第3ー3話 凶獣戦線(3)


夜半

羽倉城 御寝所前庭――





「ほう……そう吹くか・・・・・


 城壁のあった奥より、忽然と現れたふたつの長影を目にして、弦矢の目が細められる。その黒瞳に抑えられぬ好奇の色をみとめれば、実弟である近習長は嘆息したに違いない。


「何とも、おかしなものが出てきよったな。しかし――」

「あやつら、過激な真似を」


 弦矢の背後で呻くのは隻眼だ。弦矢と同じく、戦況の変化に近習長達の狙いを感じ取り、当然のごとく憤る。


「手に負えぬからと、若を危地に晒すとは」

「まあ、よいではないか」


 隻眼の心配を知らぬげに、肝心の弦矢は己の出番だと歓待する始末。


「当主に華を持たせんとする心遣い――そう捉えれば、褒めてやりたいくらいじゃ」

「いや、そこは叱らねば――」


 声を張り上げる隻眼へ「いいから下がっておれ」と左手をふり、そのまま右手に持つ鞘から、弦矢は刀を抜き放った。

 左利き・・・――この日ノ本では、“波乱”から“統治の乱れ”、あるいは“合戦の元凶”とまで読み解き、忌み嫌う武家が多い。

 しかしながら、諏訪家にあっては“変革”や“切り拓く者”として、将来に期待を寄せる加護持ちとみて畏怖を抱く。

 それ故か、刀持つ当主の利き腕を見つめる隻眼は、軽く息をついて素直に引き下がった。


「ご武運を」


 背にかかる祈りの言葉を受けながら、弦矢は足裏をこねり、硬く締められた土に馴染ませる。

 突然起こった戦いに草履も履けず素足のままであったが、皆同じ条件だ。

 土の冷たさや足裏を傷つける痛み、踏ん張りの効かせられぬ悪条件下で、それでも顔色ひとつ変えずに戦い抜いている。

 それは弦矢とて同じ事。

 高ぶる戦意の前に、素足の問題など些末時に他ならぬ。


「さあ、参れ――」


 まるで迎え入れるように軽く両手を広げて。そこへ引き寄せられるように迫る餓鬼の群れ。

 小柄であっても数があり、数よりも狂気と同義の異常な飢餓感が、怖気を震わせる気配の塊となって弦矢に襲い掛かる。


「――ん?」


 左右斜めより、餓鬼共の先頭が一軒ほど(約1.8m)に迫ったところで、弦矢は前方に今の今までなかった異変を察知した。

 いや、左右後ろの三方にも。


 それは忽然と現れた人の影。


 黒装束を纏いしその人影は、初めからそこにいたかのごとく自然と佇み、弦矢が認識した時には、その澄み切った殺意を餓鬼の垢まみれの肌に触れさせていた。その刹那。



 ぎゃぶっ

 ぼっ

 う゛ぃっ

 ?!!!



 声にならぬ声を発して、幾匹もの餓鬼が、緑の矮躯に網の目状の朱線を刻ませる。

 それだけで済むはずもなく。

 走る勢いそのままに、足下から細切れにされた身体が崩れてゆき、どちゃりと身の毛もよだつ音を立てて、肉片をまき散らした。

 弦矢の足の甲に生暖かい液体がかかり、柔らかく不愉快な感触も脛に感じる。


「……っ」


 弦矢だけは即座に気付く。

 四つの人影を結ぶ菱形の線上に、恐るべき切れ味を持った何かが仕掛けられているためだと。

 その目に見えぬ死線を半歩と踏み越える者は皆、否応なしに“死の引導”を渡されるのだ。

 だが、そうとは知らぬ餓鬼共は、飢餓の衝動に突き動かされるまま、生死を分かつ境界線を安易に踏み越え、死の行進を止めることはしない。



 げっ、ぎゃ、っば、ぶっ、びょ、ごぅ、がぁ、ぎい、ぎゅ、げぇ、びゅ、じょ、ぎょ、びゃ、でぃ、ろっ……



 次々と、向かってくる餓鬼が皆、無残な血肉の塊へと変わり果ててゆく。その数の多さに、弦矢の周囲は生臭い湯気が沸き立ち、顎や頬を嬲られているような感触があった。しばらくここに身を晒していれば、臓物の臭いが肌に染み込むような錯覚を覚えさせるほど。

 さすがに鼻に皺を寄せる弦矢も閉口せずにはいられない。それほど容赦の無い術であった。


「……何とも凄まじいな」

「『糸々剪陣ししせんじん』――触れる者すべて、冥途へ葬り出す『結界陣』さ」


 右手から聞こえる得意げな少年の声に「青汰せいた」と弦矢が気付けば。


「邪魔立てして申し訳ありませぬ。叱責は後でいくらでも」

朱絹あけぎぬ、か」


 左手から詫びる冷え切った女の声に、前方の影も話しを繋げる。


「御当主の手をわずらわせては、我ら『方位護持者』の名折れというものであれば」

「まあ、そういうわけでお察しあそばせ」


 最後の柔らかな物言いは後方の影。


「玄九郎に胡伯こはくまで。おぬしら――人前に出てよい・・・・・・・のか・・?」


 この状況で、おかしなことを弦矢が案じるのは無理もない。彼であっても、惣一朗以外で一族の者・・・・を目にしたのは、これで二度目にすぎないからだ。



 『幽玄の一族』――。

 古くから諏訪家の当主に陰ながら仕え、諏訪者を含めた人目を忍ぶことにより、暗殺をはじめとした敵の謀略をことごとく阻止してきた影の功労者。

 特に“稀代の幻術士”と謳われし『飛び加藤』に先代当主の命を狙われ、撃退した逸話なぞ、彼の術士が唯一仕損じた“驚愕の一事”として、白山のみならず日ノ本全土に響き渡るほど。

 天下に名だたる『七忍』と互角――今や陰者の世界では知らぬ者なき存在となってしまったが、諏訪の重臣達を心から畏怖させ、信頼させる一事となったのは間違いない。



 とまれ本来であれば、存在を知られることは、陰者としては憂うべき事態であったろう。だが彼らは平然と首を振った。なぜなら――


「我らの主命は“諏訪の当主を護ること”」


 当主の懸念に対し、先頭に立つ玄九郎がぼそぼそと答え、続けて琥珀が話しを締めくくる。


「そのためであれば、一族の掟には目を瞑っていただくだけのこと。現に――惣一朗殿も」


 琥珀の言葉に促され弦矢が前陣を見やれば、ちょうどこちらへ頷いてみせる惣一朗の姿があった。

 まさか今の会話を耳にしたわけでもあるまいが、以心伝心――手練れの一族同士であれば、通じるものくらいあるのだろう。惣一朗の肯定は護持者達へ向けたものと理解できる。

 「それにこの奇っ怪な状況」と付け加えるのは清太だ。


「“銀髪の妖術師”の次は“餓鬼道の亡者達”……これ以上、事がややこしくなる前に、臨機応変に対処するのは当然でしょ」

「本来なら、先に『城影』が動くべきだが」


 ぼそりと不満の言葉を漏らすのは玄九郎。「そういえば見かけないね」と清太も不審がり、そこで思いついたように案を出す。


「まだあちこちに“靄”も残っている。……何か関係があるとか」

「軽口が過ぎる。御当主の前よ」


 冷ややかに咎めるのは朱絹だ。

 一見して何とも悠長に会話を交わしている彼らだが、『結界陣』による血みどろの宴は今も続いている。

 特に、彼らの被る“白蝋の面”には血の飛沫がかかり、その凄惨さを際立たせるほど。

 指先ひとつ動かさず、狂気の群れを封じてみせる秘術の効果は絶大で、さほど刻を経ずして、状況に変化が生じる。


「……さすがに学習するね」


 餓鬼の押し寄せる勢いがなくなったことに清太が気付いた。


「ぎゃぎ……っ」


 正しくは学習ではない。

 月明かりで赤の色合いは分からなくとも、血脂をたっぷりと付着させた“蜘蛛の巣状の網”が目に映れば、さしもの餓鬼もそれが凶器と気付く。とはいえ。


「“怖れ”を抱けても、陣を破る智恵までは回らぬか。しかもおぬしらの気配を掴めておらぬらしい」


 気配どころか、先ほどから交わされる会話の声にさえ気付くこともなく。

 忌々しげに『結界陣』の周囲をうろつきはじめる餓鬼共を弦矢が冷評すれば、玄九郎も冷ややかに呟く。


「所詮は飢餓に囚われた、ただの亡者共」

「なら、いるべき場所へ葬り返してやるだけさ」


 攻めに転じようと発する清太の頭頂を、「ええ、そうね」と子供をあやすように触れる者がいた。

 その白魚のごときたおやかな手指――それはさらに頭上で身を丸めた人影より伸びていた。


「――琥珀っ」


 咄嗟に振り払う清太を尻目に、まるで風に吹かれるたんぽぽのごとく、軽々と頭上を飛び越えて、琥珀の身体が餓鬼の群れに舞い降りる。

 丸めた身より、しなやかで優美な脚線をすっと伸びやかせ。


「げ?」

「ひ!」


 その足先が触れるか否か――わずかにすれ違うだけで、数匹の餓鬼がはらりと刻まれた。


 何だ?

 何がどうした?


 ゆるりと――微風も立たせぬその動きに、餓鬼共の認識が遅れ、反応に窮したことから、さらなる惨劇がその場に舞い起こる。

 爪先にて降り立った琥珀が、上半身を柔らかくしならせ、頭を振り回すようにぐるりと一周させて。



 餓鬼には見えたであろうか――煌めく幾筋もの白線を。



 ひと抱えはあろう毛筆をかすれさせたがごとき微細なる流線が、ゆるりと円を描ききったところで、餓鬼共の身がはらはら・・・・と千切りにされた肉片へと変わり果てた。



「白虎ノ一手――『虎頭柳千こずりゅうせん』」



 謳うように告げるは女の声。

 朱絹のように冷たくとも艶ある声とは、また違った魅力の清楚なる声音。

 ああだが、繰り出される術の凄絶さが清らかな彼女の印象をねじ曲げる。

 同輩の清太が唇の端をかすかに歪めるほど。


「……久しぶりに見たけど、相変わらずえぐい・・・切れ味だね」

「ありがとう」

「褒めてないよ」


 肩でも竦めてそうな清太の口調だが、秘術を駆使するのは琥珀ばかりではない。他の三人とも、一族として身に付けるべき技の他に、四神を冠する独自の秘術を修めている。



 ちなみに『糸々剪陣』に『虎頭柳千こずりゅうせん』――いずれも女性の髪を武器に変事させた秘術である。

 一族に代々継承される『髪紬ぎ』と呼ばれる依り代から得た髪を、秘伝の薬液に七年漬けて寝かし、さらに研ぎ師の秘技で切れ味を持たせることにより完成に至る。

 こうして産み出された『剪髪』は、細く撓やかな髪質を保ちながら、鋼にすら抗い、触れるものすべてを切り裂く恐るべき凶器となる。その技を継ぎし者が命果てるまでを限りとして。



「どう、血脂ひとつ付いていない……私の剪髪は・・・・・さらに改良を加えてあるの」

「それはいいけど、こんな奴ら相手に“四神の術”を使うのは頂けない」


 そう苦言を呈するのは朱絹。だが琥珀は楚々と受け流す。


「問題ないわ。一匹足りとて生かさないから」

「……そう」


 本音は改良品の試しであろうと誰もが気付いている。だが「そのようなことより」と陣の中心から発せられた言葉に四人は意識を切り替えた。


「また事態が急変する前に、さっさと片付けよ!」


 尤もな当主の命令に、「はっ」と護持者達が応じて四方に散る。

 もはや結界を張る必要はない。

 一気に数を減らした餓鬼共に先ほどまでの脅威はなく、四人にとっては、攻めに転じて残らず葬るだけの安易な作業を実施するだけであったのだから。


「一匹たりとも討ち洩らすなっ」


 苦鳴無き断末魔があちこちで巻き起こる中、出番を断たれた弦矢は、腐ることなく厳しい表情で戦いの終局を見守る。


「このような奴ら、領内で跋扈させれば民への被害は甚大だ。徹底してやれ!!」


 憂い残すまじと、弦矢は影衛士達へ厳しく檄を飛ばすのだった。




 ◇◇◇




 再び前陣に戻して。

 新たな強者の登場で、戦局を振り出しに戻された近習長達は、餓鬼の群れを掻き分け、手長餓鬼に迫ろうとしていた。


「ごぶるぅ!!」


 向かってくる餓鬼も必死さがまるで違う。それまで飢餓感だけに突き動かされていた餓鬼共の目の色が別物に変じていた。

 そこに混じるのは明らかな“怯え”。

 近習長の武威に、怯んでいたことさえ忘れさせる圧倒的な恐怖が餓鬼共を駆り立てていた。


「「ごぎるっ」」

「「ぶぐるあ!」」

「「ごぐごぶるっ」」


 これまでと違い、死に物狂いで餓鬼が一斉に襲い掛かってくる。その狂乱ぶりは追い詰められたモノのそれ。


「笑止――」


 だが、不敵に呟く近習長が醜い花弁のごとき乱舞で襲い来る餓鬼を撥ね除ける。

 鉄鞭の描く線上に、餓鬼が最も重なる瞬間を見極め、渾身の力で大振りした。



 ぶぉん、


  ぶぉん、と。



 たったふた振りで六匹の餓鬼を打ち殺し、そのままの勢いで軽く暴れたところで、周囲に蠢くものは途絶えていた。群れを抜けたのだ。


「危ない!!」

「――ん?」


 惣一朗の呼びかけに怒り眉が強張った。

 まだ距離のあったはずの手長餓鬼による棍棒が、天空より振り下ろされてきたのだ。



 ――――ズゴッ……ン!!!!



 堅締めの敷地が棍棒の形に合わせて大きく窪む。

 間一髪で躱した近習長はその破壊力に唇の端を引き攣らせた。


「当たれば凄いが……く?」


 その膝がかくりと折れる。

 こめかみから流れ落ちる血に気付いて「擦ってこれか」と鉄鞭を落としてしまう。



 ぐるるるるきゅう



 それは手長餓鬼の腹部から発せられし音。

 手長餓鬼が近習長のこめかみを凝視しており、薄い唇の端からは涎が糸を引く。

 血を見て?

 濁った瞳に宿る“飢え”を見るまでもなく、これまで耳にしていた怪音の正体を察することができた。


「……“殺意”でなく“食欲”を向けられるとは、な」


 本能的な嫌悪感に近習長の顔が歪む。

 空腹をまぎらせるためなのか、棍棒を囓り始める手長餓鬼を小さな餓鬼共が怖れるのも分かる気がする。この様子では共食いさえも厭わぬと察せられるからだ。つまり奴らもまた、上位の捕食者から逃げてきただけなのだ。


「……まさか、さらなる化け物が湧き出るわけではあるまいな」


 そこが餓鬼道に通じているかのように、近習長が手長餓鬼よりさらに奥――闇に溶け込む樹林を睨み据える。

 だがそれも僅かの間。


「弦之助様、ここは私が」

「いや、任せてもらう」


 自分を案じる惣一朗の申し出を近習長は拒絶する。横目にもう一匹の手長餓鬼と対峙する月ノ丞の姿を意識すれば。

 あの寒気のするような猛撃を華麗に避け続ける身のこなしに、彼とて対抗心が沸かぬはずがない。


「しかし――」

「儂がなぜ近習の長を仰せつかっていると思っておる」


 その言葉ではっとしたように口を噤む惣一朗。彼が知っていることと果たして同じであったのか、近習長は自負を込めて告げた。


「決して縁故ではない。当主を護るに相応しいと、純粋に実力で認めさせたからだっ」


 気勢を上げる近習長に煽られて、手長餓鬼が見た目に似ず甲高い咆哮を上げ、棍棒を振るう。

 彼我の距離は一軒強(約2.3m)――それを余裕で届かせる一撃が、唸りを上げて横殴りに襲い掛かってくる。


「――っ」


 深々と頭を倒して前へ跳び込む近習長。

 背中越しにぎりぎり猛打をやり過ごし、頭を上げさらに一歩進めたところで、返しの次打を咄嗟の跳躍で飛び越した。

 しかし無理が祟り平衡を崩して膝を着く。それを見逃すような手長餓鬼ではなかった。


「ごぶる!!」


 遠心力は効かせずとも、十分な威力の打ち下ろし。受け止めるべき鉄鞭を失っていた近習長はしかし、立ち向かうように腰を上げ、ただゆるやかに掌を差し伸べた。

 優しく包み込むように。


「ぎぇ?!」


 何が起きたのか、緑の巨体が独楽のように回り、勢い余ってひっくり返る。すぐに慌てて手長餓鬼が飛び起きたところで、その喉頸に二本のクナイが突き立った。


「……?!」

「余計な真似を――」


 瞬間的に身を反らし硬直する手長餓鬼の隙を見逃さず、吐き捨てながらも近習長が滑り寄る。

 その間に大刀を抜き放ち、手長餓鬼の発達した腹筋と大胸筋の隙間へと――そこだけは鍛えられぬ鳩尾に白刃を刺し通す。


「……っ」


 それでも手長餓鬼は異常な生命力を示し、近習長を怪力で叩き払った。

 毬のように軽く弾かれ、大柄な近習長が地面を何度も転がり止まる。


「……この、馬鹿力め……」


 必死で上半身を起こそうと藻掻く近習長の目に、天夜に舞う鳥の影が映った。

 それはうずくまる大餓鬼の背に下り立つと、鋭い爪を首筋に突き立てた。

 二度。

 三度。

 羽ばたくような仕草に苛烈さを込めて。

 魔鳥と見えた姿の惣一朗が、手長餓鬼の喉頸を瞬く間に剣山のごとき無数のクナイで埋め尽くす。

 やがて身動きを止めた巨躯の上ですっくと立ち上がった。


「……獲物を横取りした形になり、申し訳ありません」

「構わん。脅威を取り除くのが目的だ」


 謝罪する惣一朗を赦すと口にしながら、近習長は仏頂面のまま。何気に月ノ丞の様子を窺えば、そちらも戦いが終わっていた。


二番手の剣で・・・・・・倒しよるか……」


 彼の得手が別にあると知るが故に、思わずこぼした近習長の感慨に返事があった。


「ひとりで為したわけではありませぬ」

「?」

そやつ・・・の手を借りればこそ」


 月ノ丞が視線を落とす先に半身を潰された異人が倒れていた。すでに事切れた瞳が虚空に向けられたまま、光を失っている。


「……逃げなかったのか」

「逃げても無駄と分かっていたのでしょう」


 確かに並の腕前では抗えまい。今もそうであったように逃げた後で追いつかれ、単独戦闘を強いられるよりは、この場に留まり集団戦に活路を見出すのが賢明ではある。それでも。


「“任せろ”と。囮の役を負ってくれなければ、もっと苦戦していたのは間違いなく」

「言葉が?」

「そのように、聞こえただけです。定かではありませぬが」


 要領を得ぬ月ノ丞に近習長は特に追求はしなかった。それよりも気になる事実に気付いたからだ。


「城壁が……」


 霞がかった幻が、そこに実体を伴い存在していた。

 もはや塀向こうに樹林の影は見えず、周囲へ首を巡らせば、すべてが元通りに戻っていた。

 ただし、無残に千切られた異人の骸や死屍累々と散らばる餓鬼共の遺骸と、むせ返るような血臭を除けば。


「戻った、のか……?」

「そうだとよろしいが」


 期待と疑念を混ぜ合わせた近習長の声に月ノ丞は慎重に同意を避ける。


やぐらに人もおるようだ。戻ったとみて間違いあるまい」

「やはり何者かの“術”なのか……?」


 立ち尽くす二人の間に安堵とも困惑ともつかぬ空気が広がる中、「残念ながら、そうではない」と否定する声。


「――若」

「ご無事で何より」


 反射的に一礼する二人へ「あれだ」と弦矢は顎をしゃくって視線を促す。あまりに深刻げな面差しに怪訝そうに従った二人もそこで気付く。


「な――?!」

「これは――」


 それは驚愕と畏怖と様々な感情が混ぜ合わされた声だった。


 天夜に描かれた真円なる満月。


 橙色に濡れた月はこれまで見たこともないほどに大きく、それも重なるようにして二つの月が・・・・・浮かんでいたのだ。

 これは夢か幻か?

 だが頬をつねるまでもない。近習長に至っては、少なからず餓鬼に噛みつかれた痛みを確かに感じているのだから。

 弦矢が苦々しげに唸る。


「事が収まったとはとても思えぬ。むしろ始まったばかりと思えぬか」

「始まり……」


 その意味を反芻するかのごとく口の中で転がす近習長。


「そうじゃ。あれ・・を“吉兆”とはさすがに思うまい。むしろ神仏の条理が歪められし出来事。そうでなければ、亡者など湧き出るものかっ」

「確かに、あのような不条理。何をどのようにすれば起こせるのやら」


 途方に暮れる近習長に「この際、手段についてはどうでもよい」と弦矢は切り捨てる。


「思うのは、これが奴らの侵攻と時期を同じくするその一点のみ。今ならば、これほどの禍々しき大仕掛けを為せるからこそ、奴らが同盟軍を起こし“諏訪潰し”を企てたとも考えられる」

「まさか、そのようなことが――」

「現に、亡者に襲われたのは事実」


 そう賛意ともとれる発言をするのは月ノ丞だ。いつもであれば、慎重論を唱える者が考えていたのは、とある危機。


「されば若、そうだとするならば――」

「うむ。万雷達もただでは済むまい」


 今頃はきっと。

 不気味な双月を睨む弦矢の声が重く響く。

 だが実際は、彼らの想像を越えていた。

 この驚天動地の凶事は、諏訪軍どころか敵対している同盟軍をも巻き込んで、その禍々しき猛威を振るっていたのだ――。

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