バッファロー(2007/12/01作)

 バッファローは動物園で一番人気のない動物だった。ほとんど動かない、というのが大きな理由である。遠目には黒い岩の塊のようにしか見えないし、できるだけよく観察しようとしても、「あれは岩じゃなくて生き物なんだな」ということをやっと確認できるだけ。動物園に来た客は、あの黒い塊が生き物だということがわかっただけで満足し、隣りのカモシカを観るために早々と歩き出すのだった。

 バッファローの飼育場は、テニスコートほどの広さの柵で囲まれていた。草原をイメージした緑の下草や所々に植えられた背の低い木々は、草原のイメージとは程遠く、かえって悲しく見えた。バッファローは飼育場の一番奥に立ち、冬の暖かな光を静かに浴びていた。彼の盛り上がった巨体からは、微かに湯気が昇っている。僕はふと、彼は案外幸せなのかもしれないなと思った。近所の猫が気持ち良さそうに日向ぼっこしている姿と、そう変わらないのではないかと。

「ねえ、ねえ、パパー!」と叫びながら、三歳になる娘が僕のズボンを引っ張っていた。「キリンさんだよ、ほらキリンさん!」娘の指差すほうを見ると、木の上からキリンが顔を覗かせていた。間抜けな顔をしていたが、キリンは間違いなく人気者だった。僕は心の中でバッファローにさよならを言い、早く行こう、とせかす娘に手を引かれながら間抜けなキリンに会いに行った。


 その日の夜、僕は変な夢を見た。なぜかバーのカウンターで、あのバッファローと一緒に酒を飲んでいたのだ。

「昼間はどうも」とバッファローはあいさつをすると、話を切り出した。「しかし、どうして昼間、あなたは私のことをじっと見ていたのですか?」

 僕は返事に困った。

「ごめん。人から見られるのは嫌かい?」

「いいえ、それは構いません。人から見られようが、無視されようが、そんなことは気にしていません。ただ、あなたのようにじっと私に見入っている人はあまり見掛けたことがなかったので、少し気になったのです」

「まあ、深い理由はないんだけどね、君が気持ち良さそうに日向ぼっこをしていたものだから、なんとなく眺めていたかっただけさ」

 僕が照れくさそうに言うと、バッファローは微笑んだ。

「なんだ、そんなことでしたか。あなたは変わっていますね。ところで、隣りにいたのは娘さんですか?」

「ああそうだよ、今年で三歳になる。妻とはしばらく前に別れたけどね」

「そうでしたか」と言って、バッファローは少しうつむいた。「実は私も、四年前に妻に先立たれました。その後はずっと独りです」

 しばらく沈黙が続き、グラスの氷がカランと音を立てたところで、バッファローが再び口を開いた。

「私の話を聞いてくれますか?」

 僕が頷くと、バッファローは話を始めた。


「妻とはあの動物園で出会いました。私がよその動物園から婿入りしたのです。初めてふたりが顔を合わせたとき、彼女は私を避けていました。若くて鼻息の荒い私を彼女は怖がっていたのです。私はメスの匂いを嗅ぐと狂おしいほど興奮しました。いくら私が彼女に迫っても、彼女はまるで闘牛士のようにするりと私をかわしました。悶々とする日々が続き、私の中にある悩みが膨らんでいきました。もしかしたら私は一生、誰からも相手にされないのではないかと。しかし、ある日突然、彼女は私を受け入れました。なぜそうなったのかはわかりませんが、とにかく私は彼女の中で夢中になりました。そのとき、私はまるで広い草原を走っているようでした。夢にさえ見たことがないような新しい世界があることを、私は初めて知ったのです。

 やがて妻との間に子供が産まれました。かわいい女の子でした。私が生きてきた中でこれ以上の幸せはありません。あるいは、こんな狭い柵の中で暮らす私たちを、誰も幸せだとは思わないでしょう。でも、どう思われようと構いません。幸せなんて、本人さえ知っていればそれでいいのですから。

 それにしても娘はおてんばで、私は手を焼きました。狭い飼育場を走り回って何度柵にぶつかったことか……。あの頃はお客さんもよく立ち止まって、娘の愛らしい姿を見物していました。しかし、娘が妻と変わらないくらい大きく成長すると、いよいよ別れがやって来ました。よその動物園へ嫁入りすることになったのです。別れ際、私は顔をすり寄せて娘の匂いを嗅ぎました。彼女とはもう一生会えないのです。匂いはいつか消えてなくなるでしょう。私に出来ることは、彼女を記憶にとどめておくことだけです。彼女は柔らかな草原の匂いがしました。この記憶だけは今でも消えません。

 その後、私は妻と二人で寄り添うように暮らしました。娘がいなくなってから、妻は少しづつ体調を崩していきました。妻はよく、娘のお気に入りだった木陰で何時間もぼうっと佇んでいることがありました。そしてあるとき、妻はぱったりと餌を食べなくなったのです。体は急速に弱ってゆき、立つことも出来なくなりました。ほどなくして妻は死に、私は独りぼっちになってしまいました。

 私はただ餌を食べ、ただ水を飲み、ただ生きていました。あの柵で囲まれた狭い飼育場が、やけに広く感じられました。私は寝ぐらにしていた小屋のコンクリートの壁を、いつまでも眺めていました。灰色の壁に刻まれたヒビ割れを、意味もなく辿り続けました。幸せだった頃の記憶など、いったい何の役に立つのでしょう。すべては幻だったのかもしれないのです。妻や娘なんて、始めから存在しなかったのかもしれません。私の記憶はコンクリートのヒビ割れの中に吸い込まれていきました……。

 そして、私が壁を眺めることさえ止めてしまったある日、小屋に聞き慣れない足音が響きました。いつもの飼育員の足音とは違い、どこか柔らかい感じがしました。足音の主は新人の飼育員でした。彼女は私の世話をすることになったのです。彼女は親切でした。汚物や何かが散乱した不快な私の小屋を、嫌な顔ひとつせずゴシゴシと丁寧に磨いてくれました。でも、私は清潔になった小屋に入るといたたまれなくなりました。愚かな動物でしかない私は、せっかく彼女がきれいにしてくれた小屋を、また汚してしまうだろうと思ったからです。それでも彼女は私のために、不快な汚い小屋を何度でも磨いてくれるでしょう。私は次第に彼女が愛しくなりました。彼女は私のために餌の世話もしてくれました。餌を食べる私を、彼女は鉄格子の向こうからじっと眺めていました。私は微かに漂ってくる彼女の匂いを嗅ぐことが出来ました。それは妻や娘の匂いとはまるで違いましたが、どこか懐かしくて、心地よい感じがしました。私は、もう思い出すことをやめたはずの記憶を、再び思い起こそうとしました。しかしいくら探しても、彼女の匂いに結び付く記憶は見つかりませんでした……」

 夢はここで終わったが、しばらくはバッファローのことが頭から離れなかった。


 次の週末、僕はまた娘を連れて動物園へ行った。バッファローのところへ行くと、彼は相変わらず飼育場の奥で日向ぼっこをしていた。小屋のほうを見たが人のいる気配はなかった。娘がまたキリンを観たがっていたので、僕は例の飼育員を探すのをあきらめてその場を離れた。

 僕と娘は、人気者のキリンや、ゾウを観て回った。先週も同じものを観たばかりだったが、娘は喜んでいるようだった。一通り見終わると、さすがに娘も歩き疲れたようだった。僕は娘をおんぶして動物園の出口へ向かった。すると途中で、水色のつなぎを着た女性飼育員を見掛けたので、僕は思わず声をかけた。

「ねえ、ちょっと」

「はい、何か?」

 彼女は髪を金髪に染めていた。

「バッファローのことなんだけど」

「バッファロー? あたし、バッファローの飼育担当だけど、彼がどうかしたの?」

 確かに彼女の左胸には、バッファローのワッペンが付いていた。

「彼、いやバッファローが好きでね。娘も大ファンさ」

 僕は娘を背中から降ろした。

「へえ、珍しいわねえ。娘さんいくつ?」

 娘は指を三本見せたが、少し不機嫌そうだった。

 すると金髪の飼育員は、ちょっと待ってね、と言ってポケットから何かを取り出した。

「はい、バッファローのストラップよ」と言って、金髪の飼育員は娘に手渡した。「それ、売店の売れ残りなの。なんだか悲しいわね」

「帰りに、ストラップ二百本買うよ」

「ありがと。あたし、これからアルパカの世話に行かなくちゃならないの。じゃあね」

 そう言って彼女は、手を振りながら去って行った。

 彼女は、日だまりのような、いい匂いがした。

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