1.



父さんと一緒の帰り道、俺はずっとさっき観たバレエのことを考えていた。

家に着くまで、父さんは先週のボクシングの試合のことや次回の対戦相手がなかなか手強そうだとか、一人で語っていたが、俺はまだ余韻に浸っていたくて適当な相槌しか返さなかった。


家に着いた瞬間、

「バレーの試合、どうだった?楽しかった?」

と玄関まで来てくれた母さんが聞いてきた。


「いやあ、バレーはバレーでも踊る方のバレエだったよ。母さんの勘違いだ。ずっと寝ていてよく覚えてない。」 父さんが答えた。

「あらー、そうだったの。ごめんなさいね。」 

カレーの匂いがする。


はるかは?どうだった?」母さんがキッチンに戻りながら聞いてくる。

「俺バレエやりたい。」 気がついたらそう言っていた。

母さんも父さんも少しの間、驚いたように黙っていた。


「バレエやりたいって、バレエは女の子のするものでしょう?男の子でやってる子なんかいないわよ。」 母さんがようやく口を開いた。

「男いたよ。踊ってたよ。」 俺が答える。

「冗談はやめろ。」 父さんが言う。

「冗談じゃないよ。」 少しイライラした。

「ダメだ、あんな軟弱男になりそうなもの。ただでさえお前はボクシングチームの中でも弱い方なのに、もっとなよなよになってしまう。しかもああいうのをしてる男は絶対に普通じゃない。」 父さんがソファに座りながら少し怒ったように言う。

「それにお前はもっと強くなって父さんみたいにプロボクサーになるんだ。そうだろう?ボクシングをやっててバカにする奴はいない。けどバレエは男のお前がやってるなんて知れたら間違いなくバカにされるぞ。何か始めたいんだったら空手とか柔道とかどうだ?ん?ボクシングにも少なからず役に立つだろう。」

父さんは昔プロのボクサーだった。今はボクシングジムを経営をしていて、今でも月に数回友人やチームの人と趣味で試合をしている。

父さんは俺が生まれたばかりの頃からプロボクサーにさせるとずっと宣言していた。まだ現役だった頃、父さんは2歳の俺を連れてよくジムでサンドバッグに触れさせたり、リングの上に立たせてみたり、自分の試合を見させたりしていたらしい。

だけど、泣いて嫌がっていた5歳の俺はチームに無理やり入れられてから4年経った今でもボクシングは正直全く好きになれなかった。殴られると痛いし、殴ると自分も痛かった。


「俺はバレエをやってみたいんだ。今日踊ってたの、男もたくさんいたし、おかまには見えなかった。だから大丈夫だよ。バレエをやってみたいんだよ。お願いだよ。」 

「うーん。はるちゃんが何かやりたいって自分で言うのは初めてだものね。母さんはバレエはあんまりよく分からないけど、お父さん、こうやってはるちゃんがここまでやりたいって言ってるんだし、それに長く続くかどうかも分からないし、バレエをさせてあげてもいいんじゃないの?」 母さんが父さんにそう言ってくれたが

「ダメだ。男がするものじゃない。」 

そう言って父さんはリビングを出て行こうと立ち上がった


なんだよ。俺はプロボクサーになんかなる気はないし、どうしてもバレエをやってみたいんだ。


「父さん!」 少し大きな声で呼んだが父さんは振り返りもせず、廊下に出て行った。

ため息をつく。


「ねえ、はるちゃん。そんなにやってみたいのなら、お父さんに秘密でバレエを習えるとこを探してみましょうか。」 振り返るとそれまで手を止めていた母さんがまたカレー作りを再開しながら言った。

「え、ほんと?」

「うん、ちょっと探してみるわね。お父さんには秘密よ。」




その晩、俺は記憶の中にある白鳥の湖を一つ一つ思い出しながら、眠りについた。

夢にも白鳥の湖の美しい情景が出てきたような気がする。

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