第79話 忍び寄る魔手(四)

北街区『ソヨンの宿』二階

 とある無人の部屋――



 人の気配が途絶え、二階の喧噪も薄れて夜に相応しい静寂を取り戻した頃。

 扉の陰に積まれていた死体の山がもぞりと動く。

 ひどく緩慢な動きで骸の下より這い出た者は、しばらく何かを窺うようにその場に佇んだ後、苦しげに胸を押さえるようにしながら廊下に出た。

 当然ながら人気は無い。

 階下から届く物音ひとつなく、眠りに落ちたように宿は静まり返っている。

 そこで階段へ向かうと思われた者は、だが、迷いなく元いた部屋へと歩み始める。

 そう、奇襲を受けることになった自分達の部屋・・・・・・へと。


「待ちくたびれたぜ」

「……まだいたのか」


 開け放たれた窓から差し込む月明かりが朧と照らす部屋奥に大きな影が蹲っていた。

 場所が場所なら大きな岩と勘違いしたかもしれないが、肩に掛けた凶悪な重戦斧バトル・アックスの存在がそれを許さない。

 その刃がまだ新しい血糊で濡れていればなおさらだ。


「――っ」


 戸口で驚いたとも呆れたともとれる表情で立ち尽くしていた者が、反射的に、胸を押さえた手指に力を込めてしまう。

 胸の痛みが因縁の相手と訴えるために。

 それを後押しするかのように巨漢が自ら告白する。ただし慎ましさの欠片もない、むしろ自信に溢れた声で。


俺がやった傷だ・・・・・・・、逃げれねえのは分かってる。それでも万一逃げ切れるとしたら、一か八かこの場に戻って静かにやり過ごすしか・・・・・・・方法はねえ」


 だから待っていたのだと。

 来るかどうかも分からぬ敵を、“退屈”を何よりも嫌う男が巌のごとく座して待ち続けるとは。彼を知る人物ならば、信じられぬと顎を落としていたかもしれない驚愕の言動だ。

 それを当人も自覚があるのだろう。


取りこぼし・・・・・は俺の責任だ。きっちり最後まで仕事しねえとよ……そうでねえと、髭の親父がうるさくてかなわん・・・・

「だけど、そのために後悔することになる・・・・・・・・・

「ハッ……いいねえ」


 夜目にも白ちゃけた顔色で云える台詞ではない。

 おぼつかない足取りであったことも巨漢はしっかり目にしている。それが失血か痛みかあるいは疲労のいずれが原因にしても、力も入らぬ状態で、なおも目の光を失わぬ相手に、巨漢が心からの笑みを浮かべた。

 そこに相手への敬意はない。

 ただ純粋な喜びが勝手に頬を動かしただけだ。


「俺の一撃を受けて死ななかったんだ。あんたも相当やる・・んだろ……?」

「さあね」

「さあ?」

「まさか自慢するわけにもいかんでしょ」


 その者――扇間の口元に浮かぶ不敵な笑みを見て、巨漢――ゼイレは重戦斧バトル・アックスを支えに嬉々として立ち上がった。

 それだけで部屋の空気が動かされた気がし、扇間の視線が下から上へと上向きになる。

 その高い上背よりも、室内を窮屈に感じさせるほどの圧迫感を放つ筋肉の量こそが脅威となろう。

 並の戦士なら、思わず一歩後退るその迫力。

 それでも扇間は臆することなく室内へと足を踏み入れる。

 抜刀隊員として、いや一人の武人としての矜持が強敵を相手に「前へ出ろ」と促すためだ。

 どのみち外へは出れず退路などない。

 それが文字通りの“壁”であったとしても、己の前に立ちはだかる以上、挑む以外に歩むべき道などあるはずもなかった。


「気にするな」


 扇間の視線が窓外へちらと向けられるのに気付いて、ゼイレが応じる。扇間が『弾き』の狙撃手の存在を知っているはずもなく、ただ遠距離の遣い手として自然と射撃支援の有無を気に掛けただけであるとまでは巨漢も分かるまい。それでも戦う者ならではの機微なのか、的確に扇間の欲する答えを口にする。


「戦う場はとっくに外へ移ってる。邪魔するやつは誰もいねえ」

「それじゃこっちが有利だね」

「おいおい」


 さすがにゼイレが呆れ混じりの声を上げ、その笑みを強張らせた。この俺に射撃支援だろうが何だろうが必要なわけあるまいと。

 トントンと重戦斧バトル・アックスを肩口で踊らせながらこめかみに青筋を浮かべた。


「強がりもすぎると憎たらしくなっちまう――」


 「ぜ」の語尾は、豪風纏う斧の薙ぎ払いと共に側面から叩きつけられた。

 それを己の状態も省みず、躊躇いなく前へ踏み込み、接近戦に挑む扇間の剛胆さよ。

 長物の弱味をつくは常道であり、しかし一撃死もあり得るゼイレを相手に踏み込む勇気の量はどれほどであったか。

 逆にいえば、成し得た扇間の一手がゼイレを一転して窮地に追い詰める。

 だがそれは百度体験済だと、ゼイレは意にも介さず、惚れ惚れするほど思い切りよく重戦斧バトル・アックスを振り抜いた。



「むんっ」 ――――ドッ



 迫り来る扇間の胴を手元付近の斧の柄で辛うじて捕らえ、力任せに軽々と吹き飛ばす。

 圧倒的膂力に抗えぬ扇間の足が地を離れ身体が宙に浮きく。衝撃で手放した手裏剣が床を叩いた。


「ぐぅっ……」


 強引に押し退けられた勢いで、よろめく扇間へ持ち手を短めに詰めたゼイレが即座に二撃目をぶち込んできた。



 ブオッ



 遠心力が落ちるを長躯族の剛力で補わせ――受ければ壊す威力の斧撃を、扇間は浅く胸を切らせて上半身だけでも必死に逃がす。

 その生死の境にありながら、手裏剣をゼイレの顔面へ放つ恐ろしさ。

 だが痛みで手元が狂ったか、ゼイレが首を捻って側頭部を切り裂くのみが成果に終わる。

 だからこそ、「逃したな」と窮地を切り抜けたゼイレの双眸が凄絶な光を放つ。それがお前の敗因だと。


「ガアッ」


 ぎちりと斧の柄を持つ手を全力で絞り込み、ゼイレが振るった重戦斧バトル・アックスを強引に制止させ、下がる扇間を追いすがるようにして渾身の突きへと攻撃を切り替えた。

 単純だが、扇間の三倍はあろう全体重を乗せた超重量級の一撃。

 表情を強張らせる扇間が右へ避け、斧に叩き壊された壁板の苦鳴が室内に轟いた。だがそれで追撃が終わるはずもない。


「逃すか――っ」


 ぶくりと右腕の筋肉を膨れさせ、重戦斧バトル・アックスを持つ手に力が漲り、ゼイレが片手殴りにあり得ぬ速さで刃を走らせた。それをほとんど直感だけで扇間が倒れ込むように転がり躱して距離を取る。

 逃さずと踏み込むゼイレ。

 その一歩に合わせて。


「しつこいっ」


 荒々しく叫んだ扇間が、後ろ手に腕を大きく振るって手裏剣を叩き込む。

 絶妙な間で放たれた手裏剣をゼイレに躱せる力は無く、無防備に胸部へ被弾した。


「また、機を逃したな?」


 ゼイレの体躯に合わせた皮鎧は、大きくするだけでなく肉厚にも造られている。いかな達人の投げる手裏剣だとて、容易に貫けるものではない。

 狙うべきは鎧に覆われていない剥き出しの部位であったのだ。そこまでの余裕が扇間にあればの話しであったが。


「……調子が悪いときもあるんだよ」

「そうか? ……まあ何でもいいが、あまり時間はなさそうだな」

「?」


 ゼイレの視線を追う扇間も床に滴った黒い点に気がついた。血だ。今の激しい動きでトッドに止血してもらった傷口が再び開いたようだ。

 疲労のせいか、気付けば視界も霞がかかったようにぼやけて扇間が瞬きを繰り返す。いつの間にか額や首筋に浮かぶ脂汗がその不調を敵に対し露わにしてしまう。


「おい、もう少しもたせろよ・・・・・

「悪いね。元から、長く続けるつもりはない」


 両腕を力なく下げ、どことなく目を落ち窪ませた扇間の口元には、それでも不敵な笑みが浮かんだままであった。


         *****


北街区『ソヨンの宿』窓外

 飛び降りた秋水――



 二階の窓から身を躍らせた秋水は、宙で捻って軽々と足先から地面に舞い降りた。脇腹に走った鈍痛を毛ほどもその表情に浮かべることもなく。

 突然音もなく降ってきた人影に、近くで警戒にあたっていたクレイトン一家の者が何事かと驚き戸惑うのも無理はない。

 その隙をついて秋水は小剣片手の男に近づき、ひと蹴りで容赦なく膝を砕いてすり抜けた。


「ぉごおあ……っ」


 激痛に倒れ込み、身も世もない男の絶叫が建物の隙間に響き渡り、何だどうしたと、あちこちからざわめきが沸き上がる。

 単純に一人潰すのでなく、生かして喚かせたのは注意を引き付けるためだ。

 深手を負った仲間の生還を少しでも支援するために。

 先ほど、フォルムに追い立てられ二階へと後戻りさせられた折、会話らしき会話をすることもなく、だが互いに頷き合って二手に分かれていた。

 暗黙の策は実に単純だ。

 鬼灯と自分の二手に分かれ、その両方を囮と為す――敵を散らした後、隠れ潜むか移動するかは本人の判断に委ねるものとして。

 臨機応変は成功の秘訣であろう。

 何とか大物を外へ引っ張り出し、外でも可能な限り引っかき回す。自分ならそれができると自負して買って出た役でもあった。


(儂ができるのはここまでだ――)


 仲間の無事を信じて、今度こそ、秋水は己の逃走に集中する。


「おい、何だ?!」

「止まりやがれっ」


 無残な嬌声を聞きつけ前方から走ってくる新手の制止を無視して、秋水は無言で一気に間を詰める。連中の得物持ち、走る姿のばたつき加減に、相手にならぬと見てとったためだ。


「ああ?」

「このや――」


 さすがに異常を察した男達が得物を構える前に、走り込んだ秋水が両腕を一閃させ、咽に手刀を叩き込んでいた。


「……っ」

「がっ」


 今度は声も出させずに。

 悶絶させた男達が倒れ込む前にその間をすり抜けようとしたその時、侵入方向から刃が突き出されて秋水は軽く驚きつつも、難なく躱してのけた。

 背後にもう一人いたのを見過ごすとは。

 とはいえ、相手が二撃目を放つ前にあっさり手刀で突き殺したため、さしたる支障があるわけでもない。


「おらぁ!」


 すぐまた別の手合いが行く手を塞ぐも秋水は冷静に対処する。

 振り回す手斧を躱しざま、その肩口を押しやり勢い過剰ですっ転ばせて、次の男の鼻面に放った拳が空を切る。


「む?」


 躱された?

 すぐさま金的にぶち込み悶絶させたが沸き上がった違和感は拭えない。

 武力に個人差があるのは当然だが、素人に玄人が混じるような感覚は何なのか。いや、今はそんなことに囚われている時ではない。


「あそこだっ」

「向こうに行ったぞ!」


 おかしな手間取りがあったせいか、路地裏を抜け角を曲がる直前で、ギリギリ奴らに背を見られてしまう。いや、その方が引き付け役としては好都合と思うべきか。

 なら駄目押しとばかり秋水は声を張り上げた。


「見つかったっ。早く行け!」


 手振りまで使って声に焦りを滲ませる。こっちに全員いると思ってくれればありがたい。そうでなくとも惑わせればいいだけだ。

 これでどこまで連中を釣れるか分からぬが、やっておいて損はあるまいと。

 角を曲がり際、効果の程を横目で見やり――宿の壁から霧のようなものが滑り出てくるのを目にして背筋をぞわりと粟立ちさせる。


 ――ヤツだ。


 難敵をうまく引き付けられた満足と、追われる怖気も同時に感じて秋水は胸中を複雑にさせる。

 自然、足が早まるのは致し方あるまい。

 ただ、鍛え抜いた脚力には秋水も自信がある。

 必要ならばこのまま公都の外まで全力で駆け抜けてみせよう。

 だが、幾つか角を曲がったところで、ふいにその足が止められた。


「――参ったな。まさか二重に包囲網を敷くとは」


 大通りに抜ける最後の路地。

 その反対側に一目で不穏と思える人影が幾人分もあった。下っ端が何人いようと秋水の逃走を阻めるはずもないのだが、彼の足を止めさせるだけの気配が伝わってきたのは確かだ。

 いや今し方、同じ気配を持つ者を見かけたばかりだ。あの妙な強さを持つ下っ端と。

 無論、慎重にすぎる考えなのかもしれないが。

 少なくとも、走り込んできた秋水に相手は気付いているはずであり、だのにクレイトン一家の連中と違って戸惑いは微塵も感じられず、秋水が近づくのを素直に待っているように見えた。

 腰の剣柄に手を掛け、あるいは槍を持つ手つきをさりげなく変えているのだが、それだけだ。佇まいに余裕が感じられる。

 動かぬは、持ち場を守る責務故か、はたまたその場で迎え討つことに意味があるためか・・・・・・・・

 そうした懸念が秋水に不用意な接近を躊躇わせるのは確かだ。ただだからといって、ここでまごまごしているわけにもいかない。宿方面からの追っ手の中には、あのフォルムがいるのだから。


「!」


 右手に人影の一団が現れた。前方にいる連中と同じ気配を持つ者達だ。

 即座に秋水は左へ足を向ける。あのまま前方へ突撃し、万一もたつくようなことがあれば背後からの挟撃もあり得ると考えて。

 時に歴戦の武将でさえ、些細な躓きで簡単に死によるもの――万雷が語って聞かせてくれた話しが秋水の脳裏を過ぎる。

 ばたばたとした足音が後方からも迫ってきた。そこにはあいつの不気味な影もあろう。やはり争いで足止めされてる場合ではないのだ。

 今や連中の目や鼻は、正確に自分を捉えて追いすがってくる。謎の人影達もこちらの素性に気付いているとみていいだろう。ならばと秋水が地を蹴り、それに合わせて人影の一団も走り出した。

 再度、大通りに抜ける路地前で足を止め、秋水は表情を険しくさせる。予想したとおり、そこも別の一団が張っていた。しかも、連絡を取り合ったのか、足早にこちらへ向かってくる最中だ。


(まずい。人数が多くなってくる――)


 敵はどうやらクレイトン一家だけではないと、秋水はここにきてようやく確信を持った。副将だというフォルムが参戦した以上、真っ先に浮かぶ協力者は『俗物軍団グレムリン』とみて間違いあるまい。

 槍に剣、手に持つ得物はばらばらでも、一家と違って整然とした動きが見て取れる。まるで訓練された軍兵のように。

 いや、やはり本職だというわけだ。

 そして軍兵ならば数を増すごとに統制された力が威力を増すものであり、今の流れは秋水にとっても非常によくない展開だと悟る。


(早めに蹴散らすか)


 そう決断しようとしたところで、前方に新たな一団が現れるのを目にする。


「ちっ」


 間が悪い。進路を断たれた状況が心理面から秋水の視野を狭くさせる。

 よしんば戦うにしても三方からの敵を相手取る面倒さに、秋水が他の逃げ道を探し求めたのが、しかし結果的に状況を悪化させることとなった。

 秋水の逡巡を好機とばかり、敵は足を速めて一気に間を詰めてきた。よほど鍛えられているのだろう。一家の追い足とは比べものにならぬほど足並みが速く力強い。

 集団の殺意が圧迫感を伴い、壁となって秋水に押し寄せてくる。


「ぬかったな」


 彼らはすでに戦闘準備に入っている。付け入る隙は見られず、真っ向からの対戦状況に持ち込んだ彼らの手並みを褒めるべきだろう。

 ただ、彼らの能力に感じ入るほどに、この後に及んで秋水が思うのは仲間への不安だ。場合によってはこの者達を相手にせねばならぬのだ。

 万全な体調ならばいざ知らず、逃走に支障が出るほどの負傷の身でさばききれる相手ではない。つまりはできるだけ、こちらへ引き付けておく必要があろうと。

 それは実に難儀な任務だが腹は決まっている。


「よし」


 すでに連中との交戦は避けられないが、手近に入れそうな狭い路地を秋水は何とか見つけ出す。足下を木箱で塞いでいるだけで、通るに支障はなさそうだ。

 どのみちそこしか逃げ道はない。


「のけぃ!!」


 秋水が強引に前の一団に向かって踏み込んでゆき、切りつけられる二刃の腹に手指を添え、その軌道を軽く反らして奥にいる人影に蹴りを放った。

 それも膝下だけで放つ瞬撃に、目で追いきれぬ人影は顎を的確に打ち抜かれ、白目を剥いて倒れ込んだ。

 先ほどよりもキレのある攻め手は、単なるヤクザ者相手とは異なると、気合いを入れ直した秋水の心境を如実に表す。


「けやっ」

「――っ」


 一度は秋水に躱された二人が全力で剣を振るい、それより早く秋水が立ち位置を変え、一人の咽を突き、別の四人目に向かってクナイを放っていた。

 眼窩を通して脳を貫かれ、背後の男が無言のまま頽れる。

 交戦時間を指折り数える暇もなく。

 瞬く間に三人が戦闘不能に陥り、驚愕に動きを止める他の者を置き去りにして、秋水は目的の路地へと身を滑り込ませた。

 残されたのは物言わぬ偶像だ。

 何気ない秋水の動作に想像を絶する手並みを感じたであろう生き残った人影が、己の剣身を瞬きもせずに凝視していると。


「腑抜けが、しっかりしやがれ!」

「とっとと来いっ。ヤツを追う」

「用心しろ、かなりの遣い手だぞっ」


 すぐさま別の一団が駆けつけ、立ち尽くす者を叱咤する声が聞こえてくる。彼らも秋水の戦い振りを目にしたはずだが戦意の衰えなどまるでなく、むしろ一層燃え上がらせて足音にも力が入る。

 諦めていた自分達の出番が回ってきた幸運と思わぬ敵の力量に奮起しているかのようでさえあった。


「ヤツは俺に任せろっ」

「手柄を考えるな。追い詰めるだけでいい」

(なるほどね――)


 このような時でさえ、秋水の耳は周囲の情報を逃さず捉え続ける。

 特に統制の取れた集団ならば、大声で指示が飛ぶだけに情報を拾い集めれば、彼らの動きも見えてくる。 

 敵の術策を知ることが、対処を誤らず最適な道を歩む最も確実な方法だ。


(しかし、やる気がない・・・・・・とは厄介な)


 誘導先があるのか、あるいは誰かに任せる策なのか。

 人数をかけれる相手なら、このまま走れば意図的に追い込まれ、不利な地へと誘導されかねない。


(ならばその筋書きから外れるのが儂らの術よ)


 秋水の決断は早かった。

 路地裏は両側を石造りの古い建物に挟まれ、成人男性が両手を広げた程度の幅しかない。その石壁に向かって秋水は速度を弛めることなく足を掛け、跳躍した。

 右に左にその身を小刻みに踊らせて、数手で屋上へ手を掛け、身軽に引き上げる。


「どこだ?」

「上だっ。何かが上に向かうのを見たぞ」

「何だと?!」


 それらを路傍の喧噪と置き去りにして、秋水は屋上で冷たい夜風に身を晒す。

 欠けはじめた二つの月が異境出自の長身痩躯を蒼白く輝き照らした。

 夜空は澄んで下天の騒ぎなど素知らぬ顔だ。

 ほんの一瞬、秋水がその双月を瞳に映したところで。

 その頬を何かが切り裂いた。


「……用意周到すぎるだろう」


 心持ち辟易した感じを声音に乗せるのは、飛んできた凶器の方向に人影の列をみとめたためだ。

 整然と並び構えられるのは小型の石弓。

 しかしてただ一矢、放った者は膝着き石弓を構える者達と異なり、半身に立って長弓を構える者。その腕前は風が無ければ頭蓋を射抜かれていたことで分かろうというもの。

 おそらく班長なのだろう。

 長弓の者が片腕を振ると、一斉に石弓が放たれた。


「おっと」


 秋水がすぐに身を屈め、石弓の凶弾を回避する。

 油断なく視線を周囲へ向ければ、その場から見えるだけでも、あちこちの建物の屋上に似た群影を確認することができた。


(いくら何でも物々しすぎる。大事になっても構わんというのか? それとも役人を抑え込むだけの力があるということか……)


 区画ごと取り囲める兵力と少数とはいえ射撃班を幾つも配置する念の入れよう。たかが自分達数名を狩るためだけに、これほどの動員を掛ける指揮官の神経を疑ってしまう。


(一家は奴らの傀儡なはず。飼い犬のためだけに、これほどの軍事行動を起こすとは思えんが)


 いくら考えても出ぬ答えに秋水は首を振る。


「まずは切り抜ける。仮にも公国の軍に狙われた以上、一度、若の下に合流するしかない」


 悔しさを滲ませて、秋水はあらためて方針を定めた。連中を相手に派手に立ち回りすぎると、必要以上の警戒心を与え、エルネ姫達の登城に支障を及ぼす怖れがある。

 “やけにすばしこい”程度の印象で終わらせる必要があるのだと自分の胸に言い聞かせる。今さらな感も否めないが、それでも彼なりに任務を全うしようと懸命なのだ。

 荒い呼吸と衣擦れ、かすかな軋みなどが下から這い上がってくるのに秋水は気付く。追っ手だ。奴らの身体能力があれば、秋水には及ばずとも、似たマネはできるということだ。

 取り囲まれる前に移動せなばなるまい。


「落ち着いてもいられんな」


 別の路地へ降りるべく、秋水は物陰から飛び出した。すぐに空気を切り裂く音が聞こえ、矢が足下で弾かれ、あるいは眼前を通り過ぎてゆく。

 もっと数が多ければ、一発もらっていても不思議ではない速さだ。

 それでも足を止めることもなく、目的の隙間へ向けて秋水は頭から飛び込んだ。



「「「――――!!」」」



 声なき射撃部隊の驚愕を尻目に裂け目のような暗がりに秋水の身が呑み込まれていった。


         *****


北街区『ソヨンの宿』隣家

 屋根上の鬼灯とトッド――



 屋根裏より抜け出した鬼灯達は、屋根伝いにできるだけ遠くへ離れようとしていた。

 あまり早く地上へ降りると宿を取り囲んでいた連中にすぐさま襲われる可能性がある。多勢に無勢ということもあるし、逆に、派手に乱闘をやらかすと後々の動きに悪影響を出すのは必至であり、できれば避けたい思惑があった。

 だがそううまくいくものではない。


「トッド殿、見つかったようです」

「あ? もう少し――」

「ダメです。さっさと降りないと」


 未練がましいトッドをぴしゃりと抑え付け、鬼灯は即座に降り場所を捜し始める。連中がこちらの情報をどれだけ掴んでいるか分からないが、扇間の不在を知り、それを宿に残しているためだと万一でも悟られてはならないからだ。

 姿がないのは下に降り立ったため――そう勘違いさせ、少しでも長く相手の注意をこちらに向けさせておく必要があった。


「ここからなら、降りられそうです」

「あーくそ、分かったよ」


 張り出し窓の枠に足かけ、鬼灯が器用に降りてゆくのをトッドも本職なだけあって、素早く後を追いかける。

 降りる際に後ろを振り返れば、屋根伝いに向かってくる人影の群れが目に映る。


「……あいつら、『クレイトン一家』の人間じゃねえぞ」


 路地裏に降り立ったトッドが告げれば、鬼灯は怪訝な顔で話しの先を待つ。


「うまく言えねえが動きが違う。雰囲気もな。もしかすると、『俗物軍団グレムリン』の兵共かもしれねえな」

「黒幕がそうだと云ってましたか」


 得心する鬼灯に「えれえのに・・・・・追われちまってんな」とトッドがぼやく。


「やはり日頃の行いがよい・・からでしょう」

「は? 悪い・・の間違いだろ」

「いいえ。強敵に追い詰められる緊張感、選択を誤たれば友の死――これほど切迫した状況は何にも替え難い貴重な試練・・・・・です」


 冗談にしてはタチが悪いが、本人は至って真面目なようだ。

 やけに神妙な面持ちで、瞳だけを悦に染める鬼灯を目にして「こいつヤダ……」とトッドが思わず天を仰ぐ。

 そういえばこんな男であったかと思い起こすも、なんで今さら発症するのか・・・・・・と胃を痛める心持ちであったろう。しかし、即席コンビを組んでしまった以上、嘆いて何が変わるわけでもない。


「とにかく、相手するわけにはいかねーぞ? 俺たちには少しでも奴らを引きずり回す役目がある」

「勿論です。引き離さず追いつかれぬよう、うまく逃げるとしましょう」

「おう、まあ俺に任せてくれ」


 どこかほっとしたような表情でトッドは率先して鬼灯の前に出る。これで「ちょっと立ち回ってみますか」などと剣を抜かれては、たまったものではないという焦りを感じさせながら。

 途中、わざと転がっていた桶を蹴り飛ばし派手な音を立てながら先を急ぐ。適度な手掛かりを残すのも“囮の心得”というやつだ。

 そうしてしばし逃走劇を順調に続けたところで。


「――こらダメだ」

「こんなところまで追っ手が?」


 ある大きな通りへ抜ける路地の手前で、トッドが念のため様子を探れば関所・・が設けられていたようだ。もちろん、本物の関所ではなく人垣で路地を塞ぐ程度ではあったのだが。


あれ・・も『俗物軍団グレムリン』だろうな。この分だと、他の経路もすべて塞がれてると思った方がいい」

「突破しますか?」


 さらりととんでもない提案をする鬼灯に、「博打になるぜ」とトッドは返す。

 何かを確信しているその言い草に鬼灯が眉をひそませれば、「隊長クラスがいるかもしれねえ」と理由を説く。


「権威じゃねえ、実力がすべての軍隊だ。実戦慣れした連中の隊長クラスともなりゃ、場合によっては『探索者』の熟練者をも凌ぐ一流の戦士よ。しかもそれの格上みたいな『一級戦士』までご登場されたら――」


 対人戦なら自分らに匹敵する力を持つとトッドは語る。一人でもそんなレベルの存在がいる集団と戦闘になれば、“多勢に無勢”が成立してしまうと危惧するわけだ。


「なるほど。ぜひ手合わせ願いたいところではありますが、そんな場合ではありませんか」

「つくづくヤダな、このひと」


 嘆息するトッドが気持ちを切り替えるように、張り付いていた壁から勢いよく背中を剥がし、顎をしゃくる。


「?」

「ここは諦めよう。万一『一級戦士』とかち合って、しかも後続の連中に挟まれでもしたら終いだ。別の道を行くしかねえ」

「別の道?」

「ああ。こうなったら仕方ねえ、俺たちも使わせてもらおうって話しだ」


 ついてこい、と前に立つまでは頼もしさを感じるトッドであったが、しばらくは迷走することになる。どうも“知っている道”を進むというよりは、何かを捜している節がある。それで同じエリアを彷徨うろついたせいだろう。


「いたぞっ、あそこだ!!」

「やべぇ……」


 さすがに引き付け役をやめていたのだが、必然臭い偶然で、連中の目に留まってしまう。しかも先ほどとは別の一団だ。


「複数の追跡班に包囲部隊……あいつら相当人数をかけてるな」

「それよりどこへ行くのです? 何かを見つけたいのでしょう? 教えてくれれば私も捜しますが」

「いや、いい」


 悠長に構えてもいられない状況に、さすがに鬼灯が申し出れば、トッドはすっぱりと固辞する。そう思ったが、本当に無用なだけであったらしい。

 何を見つけたのか、突然駆けだし角を曲がった先で、石畳に設置された四角い石蓋を見つけてひざまずく。それを見た鬼灯が合点がいったとの表情と共に口元の笑みを消し、真剣に何かを考え込みはじめた。


「これだ、急いで開けるんだ」

「しかし、これ・・を私たちが利用したら……」


 鬼灯の懸念を承知とトッドは撥ね付ける。


「見つからなきゃいいだけだ。いざとなれば俺たちも使うと決めてただろうがっ」

「……」

「それに、俺はこんなところで死にたくねえ。お前だってそうだろ?!」


 連中の足音は迫っている。押し問答をしてこんな場面を見られたら、それこそ秘匿すべき扇間の脱出・・・・・を奪うことになる。

 そう。彼らが奥の手として扇間にのみ与えようとした脱出法が、『清浄水路』を中心に公都の地下に張り巡らされた下水道の利用であった。

 はじめからそうすれば、という考えはない。

 仮に全員一緒に姿を眩ませば、すぐにでも地下への経路に敵の目は向けられよう。だから、鬼灯達が地上で目立ち続けることで、敵の意識を地下から反らす必要があったのだ。それに宿の一階に陣取っていると思しき連中を誘い出す必要もあった。

 そうして囮の役目を為したところで、不安要素がなくなるわけではない。

 扇間がいつ下水道に入り込めるのか?

 入っても逃げ切る時間は稼げるのか? 

 考えれば課題は多かったが、迷っている時間はなく、その手法に賭けるしか鬼灯達にはなかったのだ。

 だが自身も追い詰められてしまえば、そうも云っていられないのは確かである。


「なあ……とっとと連中の裏をかいて、俺たちの姿を見せてやれば、包囲網の意味自体なくなっちまうと思わねえか?」


 そうなれば包囲網も解けるだろうと。

 何となくご都合主義な話しに聞こえるが、それでも悪くはない意見でもある。仮に追いかけられても、包囲網が崩れることに変わりない。


「分かりました。行きましょう」

「そうこなくっちゃ!」


 二人は協力して石蓋を持ち上げ、落とし穴にしか見えない暗がりに足を伸ばす。どうやら梯子があるらしい。

 最後にきちんと蓋を閉め、二人の姿は見事に地上から消し去られるのであった。


         *****


『北街区』北端

 ひげ面の親父――



「おい、ほんとにここか?」


 案内された先の建物を見て、ひげ面親父はあからさまに渋面をつくった。

 そびえるほどの街壁に設けられているのは『北街区』を管轄とする公都警備隊の詰め所である。裏街の住人からすれば、“小便でも引っかけよう”と思わぬ限り近づくことのない嫌悪し唾棄すべき対象だ。

 ひげ面親父が“何かの罠”か、あるいはタチの悪い冗談に付き合わされていると思うのも当然だろう。

 それに、自分らと似たもの同士・・・・・・とも言える外道外軍な連中が、どうして真っ当な・・・・警備隊の拠点に巣食っているのかも不思議でならない。

 同じ国同士の組織でも水と油が混ざるはずがないからだ。

 だが、ここまで一言も発することなく歩き続けた案内人は、やはり説明に立ち止まり振り向くこともなく、さっさと詰め所へ近づいてゆく。


 先ほど、まんまと異人共の逃走を許してしまい、ジグアットからの伝言を受け取ったところで、まるでタイミングを計ったように案内人が現れてから、ずっとこの調子である。

 『俗物軍団グレムリン』からの使者だというその者を信じた理由は、追い出そうとした手下をあっさり殺した手並みと異常なその行動にあった。

 短絡的といってもいい。『裏街』の住人でさえ、何らかの規律を有するのと異なり、街中で殺しを厭わぬ神経に怖気を感じたのだ。

 従わねば殺される――別の視点で見れば、単に脅しに屈して連れてこられたというだけだが。


 扉の両脇に守り役らしき男達が配されていたが、案内人と頷き合っただけで、壁に背を預けあるいは屈み込んで思い思いにくつろいだまま、こちらを一瞥することなく素通りさせてしまう。


「……大丈夫か、あんなんで」

「いや、あれで隙はなかったぜ」


 成り行きで一緒についてきたロウアンが小声で応じる。そこにいくばくかの緊張感を忍ばせて。ひげ面親父には分からなくとも、荒事師にそう言わせるだけの何かはあったらしい。

 粗雑な態度に相反する確かな実力。

 噂通り、まともな軍隊ではないということか。


「入れ。ここでお待ちだ――」


 あるいは、すでに報せが入っていたのだろうか。

 案内役はそれだけを伝えると、手ずから扉を開いてくれ、目顔でひげ面親父を室内へ促した。

 扉が開くと同時に、濃密な強者の気配が溢れ出てくる。

 いきなりこれか。

 毛穴が引き締まり、金玉が竦み上がる威圧感。

 自分達がこれから対面するのは“堕ちた英雄軍”と畏怖される『俗物軍団グレムリン』の、おそらくはあるじなのであろうことをあらためて思い知らされる。

 本来ならば、目線すら合わせられぬ雲上の人物だ。

 極度の緊張感の中、しかし部屋奥からかけられた声音は、拍子抜けするほど迫力の欠片もない、無機質で淡々としたものであった。 


「ご足労をかけた――」


 それも労いの言葉・・・・・が第一声とは。

 ただの一言が、あまりに想定外すぎてひげ面親父は言葉を詰まらせてしまう。 


「あ、俺は――」

「『クレイトン一家』のゴーラン殿。堅苦しい挨拶はなしにしよう」


 承知していると素性を先に告げられ、すっかり途方に暮れたひげ面親父は、気付けば部屋の中へと入り込んでいた。実はさりげない手招きに応じたことを覚えてもいない。

 息苦しさが増したのは、石組みの壁に囲まれた部屋のつくりにも一因はあったろう。

 そもそもが客人を招くような施設ではない。

 貴族出自の士官が耐えられるよう最低限の空間と調度品をあつらえただけの部屋であることが窺える。

 どういうわけか、灯火を少なめに・・・・・・・している・・・・薄暗い室内には会議用の無骨なテーブルが中央を占め、そこにひげ面親父を招いたらしき人物が座していた。

 恐らくは『俗物軍団グレムリン』の団長が。

 だが、部屋に満ちる“強者の気配”はその者が根源ではないとすぐに気付く。実は手槍に鉄の胸当てブレスト・プレートで武装した、壁際に控える従卒達から発せられたものであると。


「……!」


 ひげ面親父の背後でかすかに咽を鳴らす音が聞こえた。場馴れしたはずの荒事師もひりつくような圧迫感に緊張しているらしい。

 従卒の一人一人が、一家の幹部を凌駕するほどの強者の気配を放つとなれば、逆説的に、その彼らがかしずく者こそ、組織の頂上に君臨する者である証となる。


(ほんとにどういうつもりで、俺なんかを呼びやがった……?)


 夜襲の失敗を糾弾されるかとひげ面親父は怖れていたが、どうもそういう雰囲気ではなさそうだ。

 連中からすれば『裏街』の住人を呼び寄せるなど、悪い噂のエサになるだけで百害あって一利もないと思うのだが。

 緊張感と渦巻く疑念。

 すでに一時間以上も過ぎたような疲労感に襲われつつ、二人が声もなく立ち尽くしていると、その場の緊張感に不似合いな、無機質で落ち着き払った声が発せられる。


「座ってくれ」

「ああ――はい」


 商売柄、敵わぬ相手には無条件で尻尾を振る。だが、ひげ面親父が思わずいつもの調子で応じそうになったのは、部屋に満ちる緊張感に呑まれかかっていたためだ。

 軽く首を振って気付け・・・とするひげ面親父に「いつもの調子で話してくれて結構だ」と相手は容認する。そんなものまでお前達に期待していないという意志の表れでもあったろう。


「何か呑むかね?」

「え、いや――」

「葡萄酒でも持ってこさせよう。今の君には必要そうだ」

「……すまねえ、な」


 バツが悪そうにしながらもひげ面親父は何とか礼を述べる。

 一方的な心遣いも、こんな緊張感の中ではかえってありがたい。従卒らの心情が気になり、ちらちらとひげ面親父が視線を飛ばすも彫刻のごとき微動だにせぬ彼らからは何の感情も掴めるはずがない。

 ある意味、この連中だけは軍隊らしい規律や風紀の遵守が徹底されているようだ。


「宿を脱した連中は、現状、二手に分かれている」


 ひげ面親父がテーブル上の図面に目を向けていると気づき、駒配置の意味を教えてくれた。同時にそれで、“自分らの失敗”を明確に指摘されたと感じるのも当然だ。


「あいつらは、想像以上に」

「フォルムからなかなかの手合い・・・・・・・・と聞いている。ならば我らの市街地戦の訓練に丁度いい相手だろう」


 ひげ面親父の弁明を聞くつもりはないらしい。

 むしろ不興を買っているどころか、好都合と捉えてくれていると知り、ひげ面親父は心から安堵する。


「ただ、目をつぶるのはこの一件だけだ」

「――っ」


 あくまで淡々とした声音がひげ面親父の背筋を貫く。


「今後、戦力を乱りに浪費したら――『幹部』の玩具になってもらう」

「!!」


 くわっと目を剥き、ひげ面親父の全身が総毛立つ。 

 ぼろ切れ覆面の“悪趣味”だけでも強面連中の肝を冷やしているのだ。耳にこびり付く身の毛もよだつ苦鳴は、時折悪夢となって蘇る。あんなトチ狂った所業を幹部全員から満遍なく受けさせられると考えただけで、ひげ面親父の思考は一時的に凍り付いてしまう。

 その効果を味わうように間を置いて。


「ところで、お呼びした理由を伝えてなかったな」


 何事もなかったように団長が話しを切り出してくる。


「ご承知の通り、戦いの主導はすでに我らに移っている。ならば同盟者としては、貴殿の身の安全を第一に考えたというだけだ」

「そいつぁ……大変有り難い」

「例には及ばん。呼ぶついでに、一緒に戦況も観覧しようと思ってな……話し相手がほしかったのさ」


 どこまで本気か分からないが、ひげ面親父はとりあえずぎこちない愛想笑いをつくってみせる。顔が強張るのは勘弁してもらうしかない。

 団長の機嫌がよくなるなら、この際何でも付き合ってやるとヘソに力を込める。そんなひげ面親父の頑張りを他所に「ご理解いただけたところで、簡単に今の状況を説明しておこう」と団長は勝手に話を進めてゆく。


「本作戦は“許可なき脱退”をした罪人を然るべく処すことを目的としている」

「?」

「平たく云えば“脱走兵”の処罰だ」


 それが異人共のことだと団長は告げる。つまりそういう理屈にして軍を動かしているのだと。

 実に上手い方法だ。

 公都では軍規違反を裁くのは軍に委ねられており、脱走兵の追跡や捕り物も当然ながら軍が責任を持って遂行することになる。

 時に警備隊と強力協同することはあろうとも、その指揮権は軍にある。

 しかも、外軍は生き死にが激しく、それが故に出入りも多いため、誰が団員でそうでないかなど不明な点がある。名簿の更新が追いついていない現状があるのだ。

 つまり、その気になれば“いつでも誰でも脱走兵に仕立て上げ処罰できる”ということを差す。そんな道義から外れた恐るべき使い方をすればの話しだが。

 団長が今まさに告げたことは、そういうこと・・・・・・ではなかったか?


「先ほども云ったが、脱走兵・・・は二手に別れた。東に向かう者と西に向かう者とに」


 頭と胴体を模した簡易な人形の駒を団長が指差す。

 続けて周囲に並べられた駒をなぞる。


「だがご覧の通り、当該ブロックを取り囲むように我らの部隊を配置している。無論、聞かされた奴らの実力が事実であれば、突破も可能だ」


 ひげ面親父の不安げな表情を読み取り、団長は懸念材料も取り扱う。そして、それでも問題ないのだと。


「ただし、突破するには手間取る。手間取ればそこへ他の部隊が挟撃を仕掛ける。それに手間取ればさらなる増援が」

「確かに消耗戦に持ち込めれば、実力なんか関係ねえ」

「そうとも言い切れんが、隊長クラスあるいは隊長予備軍も用いて、できるだけ班に一人は含めるようにしておいた。先の遠征で部下達がどれほど力を付けたか、判断できるくらいには、連中にも抗ってほしいものだ」


 仕掛けているのは鉄壁の防御ではなく、一度捕らえれば絡まり動けなくする蜘蛛の巣だというわけだ。団長の余裕がどこからくるのか窺えば、なるほどとひげ面親父も納得するしかない。


「――けど、その網にかかればの話しだ」

「おい」


 ぼそりとした背後の声に、ひげ面親父が血相を変えると「その指摘は尤もだ」と団長が受け入れる。

だから連中を指し示す駒の配置は包囲網から離れたところに置かれているのだと。当然ながら、その配置の意味を理解しているからこそ、ロウアンも指摘したのだろう。


「彼らは賢い獲物のようだ。現状、どちらも包囲網にかかることなく直前で転進している。当然、我らも追い立てる――」


 そうして“どこから今いる位置に至ったのか”を宙で指を動かし、これまでの経緯を二人に想像させる。


「なるほどな」

「何がだ?」


 またしてもロウアンの気づきに、ひげ面親父が解説を求めれば、答えたのは団長だ。


「川縁で魚採りをしたことは? 我らは“追い込み漁”と呼んでいる」


 逃げる連中の鼻先を押さえるように、それでいて必ず逃げ道があるために、結果的に渦巻くように動いているのが朧に分かる。

 まさに追い込まれてゆく魚のように。いや、これは魚採りより、よほど練られた動きを示している。


「こいつぁ……」

「ああ、その駒にはもはや逃げ場がない。おそらく当人も今頃気付いているだろう」


 肯定するロウアンの声が重いのは、思わず駒側の人間になったことを想像したからかもしれない。懸命に逃げて体力を消耗した挙げ句に、気付けば逃げ道を失い、敵に包囲されているなんて悪夢の中にいるようであろう。

 襲う眩暈は体力が底をついたせいなのか絶望が脳に逃避を命じるせいなのか、分かっているのは“命運が尽きた”というどうにもならぬ事実だけ。

 食い入るように図面を見つめる二人の耳に団長の感情を廃した言葉が淡々と届けられる。


「十五年ほど前、帝国の『鬼謀』が実際に使った戦術だ。今回と違い千人規模で展開され、相手の一軍が殲滅したというが」

「それをこちらの駒にも?」


 ロウアンが差すは東に向かう駒の方だ。先ほどの駒と違い、追い込み方が雑になっている。たまたま展開が遅いだけなのか、あるいは。


「先ほど、見失ったと報せがきた」

「見失った?」


 ひげ面親父が怪訝な顔を向ける。図面を見る限り、人数のかけ方が半端なく、部隊の動きも的確で相手が視界から外れるなど考えられない状況に思えるからだ。

 だが、「そのとおり」とまるで何でもないかのように団長は平然と応じる。すでにタネを知っている奇術を語るかのように。


「相手は異人共と聞いていたが、こちらの情報では『五翼』の生き残りが連中と一緒にいることを捉えている」

「『五翼』の……あの斥候か」


 ひげ面親父とロウアンの二人がほぼ同時に渋い顔で頷く。『裏街』でも顔が利く探索者で、嫌う者だけでなく協力関係を持っている者もいる面倒なヤツだ。

 誰かとつるんでいる話しは耳にしていないが、夜更けに異人と一緒にいるとなれば、さすがに何かの関係はあるのだろう。


「それで、その斥候がどう絡むんで……?」

「腕が立ち、公都を知り尽くした人物だ。当然、我らの包囲網にも気付いたろう」

「逃げられねえってことにもだ」


 ひげ面親父が合わせれば、団長の唇がかすかに動いたような気がするが気のせいかもしれない。それも笑みの形であったなど。


「逃げ道がない――それでも必死に頭を働かせ、逃げ道を、あるいは逃走方法を模索するだろう」


 当然だ。

 振り切ろうと狭い路地裏を抜け、角を何度も曲がり、あるいは民家に忍び込み、目に付く限りのルートに無我夢中で飛び込むはずだ。

 常に追っ手の足音や気配に追い立てられ、焦燥を募らせながら。


「やがて気付くだろう。ふと目を落とした足下に、その地の底に・・・・希望の道があるのだと」

「――下水道か」


 ロウアンが唸るように答えを絞り出す。

 今度はひげ面親父も盤面の行く末がどうなるか気付くことができた。


「それもあんたらの手の内か・・・・・・・・・――」


 なぜなら、団長の口元にはっきりと見分けられるほどの“笑み”が形作られていたからであった。

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