だが、やがて意を決したように顔を上げ、再び口を開いた。だが、一段トーンを落とした声で。
「武藤先生の噂ですよ。雨守先生もご存知でしょう?
ろ、六年前と、また同じことになってしまっては
取り返しがつかないじゃないですか?!」
また噂か。あの噂ね。
六年前、この学校で一人の女子生徒が自殺した……という噂。
教師の間では話題にするのはタブーとされている話だ。一方で生徒の間では、『放課後の幽霊』として伝わっている、あの話だ。
六年前、武藤が進路指導で成績についてきつく叱った生徒が、プレッシャーのあまり自殺してしまったのだ、とかなんとか。
生徒のためを思って厳しく指導しただけなのに、と涙ながらに武藤は遺族に語った、とか。
でも実際に実績も高かった武藤を責める者は、遺族も含め、誰もいなかった……とか。
「そんな噂に興味はないです。でも比留間先生は奥原が心配なんですね?」
「教師とすれば、当然でしょう?」
「わかりました。とりあえず、これから奥原の家、訪問してみますよ。」
予定の行動ではあったのだが、最後の俺の一言に、比留間は安堵したかのように口元を緩めた。
比留間と別れ、俺はその足で奥原の家に向かった。住所はわかっているから問題ない。土地勘というよりは、行政がどんな区割りをし、どこにどう番地を振るかということは、実は簡単な法則があるのだ。
俺は下駄代わりの中古の軽トラを走らせた。遠くからでも俺の車だと、野生児のような浅野には気づかれてしまう甲高い排気音をまき散らしながら。当然ながら、非常勤講師の俺に家庭訪問の義務はない。ましてやこんな時の交通費だって、支給されるわけがない。
だが「年末の展覧会が近いし、その作品を仕上げないか?」……そんな切り口から奥原の今の気持ちを聞いてみるか。まあ、聞ければの話、だけど。
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ほとんど車の往来のない市道の端に、俺は軽トラを止めた。閑静な住宅街の一角に、奥原の家はあった。輸入物のレンガを組んだ洒落た塀に囲まれた二階建ての、わりと大きな新築の家だ。けっこう裕福そうだな。
なんとなく、道路に面した二階の一角が奥原久美子の部屋なのだろうと、その暗い窓ガラスを見上げた。さっき、確かにそこのカーテンが揺れたのだ。
反対に視線をおろした一階には、暖かな明りが灯っている。
あ、やばいやばい!
迂闊にもここに来てから気づいたが、留守じゃなくて助かった。
門から四、五メートル歩き、落ち着いた風合いのドアの呼び鈴を押した。迎えてくれたのは、奥原の母だった。実のところ初対面なので奥原母はドアチェーンを外さないまま、怪訝そうに眉を顰めた。そして、俺のつま先から頭までじろじろと見つめ、ぼさぼさの髪のあたりでその視線を固定させていた。
「私、久美子さんの学校で美術部の顧問をしている雨守といいます。」
すると奥原母の疑念はすぐ晴れたのだろう。
「ああ、雨守先生でしたの? 娘からよく聞いています。
……これは大変失礼しました。ささ、どうぞ。」
すぐに穏やかな顔つきになって奥原母はドアを大きく開けると、俺を招き入れようとしてくれた。
「いえ、ここで結構です。
久美子さん、欠席続きなもので。年末の展覧会の出品、間に合いそうかなぁと。
それだけ聞きに伺いました。」
「そう……ですか。」
奥原母は、困ったように奥の階段を見上げた。どうやら部屋にこもったきりか。
「ああ。じゃあ、また伺います。」
駄目だったと、比留間には言おう。こういうのはすぐにどうこうなるものじゃない……経験からの勘だけど。
そして一礼して帰ろうとした時だ。
「待って……ください。雨守先生。」
やはり俺が来たことを排気音で気づいていたらしい。薄暗い階段の上からパジャマにカーディガンを羽織った奥原が、ゆっくり、ゆっくり、階段を下りてきた。
その二段ほど後から、裸足の小さな足がついてくる。膝小僧が見えるような着物姿、そしておかっぱ頭の少女だ。江戸時代くらいに亡くなったのか、自分の名前さえ忘れ、いつもしゃべることもなく、ただ優しく微笑んでいる少女の霊だ。
だが今日はやはり、この子も寂しそうな顔をしている。
「よお。展覧会まであとわずかだ。作品、仕上がりそうか?」
俺は普段と同じように話しかけた。
長いこと奥原は黙り込んだままだったが、少女が奥原のカーディガンの裾を軽く引くようにして見上げている。すると奥原は、ぼそぼそっと答えた。
「……先生、絵だけ。絵だけ、描きに行ってもいいですか?」
肩まで伸びた髪は、いつもはよく手入れされているのに今日はくしゃくしゃだ。それに前髪に隠れて目はよく見えないが、恐らく泣きはらしていたんだろう。なんとなくだが、目元がずいぶん赤く、肌はかさかさに荒れたように感じられた。
「ああ、いいよ。
放課後を見計らって裏の通用門から直接、美術室に入ればいい。
鍵は開けておく。」
「ありがとうございます。」
言い終えると奥原は、目元を抑えもせずボロボロと涙をこぼした。床に大きな滴が、いくつも、いくつも、続けて落ちた。
「寒くなってきたからな。あったかい格好で来な。」
「はい。」
小さな声だったが、奥原はしっかりと答えた。
そんな娘に向かって、驚いたように目を見開き、震える両手で口元を覆いながら立ち尽くしていた母親に改めて一礼し、俺は奥原の家を後にした。
あの少女だけが、しっかり顔を上げて、俺を見つめていた。
やはり降り出したか。後代の言ったとおりだ。通りに戻ると、軽トラを雪がうっすらと覆っていた。
ドアノブに手をかけた時、俺を奥原母が追いかけてきた。
「あの、雨守先生!」
「なんでしょう?」
息を切らし、奥原母は言う。
「娘が大好きだった学校にも行けなくなって、どうしたらいいのか
主人も私も分からなくなっていたんです……。
食事もとらず部屋に閉じこもっていたままの娘が、
自分から何かしたいなんて言ったのは、こんなことがあってから初めてで。
雨守先生、どうか、娘をお助けください!」
俺を見つめるその目は、なにかにすがるようだった。
「助けるも何も、絵が描きたいって、まずはそこからでいいじゃないですか?」
俺の言葉に奥原母はその目に涙を浮かべ、周囲もはばからず叫び、続ける。
「もちろん、それだけでもうれしいんです。
でも、担任の先生はただ事務的に様子を電話で聞くだけですし、
反対に毎日のようにく……通ってくださる比留間先生にも、
娘は顔を見せようともしませんし。
武藤先生とのことは、娘にも落ち度があったと言われると、
もうなんとも言えません。
……主人も私も、誰を責める、というつもりはないんです。
ただ娘が、以前のように明るくなってくれれば!
娘が信頼しているのは雨守先生だけです。先生だけが頼りなんです!!」
「……私は、ただの非常勤講師ですから。」
ドアを閉めるとエンジンをかけた。バックミラーには、傘もささずにずっとこっちを見つめ、だんだん小さくなっていく母親の姿だけがあった。
比留間め。
毎日のように通っていただと?
奥原の母親は、言いかけた言葉を飲んで敬語を遣いはしたが……。
あの野郎、自分のことより奥原が心配だなどと言っていたが、どうやらあまり歓迎された訪問では……ないようだな。
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翌日、俺が来るのを待っていたかのように、朝一番に比留間は美術準備室にやってきた(こいつ、このところ休んいたらしいが、今日はまさか俺に会うためだけに学校にきたのか?)。
よれよれの灰色のジャージの上で、相変わらず青白い顔が揺れる。
「あの……奥原さんに会えましたか?」
「会うには会えましたよ。」
俺は別段、関心がなさそうに答えた。
「会えたんですか! それで、その、私のことはなにか?」
比留間は目を皿のように大きく見開いている。
「なにって……何を?
なぜ奥原が、比留間先生のことを?」
「あ、い、いえ。来れなくなった原因は、何だと……。」
来「ら」れなくなった……じゃぁ、ねえの?
国語科のくせに「ら」抜きですか。まあ、いいや。
「別に。一言も口をきいちゃあ、くれませんでした。」
嘘つきには嘘で返しても罰は当たるまい。
比留間はどうやら期待外れの答えに、口を開けたままになっていた。
「それとも比留間先生が昨日話していたように、
『武藤先生の暴言で傷ついた』って言って欲しかったんですか?」
すると比留間は肩をこわばらせ、一言一言、力を込めた。
「もちろんッ、あまりにもッ、酷いことですからッ!
武藤先生にも、責任が!
それはッ、追及しなければッ!!」
「だから奥原本人の発言を利用しようってんですか?」
「だって、一番の被害者ですよ?
武藤先生に責任をとってもらうにはそれしかッ!」
「責任って?」
「この学校を去ってもらうんですよッ!!」
だんだん激昂する比留間に対し、俺はどんどん冷めていった。
「あのさぁ、比留間先生。
暴言吐かれて学校に来られなくなるほど傷ついてる子が、
学校で一番偉いって言われてるその先生のこと、
そんなふうに訴えられるって、思う?」
一瞬、比留間の目は宙を泳いだ。
「あんたが期待していたことを、
よしんばクレーマーのように奥原が言ってきたとして。
『こんなことを生徒が訴えてました』だなんて、
管理職に報告する義務なんかないんですよ?
非常勤講師の俺にはね。」
「そんな?! それでもあなたは教師ですかッ?!」
「生憎とそういうふうに雇われてるんですよ。お役に立てなかったようで。」
すると比留間はなにやら俺への悪態をぶつぶつと呟きながら、肩を落として去っていった。
『あて』にしたい奥原の証言を得ることが自分じゃできないから、俺を使ったってところだろうか。昨日は奥原のため、生徒のためといいながら、武藤への反感を晴らしたいだけなのか。
くだらん。どうも生きた人間の言うことは曖昧か……嘘だらけだ。
深田なら真実だけを話してくれそうだが、浅野と切り離すことはできないし。
それに昨日あんな帰り方したんだ。いくら能天気な浅野でも、今日は顔を出さないだろう。
ここは正攻法で、他の教師達から聞いて事実を浮き彫りにするしかないか。
……この学校は教科毎、校内に「○○科研究室」という名の職員室が分散している。午前中に俺の授業は全て終わっていたから、放課後までのあいた時間に、めぼしい研究室を回って調べておくことにした。
だがそれは、一人目を訪ねてあっけなく済んでしまった。
奥原の担任、数学科の田代はアニメのキャラクターフィギュアを職場の机上に並べているような男だ。自分の興味以外のことには関心がないのだろう。だが彼はすこぶるわかりやすく、彼が客観的にとらえている事実認識を、わざわざプリントの裏に相関図まで書いて教えてくれたのだ。
それによると……
国語係の奥原はその日、クラス全員の成績判定に関わる提出物を、まとめて昼休みに国語科研究室へと運んだ。だがそこで武藤に怒られたらしい。
『提出日はとっくに過ぎている』と。
それだけならまだしも、直後、武藤は奥原のホームルーム教室まで駆け込み、クラス全員に『あなた達はだらしない!』と叫んだそうな。
あとから教室に駆け込んだ奥原が武藤に謝ったが、その怒りは収まらず、さらに大勢の生徒らの前で奥原を罵り続けた。なんのことかもわからず唖然とするだけの他の生徒の面前で、一人怒鳴られ続けた奥原は、終にそのまま学校を飛び出してしまった……。
ここまでは浅野と深田の言ったとおりだ。
「ただねぇ。
奥原は、比留間君から指示された日に提出しに行っただけなんですよねぇ。」
肩をすくめながら田代は付け加えた。それじゃあ奥原には何の罪もないどころか、単純に比留間の連絡ミスじゃないか。
「そもそも比留間君は普段から武藤先生に睨まれていたんですよぉ。」
田代は比留間と同期だが、同情すると言うよりは、他人事として半ば呆れたように続ける。
比留間は武藤から「授業がつまらない」「進学指導の実績が何一つない」と、いわゆるアカハラ、パワハラを受けているらしい。田代と比留間はここに赴任したばかりの時、それぞれ武藤の指示で研究授業をやらされたそうだ。その時、感想でもないただの嫌味を武藤が比留間に吐き捨てていたのを、同席した田代も聞いた。その時は流石に気分が悪くなったそうだ。
「いやぁ、僕は教科が違って助かりましたけどねぇ。」
眉を上げて田代は笑い、さらに説明を加える。
それ以来、比留間は研究室に自分のデスクがあるにも関わらず、いたたまれなさから図書館をはじめ、誰もいない会議室や、体育の授業などで生徒がいなくなった教室にその居場所を求めていた。そんな比留間だから、武藤が提案した課題提出日変更の提案など、知っていたはずがないのだ。
そうとは知らず奥原は、比留間に指示された日に、提出物を持っていってしまった。運悪くそこには「あの」武藤しかいなかった。
武藤にしてみれば、普段バカにしている比留間の名を出されて尚更怒りが増したのではないか、と田代は言うが、それにしてもあまりにもガキのようではないか?
まったく酷い話だ。
さらに内緒話をするように田代は俺に顔を近づける(……嫌だな)。
「比留間君もただでさえメンタル弱いのに、
怒鳴られて余計滅入っちゃったんでしょうねぇ。
それで休んでるようじゃ、この仕事は向かないですよ。
あ、いや、勿論、とばっちり食らった奥原も可哀想ですがねぇ。」
そう言いながら、にやけ面をやめない田代は、奥原を心配して困るというより、むしろ自分がこの騒動に巻き込まれたことを迷惑がっていた。
そんな田代だから「昨日俺が奥原と会った」と知るや、己の肩の荷が下りたと早々に安堵したのだろう。
恐ろしいくらいに速く、他の教師へもそれは伝わっていたのである。
誰も彼も武藤を恐れ、奥原が学校に来られなくなったことの解決策を提示しようともしないのに、「教師が生徒を不登校に追いやっている事実」という、学校にとってはあるまじき息苦しい状況から、自分だけは抜け出したいと考えていたのだろう。
田代と別れた後、数人の教師から廊下やトイレの一角で、「奥原に会ったんですってね」「先生も大変ですね」などと、『私だけはあなたに同情します』という顔つきで、ささやくように声をかけられた。
まったく……教師なんて連中は、自分は間違ってないという自信に満ちた奴ばかりだ。だから守る必要がないと判断されてるのか、あるいは見放されてるのか、守護霊が憑いている人間と会うことはなかった。
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ところが放課後、思ってもいなかった人間が俺を訪ねてきた。
武藤、本人だ。
こざっぱりした灰色のスーツ。白髪混じりだが綺麗に整えられた髪。そして眼光の鋭い切れ長の目。
彼女は戸を勢いよく開け放つと、準備室の戸口に腕を組んで仁王立ちになった。そしてキャンバスの前に座った俺を見下ろすように顎を上げ、目を細めた。
「あなた。わざわざ生徒の家にまで行ったんですってね?」
「展覧会の出品票を、渡しに行っただけですよ。」
俺は立ち上がりもせず、腰かけたまま答えた。
「そう?
それはご苦労様。……あなた、聞いているんでしょう?」
「何をですか?」
武藤は組んでいた腕を解くと、準備室の本棚に並ぶ絵画の写真集を引っ張り出し、見るともなくパラパラとめくった。
「まあ? しらばっくれて。
私が生徒を追い詰めて、学校に来られなくしたって噂よ。」
「噂に興味はありません。それとも、それは事実なんですか?」
俺の問いに、 パン! と武藤は写真集を閉じた。そして俺を睨みつけると、さっきまでの落ち着いたトーンではなく、吐き捨てるように怒鳴りだした。
「事実無根よ!
少し叱ったくらいでなによ!
私こそ、いい迷惑よ!
そもそも原因は全て比留間先生にあるんですからねッ!!」
「だから、その事情を全然知らないんですがね。私は。」
本当は既に田代から聞いて知ってはいるんだけど。
武藤は奥原が学校に来られなくなった原因はあくまで自分にはない、と考えているらしい。少し深呼吸すると、大物を自負するかのように落ち着きはらった風を装いながら、皮肉を込めた。
「ああ、そうね。
『昼間の幽霊』だったわね、あなたの仇名。
自分の授業以外、学校にいないんですものね。
独り言も多くて気味悪いって生徒が噂しているの、ご存知かしら?
きっと誰もあなたに正しい情報を入れてくれないのでしょうね。」
「武藤先生が噂を信じるような方だとは、知りませんでしたが。」
俺の言葉に武藤はむっとしたらしい。
「も、もちろん私は噂など相手にしないわよ、失礼ね。」
そう吐き捨てると、また威厳を保とうとするかのように、静かに続ける。
「とにかく。
あの子と話ができる教師が今はあなただけ、ということだけど。
不登校になった子が、そんなあなたに救えるのかしら?」
「救うもなにも。私はただの非常勤講師ですから。何もできませんよ。」
「あら、そうね。よく分をわきまえていらっしゃるのね。
根も葉もない噂に、あまり鼻を突っ込まないのが賢明よねえ。」
本棚に写真集を戻し、武藤は鼻で「ふん」と笑うと、準備室の戸を閉めもせず去って行った。
いったいどこがベテラン教師なのだろう。今まで会ってきた教師の中でも、武藤は最低だ。
するとそこに、その武藤の背中を廊下から見つめていた後代が、入れ替わるように入って来た。
「ひどいわ……雨守先生にまで、あんなことを!」
表情は冷静だが、後代は怒りを込めて低く唸った。
「構わんさ。
きっと俺が奥原の件で嗅ぎ回ってると、武藤に取り入った奴がいるんだろう。
それで探りを入れに来たんだろうな。」
後代は目を丸くして俺に振り返る。
「だから雨守先生、わざとあんな態度で?
でも馬鹿にされただけで、悔しくありません?」
「別に。
アレに乗せられてしまったら、武藤の思い通りで面白くない……そうだろ?」
はっとしたように、後代は口元に手を置いた。俺も思わず笑ってしまった。
「それにしてもすげえツラだった。鏡を見せてあげたかったな。」
「あ! それは名案ですね! あんな醜い顔見たら、目が覚めるかも!」
後代は「にやっ」と笑うと先に美術教室に戻り、キャンバスに向かった。
「すまん後代。教室のストーブ、点けるぞ。」
「はい。」
********************************
それから二人、それぞれキャンバスに向かった。
今更後代に教えることなどないと思うのだが、時折後代は俺のキャンバスを覗きこむみながら頷いたり、質問したり。いつもと変わらない、そんなやり取りをしながら小一時間もした頃だろうか。
普段着のままの奥原が、教室からすぐ外に出られる引き戸を、カラカラと静かに開けて入ってきた(美術室というのは、大きな画材を出し入れするため、たいていの学校では校舎の一階にあり、直接外に出入りできるような構造になっていることが多い)。
奥原の後ろについていきた少女も、俺を見るなりいつものようににっこり笑う。少し安心したのかな。
教室はすでに、ほぼ暖まっていた。
「ここに用意しておいたぞ。奥原。」
「ありがとうございます。」
奥原はうつむいたまま、こくんと小さく頭を下げ、俺が指さした椅子にこしかけた。少女も奥原と背中合わせになるように、床に体育座りのようなかっこうで腰を下ろした。俺は奥原から少し離れた場所へと、少女に手招きした。すぐに少女は小走りにかけてくる。
「これで落書きでもしてな。」
俺がしゃがんで少女にそっと囁くと、彼女はにこっと笑って俺からクレヨンと画用紙を受け取り、床にその画用紙を広げた。
霊としては珍しく、少女は物体を動かすことができる。もっとも彼女は特にそれを意識もしていないのだろうが。でも普通に傍から見れば、クレヨンが勝手に宙を動いてる怪奇現象にしか見えないだろう。だから、こんなふうに俺はいつも奥原達からは見えない位置に少女を呼んでいる。
何やら描き始めた少女の頭を撫で(実際に触れるということはないが、掌に風がふわっと起こるような感触はある)、立ち上がりながら今度は奥原の背中に声をかける。
「まあ、ブランクがあるからな。下手くそになってるはずだ。
あまり気負わず描けばいい。」
傍から聞いたら嫌味にしか聞こえないだろうが、一日でも間をあけると絵を描く腕が鈍る、というのは事実だ。それをわかっている奥原だからか、ゆっくり振り向くと、小さく微笑んで見せた。
「はい。」
今日のところは家を出て、ここまで来られたことが奥原にとっては大きな変化だ。まずはそれでいい。自尊心を粉々に砕かれたんだ。それを取り戻すには、時間がかかるのが当然だ。
だから俺からは特に何を話すこともせず一人準備室に戻ると、ただじっと、小さな電気ストーブに手をかざしていた。
すっかり暗くなり、二時間もした頃か。奥原が静かに、準備室の戸をノックした。
「どうぞ。」
中に入り、静かに奥原が口を開く。
「雨守先生……。明日も今日みたいに、絵を描くだけに来ても、いいですか?」
「ああ。俺も絵を描くだけに来るから。」
「あ! そうでしたね。すみません。」
普段よく気のつく奥原だが、金曜は俺が来ない日だということを忘れていたんだろう。いや……そこまで気が回らないほど、今の奥原はここに来るだけで精一杯なのに違いない。
「いいよ。気にするな。」
安心したように奥原は一度頷くと、目を閉じたまま頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました。
なにも聞かずに、いさせてくださって。」
「また、明日な。」
少女もまた奥原と一緒に、ぺこりとお辞儀をしていた。
********************************
翌日、放課後を待たず昼休みに浅野が準備室にやって来た。
「雨守先生、ごめん。
あたし、一昨日あんな酷いこと言って。
今日、なんとなく先生が来てる気がして、謝りたくて。」
穏やかな目をした深田が浅野の肩を抱きながら静かに頷いた。きっと浅野の背中を押したんだろうな。それを見て俺も答えた。
「いいよ。俺も。」
すると浅野は急に涙を浮かべながら、堰を切ったようにしゃべりだした。
「雨守先生、久美子んち行ってくれたんでしょ?
昨日、やっと久美子が答えてくれたの。メールに。」
『くれたの』とか急に女の子ッぽい口調になるな。普段と全然違うので、少しばかり対応に焦る。
「心配させちゃって、ごめんねって。
「まだ、怖くて、皆に会うのも怖くて、学校には行きにくいけど。
絵を描きに行けるからって。
「時間、ちょっとちょうだいって。
しゃくりあげながら話すから、浅野の言葉は途切れ途切れだった。
「雨守先生、それであたし、考えたんだけど……。」
深野も頷きながら浅野の両肩に手を添える。
「あたし、直接会ったらきっとまたムキになって久美子の気持ち乱しちゃうから。
雨守先生に、久美子のこと、頼んでもいいか……違う!」
いきなり自分の頬を叩いてなにやら一人突っ込みをすると、浅野は普段のだらしない姿勢ではなく、直立したまま頭を深々と下げて叫んだ。
「雨守先生! 久美子のこと、お願いします!」
「私からも、よろしくお願いいたします。」
深田まで。だいたい二人して泣きながら頭下げてこられたら、まるで俺がいじめてるみたいだ。
「俺にはなにもできないがな。」
「そんなこと、ないよ!」
「ご謙遜です。」
「もういいから。
浅野。お前、顔洗ってから授業に行けよ?」
その日、初めて浅野は素直に俺の言うことを聞いた。そして放課後、浅野は自分の作品制作に安心して取り掛かり、奥原が来るまでには気を遣って先に帰る。
そんな風にして次の週にかけ、特になんの変化もなく過ぎていった。
***************************
また金曜日。その日も同じように作品制作を進めた奥原は、帰り際に準備室に顔を出すと、初めて自分から静かに話しだした。もう涙も流さず、一言一言かみしめるように。あの日、何があったのかを。ずっと家にいた時、どんなに不安で、みじめな思いになっていたかを。
奥原に隠れるように立つ少女は、今までずっとこらえていたであろう涙を両方の袖で拭っていた。
黙って聞いていた俺は、一言だけ奥原に告げた。
「お前は全然、悪くないよ。」
顔を上げてにこやかに笑うと、来週からは学校に戻りたいと言い、奥原は準備室を後にした。
泣きはらした少女は去り際に、今日描いた絵を俺に差し出すと、まだ腫れた瞼でにこっと笑って見せた。
二人を見送って美術室のストーブの火を落とした時、後代から俺に話しかけてきた。
「奥原さん、最初はただ泣いているほうが長かったけれど、
ずいぶん落ち着いたみたい。
今日はだいぶ、筆が進んだようですよ。」
「そうか。」
「傷ついた心をほぐすのには、時間がかかるもの。」
「お前が隣にいてくれたからじゃないのか?」
「いいえ。私だって、かける言葉がないですし。」
「だいたい俺だって奥原に、ただ絵を描かせていただけだよ。」
「いいえ。居心地がいいって、とても大切なことですよ?
奥原さんはきっと、大丈夫です。」
小さく笑った後代だが、突然、はっとしたように顔を上げた。
「雨守先生、それ、なんですか?」
「ああ、これか?」
俺の手元を覗きこむなり、後代は息を飲んだ。
「その絵……!」
その時だ。さっき出て行ったばかりの奥原の悲鳴が聞こえた。俺は教室から上履きのまま直接表に駆け出した。
「離してッ!!」
少し離れた裏の通用口辺りで、奥原の声が響く。
「私は君をずっと心配していたんだよッ?!」
「いやッ!!」
黒いコートに身を包んだ比留間が、奥原の後ろから抱き着いていた。少女は恐怖に震えていた。
「ぎゃっ!!」
悲鳴を上げたのは比留間だ。俺が比留間の右手首を、その背中に向けて捩じり上げたのだ。
「なんの真似だ? 比留間。」
比留間は奥原を開放した左手で、右の肩を抑えながら叫ぶ。
「あ、雨守先生!
奥原さんは学校に来てたんじゃないですか!
ずっと!!
どうして私に教えてくれなかったんですか?!」
「こんなお前に教えるのが正しい選択かよ?」
更に腕を締め上げる。
「い、痛いッ。は、離せ!」
「話さないからこうなるんだ。正直にな!」
「な、なんだってッ?!」
「お前の話は自分に都合のいいことだけだろうが。
奥原!
大丈夫か?」
奥原は自分の両肩を抱くようにして立ちすくんでいたが、俺の声にはっとしたように顔を向けた。
「ありがとうございます、雨守先生。だ、大丈夫です。
父がすぐ、迎えに来てくれますから。」
「奥原さん! 誤解しないでくれ!
私は君が心配だったからっ!!
わかるだろう?」
「わかるかよ?!」
比留間が哀願するようにわめいたが、それは無視だ。
「奥原! こいつに暴行されたんだ。警察にも言え。俺が目撃者だ。」
「なんで?! どうして私が警察にっ?」
俺は左足を軸に、騒ぐ比留間の脇腹に思い切り右の膝蹴りを入れて黙らせた。ぐふう、と呻いて比留間の体が『くの字』に折れる。次いで俺は、比留間の体を振り回すように歩いた。
そして美術室の戸口に立っていた後代に、すれ違い際にささやいた。
「すまん、後代。親父さん待つ間、奥原を見ててくれ。」
「はい!」
俺は比留間を前に、時々奴の腕を折らんばかりにねじあげながら(正確には折れるより先に肩の関節が外れてしまったが)美術室から隣の準備室に移った。
部屋の真ん中に比留間の膝の裏を蹴って強引に正座させると、右腕をだらりと下げ、痛がりはするものの少しばかり観念したようにうなだれた。
そこに後代も入ってきた。
「奥原さん、今帰りました。お父さんすぐ近くに来ていたようでよかった。
だいぶ困惑していたみたいだけど。奥原さん自身は心配ないわ。」
「すまんな。」
「いえ。」
すると比留間がキッと顔を上げ、俺を睨みつけた。
「こんな暴力が許されると思っているのかッ?」
なんだそれ? お前に謝ったわけないだろうが。
こういう奴ってどうして皆こうなのかな。
自分は間違っていない、むしろ被害者だと本気で信じ込んでいる。
「お前が奥原に振るったのは、暴力とは言わないのか?」
「私は彼女が心配だったからッ!」
「違うだろ? 自分の心配をしていただけだろ?」
「え?」
「奥原が武藤に罵倒されたことを自分のミスのせいだと思われていないか、
……いや。
それで自分が嫌われていないか、気になっていたんだろ?
毎日のように奥原の家まで訪ねやがって。
気持ち悪いな。まるでストーカーだ。」
「な、何を言う? 私がそんなことするわけが。」
「やってる奴はそう言うんだよ。それとも、これでも違うと言えるのか?」
俺はさっき、比留間のコートから抜き取ったスマートフォンを高くかざした。
「え?! いつの間に私の! 泥棒! 返せ!!」
人が変わったように比留間は俺にとびかかって来た。寸前でひょいとかわし、足払いで転ばす。次に起き上がろうとした比留間の外れた肩を蹴ってその体を極力遠ざけた。
しまった。俺の描きかけの絵をイーゼルごとひっくり返された。だが比留間はひるまない。
「返せッ!!」
「潔白ならこの中に、奥原の写真なんて入っていないよな?!」
比留間は目を見開いたまま、硬直した。
「おいおい、比留間先生よ。
人の噂は口にするくせに、
自分が生徒から何を言われているのかは知らなかったのか?」
「なん……だと?」
比留間はまだ茫然としている。
「あんた、普段きっと黒板しか見ないで授業してるんだろ?
人間相手に授業しろよ。
美術のような実技科目ってのは、
気も緩むのか生徒の本音もよく見聞きできるのさ。
お前が気に入った女子生徒……つまり奥原を隠し撮りしてるって噂、
結構前からあるんだぜ?
俺は噂なんて信じないんだがな。」
どうやら本当に噂のとおりなのか。呆れたな。わなわなと体を震わせ、比留間はギロリと俺を睨み付けた。
「お、お前なんかに……。
お前なんかに私の気持ちがわかるものかッ!
奥原さんは……彼女だけはッ!
私の話をいつも聞いてくれたんだッ!!」
比留間はさっき自分が飛び散らかした画材の中にパレットナイフを見つけると、それを左手で掴み振り回しながら再び俺に突進してきた。
俺はその腕を大振りしている比留間の懐に飛び込むと、回転を加えた拳を鳩尾に遠慮なく叩きこんだ。
「お、ぼぁ……ぅえ”ッ……。」
おかしな音を口から発し、よだれを床に垂らしながら、比留間は腹を押さえて崩れ折れる。
「勘違いするな。
奥原はただ生徒として、教師のお前の指示を聞いていただけなんだよ。」
俺の言葉はもう比留間には聞こえてないか。ああ、くそ。よだれというか、唾液って後で匂うんだよな。汚いけど、すぐ拭かないと。
気を失った比留間の傍らにしゃがみこみ、そのコートで床をごしごしと拭きだした。ついでに外した肩を、ゴクンッという音とともに嵌めなおしてっ……と。
するとこんな間抜けで野蛮な場面に騒ぐこともなく、一部始終を見つめていた後代が、俺の顔を覗き込んだ。
「雨守先生、右の頬、切れてるわ。大丈夫?」
「こんなものかすり傷……と言いたいが、こういうのが結構痛いんだよな、くそ。
こりゃ4,5針縫うかな。
後代、すまん。警察を呼ぶよ。」
*************************
警察が比留間を連れて行き、俺への簡単な聴取も終えて、あたりもとっぷりと暗くなった頃。電話しておいた校長と教頭がやってくるのを俺は待っていた。
「雨守先生、事情は伺いましたが警察に連絡する前に一言……。」
開口一番、教頭が校長の顔色を伺いながら言う。俺は抑揚もつけずに答えた。
「犯罪行為があったら通報するのが市民の務めですよね。」
「ですが……ここは学校ですよ?!」
教頭は冷静さを装おうとしていたが、声を上ずらせていた。言わんとすることは、わかっている。
「世間体、ですか?
そこは私なりに気を遣って、警察にはサイレンも鳴らさず、
覆面車両で裏の通用口に来てもらいましたけど?」
教頭はまだ唇を震わせていたが、校長は既に腹を決めているようだった。
「教頭先生は、すぐ準備を始めてください。
早ければ今夜のうちには報道されるでしょうから、先生方にはメールで連絡を。
休日ですが明日の朝、緊急職員連絡会を開きますと。」
「し、しかし、校長!」
「ここは、雨守先生と私、二人で話をさせてください。いいですね?」
「は、はい。」
校長の強い口調に促された教頭は、何度も俺達を振り返りながら、しぶしぶ準備室を出て行った。それを待って校長は口を開く。
「ここに来るすぐ前に、奥原さんの父親から強い抗議の電話がありました。
比留間君に襲われたことについて、被害届を出し、学校も……訴えるそうです。」
言いながら、校長は眉間にしわを寄せた。
「そりゃ、助かった。」
俺の言葉に、校長は一瞬怪訝そうな顔をした。
「ああ、被害届のことですよ。
私への傷害だけでも良かったんですが。
実は私もやりすぎたから、過剰防衛で調べられても面倒なので。」
そして切られた頬の傷口の大きさを指先で確かめた。まだ血がにじむ。
「雨守先生、お怪我は大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。
公務災害にもならないでしょうから、お気になさらず。
でも校長が抗議を受けるのは、当然です。
生徒を不登校に追い込んだのは、ここの教師であることは確かです。
さらには身の安全を脅かしたんだから。」
比留間の場合、日頃武藤から受けていたストレスが原因となって奥原への歪んだ好意につながった、と言えるだろう。そんなふうに被害者面して、それを理由に悪事に走る奴は散々見てきたが、そんなものが……。
校長は俺の言わんとすることが分かったようだった。
「もちろん許されないことです、比留間君の行為は。
それは私の監督不行き届きとしか言いようがない。
だが奥原さんの父親が言うには、彼女の不登校の一番のきっかけは、
やはり武藤君から理不尽に暴言を吐かれたこと。
それが一番、苦痛だったそうです。」
「そりゃそうでしょう。
自分の過失でもないことを、白昼、他の大勢の生徒の前で罵倒されたんだ。
何がなんだか理解もできないままね。
奥原自身、それが辛かったと、
自分の口から今日ようやく言えるようになれたんです。」
そう。死んでる人間に例えるならずっと「浮かばれない」状況だったのだ。
沈痛な面持ちの校長に、俺は声をかけた。
「校長。
奥原が登校できなくなっていた原因は、
この際、比留間に全て背負ってもらってはどうですか?」
「え?」
校長は自分の耳を疑うかのように、顔を上げた。
「実際のところ奥原も、馴れ馴れしい比留間の普段の言動には困ってたようだし。
彼の逮捕が公になれば、さらに校長も話を運びやすいでしょう。
武藤先生にしても、そういうことになれば責任は全然ないんだし、
少しは奥原に悪かったな、という気にもなるんじゃないですか?」
あの女がそんなに性根が素直な人間であるわけがないが。
「なるほど。
武藤君が行き過ぎた点だけでも謝罪してくれれば、
奥原さんのご両親も、理解してくれるだろう。」
「だからと言って、
直接武藤先生が奥原に会うのは、お互い気まずいでしょうからね。
武藤先生に手紙でも書いてもらって下さい。
俺がその手紙預かって、奥原に渡しますよ。」
「ああ、ああ、なるほど。そうして頂けると助かる。
今後、武藤先生には、
奥原さんを授業でも受け持つことはないように配慮しよう。」
顔を上げ、どこか安心したような校長から視線をそらすと、俺は初めて吐き捨てるようにつぶやいた。
「……きっと、その心配はないと思いますがね。」
「え?」
「武藤先生が、このまま学校に残るとは限らないってことです。
奥原ですが、
武藤先生に罵倒された日、国語研究室で見たことを全て話してくれましたよ。」
「見たこと? 一体何を?」
ほんと言うと奥原ではなく、少女が教えてくれたことなの だけど。
奥原が作品制作を進めている間、クレヨンで少女が描いたもの。
スーツで身を包んだ、どこにでもいそうなさえない風だったが、瞳の色が左右でわずかに違った男の顔。そして江戸時代に死んだ少女にはわかるはずのない、アラビア数字が書かれたものが束になったもの。
「校長は知らないほうが、いいんじゃないんですか?」
俺は言いながら先に席を立った。校長は声を上ずらせた。
「も、もしや君は……?!
やはり噂どおりの……。」
「なんの噂か知りませんが、そういうのは大嫌いでしてね。
じゃあ、お先に失礼します。」
*********************************
翌週、比留間逮捕の動揺が学校を駆け抜けた放課後。誰もいなくなった旧校舎の冷えっ切った美術室に、武藤は一人やって来た。
安堵の色を浮かべて。
「私なりに振り返って、大人気なかったところもあったかしらね。
奥原さんに一言、お詫びの手紙を書きましたわ?
あなたが届けてくれるんですってね。」
「はい。校長から、そう頼まれました。」
「そう、それはご苦労様。」
武藤は人差し指と中指の間に挟んだ封筒を、ぴっと俺の目の前に突き出した。
「ご自身の過ちを認め、立場の低い者にもこうべを垂れる。孟子の教えですね。」
受け取りながら言った俺の言葉の意味が、武藤は分かっていないようだった。進学指導の大家を気取る国語科教師のくせに、漢文は専門外ってか。
武藤は上機嫌のまま、含み笑いまでしながら続ける。
「形だけのお詫びでも、嘘でもなんでも。
子どもを騙すなんて、ちょろいものでしょう?
だって私は悪くないもの。」
ちょろいって……あまりの語彙の貧弱さに、これがベテラン教師かと呆れてしまった。
だが俺はその手紙を、彼女の目の前にかざすと、二つに、さらに四つに、ゆっくり、ビリビリと破いて見せた。
武藤を怒らせるために。怒りは我を、忘れさせる。
ひらひらと舞い落ちる紙片がすべて床に届く前に武藤は叫んだ。
「な! 何をするのよッ?!」
「子どもなら手玉に取れるんですか?
そんな浅はかな、心のこもっていない謝罪が、
誰も見抜けないとでも、まだ思っているんですか?」
「あなたは何をッ・・・・・・」
言いかけた武藤は、目を見開いたまま言葉を失っていた。今の声は、俺ではなかったことに気づいたから。
そして俺の後ろ、つまり武藤の目の前に、今日はわざと置いた姿見に、自分の背後に佇む後代縁の姿を見たからだ。
武藤は誰もいない背後を振り返り、また目の前の鏡を瞬きも忘れ、食い入るように見つめた。
「う、嘘よ……。」
恐ろしく低い呻き声を武藤は漏らす。
「今、見えているものは現実です。
武藤先生、わかりますよね?
それが誰なのか。」
わざとらしく俺は武藤に話しかけた。今、怒りに我を忘れ、心に隙のできた武藤にも、俺が媒介となって死者である後代縁を見せている。
「嘘よ嘘よッ! わ、私じゃないッ! あれは私のせいじゃないッ!!」
「なんだ、武藤先生。やっぱり身に覚え、あるんじゃないですか。」
話しかける俺を焦点の定まらない目で見つめながら、武藤は叫び続ける。
「違うッ! 違う!違う!!違うッ!!!」
後代は一歩一歩、ゆっくり歩み出すと、鏡に向かって叫び続ける武藤のすぐ背後に立ち、その耳元に囁いた。
「変わってないですね。
六年前、あの日も同じようにあなたはずいぶん私を怒鳴りつけましたよね。」
「嘘よっ!」
武藤は髪を振り乱して叫び続ける。俺はそんな武藤を眺めながら、抑揚もつけずに告げた。
「後代が死んでから、あんたはボロを全然出さなかった。
奥原が偶然にも、同じ目に遭わなければね。
あんたが感情を抑えもせず奥原を怒鳴ったのは、
提出物の期日が守られなかったせいでも、
日ごろバカにしている比留間の名を引き合いに出されたせいでもない。
見られたくない現場を、奥原に見られてしまったと思ったからだ。
あんたは咄嗟に自分の身を守るために、奥原を追いこんだ。
明確な意思を持って、学校に出てこられないように、
奥原の心を傷をつけたんだ。」
「な? 何を言ってるの?! どこにそんな証拠がッ!!」
「証拠がないのが証拠だよ。
あの日、あんたは国語研究室で接客していたんだってな。
だがその日の来校者名簿に、そんな人間の名は記帳されていなかった。
つまり、会った証拠を残してはいけない者、だろ?」
俺の言葉に、後代が続ける。
「それが誰だか言いましょうか?
左右の瞳の色がわずかに違う男性、でしょう?
六年前、その人があなたに渡した封筒にも
きっと札束が入っていたのよね?
私にそれを見られたと思って、
だからあんなに興奮して私に暴言を吐き続けたのよね?
奥原さんに、したように。」
返す言葉を失った武藤は、蒼白になって立ち尽くした。
簡単に言えば、武藤はなにかの業者から賄賂を受けていたってことだ。
六年前、後代にその場を目撃されたと武藤は思い込み、ごまかすためだけに後代を罵倒した。
それ以来、きっと慎重にはなっていたのだろう。だが武藤はこの学校で己に意見する者はいなくなったという慢心からか、はたまた本当に師走の忙しさでうっかりしたのか、そんな業者の一人と、また平日の昼日中に堂々と会った。
奥原は偶然、そこに立ち会ってしまったのだ。少女はその時に見た男の顔を描いていたのだ。その男が武藤に渡したものと一緒に、特徴をしっかりととらえて。
「嘘よ!嘘よ!嘘よ!!」
武藤が両手でふさいだ耳元に、後代はなおもささやき続けた。
「自分の悪事を隠すために、人を傷つけても何も感じやしない。
それでよく平気で『先生』だなんて、まだ名乗ってられますね。」
「しらない! しらない! しらない!!」
「醜い人……。いっそ、殺してあげましょうか。」
後代の細く開いた流し目に、妖しい光が宿った。
ふわっと体を宙に浮かせると、武藤の背後からその頭を胸に抱きかかえるように包み込んだ。
そして武藤の頬を、指先でゆっくりと顎から撫で上げる。
「ひッ」
短い悲鳴を上げ、武藤は徐々に白目をむくと、口から泡を吹きながら仰向けにその場に倒れた。頭、打ったな、今。まあ、いいか。
「なんだかあっけなかったな。」
俺の声に、後代はふわりと足をおろすと、前髪をかき上げ床に倒れた武藤を見下ろした。
「ちょっと、物足りないです。
もっと馬鹿みたいに泣きわめくかと思ったわ。
うんとあざ笑ってやろうと、楽しみにしていたのに。」
「十分、みっともなかったさ。」
「そうですね。」
後代は静かに微笑むと、うつむいて目を閉じた。そして再び顔を上げると、また俺に笑ってみせた。
「……これで、雨守先生のお仕事は終わり?」
「ああ。
後代の気がすんだんならそれでいい。
元々俺はそのためにここに来たんだと思ってるから。
武藤も教師としては終わったよ。
人としては……どうかな?
でも、そこまでは知らないさ。」
「そう。
でも、ありがとう、雨守先生。
私の気持ちを、聞いてくれて。
私を、見つけてくれて。」
「お前の心まで、分かったようなつもりはないけどな。」
「そこがいいんですよ。」
後代は満足したように笑顔を輝かせると、すぅっと穏やかな光に包まれ、やがて音もなく消えていった。
六年前。
後代縁は別に、武藤に罵倒されて傷ついたから自ら命を絶ったわけではなかった。そんな暴言を吐かれる覚えはない、と毅然としていたという。
ただ生まれながらに心臓が弱かった縁は、年末の展覧会に出品する絵を仕上げなければと、その日も始発の電車で登校し、早朝から自分のキャンバスに向かっていた。
だが、とても冷え込んだその朝。偶然、ほんとうに偶然、後代の心臓はその鼓動を突然止めてしまった。尾びれ背びれをつけて、真実に少しもかすってもいない噂だけが流れた。
そして今年のまだ肌寒い四月。
俺はここに赴任してすぐ、誰もいなくなった放課後の美術室の隅で、一人キャンバスに向かう後代に声をかけたのだ。
「完成しない絵か。でも、いい絵だな。」
「この絵が……私が……見えるんですか?」
驚いた後代は目を丸くしていた。
「ああ。
訳あって、俺には死んだ人が見えるし話もできる。
そして君の声に呼ばれてここに来たんだと思う。
なにがあったか……話を聞かせてくれないか。」
それが俺と後代の出会いだ。
この世に念を残した者は、転生もできず、その場から逃れることもできない。後代は、絵を完成させられなかったことが残念だったのだ。武藤に傷つけられて自殺した、そう伝わっていることが不愉快だったのだ。
「私はあの女に負けたわけではない。」と。
だから最初、武藤への復讐が望みか?と尋ねた俺に、後代はしばらくの間、考え込んでから答えた。
「私が死んじゃったのは、別にあの人のせいじゃないし。
でも、もし。
もしも私のように嫌な目に遭わされた子が出てきた時は……。
そうなったら考えないでもないかな?」
そしてここ数日。奥原が放課後ここに通っていた間、後代は奥原の心に寄り添ってくれていた。守護霊でもないのに。守ってくれる霊が二人になったから、奥原の心の傷も早く癒されたのだろうか。
もっとも後代には奥原に憑いている少女は見えていなかった。霊同士はお互いが認識できないらしい。
ただ具体的に形になったものは別だ。だから、少女の「絵」に描かれた人物を見た時、後代は声を漏らしたのだ。
「この人、あの時も……。」
生きていれば、きっと多くの人に愛される画家になれていただろうに。
でももう、いいよな?
後代が向かっていた絵を、そっとイーゼルから外す。もともと真っ白だったキャンバスを、俺は棚にしまった。
そして電気を消し、俺も美術室を出た。
失神した武藤を一人放置したまま。図太い神経の持ち主だ。風邪くらいひいても、死にはしないだろうからな。少し、頭を冷やすといい。
*************************
奥原は再び、学校に戻った。
最初はぎこちないながらも、また笑顔を浅野に見せられるようになっていた。
あれから数日の間。武藤は学校を初めて無断欠勤し、突然だが退職届が出されたらしい。それは比留間逮捕の報道ほど騒がれもせず、学校中に密かに、浮足立つかのように小さなざわめきとなって走り、すぐに消えていった。
そして終業式前日の放課後、俺は校長室に足を運んだ。自己都合で退職を申し出るために。ここでの俺の役目は、終わったからだ。
校長は窓の外に舞う雪を眺めながらつぶやいた。
「これは、私の独り言ですが。」
校長は壁に並ぶいくつもの肖像を見上げ、静かに続ける。
「武藤君の疑惑は……前任の校長も、その前の校長も、悩み続けていました。
教科書の採用に関して特定出版社に便宜を図ったり、
優秀な生徒の個人情報を大手予備校に流し、見返りを受けていたり、
他にも……。
だが彼女は巧妙にも、なんの証拠も残してこなかった。
しかし、もし事実なら、もし公になれば、
教育界の腐敗だと世間の矢面に立たされる。
比留間君のような、一個人の非違行為とはケタが違う問題になる。
真面目に教育活動に従事している他の先生達を、また苦しめることになる。
生徒らを、ひどく失望させることになってしまう。」
苦々しい表情のまま目を閉じると、校長は少し、震えるような声になった。
「そうなる前に、なんとかならないか、と。
そんな時、私はある一人の非常勤講師が、
どんな学校にもいる教育者として許されざる者を、
あるいは未成年だからと法の目をくぐってふてぶてしくのさばる少年らを、
人知れず表舞台から葬っている……そんな噂を聞きました。
藁にもすがる思いであなたをこの学校に招きましたが……。」
校長は振り向くと、今度は俺をまっすぐ見つめた。
「やはり、あの噂は本当だったんですね。」
いつの間にか校長の周りに、一人、また一人と霊が姿を現していた。かつての校長とか、学校関係者だろうな……。
なにをうんうんと頷いているんだか。満足したような笑みを浮かべる奴までいやがって。
そんな連中を一通り睨み回しながら俺は答えた。
「噂なんてものは知らん。
あんたらのために何かしたつもりもない。
波風立つのを恐れて何もしなかった卑怯者どもが。
やっと成仏できるとでも思ったか?
生憎だったな。」
突如俺の前に、音もなく直径1mほどの【闇】の球体が出現した。そこに、奴らは吸い込まれ、消えていった。恐怖に顔をゆがめながら。
あの時と同じだ。
その【闇】は、いつも俺の隣にある。
あの『女』に助けられてしまった時からずっと。
俺が怒りにかられた時に現れ、不浄な霊を『無』に帰してしまう【闇】らしい。だがきっといつかは俺も、そこに飲み込まれてしまうのだろう。
校長には見えていなかったにしても、今周囲には『気』の激しい乱れがあったことだけは感じ取ったようだ。そして顔を引きつらせながら、ただ一人、いつまでも周りをきょろきょろと見回していた。
その視点が定まらないうちに俺は一言挨拶をした。まったく感情も込めずに。
「今までお世話になりました。」
俺を守って消えた『女』の霊が、こんな業を負わせているんだろうとつくづく思う。
俺はこの世に未練を残した死者の声に導かれているだけだ。その思いを晴らすべき対象が、その学校にとっては迷惑な存在だった……それだけのことだ。
ただそれは偶然ではなく、常に必然なのだけれど。
翌日、終業式で離任する先生、なんて紹介された。生徒達からは「あんな先生いたっけ?」なんてささやく声も上がっていた。それもいつものことで。
だが放課後、奥原が浅野とともに挨拶に来た。
「雨守先生! お世話になりました。」
いきなり泣くことないのに。四人で。
「何もしてないよ。俺は。」
最初に俺の体に抱きついてきた少女の頭を、静かに撫でた。その後、奥原と少女は最後は笑顔になってくれたが、浅野深田コンビはしばらく泣きわめいてうるさかったから、その辺は割愛しておく。
やがて生徒はもちろん、全ての職員も学校を出て日も暮れかけたころ。展覧会への出品作品、と言っても奥原と浅野の二枚の絵しかないが、雪で濡れないように梱包したそれを軽トラの荷台に乗せると、展示会場へ向かうために運転席のドアを開けた。
……そして、息をのんだ。
「縁! 成仏したんじゃ、なかったのか?」
助手席にちょこんと座っていた縁は、澄まして答えた。
「いいんです。それに雨守先生のお手伝いも、いいかなって。」
「あの場所……美術室の縛りから解かれただけか?」
「ええ、なんだかそうみたい。ねえ、雨守先生、いいでしょう?」
俺は思い切りため息をついた。やれやれだな。
「次の学校は、もっと酷い奴らがいそうだぜ?
早速声が、聞こえてきている。」
「おつかれさまです。」
「憑いてくるお前に、言われたくないよ。」
「そうですね。ふふふ。」
俺は誰も映っていない助手席をルームミラーに見ながらバックすると、隣の縁に眉を上げて呆れてみせた。そしてアクセルを踏み、通りへと軽トラを走らせる。
雪はいつの間にか止んでいた。
縁は楽しそうに、くすくす笑っていた。
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