第41話 美醜のルブラン
ヨルグ・スタン公国第三軍団特務派遣団
コダール丘陵地拠点――
「マズイですよ、あれは」
「ああ……
草原での戦局に暗雲どころか雷鳴さえ轟くのを見て取り、二人の隊長に焦燥が生まれ始める。周りで勝利を確信して盛り上がっていた者達も、さすがに異変を感じたようだ。大声を出す者もいなくなり、固唾を呑んで見守っていた。
原因は、敵の背後をとったはずのラクスウェル隊のさらに後背を“魔境”から新たに現れたらしい『
軍人としては上位職である『騎士』を相手取り、遠目からでも明らかに凌駕していると分かる尋常でない動きに、遠慮無く乱れ飛ぶ
これが狙って行われた戦術でないと知りつつも、戦局をひっくり返す見事な一手になっている事実に憤りを抑えられはしない。
「
「起きてしまった以上、対応するしかあるまい」
フレンベル卿の慰めはダシールには無用な気遣いだったらしい。組んだ腕を強く締め上げ固い声で応じながらも、日頃より彼の薫陶を受けている補佐官が判断を誤ることはないと信じ、戦いの趨勢を眉一筋動かすことなく見守り続ける。
当然、それ以外の理由も踏まえての結論と承知している隣人は、己の役どころというものをよく理解していた。
「ダリル」
「30ならば、先発できます」
草原の戦局から目を放さぬフレンベル卿の呼びかけに、背後で待機していた壮年が承知しているとばかり
戦歴を皺に刻み込み白髪が目立つ壮年の副隊長もそのひとつきりしかない眼でもって、草原で繰り広げられている戦局の趨勢と派遣団における自分達の役どころに対し、隊長と同じ見解を有していたのだろう。
「……行ってくれるのか?」
二人の会話が何を意図してのことかはダシールにも察せられる。
補佐官からの要請を示す夜空に咲いた炎の花弁を静かに見守りながら優男の同僚に尋ねれば、「援護のために、拠点の警備態勢を崩すわけにはいかないでしょう」と彼は軽く肩をすくめてみせた。
「それに、我が隊は“探索の任務”に
「すまない」
「ええ。……“人付き合い”って大事ですよ?」
孤立しがちな同僚にフレンベル卿は訓示めいたアドバイスをする。冗談めかしているが本気で心配しているからこその発言だ。
だが、寡黙な同僚からの返答がないことを承知している彼は、ほんのりと涼やかな残り香を漂わせて待つこともなく立ち去った。
この場に不釣り合いな爽やかさは彼が首に提げている香草袋のせいだろう。いつでも平静でいられるようにと、ハーブ育てが趣味だという奥方からの贈り物をダシールも一度だけ見せてもらったことがある。
長い金髪に線の細い顔立ち、読書好きの愛妻家ともなれば名誉働きを求める者が多い騎士団では、部下を御すのに苦労しそうではあるのだが。
「これで、とりあえず収まるか――」
増援を託したダシールの顔に不安はなく、ただ安堵の表情だけが滲む。それもそのはず、フレンベル隊の副隊長ダル・ド・ダリルは五十を超える年齢であるものの、異国で千人長を務め上げた経歴を持つ優秀な軍人だ。そして隊員の実に六割が四十代以上の軍歴が長い者達で占められている――ある意味で抜群の安定感を誇る――退役者で構成された大陸でも類を見ない異色の部隊であったからこそ、今回のような短期決戦においては頼もしい戦力と成り得る。
ダシールの期待に彼らならきっと応えてくれるだろう。
ちなみに、年長者で構成されることから体力的な問題は大きな欠点であり、隊の運用に苦労することも多い。しかし、その代わりに精神が強く、戦闘技術に長け、その上で戦術への理解が早い三拍子そろった隊員で構成された部隊など、そう簡単に育て上げられるものでないこともまた事実。
小国故の兵力不足を露呈していると内外から陰口を叩かれる実態もありながら、今も存続している理由は、ひとえに発案者であるフレンベル卿の豊富な人脈の賜であったろう。そしてなにより、反発の声を黙らせるだけの成果を彼と異国の戦士長は示してみせたのだ。その件で一目置いているからこそ、ダシールは彼との付き合いを続けているのかもしれないと自身の心理を解釈している。
拠点の出入口が騒がしくなってきた。早くも最終点検を終えたフレンベル隊の先発が出立したのだろう。ぬかりのない彼ならば、後続の部隊も出撃準備させているに違いない。
ちょうど、仕切り直しを選択したらしい補佐官達の分隊は、“
ならば二体が前線に出てくる前に、どれだけ相手の数を減らせるかが勝敗の分かれ目となろうが、それもこれもフレンベル隊の戦力が到着するまでの話しだ。
いかなる戦局となっていようとも、“数の暴力”で強引に決着がつけられるのは間違いない。
フレンベルと優秀な副官は、そのことをすでに見抜いているはずであり、躊躇いなく最大戦力を動員するだろう。
(フレンベルと協力し、囲んで押し潰せばそれまでだ)
それまで強敵である二体とやり合わず、数減らしに集中するのが補佐官達の役目だろう。追い足の遅さを考慮して撤退戦を選択する道もあろうが、下手に隙をみせて
あくまで戦う姿勢を維持するのが最善だ。
(分かっているな、ルシア……フレンベルが行くまでの辛抱だ)
その点、フレンベル隊の出撃態勢が整っていたのが大きい。いつも感心させられるダリルの戦術眼に――いや、それを使いこなせるフレンベルとのコンビにダシールとしては一目置かざるを得ない。そして、頼もしい仲間がいることに公国軍の将来にも希望が持てるというものだ。それ即ち――
(公国の未来か――)
ふと自分達の任務を思い出し、いまだ整理のつかぬ葛藤に
そのようなことで惑うている状況ではないと。
今は戦いに勝利し、隊員を生き延びらせ、拠点を護ることが己の勤めなのだ。
(しかし、エルネ様は本当にあのような場所へ……?)
集中せねばと思いつつ、どうしても意識が向いてしまう。
前方では死んだはずの者達と味方が死闘を繰り広げており、そのさらに奥に広がる“魔境”と呼ばれる森は、丘の頂で――丘陵地と星空の境界線上で自分達のある種滑稽ともいえる遺骸との舞踏祭を静かに見下ろしている。
そこに言い表せぬ不気味さと圧力を感じるのは致し方あるまい。騎士が束になっても容易に抑え込めぬ手練れ達が、死してなお狂気に踊らされる実態を目の当たりにしてしまえば。
生半な力量では立ち入ることさえ許されぬ危険地帯。つまりは、人が踏み入ってはならぬ場所だということだ。
入って生存できるなど――いや近づくことさえ考えないのが普通ではないか? それも、生涯のほとんどを城内で過ごす者ならばなおのこと。
手練れを雇ったことやコダール地方に向かったことまでは情報を得ているが、それが“魔境”に踏み入れるとなぜ言い切れるのか――軍上層部が考えたのかなど疑念は尽きない。
実は思い切り無駄なことをさせられているのではとの見方も派遣団内では当初からあり、今宵の戦闘を経た明日は、さらにその人数を増やすことになるだろう。
何をどう考えれば、このような場所へ足を踏み入れようと思うのかと。
だが、公国で起きていることを踏まえれば、憶測は憶測を呼び、様々な意見が飛び交って、何が正しいかなどもはや判断できる状況にはない。
結局は、軍人として騎士団のひとりとして出された命令に従うのみと己を納得させる。
「できれば――」
口にしかけた言葉をダシールは堪え、呑み込んだ。
できれば、正しき道を歩んでいると思いたいものですね――
フレンベル卿ならば、間違いなくそう口にしていただろう。軍人らしからぬ考えを持つ彼とは違い、ダシールは軍を不用意に貶める発言は控えるべきと心得ている。
例え内心でどう思っていようとも。
分かっているのだ。
自分は既に善悪を唱える立場にはない。
軍人として働き、これまでに無辜の民をただの一人も手にかけていないと、どうして言えようか。
ダシール・ロア・デュエリ――公国軍に対し妄信まではしないが、不器用な面があるのは確かだ。
「……こんなところで、死んではいられんぞ」
戦っている者達に彼なりの檄を口にしたところで
明らかな獣の咆哮が丘の頂きから響いてきて、森が揺れたような錯覚を覚えた。いや、少しして本当に樹冠がバサバサと揺れ始め、何かが近づいてくるのだとようやく認識する。
「なんだ……あれは?」
「まだ、出てくるのかよ」
ダシールの周囲で呻き声が洩れたのは、“魔境”より産み落とされた一個の大きな影を目にしたからだ。
シルエットからすれば四足獣のもの。ただし体高で人の背丈を優に超え、凶悪な牙が四本も突き出た武器を携え、両眼に赤光を湛える生き物を単なる獣の範疇で捉えられればの話しだが。
それが狂ったように
「……つくづく、碌でもない土地だな」
*****
ダシールの下を辞去したフレンベルは、隊員が待つ場所へと急ぐ中、最低限の確認を己の副官と詰めていく。
「兵装は?」
「手槍に長剣、
歴戦の将たる雰囲気で副官が重々しく答えたのは公国軍騎士の標準装備。盾については、軽量化や槍との組み合わせを念頭に入れた菱形が採用されており、他国とは異なる呼称となっている。
フレンベルは兵装に込められた副官の戦術的意図を見逃すことなく感じ取り同意を示した。
「状況次第ですが、再度、敵の背後を狙いましょう。ただ……」
「私が先陣を切ります」
隊長の懸念を察して、副官がすかさず打開案を提示する。齢五十を重ねてなお、肉体を酷使することに躊躇いがない――それだけ日頃からの節制と鍛錬に自負するものがあるからだろうが、一番の理由は職務に対する強い気概だろう。
そこには、“異国の元軍人”という経歴が、「公国で認めてもらわねば」という焦燥となって彼を駆り立てているところもあって当然だ。
老いてなお、一流であらねばならない――。
そんな他者とは違う強迫観念が原動力となっているのか。
壮年とは思えぬ覇気が込められた発言にフレンベルが感じるのは“頼もしさ”だけだ。
「確実を期すため、ダシール分隊に召喚道士の支援を請います。彼らとの連繋を念頭に置きなさい」
「感謝します」
騎士としても戦人としても若輩の指揮官であるフレンベルに壮年は慇懃に礼を述べる。
いちいち説明などしなくても、こちらの意図を察すれる洞察力にはいつもながら感嘆する。本当に頼りになる男が付いてくれたとフレンベルは感じ入る。
「ルシア補佐官殿に支援の伝令を。それと後発隊の準備は誰が?」
「クインティが残り全員をまとめているところです。正直、間に合うかどうか」
懸念を示す言葉とは裏腹に、副官の皺が見え始めている表情に翳りはない。
「その前に片付けるつもりですがね」
「全力を尽くします」
副官の声質に変化はない。常にそうだ。相手が小規模な盗賊団であった時も違う台詞を聞かされたことはない。
そして勝利するのだ――今回もまた。
(どう低く見積もっても
これまでに副官が戦っているシーンを何度か目にすることもあったが、相手が弱すぎるのか、本当に全力だと感じられた戦いはまだ見たことがない。
もしかすれば、今回が
不謹慎と思いつつも、ほんの少しだけ、淡い期待を抱きながら。
*****
補佐官――ルシア・サマ・ルブランは静かに歩み寄る亡者の集団を怖れることなく見つめていた。
隊の半数とはいえ、こうして指揮を執れる歓びがルシアの胸に満ちており、拠点を守らねばならぬ使命感と強敵を相手にできる昂揚感が下支えとなって恐怖が入り込む余地など微塵もない。
その指揮官が放つ自信に溢れた態度が騎士達にも伝わって、聞きしに勝る“
どこで油を売っているのか知らないが、不在であるレシモンドには感謝したいくらいだ。
元々、彼の行動を制限するために自分が務めていた役割を彼に譲るよう進言したのは他ならぬルシアである。さらには、隊長だけでなく役目に慣れぬ副隊長の両方を補佐する新たな官職を設けることで隊の機能も維持できるようにしたのだ。
問題は、当然のことながら、その一番厄介な役目に言い出しっぺである自分が就くことになり、これまで以上の心労と、想定外の妙な窮屈感に驚くほどの鬱憤が溜まっていたことだろう。
(だが、今だけは自由にさせてもらえる――)
誰に気兼ねすることなく、思うさまに命令を下し、己が才能を十分に発揮することができる。それに意外な開放感がもたらした効能か、あらためて気づかされたこともある。
(本当にシンプルでいい。
それこそが、ルシアが騎士になった理由。
それこそが、ルシアの心に真の安寧をもたらすと云っても過言ではない。その代償が半顔に残された引き攣れたような火傷の痕――生々しいと嫌悪されることはないものの、それでも土台がきれいな顔立ちだけに、醜くさが際立ってしまうのが惜しまれる。
実際、その醜さ故に、ルブラン家の長子であったルシアは後継者争いからドロップアウトするに至っている。
平民ならば「馬鹿な」と笑うだろう。
だが、“貴族”とは要するに“持てる者”であり、持てるが故に“着飾る者”なのだ。それだけに貴族社会では、財力を下地に“地位(権力)”を飾り、“教養”を飾り、“外観”を飾ることに血眼になる。それらがあってはじめて“人脈”が構築されてゆくのであり、先立つものではない。
殊にルブラン伯爵家においては、初代より“神に愛されし者”として美しき夫婦であり、子供達であると讃えられ、それが契機となって“美しくあること”を誇りとしてきた。
やがて美しさを保つ困難さに気づき、周囲から向けられる称賛の目が、心地よさのひとつも感じられぬ想像もしない重圧へと変わってもなお。
ルブラン家は“美しくあること”に身命を賭し、重ねられた研鑽が独自の技術を生み出すに至るまで、生き地獄を味わうようになる。先々代が美容液を一般に流布させ、財力と名声がありあまるほどに懐へ流れ込み、一時は借金苦に浸かるほどに落ちぶれていた逆境をはね除けるまでは。
“美しくあること”――今ではルブラン家の存在意義であり、“伝統”にまで昇華されているのは大陸でも有名な話しだ。
だからこそ、火傷を負った
目にしたとき、両親の取り乱しようは凄まじかった――いや酷い有様であった。
「醜い者などルブラン家に非ずっ」と憤るままに放たれた無神経な一言を耳にして、少年ルシアの中で何かが壊れてしまうほどに。
もちろん、すでに十分傷だらけにはなっていたから、最後の一押しだったにすぎない。
とにかく少年はそこで腹を据えたのだ。
ならば治す必要などあるまい、と。
兄弟同士で相争い、好もしくもない貴族達と気持ち悪い“微笑みの仮面”をつけて語り合う――最悪なのは、自分達の美しさに酔いしれるあまり、近親での肉欲に溺れる者まで出てきている――そんな生活環境にルシアの精神はどうしても馴染むことができず破綻しかかかっていたのだ。
意図的に伯爵家の後継者争いからドロップアウトするために、火傷を負ったのを幸いとばかり、弟と共謀して治療する術がないのだと一芝居打つのは簡単であった。
激昂する両親は、
今ではいかなる働きあろうとも、表立って“ルブラン”を名乗ることを良しとされぬ身。
だが、それこそルシアが望むところ。
むしろ、今さら面倒ごとが起きてはたまらんと、治療どころか醜さをアピールするために仮面で隠すこともしていない。そんな理由だからこそ、おかげでコンプレックスとは無縁でいられるのだが。
だがそれも過去の話。
両親をはじめ不快な者達はこの場にいない。
見よ。
我が前に並びし騎士達の背中から発せられる強い戦意に頼もしさを感じ、深い精神集中に入りはじめた召喚道士達の間に揺らめく精霊力の高まりに不思議と安らぎさえ覚えてしまう。
たったひとつの目的を皆で共有し、まっすぐな意志に
清々しく、心地よい――。
そして何より後方拠点の動きを視認して、今度こそ十分な勝機があると確信を得れば、これ以上のものはない。
「ラクスウェル隊が所定の位置に着きました」
「よし」
陣形は先ほどと同じくクローカス隊が前衛を務め、不動の三列横陣を展開する。ラクスウェル隊はふたつに別けて側面攻撃を視野に。
召喚道士には、より回数が放てる行動阻害系の術を使わせ、敵の術行使を阻害メインに、あくまで拠点からの増援部隊を待つことが戦術目標の第一としている。
すでに兵力に損害が出ているため、前衛の三列目やラクスウェル隊に過分な期待は求めるつもりはないからだ。下手に英雄思考を妄想せず、最小限の損害で最終的に勝利することを愚直に目指す。
それが隊長ダシールの教えであり、ルシアのやり方でもある。
ちなみに“武具強化”の術を選択しないのは、亡者とはいえ実体を持つタイプならば“容易に倒せない”だけであってダメージの蓄積はあるから必要と判断しなかっただけだ。
通説では、『
このことは、蓄えた魔力を消費すれば動かなくなることを意味しており、事実、戦いの最中に突然崩れてしまったという報告事例は枚挙に
つまり、ルシアの考えでは、“今宵は勝手に力尽きるのを期待できないが、霊魂がしがみつく遺骸をある程度破壊すれば倒すことは可能”ということになる。
もっと
「……
そもそも仕切り直しをしたのには、敵の後続部隊を見極めることが理由である。そうして目を凝らした先に映るのは、集団から少し遅れてついてくるたった二体の『
(なるほど……あの武器なら広範囲系の
鉄球を武器にする『探索者』は正直初めて目にするが一般的なのだろうか。それより二体が着込む防具が銀色の微光を発しているのに気づいて、装備と戦い振りから勘案し、相当高い格付けの『探索者』であろうとルシアは二体の厄介さを確信する。
やはり、増援部隊を待った上で確実に仕留めるのが上策だ。
「いいか。敵の後続は二体といえど相当の強敵だ。増援が来るまで防御主体でいく。ラクスウェル隊は二体の動きがあれば牽制だ」
ルシアの声が不気味に静まり返った草原に風のように走り抜ける。
「一撃たりとも抜かせるなっ。奴らに、我らの盾が堅固であることを見せつけてやれっ」
放たれた檄に隊員が一斉に呼応した。
己を鼓舞し隣の戦友を鼓舞する覇気を上げ、肉体の萎縮を防ぐと同時に十全に力が発揮されるように気合いで身体を温める。
仕切り直しの第二戦は、今度こそ俺たちが勝利を得る番だと。
ルシアを半ば陶然とさせる闘争心が皆をひとつにまとめたところで。
森がざわめくほどの咆哮が星空に響き渡った。
それは“魔境”から命からがら脱した精霊術士が絶望を抱いて足を止めた声であり、拠点で前線を見守る部隊長が苦虫を噛みつぶすような呻きを洩らさせられた声であった。
そして事態がついに最終局面を迎えたことを告げる咆哮でもあったのだが、さすがにそう捉える者はいない。
一人を除いては。
その獣が涎をまき散らし、狂える赤光の凶眼を眼下で蠢く集団に合わせたのは必然であったろう。
誰かに八つ当たりせねばならぬほど痛みに怒り狂っているならば。
己の縄張りにいるものは、皆、避けて通るものを。まさか
だからこそ、怒りにまかせて目一杯大地を蹴り上げ、目障りな羽虫共に己の巨体を突進させるのだ。
ベキボキと小気味よい音を立て、あるいは「ぎゃっ」と奇妙な奇声を発しつつ弾き飛ばして、すぐにガシャガシャと別の集団を嵐のように巻き込んで一直線に駆け抜けた。
阿鼻叫喚が巻き起こる隙さえ与えず、我武者羅に突撃し蹂躙する。
だが、まだほんの序の口だ。
怒りを焚きつける痛みは途絶えることなく、それに応じて力は無限に湧き上がり、ぶつけるべき
けれども、もはや痛みよりも怒りで我を失っている獣は己の習性に抗えぬところもあって、前肢を踏ん張り巨体に制動をかけることもできずにまっすぐ丘陵を下っていくことになる。
その目に映るは無数の
己が近づくにつれ、どこから這い出してきたのか巣の中が羽虫で溢れかえってゆく。
あそこを存分に破壊しつくせば、さぞ、スカッとするだろうと獣がそこまで考えたかは分からない。
結論から言えば、馬防柵に激突し、鋭利な尖端に刺し貫かれながらも獣の突進は止まらず拠点の内側へ侵入を果たしていた。
すべてはあっという間の出来事であり、騎士達の怒号が飛び交い、馬防柵で深手を負った獣がスピードを弱めたこともあって、ようやく対等な戦いが始まろうとしていた。
「……やれやれ。思っていたのとはだいぶ違うてしまったが、まあよいか」
暴れる四足獣の巨体から転がり落ちた影がいることに気づいた者はいまい。それが注意を引き付けるために狩り出すはずが、意に反して、しがみついたままここまで運ばれる――何とも格好の悪い事態に陥ってしまった経緯があるなど、誰が想像し得ようか。
再び大きく嘆息をこぼしてから。
共の者には決して知らせはしまいと心に誓って、その者――秋水は気を取り直して、手近で昏倒している南蛮武者のそばに寄る。
「やはり、木の葉を隠すなら森の中、だな」
兜を脱がせて手に持ちながら、秋水は油断なく周囲へ注意を払う。誰もが獣の対応に追われており、不審な人物の存在を認識できずにいるようだ。あくまで結果論にすぎないが、目的のものを捜すには、都合の良い状況になっている。
そこだけは己の天運を誇ってもよいかもしれぬ。
あまりに都合が良すぎるが。
それにしても、こんな“派手な攪乱”があっていいものだろうかと秋水は無精髭を軽くさする。
「……儂も親父殿の悪い影響を受けているのかもしれんな」
自嘲混じりの言葉を残し、秋水は装備を手に暗がりの中へと消えていった。
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