第72話 勝者は誰か
『岩窟の根城』その最奥
単独先行のグルカ――
広間における異常な気の高まりをグルカの鋭敏な感覚が“
人間の術士であれば精霊達の
その中心にいるのは岩を
だが現実に、土塊の土質を変性させ生み出した岩を自在に操ってみせる男の裡より、グルカさえそう体験することのない魔力の波動が確かに感じられるのだ。
「(凄いな、お前――)」
グルカは素直な気持ちで称賛を口にする。
エデストが体現するは“量”より“質”――
己の固定観念が清々しいほど切り拓かれる感覚に、「こういうところが
「(――だが
それは誰を差しての言なのか。
言い終えた時には、強靱な脚力まかせにエデストとの間合いを一気に詰め切ったグルカが、剣鉈を投げつける勢いでぶん回し、遠心力の最大ポイントで頭頂部を狙い打っていた。
速さ重視で
――――ガズッ
両者が耳にしたのは
そして目にしたのは本来あり得べからざる光景だ。
事実、一度はグルカが返り討ちにした“岩塊”と本質的には同じ構成の“岩斧”で防御すれば、鏡に映すがごとき相似の光景を再び目にするはずであったのだ。
だがしかし――
「来ると分かれば、
その淡々とした言葉にグルカに対する明らかな優越感すら滲ませて。
さもあらん。
注目すべきは、剣鉈の豪撃を受け止めた岩斧それ自体よりも
グルカの圧倒的膂力に及ばぬ分を岩の強度で補強し対抗すればいい――発想は単純でも、受け止めてみせたその事実が、どれほど効果的な手法であったかを雄弁に物語る。
しかもグルカが得手とする魔力を用いた“断ち切り”さえも『
「(ちっ。……器用なやつだ)」
かくして密かに瞬殺を狙ったグルカによる奇襲豪撃は不発に終わる。
これで長期戦は確定かとボスが控える情勢を考えれば不穏な雲行きしか感じさせないところで、しかし、戦いはここから意外な展開をみせることになる。
そう。
グルカは「はい、負けました」と簡単に引き下がるような
良く云えば“負けず嫌い”。
悪く云えば“聞き分けが悪い”あるいは単なる“駄々っ子”と称せばいいか。
不運にも、その面倒な性格をエデストは戦いを通して思い知ることになる。
「(なに勝った気でいやがる?)」
「!!」
岩斧に剣鉈を食い込ませたまま、グルカの武器持つ利き腕に力が込められた。まるで、初手の攻撃がまだ続いているかのように、間合いをとることもせずにグルカが空いてるもう一方の手を大きく振りかぶる。
「(まだまだ――)」
これからだ、と。
グルカが握りしめた拳で無造作に顔面を狙えば、当然気付いたエデストが反応し、瞬時に『岩兜』が形成されてダガンと鈍い音が響き渡った。
「(痛っ……)」
魔力を込めたはずの拳が擦り切れ血が滲み、甲の骨に鋭い痛みが走り抜ける。
こうなることはグルカの想定内。思った以上に痛かったのが想定外。だが痛覚も苦鳴も無理矢理頭から押し退けて、グルカは反省も対策も行わずに渾身の二連撃を続けて放つ。
ゴゴンッ
「(むおっ)」
痛みで仮面を仰け反らせつつも、拳を目一杯握り込み、さらに追加される三連撃。それも顔、腹、顔と上下に散らしてみせながら。
ド、 ガンッ
ゴ、
「(~~~~っ)」
きれいに打ち分けたグルカの強打を、だが岩の防御が恐るべき反応力で受けきってみせる。それでもあまりの衝撃にエデストがわずかにぐらつき、それに気付いたグルカが血塗れとなった拳を意にも介さず、即座に三連撃を叩き込む。
グ、ジ、ガンッ
「(ぅ、ぐらあああ!!!)」
鈍痛ならば我慢もできる。
しかし瞬間的に走る鋭い痛みは肉体の防御反応で勝手に身を強張らせる。それをグルカは咆哮を放って消し飛ばし、その代償に見合う電光石火の猛撃を強引なまでにやってのける。
あまりに力任せな攻撃。
無思慮すぎるその暴力性。
愚か、幼稚と呆れるような戦いぶりに、しかし、エデストの術反応がわずかに遅れはじめて成果と為せば。
それは“絶体防御”とも言えるエデストの堅牢城砦を切り崩すひすじの光明。
我武者羅なグルカの乱打だからこそ導いた、偶然ではない必然と呼ぶべきその突破口。
思わぬ要因は、魔力の絶対量が少ないエデスト故に、限られた魔力を効果的に活用すべく、術の精密調整が必須となっている事実。
ただでさえ、速さより慎重さが求められる難度の高い微調整に対し、グルカの攻撃スピードがあまりに速すぎた結果、エデストの認識力がついてこれなくなった――理由はあまりに単純だが、それだけに解決するのは困難だ。
逆にグルカの方は、攻め方に変化を付けるだけでも成果が出せる。
上か下か――?
一瞬の迷いすら遅延の材料とさせて。
遅延は被ダメージの軽減効果を削ぎ落とし、削がれた分だけ衝撃を通すことになり、浸透した衝撃がエデストの判断力や認識力を少しづつ鈍らせてゆく。その鈍りがさらなる遅延を引き起こし……そうして悪循環に追い詰めてゆく。
攻撃し続ける限り、もはやエデストに反撃する余力が無いことをグルカはしっかり見抜いていた。
もっと散らせ。
意識を揺さぶれ。
上下左右に打ち分けて、
それは作戦というよりは肌感覚。
本能の導くまま無我夢中で攻めるグルカに、同じく無心で岩をコントロールし懸命に死守するだけのエデスト。
シンプルすぎるグルカの単純攻撃が、戦闘巧者の一級戦士を“異次元の泥仕合”に首まで引きずり込んでゆく。
ズ、ガ、ガンッ
「(――なんのっ)」
だが魔力で強化しているとはいえ、グルカの拳も無事で済むはずがない。それでもわずかな隙を勝機と見てとれば、グルカの本能が
実際、岩の防備を壊すことはできずとも、その衝撃は着実にエデストの心身を蝕みはじめて――極度の精神消耗が、この短時間で全身からの異常な発汗を促していた。
奇妙と云えば奇妙。
傍から見れば、一方的な袋だたきであるはずなのに。
攻め手と護り手が固定されているにも関わらず、どちらも削り削られ、呻き呻かせられて瞬く間にその心身を損耗し疲弊してゆく。
グルカは拳を。
エデストは脳や内臓、ひいては精神力を。
互いにダメージを蓄積しあいながら――グルカの強引な攻撃で始まった、二人の
それはもはや、グルカの意地とエデストの集中力とのせめぎ合い。
「(ガルァアアア!!)」
「ぐぅぅ……っ」
ズ、ド、ガンッ
グ、ゴ、ゴンッ
ゴ、ガ、ガンッ
ミジ、グジ、ゴグッ
ニジ――
ついに、打撃音が肉を挫く嫌な音に変化し、それでも一瞬の躊躇いを見せぬグルカの狂気に気圧されたか、たまらずとエデストが咽を振り絞る。
「――付き合ってられるかぁあああああああっ」
――――ミジリッ
しつこく繰り出される連撃を――エデストが後先考えずに魔力を注ぎ込み――
「(ゴッ……ガァアァアアア!!!!)」
その停滞を拒絶するのは、腹の底から迸らせるグルカの咆哮。
すでに忘我の域にあったグルカが、一度は止められた拳を基点として力を込め、足、腰、背筋……肉体のすべてと体内の魔力を振り絞り力任せに押し込んだ。
岩兜から覗くエデストの双眸が異変を察してわずかに細められる。それは己に匹敵する魔力の密度を小鬼の裡に感じたためか。
「ぬっ?!」
「(ォォォォオオオオオオオガァ!!)」
一瞬、グルカの魔力密度が弾けた――エデストにはそう見えたに違いない。
魔力と物理から成る二種類の、あるいは二重の強大な力が生み出す凶悪無比なインパクト。それがグルカの拳が置かれたポイントよりど派手に炸裂した。
――――――!!!!
一息で、踏ん張るエデストの両足が地面を擦りながら数メートルを後退させられる。凄まじい威力に弾かれながら、体勢を崩して転びもしないのは一級戦士としての筋力とバランス感覚が為せるわざだ。
だが、彼が体裁を取り繕えたのはそこまで。
「……かはっ」
一瞬遅れでエデストが咽をせり上げ吐血する。
しばし動きを止めたのは、受けたダメージもさることながら、体内に走り抜けた衝撃を麻痺した脳が受け入れるのに時間を要したからだろう。
今もまだ、当惑を隠せないようで、ゆるりと周囲を窺うように首を回す動きが非常に鈍い。少しだけ記憶が飛んでいるのかもしれない。
そうして、拳大に陥没した胸岩の惨状を手指でじっくりとなぞっていたエデストの声には驚嘆と呆れが入り混じる。
「……なんて、デタラメな奴だ」
その思いか受けたダメージが術を途切らせたのかは分からない。その身から岩や土塊すべてを落として、エデストは荒い息をついた。
戦闘が始まって間もないのに、一気に濃い疲労を滲ませるのは、今の激しい攻防で心身が削られたばかりが理由ではないようだ。
「(ぜい、はあ、ぜい、はあ……ふん。……その術は……ぜい……長く続け、られないようだな)」
大きく肩を上下させ、荒い呼吸で仮面を浮いたり沈ませたりさせるグルカが、腰に手を当て、辛うじて体裁を保ちつつエデストの弱点を指摘する。
グルカの見立てはこうだ――ヤツは何らかの方法で魔力を強引に絞り出し、その
当たらずとも遠からず。
見破ってやったぜとほくそ笑むグルカは、だが、そこで長期戦を選択できるほど器用な小鬼ではなく、また、他にいる敵の存在がその選択を許すはずもなかった。
「なあ、エデスト――。代わってほしいなら、いつでも云ってくれ」
「――無用だ」
やけに平坦な声音でボスが呼びかけてきて、岩遣いは即座に拒絶した。憤りさえ滲ませて。それがボス流の気合い掛けであったのなら、十分に目的は達せられたようだ。
「お前のせいで、俺の実力が疑われたぞ?」
「(なんだ? 俺の力に今頃気付いたか?)」
「様子見は終わりだ。まずは、そのふざけた仮面をはぎ取ってやる」
「(なら、代わってもらえばいい)」
相変わらずズレた台詞を交わし合いながら、グルカが気にせず“腑抜けは去れ”と手のひらを振ってやれば、そのゼスチャーの意味だけは伝わり「調子に乗るな」とエデストが吐き捨てる。
その左頬は乾ききり、かさついた皮膚がささくれ立っていた――否、実際に岩のごとく硬質化してパラパラと剥がれかかっているのだ。
違和感を覚えたらしいエデストが手でこすってその異様な肌触りにぴくりと動きを止める。すぐに平静を装うその双眸はこれまで以上に鋭さが増していた。
「前言撤回だ」
「(?)」
「仮面は剥がさず、頭ごと叩き壊してやる」
もはや時間が無い――そういうことなのだろう。その言葉の意味など分からずとも、異変の意味がいかなるものかはグルカにも察せられる。ならばエデストの空気が変わった理由など考えるまでもなかった。
再び始まる戦いはエデストから仕掛けられる。
無言で足下の土を手に取り、再び岩の武防具を創成するかと思いきや、エデストは勢いつけて宙に飛び跳ね、素早くその身を回転させた。
その握られた土から糸引くように、大量の土が地面から引き上げられて、エデストの転身終わりには岩製の“長大な打棒”が形作られ鞭打つように放たれていた。
「せあっ」
『
この場合、特別な膂力は必要ない。タネとして打ち振るった岩製の打棒に十分なスピードが乗ってさえいれば、術の効果で大量の岩が後付けされて、スピードはそのままに重量物の猛打が完成される。
そしてエデストが生成したのは丸太のごとき巨大な打棒――行くも戻るも、跳躍や屈伸さえも避けるを能わず――唐突に現れた凶悪な武器から、さすがのグルカも逃れる術はなかった。
――――ッ
あろうことか、無謀にも両腕を突っ張り受け止めようとするが。
次の瞬間、桁違いの重量差に衝突音もなくグルカが埃を掃くように飛ばされる。
否。
グルカに受け止めるつもりはなかった。
むしろ衝突する瞬間には両足を宙に躍らせ、加速による何倍もの自重を両腕で支えきり、あえて飛ばされてみせたのだ。
その先に、これまで広間の片隅で成り行きを見守っていた荒事師が立ち尽くしているのを狙った上で。
突然、猛スピードで弾かれてきた
まさに一瞬の出来事。
そのまま背後の壁に激突、胸と腹を踏み抜かれて即死した。
当のグルカは荒事師を緩衝材に両足、背筋と全身の筋肉を使って強烈な衝撃力を緩和・吸収し、まるでそれを力に変えるがごとく反転攻勢に出る。
「――?!」
まさかすぐさま反撃がくるとはエデストも夢にも思わなかったろう。その上、想定外の消耗で硬質化が早まった肉体は頬だけでなく腕や太腿にも異変が現れ始め、向き直る動きが見るからに鈍くなっている。
「(馬鹿、まだ早いだろ?!)」
絶好のチャンスを嫌がるように。
むしろエデストの不調で焦ったかに見えるグルカだが、もちろん、敵に塩を送るようなタマではない。
「(強敵のお前でないと、勝っても意味がないんだよっ)」
それが本音か。
手遅れになる前にと急ぐ理由はともかく、今が攻撃チャンスであることは間違いない。
しかし、一歩ごとにスピードを乗せたグルカの身体が、ふいに沈み込む。それが足の着地点をピンポイントで狙ったエデストの『
無様に倒れ込む小鬼を狙い澄ましてエデストが岩斧を振りかぶる。
「――くそっ」
ドンピシャのタイミングで打ち下ろした岩斧が誰もいない地盤を叩き、直後、背後に現れた黒い影を視界の隅で捉えたエデストが、必死に岩盤の盾を背中に生み出す。
「つぁっ」
予測に反し切りつけられたのは、無防備を晒す背中に非ず狙いにくいはずの左腕。
フェイントすら交えない純粋な読み合い勝負の結果なため、エデスト自慢の瞬間防御が間に合わなかった。
無論、『
あの速度域で、完璧に不意打ちを食らい、顔面を地べたに打ち付けるはずの小鬼が、反射的に肩口から入って転がり抜けるという図抜けた運動神経を披露した誤算もあった。
「(今ので殺れると思ったか? 脇が甘いな)」
「……」
剣鉈を太腿にこすりつけ、血汚れを拭うグルカの痛罵をエデストは適切に感じ取ったのであろう黙り込む。
思わぬ展開。
思わぬ疲労。それが呼び込む早期の体調悪化。
そして想定外の敵の対応力――。
いずれも事実であり、しかし、口にすれば単なる言い訳だ。彼自身、勝負が水物であることを嫌というほど経験してきたのだから。
互いの実力や幸運不運も呑み込んで、相手を少しでも凌駕した方が勝利を手にするのだと。それが戦いなのだと身に染みているのが『
故に、拮抗していた戦闘力のバランスが、左腕の負傷によって多少なりと崩れたところで何だというのか。
むしろ一息つく小鬼の態度をこそ待っていたとばかり、エデストが不敵な台詞を口にする。
「……ようやく
「(?!)」
次の瞬間、互いの攻撃が交錯し合う――。
腕をやられたショックで頭を下げ、項垂れたように見えていたエデストの脇腹へ、躊躇なくグルカの足蹴りが放たれ、同時にその軸足の甲を、何かが突き破り現れた。
「……っ」
「(――やってくれるなっ)」
先に結果を告げるなら、それは無言と唾棄に集約されよう。
攻撃優先で無防備であったエデストの脇腹にグルカの強烈な爪先が叩き込まれ、深く食い込み、楽々と吹き飛ばして転がり止まる。
そのたった一撃で、打ち棄てられた雑巾のような身体は、もはやぴくりとも動かない。
まともに喰らった以上、胸骨は折れ、最悪は内臓破裂も当然の結果。生きていても重傷なのは間違いない。
そうなることを承知でエデストが捨て身の攻撃を選択したのには、“異能効果の時間切れ”という強制敗北が差し迫っていたからに違いない。
故に、エデストの“骨を断たせて骨を断つ”策に付き合わされたグルカも大きな代償を払わされていた。
彼の足を縫い付けたのは、地面より鋭く屹立する鍾乳石のごとき石の槍。
探索者の間では『
さしものグルカも片足を奪われれば、次戦での確実な勝利を計ったエデストの狙いが功を奏するのは間違いない。それを認めるからこそ、「やってくれる」と絞り出したグルカの声には苦みが混じっていたのだ。
いずれにせよ。
ダメージの大きさだけ比べるならグルカの勝ちだが、ボスの攻略戦として捉えるなら、真逆の見方こそが正しき見解。
ならば結局誰が勝ち、誰が負けたというべきか。
むっつりと黙り込むグルカの胸中など知ることもなく、この時、第三者からの不興を隠さぬ率直な感想がもたらされる。
「――まさか“切り札”まで使ったエデストが、こんなにもあっさりやられるなんてな」
それまで、壊れてない椅子を見繕って腰掛け、二人の激闘をゆるりと観戦していたボスが静かに立ち上がっていた。
声の底にこびり付くのは確かな憤り。
「他のザコがいくらやられても構わんが、
どうしてくれるのか、と。
向けてくる視線にはさすがに洞穴のボスらしい威圧感がある。
グルカの強襲が速すぎたせいか、鎧は纏っておらず簡素な衣服にただひとつの装備として長剣を帯びるのみ。
この場にいる部下達は倒され、生き残った獣の戦士もとうに戦意を失い、広間の片隅で及び腰になっている。
もはや孤独の王となりながら、それでも焦りひとつ見せぬのは、戦闘には致命的な怪我を負う小鬼の現実を知るがためか、あるいは――。
「お前一人じゃないよな?」
「(……)」
「実は俺の部下が、とうにお前の背後を突くことになってたんだが、いまだに音沙汰がない」
その理由は何らかのトラブルが起きたためだと。そのトラブルの原因こそ、小鬼の仲間だとボスは云いたいわけだ。
だが言葉の分からぬグルカには何も伝わらない。伝わるのは、今もひしひしと感じる
ゆるりと近づいてくる中肉中背の特徴無き人間が、エデストのような搦め手のないことは何となく分かるのに、どうして誰よりも強い威圧感を放っているのか。
だからこそ、グルカの方が焦りを覚える。
「(……ったく、たいそうな
石槍に貫かれた足の激痛を堪えながら、グルカは忌々しげに吐き捨てた。
戦うにしても、せめて石槍を半分程度に砕いて短くしないと足が抜けそうにない。だが、そんな隙をあの男を前に見せるわけにいかない。そう思わせるだけの威圧感がグルカを珍しく躊躇わせる。
「さっきまでの威勢はどうした?」
グルカの迷いを怯みと捉えたか、男は饒舌に話しかけてきた。
「従順を示すなら、考えてもいい。エデストの代わりとしてはつまらんが、俺の王国を築くには、お前のような“駒”がいくつも必要になるのは確かだ」
そこで男が足を止め、抜き放った長剣の先をグルカへ突きつけた。あくまで傲岸不遜に、上から目線で言い放つ。
「まずはたっぷりと躾けてやる――跪いたら、その時に答えを聞かせてもらおう」
「カガムハオマエダ――ニンゲン」
その咽に痰が絡んだような発音は、グルカの背後から聞こえてきた。
仮に骨格や声帯の違う獣が、無理矢理人語を口にすればそうなるだろうという唸るような声。
だがグルカにだけは、その気配のみで声の主が同朋のグドゥであることをはっきりと確信する。無論、思わず振り向きかけたところをぐっと堪えて自制するのは、「助かって喜んでいる」などと
そんな風に、おかしなところに気を遣ったせいで“気配がひとつきりしかない”という些末な疑問も浮かんだが、すぐに脳裏から忘れ去られることになる。
実際、もうひとりの同朋グナイがどこで何をしているかなど、これから始まるボスとの決戦に比べれば些末時でしかなかったのは確かであったが――。
◇◇◇
「おい、やっぱりよした方が――」
腰が疼く欲情を鍛え上げた精神力でねじ伏せて、仲間の肩を叩いたところで男の言葉は途切れてしまう。
岩牢からほのかに漂ってくる汚物臭だけでない、甘く饐えたような
無意識に喉仏が上下する。
わずかに鼻息が荒くなっていることにも気付いていまい。
その変化に、気付いた仲間がつけ込むように。
「俺はやるぞ」
「……」
視線を岩牢に釘付けにしたまま、仲間が振り返りもせず宣言するのを男も止めることはしなかった。霞むような遠くの声としてしか耳に入らなかったためだ。
同調して頷いていたのも無意識である。
そんな男の賛同を得られてもなお、仲間には何かの後押しが必要だったのかもしれない。同朋だけでなく自身にも言い含めるように言葉を続ける。
「……クノール隊長は、いずれ好きにさせてやると云っていたんだ」
無理もない。
人里離れ、幾日も暗い洞穴に男だけで閉じ籠もっていれば、溜まりまくった情欲に目が曇り、判断が狂うのも頷けもしよう。
何より、薄衣一枚きりの無防備な女達がすぐそばにいる環境ともなれば。その上、偶にであるが、主代理のクノールの命で、その
かくして、己への言い訳を祈りのように繰り返しながら、ついに理性の鎖が外れた二人が岩牢の前に立ち尽くす。
「……むぐぅ」
「……くぅ」
たまらず二人が呻き、熱い息を漏らす。
これからの事に妄想すらままならず、まるで思春期の小僧のように我知らず興奮し、熱い情動に腰を強く締め上げられる。これでは童貞の若者の方がまだ理性的というものだ。
松明の明かりに照らされる二人の顔は、妙に殺気立ち情欲から生まれる高揚感と混じり合い、狂人の相を思わせる。
暗さで瞬きしないその異様に、誰も気付かぬことだけが幸いであったろうか。
その解き放たれた二匹の獣の様子に、いつもと違う異常を敏感に察したか、岩牢の中で複数の女体が蠢き惑う。
後退るように。
そうした弱さを見せるほどに、獣たちの情欲が嗜虐心と重なり煽られるものだとも知らず。
「おい、早く開けろ」
「分かってるっ」
我慢しきれず急かす男に仲間が鍵を錠前にあてがい、興奮に震える手元が狂って取り落とす。
「何やってんだっ」
「いいから、焦らせんな!」
慌てて鍵を拾う仲間に「とりあえず
「よし、今開け――どうした?」
この状況で、異変を察しただけでも戦闘士の面目躍如と褒めるべきか。だが所詮は堕落の徒。
隣を見た仲間が、そこに
どうなってやがる――?
まったく訳が分からない。
次の瞬間には、
――――……
光源が松明だけの暗がりとはいえ、血飛沫く様子と生首が落ちる鈍い音、そして漂いはじめる血臭などに女達が気付かぬはずがない。
だが、短く小さい悲鳴すら岩牢に響くことはなく、それどころか衣擦れの音さえたてずに静まり返る。
それも当然と云えば当然。
ほとんどが自失している女ばかりであり、男達が知らず辛うじて正気を保っている者は、あまりの急展開に思考が停止していたのだから。
そんな混乱によってもたらされた静寂が予想外のモノに打ち破られる。
「~~~~~~」
咽に痰を絡ませたまま、しゃべるような声はいかなる生き物の声なのか。おそらく唸り声にも聞こえるそれは、何かの言語と窺い知れるが女達に解せるはずもない。
分かるとすれば、いつの間にか、岩牢の前に長身の人影が浮かび上がっていたということのみ。
地面に落ちた松明が人影の脇、それも下方から照らすため、半分ほどが陰影となって不気味な存在感を醸し出す。
全身黒づくめに波模様を変則十字に描く奇怪な仮面もその異様さに拍車をかけていた。
すぐに場の空気が緊張感を高めたその原因が、片隅で互いに肩を抱き合う二人の女にあると人影は気付いたらしい。
わずかに修正した仮面の向きに、その意味を察したか「ひっ」と小さな悲鳴が反応する。
仮面は無言のまま。二人に興味を持ったかどうかは微妙なところ。それでも移動して、格子の扉に両手をかけるや「!!」と気合いを掛けた。
――――!!
一瞬、力と力が拮抗する緊迫感が生まれ、すぐに金属音がかすかに響いて扉が枠ごと外される。馬鹿げた剛力に驚くリアクションを取ってくれる者もいないまま、一歩身を退いた上で、再び影が言葉を発した。
「~~○○~~~~」
「え、なんて云ったの?」
驚きの声を発したのは、二人の片割れジーリであった。“聞こえなかった”というよりは、“知った言葉を耳にして”という反応で。それだけでなく、続けてもう一人の片割れであるレイアナが驚くような言葉をその口から紡いでみせる。
「(云った? パユ?)」
「(――なんだ。話せる奴がいるじゃないか)」
「(少し)」
親指と人差し指で“少し”を表現し、片言の言葉も交えてジーリは不器用な会話を成立させる。内心では悲鳴を上げたいくらいの衝撃を受けていたのだが。
(信じられないっ。……ほんとに『小鬼語』だなんて)
獣の唸り声が解るだなんて、単なる幻聴かついに頭がおかしくなったものとジーリは思っていた。だからはじめに反応しなかったのだ。けれどもこうして確かに、仮面とは『小鬼語』で意思の疎通ができている。
(それなら、ほんとにパユのことも……)
気付けば耳にうるさいくらいに心臓が高鳴っている。何の女神の気紛れか、親しき村娘のパユと小鬼が知り合い、いかなる苦労があったのか、今やこうして自分達に救助の手を差し伸べてきている。
銅貨を百回投げてすべて表が出るような偶然に、ジーリのどきどきが止まらないっ。
「(……)」
「…………っ」
その傍らでは、明らかに雰囲気を変えた仮面の態度に、その奇蹟を生み出してみせた相棒をレイアナが「え、どういうこと?」と成り行きについていけずに困惑しきる。
「わけはあと。これは……チャンスかもしれない」
「……」
そう口早にジーリに諭されればレイアナも空気を読んで見守るしかない。おそらくは次々と噴き出してくる疑念を呑み込んで、ジーリの身を抱く手に力を込めつつ、彼女は唇を強く結んで無言を貫く。
「(私 助ける?)」
「(助けはいらん――ああ、いや。そうだ、オマエを助けに来た。
ジーリの戸惑いを無視して仮面は「来い」と手招き、すぐに取りやめにした。目を剥くジーリ。助かると思った直後の裏切りに、彼女の声音が気色ばむ。
「(何?)」
「(いや。
「(イヤよ!!)」
思わず大声を出していたジーリにレイアナの手がびくりと震え、仮面も面食らったように黙り込む。いやそのように感じられただけだ。
だが味方かどうかも分からぬ仮面に、希望を失ってたまるものかとジーリは食ってかかるようにしがみつく。
「(出る。絶体。
今すぐにでもここから抜け出したいっ。
地面を指差し、「嫌だ」と手を振り回し必死に拒絶をアピールするジーリに仮面は感情の揺らぎも見せずに淡々と応じる。
「(ここの方が安全だ。仲間の洞穴制圧が終わるまでの我慢だ)」
「?」
「(……ここの、敵、斃す!)」
言葉が難しすぎたと感じたのだろう。ジーリの困惑や興奮を見た仮面が、一語づつ区切って最後に自分の首を“掻ッ切る仕草”をしてみせる。
「私たちを殺すってか……?」
即座に反応したのは『槍術士』でもあるレイアナだ。不穏なゼスチャーに声を鋭くさせる彼女の手にジーリが優しく手を添える。
「ちがう。たぶん、ここの連中を
「……大丈夫か?」
不安な声は、これまで男連中の身のこなしを見ているだけで相応の腕があることをレイアナが見抜いているからだろう。その際たる者は、不快にも毎晩肌を寄せ合っているクノールがいい例だ。口惜しいが見事と云う他ない鍛え抜かれた肉体は、戦士の理想を象ったものであることを彼女の戦士としての経験が認めぬはずがないだけに。
「……大丈夫よ」
「(どうした、仲間も同じ意見か?)」
ジーリは首を振る。だが決断する前に確かめておくべき事がある。
「(パユは?)」
「(……外だ。戦いに向かないからな)」
「(大丈夫?)」
「(身の安全か? 心配するな。グクワが守っている。この辺に俺たちより強い者はいない――この洞穴を含めてな)」
大した自信だ。それでもジーリは迷う。
仮面が『小鬼』であるならば、よほどの戦士でない限り、斃すのは確かに困難だ。その強さは、昔村で交流があった時期の体験からジーリもよく知っている。
彼らとの交流は可能であり、ならばいかなる経緯があろうとも、パユとの関わりで、彼らが助けに来てくれることもあり得ない話しではない。
現にこうして助けてくれ、一時は逃がす仕草もしてくれているのだから、信じて良いのだ。
むしろ問題なのは、本当にあの男達を小鬼が倒せるかということ。
それを単なる村娘にすぎぬジーリに判断などできようはずもなく。
(いえ、それこそどうでもいい話しよ――)
ジーリは強く首を振る。
肝腎なのは、何がどうであろうと、“この奇跡的な状況をみすみす見逃してしまう愚を犯すわけにはいかない”ということ。
絶体にこのチャンスをモノにしなければ――。
だからこそ考えあぐねる。
ここは「待ち」が正解か「逃げる」が正解なのか。焦りが考えをまとめさせず、闇雲に煩悶するジーリにレイアナが助け船を出してくれる。
「槍を――いや、何でもいいから武器をもらえないか?」
「レイアナ?」
「彼が勝つとは限らない。強いのはさっきので分かるが、あいつは……クノールのやつは本当に強いと感じる。それだけは解るんだ」
絞り出すように告げるレイアナがジーリに触れる腕に力を込める。痛いほどに込められた力が、彼女の抱いた実感を表すかのように。
「一緒に行く必要はない。武器さえあれば、私たちは身を守りながら出口へ向かえる。だから、彼には敵を倒しに向かってもらえばいい。その方が足手まといにもなるまい?」
「――そうね。それがいいわ」
仮面の心配を避けることができ、かつ、自分達の安全も担保できる。これ以上無い手だと飛びついたジーリが勢い込んで仮面に提案する。
「(武器ほしい。私は外、貴方は敵)」
「(む?)」
「(貴方は敵! 奥!! 私は外!)」
身振り手振りで、洞穴の外と奥を思わせる動作を繰り返し、互いに別行動を取ることを懸命に伝えようとする。
あまりに
少しだけ迷いをみせた仮面は軽く頷いた。恐らく融通が利くというよりはシンプルに割り切っただけだろうが。
彼らは大概、複雑さを嫌う。
狩猟民族として罠を仕掛ける巧妙さがあるのに、物事をシンプルに考えるのを好む。
村の男共は「馬鹿だから」「愚かだから」と断じるのに対し、ジーリやパユら女達は賢さに起因するというよりも気質のせいと捉えていた。
まあ、彼の真意などこの際どうでもいい話しだ。ジーリとしては、やはり逃げ出せることそれ自体が嬉しかったのだ。
「ああパユ。ありがとう……っ」
本当にあの娘のおかげならばと、とにかくにも感謝を込めて胸前で手のひらを握り併せる。
「……」
胸を高鳴らせつつ、通路の奥へ目を凝らしながら岩牢の扉をゆっくりとくぐり外に出た。
爪先から牢の外へ足を着いた時の感慨は、ほとんど夢見心地だ。
「
「……ええ」
浮かれるジーリと違ってレイアナはあくまで冷静だ。促されて初めて、仮面の傍らに転がる遺体にジーリの意識が向く。
酷い目に遭わされたせいか、血臭が強い無残な遺体を汚いものに触るような不快感だけを感じつつ、漁って二本の小剣を手に入れた。
靴も奪おうとしたが止められた。
「後にしろ。ほんとに倒せたなら、その時取りに戻ればいい」
実に正論だ。レイアナの冷静さに感謝しつつ、ジーリは無言で頷いたものだ。
小剣を二人で分け合い、拾った松明を仮面に一本だけ差し出すと不思議そうに首を傾げ、すぐに首を横に振った。
「(いらん)」
「え、でも……」
「(必要なのはオマエ達人間だ)」
なるほどと。
彼が明かりを持たずに現れたことを思い出す。それ以前に村での体験で小鬼とは暗視が利くものと知っていたはずであった。
「(途中まで一緒に行く。そこで別れる)」
「(ええ)」
「ジーリは真ん中にいるんだ」
レイアナが道中の順番を指摘してジーリはそれに従った。
「二人になったら、前には私が出る。君は少し離れてついてくるんだ」
「分かった」
こうして三人はそれぞれの目的に向かって歩き始めた。残していくことになった女達に対し何も感じないわけではない。
だが、自失してしまった彼女達には、走り、隠れるといった身を守る行動はまともにとれず、仮面の指示に従った方が賢明なのだ。二人の行動には無謀さも少なからずあるため、必ずしも連れ歩くことが正しいわけではない。
そう頭では分かっていても。
道義心がジーリに負い目を感じさせるのは如何ともし難い。
「……」
「気にしても無駄だ。どちらが正しいかなんて、誰にも分からない」
一度だけ無言で振り向くジーリへレイアナが私見を述べる。厳しく断ち切るような口調とは裏腹にジーリは優しさを感じたが無言を貫き前を見る。
そう、ただ前だけを――。
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