青い猫(2008/02/21作)

 青い猫は海からやって来た、と漁師は言う。よく浜辺で、海をじっと眺めている姿を見かけるのだと。「あれはきっと海が恋しいのさ。それに、青い猫の青色は、海の色に似ているからね」

 でも、それを聞いた大工は黙っていられない。「いいかい」と大工は、まるで子供にものを教えるように言う。「青い猫が浜辺にいるのは魚が目当てなんだ。ほかにも魚をあさっている猫は何匹もいるだろう? それに青い猫の青色は、海の色じゃなくて空の色なのさ。よく屋根に登って青空を見上げているのは、青い猫が青空からやって来たからなんだよ。そうやって故郷の青空を懐かしんでいるのさ」

 しかしある未亡人は、青い猫が海や空からやって来たという話が気に入らない。「みんな勝手なことばかり言って」と未亡人は、ひとりごとを言う。「青い猫は元から青かったわけじゃないの。きっと昔、大きな悲しみを抱えてしまったのよ。涙に暮れる日々を過ごしているうちに、いつしか青い涙の色が体に染み付いてしまったのだわ。それに青い猫は、よく塀の上から悲しそうな目で往来の人たちを見ているじゃない。青い猫に何があったのかは知らないわ。だけどわたしには分かるの……」。そう未亡人は心の中で思いながら、目に涙を浮かべるのだった。

 人々が集まると、彼らはいつの間にか青い猫の話をしていた。道で会うと挨拶がわりに青い猫の話をするのだ。けさ青い猫がうちの庭に来てたよと誰かが言うと、「今日はきっと良いことがある。青い猫は神様の使いだからね」などと言葉が返ってくるのだった。青い猫は“神の使い”だとか“幸福を呼ぶ猫”といったように、おおむね良い猫と考えられていたが、中には不吉な猫だと考えている人々もいた。「知ってるかい?」とある人は、こっそり耳打ちするように言う。「事故にあったのは、青い猫を見たすぐ後だったそうだよ……。ああ怖い。あんな気味の悪い猫、いなくなればいいのに……」

 青い猫は良くも悪くも人々の関心を集めたが、全くと言っていいほど、人になつかない猫だった。餌をやったり優しい声をかけても、決して人に心を許すことはなかった。青い猫はとくに子供が嫌いで、子供の元気な声や、騒がしい足音が聞こえてくると、まるで風のように去って行くのだった。だから青い猫を見たことがないという子供は案外多く、青い猫のことをおとぎ話に出てくる猫だと思っている子供もたくさんいた。青い猫は本当にいるのよと大人が教えても、「そんなの、うそだい!」と言って、子供はなかなか信じようとしないのだった。

 青い猫が人になつかないというのは嘘ではないのだが、実は一度だけ人に飼われていたことがあったという。しかしもうずいぶん昔の話だし、飼い主だった婆さんもとっくに亡くなっているので、この話を知っている人はほとんどいない。当時を知る老人の話によると、その婆さんは目が不自由な人だったのだという。「気の毒な婆さんだったな」と老人は、遠くを見るように話しをする。「婆さんは目が見えないうえに、一緒に連れ添っていた爺さんにも先立たれてしまったのさ。婆さんの家は、まるで空き家のように寂れていたな。もう誰も手入れしなくなった植木や、伸び放題の雑草……。近所の子供らは、婆さんの家をお化け屋敷だと言って悪ふざけしていたよ。子供は残酷だね……。おれは近所のよしみで婆さんによく声をかけたりしていたんだが、婆さんはまるで見えないはずの雲を眺めるように、いつもポカンとしていたな……。青い猫が婆さんの家に居るのを最初に見たのは、ある心地良い昼下がりのことだった。近所を歩いていると、あの青い猫が婆さんの家へ入って行くのが見えたんだ。おれは気になって婆さんの家を覗き込んだよ。すると青い猫はゴロニャーと挨拶をして、縁側に腰掛けている婆さんの膝にひょいと跳び乗ったんだ。婆さんが体をなでてやると、青い猫はお礼に、婆さんのシワくちゃの顔をぺろぺろと舐めたのさ……。おれは目を疑ったね。あの気難しい猫が人に気を許すなんて……、あんた信じられるかい? 婆さんと青い猫が寄り添う姿は、まるで恋人同士のように見えたよ。まるで恋人同士が、秘密の話でもしているみたいにね。それ以来、婆さんの家には青い猫が居着くようになったんだが、おれは一度婆さんに青い猫のことを尋ねたことがあった。婆さんの猫は青い色をしているぜ、婆さん知ってたかいとおれが言うと、目の見えないはずの婆さんは、『知ってるよ』と、さも当然のことのように言うんだ。『あたし子供の時分から、夢で知ってるよ。青い猫が、いつかあたしのこと助けに来てくれるって、ずっと信じてたんだよ。あの子はね、ふわふわして、あったかくて、いい匂いがするんだよ。あの子といると、あたし春の羊みたく、うとうとしちゃうの……』ってね。婆さんは、青い猫と暮らし始めて一年ほどすると亡くなってしまった。まるで昼寝でもするように息を引き取ったそうだ。婆さんの葬式や何かが行われているあいだ、青い猫は少し離れた場所から、じっとその様子を眺めていたな。でも婆さんのことが一通り片付いてしまうと、青い猫はまた、孤独で気まぐれな猫に戻っていったよ。ひとりぼっちになった青い猫を不憫に思って、自分の家で飼おうする者もいたんだが、青い猫を手なずけることは誰にも出来なかったね。その後も、青い猫を手に入れようとする者はあとを絶たなかったが、やつらは、青い猫に触れることさえ出来なかったよ。馬鹿な連中さ……。本当はね、誰だって心のどこかで、青い猫を自分のものにしたいと思っているよ。だけど、青い猫を無理に捕まえようとしてはいけないんだ。相手を選ぶことが出来るのは、青い猫だけなんだからね……。世の中にはいくら手に入れようとしても、決して手に入らないものがあるんだよ。悲しいが、どうにもならないのさ……」

 老人は、ここまで話すと目を閉じた。何かを考えているようにも見えるが、あるいはそのまま、眠ってしまったのかもしれない。


 青い猫の話をすると、話は風に乗って、青い猫の耳に届くのだという。

「こんにちは、青い猫さん」と少女は風に話しかける。「わたし青い猫さんのこと、まだ見たことないの。でも、きっといつか会えるよね……。約束よ」

 少女とすれ違った若い女は辺りを見渡す。「そういえば近頃、青い猫を見なくなったわ」と若い女はひとりごとを言う。「通りの曲がり角や塀の上に、いつもいたんだけどね……。気配は感じるのに、振り返ると、もうどこにもいないのよ」

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