第78話 忍び寄る魔手(三)

北街区『ソヨンの宿』二階別室

 秋水とフォルム――



 トッドによれば『俗物軍団グレムリン』を強軍たらしめるのは、数々の修羅場を潜り抜けてきた兵一人一人の超実戦的な戦闘力にあるという。

 その武力最上位と目される副将フォルムと手合わせた秋水の感想は――


 ――やりにくい。


 その一言に尽きた。

 暗灰色の羽織り物を頭からすっぽりと被り、自身の肉付きから四肢の長さ、身に付けたる得物をさらさぬ身なりには、恣意的なものすら感じさせる。

 そうした戦いへの配慮・・・・・・だけでなく、“奇襲効かず”と豪語するだけの戦闘経験と驚異的な身体能力の組み合わせ。

 そして極めつけは“不傷不倒”の肉体だ。

 これを厄介と云わずして何と表しよう。

 だがその実、秋水を何よりもわずらわせ――いや戸惑わせるのは、捉え所の無い、無味無臭な・・・・・フォルムの佇まい。

 その無きに等しい“気構え”と云えば分かろうか。


「――――」


 そこに文机や寝床があるように。

 障子に映り込む人影を見るように。

 殺意や闘志といった戦う意志が、フォルムの身よりわずかも洩れることはなく、まるで一枚の絵と対面しているように、敵対している実感があまりにも薄すぎた。


(これならば、普通の者はわけもわからぬうちに・・・・・・・・・・斬り捨てられていような……)


 “危機感”こそ、己の身を守る大事な防衛本能だ。その“危機感”が正しく働かず、迫る脅威を認識できなければ、避けれるものも避けられず、気付いたときにはとうに命を絶たれ、身体から魂が離れていることだろう。


 それこそが・・・・・眼前の敵の恐ろしさ。


 しかしその勘所かんどころを見抜く秋水も、かつては裏の技を極めし『陰師』の一人。フォルムのごとき“殺意・闘志なき戦闘法”を敵と迎えても、やりにくさ以上の感慨はない。


(我に懸念無し――)


 秋水の胸に曇りひとつなく。


(“如何なる難敵であろうとも、幾十の勝ち筋・・・を見出す”――それが、儂の修めた術だ)


 そう心の内で“印”を結び、かように秋水が腹を決める頃にはフォルムとの対話も一段落していた。


「短くとも――抗ってみせることだ」


 秋水の覚悟を相手は取り違えた節がある。

 あくまで自身の絶体優勢を信じて疑わず、フォルムが挑発的な言葉を放つ。同時に、すい・・、とこちらへ向かって踏み込んできた。

 何の前触れもなく。

 足下まで覆うローブで出足を掴ませず、秋水からすれば不意打ちに等しき見事なその初動。だが。


 一歩には一歩で応じ。

 二歩には二歩で応じて。


 秋水はフォルムの足下を一瞥することもなく、まるで申し合わせたかのように“歩速”や“歩幅”のみならず“動き出し”のすべてを見極め息合わせ、寸分狂わずはじめの間合いを保ってみせる。

 されどフォルムの百年にのぼる戦歴からすれば、それは珍しき芸当ではなかったらしい。

 直線的な動きをすぐに蛇行させ、さらに緩急織り交ぜ眩惑し、練達の足運びで秋水の間合いを攻め立てる。

 しかしそれすら見事に合わせてのける秋水の技倆、洞察をこそ称えるべきか。


 ――否。


 ありし日に、彼が去りゆくと知って、組織の誰もが惜しんだ才能がそれのみで終わるはずがなかった。


「!」


 その時、攻め手のフォルムが足を止めたのは、巧みに間合いを差し合ううちに、ふと、互いの距離が詰まっている事実・・・・・・・・に気付いたがため。


 いつの間に――?

 いやそれよりも好機チャンス――ではない。


 むしろフォルムよりも秋水こそが断然有利な必殺の間合い――すなわち偃月刀と和刀の尺の違いが生み出す殺傷圏の妙――そこに踏み込んでしまった己の致命的な失態に、フォルムが察したがための硬直・・であった。

 それも遅きに失したが。



 疾っ――――



 これもいつの間に、秋水は背負っていた刀を腰元へと移していたのか。

 間一髪、下から顎先へ迫る銀線をフォルムが首のみ横へ移してすり抜ける。ローブに覆われた顎の位置を秋水がどうして精確に捉えたのかは謎のまま。

 続いて、刀を抜き打った別の手からクナイが放たれ、フォルムの右足の甲に深々と突き立った。



 ――ドカカッ

  ファウ――!!



 それをあえて受けたと云わんばかりに、半歩踏み込んだフォルムの偃月刀が右から秋水の脇腹を襲い、しかし、予期していたかのごとく革鎧のみを浅く切らせて秋水が一歩・・後退る。

 ほぼ同時に半歩だけ踏み込んできたフォルムの動きすら読み切っていたように。


 そこは再び、秋水のみの・・・・・殺傷圏。


 互いの視線が絡み合い。

 秋水は絶好の機会に瞳の奥で戦意を研ぎ澄まし、フォルムは己の絶体危地を冷然と受け止めて。

 刹那の一手が“勝負の分かれ目”と二人に予感させたその一瞬。


「いりゃっ」

「GHA!」


 秋水が裂帛の気合いを込めて、諸手に握った和刀を全力で閃かせた。

 まるで『抜刀隊』の『席付』達を思わす飛燕の速さで、それでいて、彼らの洗練さとは異なる激しき太刀筋で三連撃を叩き込む。



 ――キッ

 ドッ

   ――キンッ



 ひとつ入った。だが浅い。

 いくら切り刻み大量に血を飛沫かせても。

 胸部を貫かれて平然とする化け物だ。肉を斬り飛ばす攻めこそが望ましい。

 ならば今一度と秋水が意識したそれが隙となったのか、一瞬早くフォルムに先手を打たれてしまう。


 ――ス

「――む」 


 間合いを奪いにフォルムが僅かににじり寄り、秋水が盗らせずと後退る。だがそこまでだ。床に縫い付けたクナイの役目がここでフォルムの動きを阻害する――はずであった。


「――ちぃ」


 驚きと呆れが入り交じる憤り。

 それはクナイの存在を無きものにして――つまりは骨を砕き肉を裂く激痛を意に介さず、フォルムが限界超えで・・・・・踏み込み迫り来たがため。そう認識した時には、秋水に偃月刀の刃を避ける余裕はなかった。

 それでも咄嗟に刀を放し、秋水は左腕で脇を締め守る。そこへ叩きつけられる偃月刀が秋水の腕を断つこともできずに金属音を響かせ食い止められた。


「ほう」


 秋水の場馴れした対応力にフォルムが関心を示したかと思えばそうではない。


「鉄板の仕込みは常道だが、私の一撃を・・・・・止めるか」

「……確かに他のもの・・・・だったら危なかったな」 


 応じる秋水もフォルムの云わんとするところを理解していた。

 普通の鉄であれば断たれていたであろう威力の一撃と痺れる左腕が訴える。その秘密が攻撃の速さと重さだけになく、フォルムの得物自体が不思議な微光を放っており、それが威力に影響を与えていようことが容易に想像できるが故に。

 それもまたトッドに教えられた『魔術工芸品マジック・クラフト』とやらの逸品物、あるいは『精励装具』というものの効能かもしれないと。


(だがな――)


 秋水の口元に浮かぶは強い自負。

 今も愛用している、とある組織からの贈り物は、すべて秘伝の製法で生み出されし真鉄製の特注品。決して異界の逸品に劣るものではない。いや、そうでなければ――。


 己が積み上げたるもの。

 共に戦い、支援してくれる仲間達。


 そうした力を信じて自負も抱けず、どうしてかような異界の地で生きていけると思うのか。


(儂らが届かねば、朽ちゆくだけよ。だがたった今、仕込んだ真鉄がこの地で“やれる”と示してくれた)


 ならば、次に示すは己の力。


(届かせる――。昔の儂なら思うまい。だが今は篠ノ女家のため、部下のため、共に帰郷を目指す諏訪の衆のため――)


 己の血肉を燃やそうと。

 その思いが、秋水の口をついて出る。


「あんたは儂らに仕掛けた・・・・・・・と思っている」

「?」

「だが決して、追い詰めた・・・・・と思うなよ――」


 影のごとき秋水の身に、熱い何かの芯がひと筋通る。それを腹から喉元へ絞り上げて。



「――お前を誘い込んだは、儂らの方だっ」



 秋水の思わぬ大喝が、室内の空気を震わせた。

 まるで巨人の平手打ちを思わせる、ぱん、という破裂音と共にフォルムの全身が何かに叩かれる。

 それは魔力の波動にも似た何かの力。


 『縛呵ばっか』――。

 秋水が修めし術の極意は五つの道で示される。それは奥伝にて『刃心五道』として学ぶ機会を与えられ、修行者はいずれかひとつを選択し最終の印可を目指すことになる。

 基礎論として五つを学ぶも習得できるのはひとつきり。それは決まり事ではなく純粋な道程の険しさから結果としてそうあるだけだ。

 『縛呵ばっか』とは、五道のうちのふたつである『音』と『心』の絡繰りで生み出される言わば心理攻撃と呼べるものであり、気合い術の一種であった。

 その効果は、相手を一時的な金縛りに合わせるもの――だが仕掛けた相手は、あらゆる精神攻撃の耐性を高レベルで有する人外のフォルム。迎える結末の予想などするまでもなかったが。


 そうとは知らぬ秋水渾身の『縛呵ばっか』は放たれ、それから如何ほども待つことはなく。


「呪術か?」

「……っ」


 フォルムが金縛りの余韻すら感じさせることもなく滑らかに言葉を紡ぎ、相反するように秋水の唇は堅く引き結ばれる。


「卓越した身体操法に剣術、飛礫……その上、術まで使うとは、実に多才な男だ。あるいはドアラ・グーラ以来か」


 それは『冥道六穴』に例えられた伝説の暗殺者の名であったろうか? だが今口にした理由が語られることはなく。

 感心したその声よりもローブの裾がもぞり・・・と動くのを目にして、咄嗟に秋水が大きく跳び退る。産毛が逆立つ感触は絶体窮地に対する反応だ。


 ――何だ、今のは?!


 戸惑いや疑念を瞬時に斬り捨て、秋水は己の本能に逆らわず、まずはしっかと攻撃の間合いを外す。だがフォルムからすれば、追撃できる絶好の機会を承知の上らしく悠然と見送って。


「このような安宿で、散らすに惜しい才能だな」


 それが追撃せぬ理由だというのか。仮にも実戦を重んじる『俗物軍団グレムリン』の副団長とは思えぬ発言だ。だが彼にとっては十分すぎる理由であったらしい。


「分からないか? 君が見せた数々の技を。体術スキル上位の『眩歩』に剣術スキル『双牙斬』の上位応用……何より呪術まで使うとなれば、その正体はひとつしかない」


 看破したと云わんばかりにフォルムの声には喜悦すら混じる。それは失われし歴史のピースを発掘した学問の徒がみせる歓喜に似ていたが、人外が求めるのは“世界の真実”などというロマンであるはずがない。

 むしろ無いはずの感情を示す異常をこそ、警戒すべきことであろう。だからこそ、「それで」と秋水が探りを入れるのは当然の行為。


「何だと思うんだ……?」

「『呪法剣士オブシディアン』――その存在は大陸広しといえど限られた地にしかない超稀少職種のひとつ。私もこうして遭うのは君が初めてだ・・・・・・


 『呪法剣士オブシディアン』――。

 森人エルフに『精霊之一剣』ありと云うならば、人には『呪法剣士』ありと誇ればよい――今や禁書とされた秘されし文面には、さる賢者が“銀夜の会談”にて時の王に助言したとされる一節がある。

 王はその助言にて溜飲を下げ、森人に対するわだかまりが解かれ、時代が動き出した――閲覧・読書を禁じられてなお、人々の記憶から消されぬ伝承だ。

 それだけの“力”があったのは疑いようはない。

 ただ、精霊術や魔術に力で一歩譲りながらも、呪術と戦闘士の技術とが結び付くことで無視できぬ力を持つに至ったからこそ、悲劇に見舞われたのは皮肉というほかない。

 努力や精進が必ず報われる――とは限らない、嫌な実例。子供の耳には入れたくない現実の残酷さ。

 一時代、人々から忌まわれ歴史の隅に追いやられることとなった幻の職業とそれを伝える種族は、物語上だけの存在とされ、長く人々の記憶に残ることだけを許されてきた。

 その正体を“魔境”に棲まう“謎の秘術を伝承する蛮族”ではないかと結びつける者がいた。

 あるいは、いまだ統治されないコリ・ドラ族領の奥地に人跡未踏の秘境があり、そこに隠れ潜んでいるのではないかと邪推する者もいた。

 そして、その神秘のベールを解き明かすべく魔術学園都市『アド・アストラ』に答えを求め、そのまま消息を絶った学徒もいる。

 だが、知る人は知る。

 その存在は現実のものであると。

 実のところ、特に秘められたわけでもなく、大陸の片隅で今もひっそりとその力は伝承され、成すべき使命に邁進しているのだと、ごく一部のものだけは知っている。

 当然、百年以上を生きる人外のフォルムであれば。


「私を滅しにきたか――闇の遣い手よ」


 誘い込んだという秋水の言葉は、今こそ彼の中で別の事実と混じり合い、新たな真実へと昇華されていた。

 その壮大な勘違いを、事情は掴めずとも、やはりと秋水は口元をゆるませる。徹底的に利用してやろうと。


「――だったらどうする?」

「これ以上ない喜びだよ・・・・


 当てが外れた。

 それも思い切り、真逆の方向で。

 無愛想になる秋水などお構いなしに、その時初めて、フォルムはローブをまくり上げていた。

 もはや人目を避けることもなく、蒼白き相貌と蒼き燐光を灯す双眸を曝け出し、それよりも際立つ三日月に吊り上げた唇の笑みをこそ、これ見よがしに見せつける。

 その声を歓喜に奮わせて。


「待っていたぞ、この時を。お前こそ、私の求めていた者かもしれん」


 熱に浮かされた人外の変わり様に、無愛想なままの秋水が怪訝そうに問う。


「……何を云っている?」

「気にするな。ご覧の通り、浮かれているだけだ・・・・・・・・・。それより本気で抗え。示して見せろ、その力を。私も久しぶりに『月下術』を披露してやろう」


 『呪法剣士オブシディアン』とは天敵かと思ったが、どうやら想い人であったらしい。余計な火を付けたかと思わぬでもないが、ありえぬ感情の高ぶりが、失策を促すこともある。


(これで動ける・・・か――)


 時間稼ぎといいながら、実のところ、秋水にこの場に留まるつもりはさらさらなかった。できるだけ早めに離れたいくらいだったのだ。

 だからこそ、今の流れは誘い出す・・・・には悪くない。フォルムの思惑がどうであれ、こちらはこちらの思惑がある。

 当然ながら、あえて手加減するのも・・・・・・・それがため。そうしてちょいと切っ掛けを与えてやれば。


「なら本気で――」


 秋水が言い終える前に、ベキャッと床を踏み抜く音と共に、猛然と目の前に迫ったフォルムが偃月刀を振るっていた。

 速い。

 速すぎるっ。

 それを紙一重で仰け反り躱した秋水が、片腕で身体を支えながらフォルムの顔を狙い蹴り上げる。

 鋭い爪先が蒼白い頬を裂き、避けられた次の瞬間には、秋水は両腕で床を踏み締め・・・・・・・・・、全身の撥条を利かせて両足を旋風のごとく回転させていた。



 ――――ビヒュッ



 首を刈り取る勢いの蹴り足をフォルムが偃月刀の刃で受けにいき、脛当てに仕込んだ鉄板とぶつかり、またも金属音が響いたときには二撃目の足刀がフォルムの身体を抉り抜いていた・・・・・・・


「なに?!」

「『月下術』三式――『五体霧想』。本来は移動に使う術だが、こうして戦いにも応用を利かせられる。百年以上の戦いで培われた“戦闘の叡智”こそが、私の本当の武器・・・・・というわけだ」


 肉体の特殊性のみで十分だろうに、さらなる防衛策まで高じれるとは。

 だが絶対有利な情勢でそこまでする必要は無いはずだ。フォルムは絶望を与えたいのか?

 秘匿すべき異能を晒す意図は読めないが、眉間にしわ寄せ睨み付ける秋水の精神的衝撃は確かに少なくない。


「もはや何でもありか――」


 己の足に巻き付くローブを蹴り飛ばし、秋水が見つめる先には、フォルムの首だけを残し、それ以外は五体の輪郭のみを留める蒼白き霧が漂っていた。

 秋水が蹴り抜いたのは、その霧だったというわけだ。不死性といい、身体を霧に化けさせる術といい、化け物ぶりが悪辣すぎる。だが。


(まだ底は見えんが、十分だ)


 内心の笑みをひた隠し、深刻げに佇む秋水を見守っていたフォルムが「さて」と語りかけてくる。そこにあるのは優越感ではなく、実験対象の反応に注視する研究者のごとき冷徹な眼差しのみ。


「『真なる聖盾』に『万壁の巨鎧』、『昏き黒鋼竜の鱗』や魔術『触れ得ざる蒼白き霊壁』……世に優れた防御を誇るものは数多く、しかし、私の特殊防御もそれに比肩し得ると自負するが、どうだ? 霧と化し、実体無き私の身をどうやって傷つけてみせる?」

「……確かに、それじゃ戦えないだろう・・・・・・・

「?」

「当然、俺のことも傷つけられまい?」

「!」

 

 それを待っていたぞと揶揄するように。

 秋水の口元にわずかな笑みを見とめた次の瞬間、きびすを返した秋水が窓際に走って体当たりをかます。半開きの窓が勢いよく開け放たれ、止める間もなく秋水の身が窓外へと消えていた。


 何のマネだ?

 いやまさか、逃げたのか・・・・・


 あまりに見事な手のひら返しと躊躇いのない逃亡劇に、さすがのフォルムも呆然と立ち尽くす。少し間を置いて。


「……あれほど闘志を昂ぶらせておきながら。自分すら欺したか? 真性の詐欺師だな」


 だがとフォルムはくつくつと声を洩らす。

 悪くはないと。

 真っ向からの武力衝突で自身に勝てる者はいまい。必然“搦め手勝負”に勝機を見出すことになり、ならば“駆け引き勝負”が肝となる。

 これまで、それすら対等に渡り合える者がどれほどいたであろうか。そう思えば、やはり久しぶりの逸材であることに変わりなく、薄れたはずの感情が沸き上がってくるのも当然と言えよう。


「逃げても無駄だ。我らの運命はここに交わったのだからな。とはいえ……本当に“力”があるのか確める段階でもある、か」


 最後を低く独白し、フォルムはゆらりと霧の身体を揺らめかせる。その動きはゆるやかで追跡に不向きと思えるも、階段を降りるように床板に沈み込んでゆく霧の身には障壁などあって無きが如し。

 最短距離でフォルムは秋水の後を追う。

 去り際に、部屋外で待機している部下へフォルムが指示を出した。


「お前達は残りの異人共を捜し出せ。おそらく屋根裏だろう」


 フォルムが指摘するは鬼灯達が消えた先。

 寝台下も窓も囮とすれば、残るひとつは屋根裏しかない。実に単純明快な結論に疑う者は誰もおらず、置いてきぼりを喰らったジグアット達も率先して協力する。


「その部屋はいい。他の部屋に先回りするんだ」


 部屋数は少なく行き場は限られる。

 別室にひそんでいる公算が高いとジグアットは睨み、ちゃっかり『俗物軍団グレムリン』の兵達に助言して“鼠狩り”をはじめる。

 後に残るはうっすらと血臭漂う無人の部屋。

 舞台は次なる段階へと移りゆく。

 ひとつは逃げる秋水と追うフォルム。

 今ひとつは逃げる鬼灯達と追い立てるジグアット達。

 かくして鬼灯達一行は、それぞれに袂を分かち逃避する道を選ぶことになるのであった――。


         *****


北街区『ソヨンの宿』二階廊下

 追跡班のジグアット――



 隣室の扉を無造作に開け放ち、誰もいないと知るや、ジグアットは近場の兵に声を掛けた。


「ここに一人見張りを置いてくれ。奴らに裏をかかれないよう注意した方がいい」

「待て。あんた何か勘違いしてないか?」


 不快さを隠さぬ声が兵から返され、男が一人前に出た。他の兵が自然と身を避けるのは、明らかな上下関係があるからだろう。身なりに差はなくとも班長あるいはリーダー格なのは間違いあるまい。


「あんたは?」

「エイグだ」


 自身について、それ以上話すつもりはないようだ。頭髪の一部が刃物傷でなくなっている男は、眼光鋭くジグアットを睨み付けてくる。


「副団長はあんたの同行を許可したが、出しゃばる・・・・・ことまで許してない。鼻を削ぎ落とされたくなければ黙っていてもらおうか」


 無遠慮に殺気を叩きつけてくるエイグに、ベルデとロウアンが腰の剣に手を掛ける。応じて今度はグレムリン側の連中までもが。むしろ斬り捨てて、すっきりしたがっている空気を漂わせる。それを「よせ」とジグアットが片手で制す。


「許可のことは忘れちゃいない。俺が軍の人間でない以上、指図するつもりはないし決定権もそちらにある」

「なら――」「ただ」


 言いかけたエイグの口をジグアットの荒げた語気が被せられる。不快げに、ぎりりと眉根を絞り寄せるエイグの怒気をジグアットは微風と受け流す。


「ただ、俺たちを“同盟者”と重んじてくれたのはそちらの副団長さんで、それが軍の方針・・・・だと思ったが――何か違っているか?」

「違わないが、それがどうしたっ」

「なら部外者だなんて突き放さず、意見くらい言わせてくれ。戦い慣れしてるあんたなら、人の意見を聞く重要性を誰よりも分かっているはずだ」


 そうジグアットが相手を少し持ち上げて見せればエイグはわずかに目を細める。内心では軍の方針を持ち出され、無下にもできぬと迷っているはずだ。

だが、そうした流れを好まぬ者はいる。


「こいつ、屁理屈を……」


 手近にいる者が忌々しげに唸り、剣をわずかに抜きかけたところで。



 ダンンッ

「ごぁっ」



 一息に飛び込んだジグアットが手加減抜きでそいつの足の甲を踏み抜いていた。驚く周囲に目もくれず、そいつにガシリと“喉輪”を極めぬいて、力任せに締め上げる。

 止める間もない一瞬の出来事。

 いや他を圧するジグアットのパフォーマンスに居並ぶ強者が明らかに後れを取ったのだ。それを自覚するからこそ、誰もが足を踏み出せず様子見に終始させられてしまう。


「……ぐっ……ぅ」

「あまり俺を舐めるなよ?」


 空気を断たれて顔面を充血させるそいつの耳元でジグアットは囁く。必死に喉輪をはずそうと暴れる相手に万力のごとき腕力は揺らぎも見せず、ジグアットはそいつの身体を軽々と突き出してやった。

 後ろへたたらを踏んで、蹲り咳き込む仲間を介抱する者は誰もおらず、彼らの目はジグアットにのみ釘付けになっている。


「ぅえっほ、げほっ……」


 苦しげに咳き込む音だけが廊下に響く中、ジグアットがじっくりと目線を滑らせ言い聞かせる。


「いいか、俺はエイグと話してる。三下が勝手に割り込むんじゃねえ」

「その辺でいいだろう」


 エイグだけは動じた素振りもなく、鋭い眼光のまま場の仕切り直しにかかる。


「弱者の戯言たわごとを聞くつもりはないが、あんたは違うようだ。聞くに値するなら、助言は受ける」

「ああ、ダメならダメと云ってくれ。あんたの判断に従うまでだ」


 尖りきった空気を消し去り、頷くジグアットが無人の部屋へちらと視線を向ければ、その意図を察したエイグが「エゥール、お前が残れ」と指名する。何とも扱いにくい連中だが、とりあえずは、兵達との合意が得られたと思っていいようだ。

 ここからが本当の共同戦線というわけだ。


「ここにも一人――」

「ワプル!」


 ジグアット達は小走りに廊下を進み、いさかいで浪費した時間を取り戻すように次々と部屋をチェックしては人を配置していった。

 だが、逃げた異人達の姿はどこにもない。

 最後の部屋も空だと分かったところで、エイグが嘲りの声を上げた。


「怖くて降りてこれないようだな」

「どうかな。奴らがそんなタマとも思えんが」


 ジグアットが嫌な予感を覚えたところで、木材を壊す音が響いてきた。屋根裏からなのは間違いない。壊されているのが天井なら見張りの誰かが気付くはず。


「どこからだ――?」


 エイグが声を荒げるも、各部屋の戸口に張り付く誰もが「ここじゃない」と首を横にふる。


「おい、ふざけてるのか?」

「そうじゃないっ」


 今も続く破砕音を耳にしながら、ジグアットが最後の部屋に踏み込む。粗末なテーブルに足を掛け、飛び上がったところで、鞘を手にして屋根板を強く突き上げた。

 意外にあっさり板が外れて、多少の隙間が出来上がる。これなら余計なアクションをしないで普通に突き上げた方がうまくいきそうだ。


「おい、待っていれば降りてくるだろう」


 エイグに窘められるがジグアットは否定する。


「おそらく待っても無駄だ」

「あ?」

「いいから手伝ってくれ。早くっ」


 焦るジグアットの声よりも、断続的に響く破砕音が小刻みになり、とにかく対処せねばと無性に煽られたせいであろう。

 エイグが顎をしゃくり仲間に加勢を促してくれる。

 実際、謎の破砕音が連中の仕業によるものであることは疑いようがない。問題は屋根裏の暗がりで何をしようとしているかだ。


「バリケードでも造っているのか?」

「上がれば分かる」


 数人で何枚もの屋根板を取り払い、奇襲攻撃の危険度をできるかぎり低減する。ここまでくれば、詰めを誤らずじっくり攻め落とせばいいだけだ。

 当然、命を無駄に散らすを誰もが避けたがる。

 先頭切るなど愚の骨頂。


「同時に上がるぞ」

「いいのか? 足掛かり・・・・をつくれば、後はあんたらに任せるつもりだが」


 一緒についてこようとするエイグにジグアットは念を押す。おそらくはここが自分達にとって最後の見せ場になる。手柄は譲るとも、剣を一振りもせずボスの前に戻るのだけは願い下げであり、だからこそ、自分達三人だけの見せ場がほしかった。

 だが前に出たエイグが後ろへ下がる様子はない。


「悪いがここは譲れない。そうでなければ認めさせることなどできないからな」


 誰に、でもないのだろう。

 常に戦果を求められ、成し遂げた者だけが階級上位に食い込んでゆく世界だ。下っ端で得られる給金は微々たるもので、稼いで退団するには隊長クラスにのし上がるしかない。

 『俗物軍団グレムリン』への入団は、貧困や牢獄という地獄から免れるための最後の救済措置――戦場のどこが救済なのかは分からぬが、そうジグアットも耳にした覚えがある。

 噂通り、彼らにとって死地は進んで挑むべき場所なのだ。当然ながら、死地を前にするエイグに過度の緊張感はない。ある意味、『荒事師』よりも『荒事師』らしい、とジグアットは内心苦笑する。


「じゃあ行くか」

「おう」


 部下二人に腕を組ませてそこに足を掛け、跳躍台として働かせる。うまく呼吸を合わせられれば、跳躍力を高められよう。

 先陣はジグアットとエイグの二人。

 さすがに連中に悟られぬよう、無言で頷き合い、屋根裏へ向かって蹴り上げた。


 一瞬で視界が暗転し。


 つむっていた片眼を逆転させて・・・・・、ジグアットは来るかもしれぬ斬撃に神経を研ぎ澄ます。


「――ん?」


 真っ先に目に付いたのは、屋根裏を斜めに切り裂く月明かり。暗闇に月の光は眩しすぎて、そこより先は物の形も見分けられぬ夜暗の世界。

 予期していた斬撃は訪れず、不気味なほどの静寂がジグアット達を出迎える。


「奥だと思うか――?」

「いや」


 エイグの問いにジグアットは素直に答える。

 この後に及んで、“明暗の差”を用いた策で抵抗するなどバカもいいところだ。

 破壊の跡も生々しい屋根に開けられた穴――そこから奴らが抜け出したのは十中八九間違いあるまい。しかも、穴の開けられた方向は覆面を配置したのと真逆の向きであることに、ジグアットは即座に気付く。

 勢いや焦りからの行動ではなく、非常に冷静な判断に基づく逃走だ。余計な諍いを起こしていたことに悔いが残る。


「全員を呼べっ。すぐにここへ上がってこい!」

「ロウアン。悪いがボスに伝えてくれ。“宿の外が次のステージだ”と」


 エイグが慌てて招集をかけ、ジグアットも仲間に伝令役を頼む。

 相手が武力頼みなら対処の法はあるとジグアットは見込んでいた。むしろそうしたところに勝機を見出していたのだが、それは勝手な妄想で事実は武力も知恵も有する相手であったらしい。

 特に後手を踏んでいる状況は非常に思わしくない。


「……慎重になりすぎたか」

「どうせ逃げられはしない」


 あらためて後悔を滲ませるジグアットにエイグが確信を持って慰める。

 確かに宿の包囲網は『俗物軍団グレムリン』の助勢もあって、人数を維持したまま解かれてはいない。

 だが“奴らを止められる戦力”という意味では心許ないのも事実だ。


「副団長が云ったろう――ここから先は俺たちが・・・・相手になると」

「!」


 その言葉にもしやとジグアットが目を向ければ、仏頂面であったエイグの口元がわずかに吊り上がっていた。


「包囲網は二重に・・・敷かれている。お前達と――俺たちのでな」

他にも・・・……何人で来てるんだ?」


 今度こそ、ジグアットの驚く顔が愉快であるように、エイグは明確に笑みを浮かべた。そして少し誇らしげに。


大半だ・・・。まあ、あまり騒ぎ立てると面倒だからな。それに他にもすべきことがあるから、別けてはいるが」

「……戦争でもはじめる気か?」

「あくまで“想定訓練”だ。だが団長殿が本気なのは確かだ」


 笑みを消すエイグの双眸に冷たい光が宿る。

 善悪の感情を一切挟まない、与えられた使命を実行するだけの兵士の顔だ。


 一体、何をするつもりだ――?


 眩暈のようなものを覚えてジグアットは軽く目を閉じる。そもそもの目的は遺産を奪い返すのが第一で、できれば連中を懲らしめ・・・・一家の面子を保てれば万々歳といったところだ。なのに、その目的から大きくズレていく気がしてならない。

 いずれにせよ、迎える結末はひとつしかないはずなのに、先を案じるジグアットの胸中は少しも安まることがなかった。


         *****


同時刻

とある暗がりの一室――



 細く白い付き人の指先が白い兵士ポーンの駒を木組みの四角い枠から外へと摘まみ出す。


「これで、外に脱したわけですが――」

「本当の苦難はこれからというわけだ」


 銀杯を軽く傾け回し、主人は言葉とは裏腹に満足げに目を細めた。

 四角い枠が何を表しているのか、幾つかの黒駒をその懐に残したまま、枠の外に“脱した”白駒はふたつきり。それを広い範囲で取り囲むように数種類の黒駒がずらりと並ぶ。

 この光景を『戦陣盤』のゲームルールで読み解けば、白と黒の陣営は敵対関係にあり、白の陣営が気の毒になるほど黒陣営の戦力が圧倒している、ということになる。

 これでゲームを成立させるとすれば、せめて勝利条件を“白が包囲網を突破すること”にするしかないだろう。ただそれは、あまりに意地悪な条件と言えたが。


「まるでスエルブ卿の“チェッカートン包囲網”を思わすな」

「そんな過去の名局をわざわざ引き合いに出さずとも、『俗物軍団かれら』が戦力の大半を投入した時点で、とうに勝負は着いています」

「それでは盛り上がりに欠けると思わんか?」


 主人のそのような戯れ言を付き人が本気にするはずもない。現実的には“こちらにとって、都合が悪い”という話しに置き換えられる。

 ただ、どう都合が悪いのかまでは付き人にも理解できなかったが。

 いずれにせよ、戦力差はあまりに大きく逆転の策があるとも思えない。ならば主人は何を望むのか。あるいは八方塞がりの局面に何かの秘策を見出しているのだろうか?

 明かりを灯さず、あえて窓を開け放ち、月明かりの下で駒遊び・・・に興じる主人の表情を読み取るのは容易くはない。

 まずは素直な感想を付き人は口にする。


「包囲網を縮められたら、それで終わりかと」

「ならばどうするべきだ?」


 やはりそうくるか。主人の声は穏やかだが、あまりに難しい問いかけだ。


「……縮まる前の一点突破」

「他に」

「もう一度宿に戻って立て籠もる……のは愚策ですね」

「そのとおり。他に」

「包囲網を乱す、とか……」


 苦し紛れの回答に主人の目が光ったと見えたのは気のせいか。そこに光明が? 付き人は顎に手をやり思考をその一点に集中させる。

 策を練る材料はあまりに少なく、自然、打つ手は限られる。手持ちの戦力はふたつの兵士ポーン。それでできることと云えば?


おとり……ですか」

「悪くない。盤面の上では不可能でも、現実的には可能性を見出せることもあるからな」


 所詮は遊戯、舞台と規約がきっちり定められているが故に、できるできないは明白だ。それに対して天気に人心……なんと現実世界の不安定なことか。


「不安定な要素が多いからこそ、そこに道が開ける可能性が埋もれていても不思議はない」

「確かに。少なくとも“打開策がない”と決めつけるのは早計ですね」

「なら、囮の策を練ってみろ」


 それにはふたつの白い兵士ポーンを連携させる必要があろう。それこそ現実の世界でだ。実際の現場ではすでに離ればなれになっており、うまく合流できない限り、残念ながら連絡を取り合うのは無理のようだ。

 それに相手を釣ったところで、囮となった白駒をどう脱出させればよいかも分からない。味方が少数すぎて挟み撃ちも何もないだろう。それとも“全滅しなければ勝ち”くらいの判断でいくか?


「……ダメですね。どうにもなりません」

「降参か?」


 揶揄ではあるまい。

 ただ、試すような声音で問われても、付き人には捻り出せる策がない。申し訳なさそうに首を振る。


「すみません。せめて包囲の外から突っつければとも思うのですが」

「さっき云ったな? 現実の世界とゲームの盤面は違う。駒を利用しているせいか、お前は『戦陣盤』のルールに囚われすぎだ。そんなものは忘れてしまえ」

「ですが味方の駒を増やせるならまだしも――」


 そこまで口にして、さすがに付き人も目を見開かせる。そうなのか・・・・・、と。

 『戦陣盤』のルールに相手の駒を取って自分の駒として用いたり、単純に自駒を増やしたりはできないことになっている。だが、現実には相手を翻意させたり、援護を呼ぶのは可能だ。

 付き人に目顔で問われた主人が目元を弛ませ、銀杯の中身をちろりと舐める。


「駒の視点でモノを考えてはダメだ。私たちは盤面を動かせる位置にいる。ならば駒にはできぬアプローチがあるだろう」


 いつものように、付き人の知らぬ一手を主人はすでに打っていたようだ。その一手が想像したとおりかどうかは、すぐに“監視者”から答えがもたらされるはずだ。

 今宵はそのためだけに、少なくない額を払って腕の立つ者を“監視者”として雇い、情報収集に努めている。

 その成果が、四人掛けのテーブル上に再現された“リアル『戦陣盤』”と呼ぶべき戦況図であった。


「ひとつ窺ってもよろしいですか?」


 今夜もまたひとつ学びを得ながら、付き人は深めていた懸念を思い切って口にした。

 それは本件に対する主人のスタンスだ。

 『俗物軍団グレムリン』の黒い噂は耳にするが、それでも公国ではそれなりの立場と力がある。ならば、彼らに肩入れして自分達の利益に繋げようとしないのはなぜなのかと。

 これまでの語らいを思い返せば、主人の白陣営への期待が透けて見えるだけに。


「素直に考えて、経済力の皆無な異人共を助けるメリットが分かりません。恩を売るなら『俗物軍団グレムリン』にすべきでは」

「直接の商売相手とみればそうだろう」


 そこにも広い視野を持つ必要があるのだと主人は応じる。


「“商売の金”とは何もその人物が所有する金・・・・・を差すばかりではない。もたらす金・・・・・もあるだろう」

「異人共がもたらす金、ですか」


 腑に落ちぬ付き人に「考えすぎるな」と主人は穏やかに告げる。


「国境の争いを調整するのと同じ話だ。異人達が公都を訪れてから、裏方がやけに騒がしい。無論、物流が萎縮したところもあるが、活発化したところもあるにはある。ほとんどの者が気づけぬ変化だが」


 そのささやかな変化を公都に来たばかりの主人は掴んだというのか。そしてその先に彼にしか見えぬ未来を見出したわけだ。


「今はささやかな波でも、それはいずれ大きな波になる。つまり彼らを長く泳がせれば――」

「公都の揺れは大きくなり、物の消費や値付けが刺激されるというわけですか」

ほどよく・・・・刺激するのが理想だがな」


 自分達が公都キルグスタンに根付くには、残念ながら時間が足りなすぎる。商売仲間を見つける必要があろうし意図的な調整ができるようになるまでには、まだまだクリアすべき案件が残されている。

 だからこそ今は、消極的なアプローチに抑えておく。それでも十分、利益は出せるから。


「不安か?」


 付き人の若々しい表情に浮かんだ翳りの原因を主人は見抜いているのだろう。


「……調べた限りでは、『俗物軍団グレムリン』の兵士一人の力が非常に高くまとまっているようです」

「送る支援も相応の力が必要だな」


 頷く付き人に「まあ、それが戦闘力である必要はないが」と驚くべき考えを主人は述べる。


「それに、ひとつに絞る理由もない」

「え? それはどういう――」


 さすがに困惑に眉根を寄せる付き人に、最後の言葉が留めを刺した。


「それとこれは私の考えだが――おそらく白の兵士ポーンひとつ足りないぞ・・・・・・・・

「――!」


 ああ、この方の視野はどこまで広く、そして見落とさぬ鋭さを有しているのか。

 付き人の瞳に宿るのは畏怖の光。

 主人――フィヴィアンの怜悧な頭脳に、付き人はあらためて底知れぬ畏怖を覚えたようであった。

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