第40話 嗜虐のオズワルド

 背景として映り込む小憎らしいほど美しい星空をクローカスに愛でる余裕はなかった。

 目に映るのは、星明かりに煌めく金髪と、それとは対照的に陰となって表情が掴めぬ相貌の、さらに漆黒が際立つふたつの眼窩――そこに灯された生者とは無縁の蒼白き燐光に己が命運の尽きたるを思い知らされる。

 無論、黙って死を受け入れる軟弱な者が班長に任じられるはずもない。それが断たれた道に足を踏み出すようなものと知ってなお、クローカスは立ち上がらんと両足に力を込める。


「くっ――」


 だが動かない。すぐに二度繰り返すも空回りした気合いが口の端から洩れ出でるのみ。

 どうなってる――?

 つい先ほどまで溢れる闘志に応えてくれた肉体が、今は分厚い鉄扉で遮断されているかのように何も聞こえぬとばかり無言を貫き、手指の先さえぴくりとも動かせない。

 それが肌に絡みつく嫌な気配・・・・のせいだと察しても、その気配の正体が骸骨戦士から放たれる“生”に対する嫉妬や怨嗟といった“負の力”であると分かってはいても、己の肉や心を麻痺させる呪縛を解き放つ力になれはしない。


 『軽度心身喪失マイルド・インサニティ』――。

 この手の心療に精通する僧侶達が、積み上げた知見を体系化し経典のような分厚い一冊の本にまとめ上げた『魂の導きスピリチュアル・ガイダンス』を参照すれば、素人であってもクローカスの症状を的確に診断できただろう。

 平たくいえば“金縛り”のことであり、人種にとって生存競争が厳しいこの世界では、打撲や骨折の怪我と同様にもっともありふれた精神障害の一種にすぎない。

 その原理は『怪物』が放つ種々の“気配”とそれを被る側の“精神や肉体の状態”との相互作用によって、心身に異常状態バッドステータスの障害が起こるものであり、今まさに相手の剣技に畏怖を覚え、自分の分隊が追い込まれているのを目にしたクローカスの精神状態は軽度障害を――“表層の思い”とは異なり“心の奥底”では現実逃避しているがために肉体を操る力が薄弱してしまっていた。


 拠点にさえ戻れば、帯同している『執行者エンフォーサー』の祈りによって、軽度の精神障害は完治することも可能だ。

 だが、戻るどころか己の身体を満足に動かせないクローカスにできることは、騎士の矜持を精一杯視線に込めて、骸骨戦士を睨み付けることのみ。


 ――本当にそれだけか?


 心の片隅に灯る小さき抗いの炎。それが己の胸に刻んでいたはずの、忘れていた“大事な何か”を照らし出す。

 思い出せ。

 従卒時代に教えられたのは、“諦めること”ではなく“足掻くこと”だと。そして、騎士として戦場で悟ったのは、何者にも負けぬ強い意志こそが、時に理不尽さえも撥ね除ける力となり得る、ということを。

 戦場という命の奪い合いに死力を尽くす極限状態のただ中で、時に狂気に呑まれることなく育まれる絶対的な意志の強さ。それを手にした者がたった一人現れるだけで、置き去りにせねばならなかった村人を救出し、あるいは敵中に取り残された窮地を脱した“小さな奇蹟”を一度ならず二度、三度と少ないながらも目にした覚えがあったではないか。

 彼ら・・を駆り立てたものは何であった?

 か弱きもののため。

 あるいは肩を並べる戦友とものため。

 痛みを噛み殺し、林立する敵の槍に向かって肉体を投げ出していった者達の“熱気”を忘れるはずがない。

 あの熱を帯びた背中を。

 目にするたびに胸の奥を振るわされ、憧憬すら抱き、だが一方で同じ騎士でありながらと嫉妬さえ覚えて、そうして誓ったのではなかったか。ならば、敵を前に膝を地に着けている場合ではない。


 今こそ、この俺が――


 クローカスは剣を握る手に力を込め、思い切り腹筋を絞り込み、これまで自分に騎士の有り様を体現してみせ、戦場で散っていった先輩や同期達の姿を瞳に映し出していた。

 誰もが大口を開け、獅子のごとく咆哮する様を。

 覇気に打ち震えるその背中を。

 その先に示された細くとも輝かしい道筋を――


「――――っ」


 クローカスの身中から沸き上がる熱気が、精神障害の呪縛を内側から押し広げ、いとも容易く引き千切る。その力は無音の咆哮となって咽から迸り、確かに周囲の空気を振るわせた。


 “勇士の心ブレイブ・ハート”――それは騎士の証であり、叙任式の際に執り行われる儀式で付与される稀少な異能アビリティのひとつ。その効果は“当人の意志力を増強させる”ことであり、クローカスに呪縛解放の切っ掛けを与え、覇気の炎を燃え上がらせたのはまさに支援効果があったればこそ。

 無論、相応しいからこそ与えられ、それを誇りとするからこそ、より盤石となって力を発揮するのが“勇士の心ブレイブ・ハート”の特性だ。

 クローカス自身が積み上げた確かな基盤がなければ、精神障害に打ち勝てるはずがなかったのは確かであった。


 それは「“公国の盾”ここにあり」と気炎を上げたクローカスの意志に応えたものか。

 骸骨戦士が戦斧ハンド・アックスを振り上げるのとほぼ時を同じくして、骸骨戦士のより後方――敵集団の後方からふいに高い喊声かんせいが沸き上がり、続いて激しい剣戟音が響き始めた。


(ラクスウェル隊――!!)


 思わず固まっていたクローカスの表情が綻び、喜色を露わにする。搦め手として展開していた第二陣が、ようやく敵集団の背後に突撃をかけたのに違いない。

 できればもう少し早く仕掛けてくれていれば、クローカス班の分断もなかったであろうが、奴らを相手に思惑通りに進めようなど思い上がりもいいところ。

 それよりも、この状態からであってもまだ形勢の逆転が可能であることを素直に喜ぶべきであった。背を討たれた敵の意識はうまく反らされ、このチャンスに乗じて再び分隊を統合できれば挟撃の戦術が成立する――つまりは勝利したも同然だ。

 そこまでを一瞬のうちに思い描いたクローカスだが、すぐに信じられぬものを目撃することになる――意表を突かれ戦局が覆る戦術的一手を受けて、骸骨戦士の戦斧が何の動揺も示さず無造作に振るわれたからだ。


 ――――え?


 その一瞬、クローカスが困惑したのも無理はない。だが相手は思考せず感情も持たぬ『徘徊する遺骸リビング・デッド』。

 突然、背後を攻撃されようが意に介さず行動するのは当然のことであり、故に、希望に油断した若き士官の肩口に無情の一撃が叩き込まれる。


「……っぎい」


 生前は強者であったろう骸骨戦士の膂力と戦斧特有の重量感溢れる威力が相まって、想像を超える衝撃が猛るクローカスに苦鳴を洩らさせる。

 たった一撃で鉄鎧に護られた鎖骨へ斧刃を深く食い込ませ、クローカスの意識をほんの少し消し飛ばす。だが、それだけで骸骨戦士の怨嗟が満たされるはずもなく、戦斧を再び振り翳す。

 もう一度同じ箇所に喰らえば肺まで断たれ絶命は必至だ。それなのに仲間は両端に追いやられ、ラクスウェルは反対側にいるためにクローカスを救える者はいない。だが。


 ボッ――


  ――ボボッ

  ――ッボ


 唐突に、金髪を纏わり付かせただけの骨ばかりの顔面が大きくぶち抜かれ、そこから燃え上がった炎に頭骨全体が包まれる。同時に周囲にも炎の軌跡が何本も疾駆して、そこで初めて、己の周りに迫ってきていた『徘徊する遺骸リビング・デッド』がいたことにクローカスは気づかされた。


「すまん。詠唱が間に合わなかった」


 振り返らずとも隊長付の補佐官の声であることは分かる。彼が連れた召喚道士が窮地を救ってくれたのだと察して、クローカスは謝意を示すよりも先に要請を口にしていた。


「私より、他の援護を――」


 自分の代役は立てられようが、分断された隊が追いやられれば、第二陣との挟撃が成立せず敗北となってしまう。負傷したことも相まって焦りを覚えるクローカスに「無論、それが私の役目だ」と補佐官は落ち着いて応じる。その返事が合図であったかのように炎の第二波が乱れ飛び、こちら側へ背を向ける敵に正確無比に突き刺さった。そして刺されば驚くほどよく燃え上がり、そこだけ篝火が焚かれたような明かりを灯した。


 オォオォォ……


 それは遺骸の上げた苦しみか、安堵に思わず洩らした魂の嗚咽おえつであったのか。

 奴らにとって弱点でもある火精霊が、魔力が染みついた遺骨を変質させ、“宿体”としての機能を失わせることで取り憑いた魂が剥がされる。

 共感の資質を持つ者なれば、ふわりと浮き上がる薄い煙か靄のような“何か”を目にできたはずだ。そこに安らかに目を閉じる顔までも。

 祈りとは手段が異なるものの、これもまた魂をあるべきところへ昇天させる確かな対応策でもあったろう。

 数本の『火矢フレイム・アロー』を受けてくずおれた遺骸もあれば、走り寄ってきた騎士――補佐官の護衛役に違いない――の剣撃で留めを刺された遺骸もある。

 それが切っ掛けとなって、クローカス隊が押し返しはじめ、分隊が再び統合されるのもいよいよ現実的になってくる。


「貴殿は下がって治療を受けてくれ。隊は私が指揮を執る」


 穏やかだが有無を言わせぬ補佐官の声に、「せめて見守らせてください」とクローカスは後退を固辞する。


「……死傷者を出してしまいました。“魔境”に挑むための腕試し・・・――意図は承知していたつもりでしたが、やはり」

「手強いと?」

「はい」


 重々しく頷くクローカスに「当然だな」と補佐官は冷静に応じる。


「曲がりなりにも“魔境”に挑むだけの『探索者』――なれの果て・・・・・とはいえ、個々の戦闘力なら我々を凌ぐ者も多いはず。だからこそ、確実に糧となったろう・・・・・・・?」

「ええ、確かに」


 己の掌に視線を落とすクローカスの声には強い実感がこもっていた。


 他者の命を糧とする――それは決して比喩的な表現ばかりではない。ひとつの事実として、命を削るような行為によって己の魂が・・・・鍛え上げられる・・・・・・・ことがこの世界では認知されていた。

 それは肉体や精神などその者が有するあらゆる能力の限界値を、才能の枠の引き上げとなって表れる。その折、一時的に肉体組織が活性化するため、負った怪我が瞬く間に回復したなど驚くべき現象も報告されており、他にいかようなケースがあるのかを研究している者もいるという。

 当然、限界突破に魅了され、日々荒行に身を投じる者もいれば、あえて殺し合いを求める狂人が現れもする。

 だが、持って生まれた才能を使いきることさえ難しいのが実状だ。ただ闇雲に“器”だけ広げても見合うだけの力が得られるとは限らない。あるいはクローカス達軍人のように、日々鍛錬を怠らない者達であれば、別であったかもしれないが。

 

「貴殿も『昇格アンプリウス』できたのか?」

「……おそらく」


 物語のように妖精が旗を振って祝福してくれるか、あるいは明確な体調の変化が表れれば分かり易いのだが、現実はそうもいかない。

 それは“勇士の心ブレイブ・ハート”がもたらす熱気か、胸の奥底で湧き上がる何かの存在を感じているのは確かだ。

 補佐官と共に戦線から距離をとり、クローカスは鎖骨からくる激しい鈍痛に耐えながら、局面が理想の展開に入ったところを見守る。


「勝ったと思うな」


 痛みと疲労が安易な気持ちに泳がせたのか。あるいはどうしてそれに気づけたのか。クローカスの心の隙を補佐官が一瞥もくれずに鋭く指摘する。

 はっと閉じかけた瞼を強く開き、クローカスは短く謝罪する。

 確かにこちらの描いた盤面通りに挟撃の形が完成した。だが、小規模集団の戦いにおいては、先の『怪物』をベースにした『徘徊する遺骸リビング・デッド』のように、たったひとつの駒で戦局がひっくり返るのは珍しいことではない。念押しでもうひとつの分隊を待機させておいてもおかしくない状況ではあるのだ。

 そうしたことを弁えている補佐官の懸念が当たってしまったらしい。


「……おい、向こうの様子がヘンだぞ?」

「あれは……ラクスウェル隊のもっと……後方?」


 馬上にある召喚道士のひとりが、懸命に目を凝らして見たものをそのまま口にする。敵の背後をとった彼らのさらに背後をとるなど……そこまで思った全員がおそらくは同じ結論に達したのは当然であったろう。


「――まだ後続がいたのか・・・・・・・・・!」


 常に泰然としていなければならない補佐官が、思わず動揺を声に含ませていた。今ならば、集団の隙間の後方で閃く銀灰色の線を垣間見ることもでき、同時に聞こえてくる苦鳴がラクスウェル隊の劣勢を確かなものと伝えていた。


「マズイ……相当の手練れだぞ」


 発せられる剣閃は一度や二度ではない。それだけの剣技スキルを連発できる者、あるいは者達に背面攻撃バック・スタブを仕掛けられたラクスウェル隊はたまったものではないだろう。

 本当に一瞬で戦局が覆されたと知ってクローカスの疲労による眠気も一気に消し飛んだ。


「隊長に救援を」

「……」


 ひどく固い声で補佐官が口にしたのを命令だと気づけなかったらしい。


「救援の合図を送れと云ってるっ。今すぐにだ!」

「は、はいっ」


 慌てて召喚道士が短い詠唱をはじめ、夜空に向かって『火矢フレイム・アロー』を打ち上げる。それを目視することなく補佐官は別の指示を放っていた。


「ラクスウェル隊に退却を合図しろ! クローカス隊はその場で堅守。ラクスウェル隊の動きに合わせて後退させるぞ。見誤るなよっ」

「合流して戦線を維持させないので?」


 クローカスの質問に補佐官は「新手の後続部隊を見極めるのが先だ」と理由を話す。幸い、奴らの移動速度は欠点といえるほどに速くない。距離をあけて観察する時間はとれるとの判断だ。


「こんなことで余計な損耗を被るのは御免だ。ああいう・・・・手合いを相手にして喜ぶのは『俗物軍団グレムリン』の連中ぐらいだろう」


 面白くもなさそうに補佐官は吐き捨てる。悪戯に兵力を損耗させる指揮官とは違って、冷静に兵の運用を考えてくれるのはありがたいが、この上官もまた、騎士の大半にありがちな差別意識を持っているのだけはクローカスとしては不快に感じる。

 戦いに関するアプローチが気に入らないからといって、救国の英雄達を軽んじるのは騎士としてどうかと思うのだが、ここで口論しても始まらないことは彼にも十分わかっていたからだ。


「そろそろ退くぞ。貴殿は先に下がっててくれるか」

「お言葉に甘えさせていただきます」


 それが指示だと察してクローカスは辞去した。搬送用の馬上に乗るのを補助してもらい、片手で手綱を操って拠点を目指す。

 身体が上下動するたびに激痛が意識に鞭を打つため気絶しなくてすむのだが、拷問のような状況に何度心が折れそうになったか分からない。

 「しばらく馬に乗れないな」と頭の片隅で感じつつ、拠点までの道のりをクローカスは必死に耐えるのだった。


         *****


 もう限界だ。

 たまらず手近の樹木に手を突こうとして、グリュネの手は身体の重みに耐えられず、樹皮の上を力なく滑って体当たりするように肩からもたれ掛かってしまう。


「ぜいはぁ、ぜいはぁ……」


 これ以上は無理だと心臓が悲鳴をあげ、激しく脈打つ血流のリズムに合わせてギュッギュッと頭が締め付けられているようだ。

 あまりに浅く速い呼吸の繰り返しに肺が痛くて涙がにじみ、ちょっと立ち止まるだけのつもりが、いつまでたっても荒い呼吸の乱れが収まる気配をみせず、むしろ、このままへたりこんでしまいたくなってくる。

 せっかく吸い込んだ空気を、ただ口の外に送り返しているだけの繰り返しに、それでも「苦しい」以外の思考や感情は今のグリュネに湧き上がることはない。


「ぜいはぁ、ぜいはぁ……」


 今、背後で何かの音がしたような気がしたが、気のせいだろう。いや、「気のせいだ」とグリュネが思い込みたいだけだ。

 まだ大丈夫――。

 立ち止まってからさほど時間も経っていないし、疲労の極みで足取りは重く覚束なかったものの、それでも奴らとはある程度の距離を稼いだはずだ。

 体力の回復薬を使いきっている以上、自力で回復するしかない。


「ぜい、はぁ……っぜい」


 思い切って一度呼吸を切り、少し待ってから意識的にゆっくり息を吐き出す。

 深く吸って息を止め、また、少し間を置いてからゆっくりと吐き出す。それを三度グリュネは繰り返した。

 カターシャが教えてくれた調息おまじないだ。たかだか息を整えるだけのことに、何か特別な方法論が確立されているはずもなく、自分で“カターシャ流”と吹聴していたから、あくまで経験に基づく我流なのだろう。それでも数度繰り返せば、不思議と呼吸が楽になったような気がする。


「カターシャ……」


 目尻に涙が滲むのは、呼吸の苦しさばかりではない。

 腕に覚えあっての殿役しんがりやくであったのが、不運にも『銀翼級』の『徘徊する遺骸リビング・デッド』まで出現し、激闘の末に『水鳥』のメンバーは倒され、カターシャはその命を盾に班長であるグリュネを逃してくれたのだ。


班長あんたがいれば『水鳥あたしら』はまた飛べるだろ?」


 魅力的な三日月の笑みを浮かべて、女戦士はそう願った。けれども。


「……あんた・・・がいなくて……」


 どうして飛べるというのか。


 ヤミィ。

 リューリス。

 ビュッテ。


 カターシャ以外の三人も『水鳥』になくてはならぬメンバーだ。女性だけのパーティに偏見の目を向けられる苦労を共に乗り越え、上位陣の仲間入りを果たすことで、ようやく誰からも認められるようになったのに――彼女たちと歩む栄光の道は、まさにこれからだと思っていたのに。


「私だけ、生き残っても……」


 さらに溢れ出す涙を拭うこともせず、すっきり通った鼻先に水のような鼻水が珠をつくって滴り落ちるままにする。

 自然と嗚咽が漏れるのは、いつ以来であったろう。

「――――!!」


 その瞬間、あれほどよろけて・・・・いた弱々しさが嘘のようにグリュネは風を巻いて素早く振り返っていた。

 それが『探索者』としての習性か、いかに哀しみに暮れていようとも、異変を察知した途端、無意識に身体が反応してしまうのだ。

 月光があまり届かない森の中、『片翼』の身体能力をもってしても夜目が利くわけではなく、目にする限りでは不穏な影を見出すことはできなかった。

 それでもグリュネは油断することなく懐からゆっくりとか細い短剣をつかみ出す。命綱であるはずの精霊の杖スピリチュアル・ワンドはその手になく、逃げるまでの激戦の最中、どうやら落としてしまったらしい。


(気のせい……? ――ちがうっ)


 一瞬ゆるみかけた緊張をグリュネが再び締め直したのは、今度こそはっきりと草擦れの音を耳にしたためだ。

 やはり追いつかれたのか。

 せっかく仲間が命を賭して逃がしてくれたものを、現世の法則に縛りきれない連中ならば、進行速度の遅さなど大した欠点にならないということか。

 だが、女戦士カターシャの思いを踏みにじられたような気がして、グリュネが憤りを覚えたのは確かだ。


「いいわ……ここで決着をつけましょう」


 感覚的には、奴らの三割程度を足止めしポルトフ達を逃す役目は十分に果たせたはずだ。そして、おそらくは『銀の五翼』のメンバーらしい三体のうち誰かが追いかけてきたのに違いなく、ポルトフ達が逃げ切る可能性はさらに高まったといえよう。

 最低限の先輩としての矜持は保たれたと知って、グリュネはほんの少しだけ肩の荷が軽くなったような気がする。


「これで死んだら、化けて出るわよ……?」


 鼻につく言動も、懸命に一人前たらんとする故と知れば、どこか憎めない若者の面影に別れを告げてグリュネは覚悟を決めた。

 ここで少しでも粘って若手の生還に寄与できるなら、力尽きたとしても、皆に許してもらえるのではとの期待を抱きながら。

 果たして、正面から近づいてきたのは、紫斑が多くともまだ腐敗が目立たぬ大柄な戦士。奴らの中では一段強い“魂縛の遺体ボディ・オブ・ソウルトラップ”だ。続けて――


「もう一体……」


 右斜めにある樹木の陰より、新たな腐肉付きの軽装戦士が現れてグリュネの表情が険しくなる。

 大柄な戦士は太い二の腕に相応しい両手持ちの戦斧グレート・アックスを握りしめ、鎧の右肩には銀で描かれた“五つの翼”が、夜だというのに誇らしげに輝き目立っている。

 そしてもう一人の戦士は円盾に小剣という珍しい組み合わせ――だが、その短めの剣身がゆるやかに波打つ独特のシルエットとそれ自身が殺気を放っているような見た目の冷たさに、グリュネの奥底で立て付けが悪くなっていた記憶の引き出しが、無造作に引き出された。それこそが、彼女の血色を悪くさせている要因でもある。


 “嗜虐のオズワルド”――。

 中核都市ミューゼンで“十三家殺し”として名高い殺人鬼が、刃物の切れ味を試すためだけに三年で十三の家族を惨殺した痛ましい事件があり、その容疑者だった男に付けられた異名だ。

 妻が彼の仕事場であった鍛治場で「ついに完成した」との置き手紙を発見したことから容疑者として捜査線上に浮上することとなったが、彼の失踪と共に事件が途絶えたこと以外の因果関係はなく、そのまま事件は迷宮入りとなっている。

 そんな情報の少ない事件とすぐに結びつけたのは、グリュネが一般に伏せられていた資料を閲覧したことがあるからだ。

 当時、勇名を馳せていた『水鳥』が協会ギルドを通して捜査協力の依頼を受けたからだが、鍛治場に残された失敗作の数々と図面が、今目にしている形と非常に似ていた――いや、同じタイプでフランベルジュがあるのは彼女も知っているが、それよりもずっと小型化されたものは武具屋でも見たことはない。

 「『引き裂くものティアリング・ソード』――こいつ・・・がいかに素晴らしい逸品かを俺が証明してみせる」――妻が発見した手紙には狂気としか思えぬ文面も記されていたのだが、更なる殺人劇の予告とも捉えられ、捜査当局によって厳重な箝口令が敷かれていた。結局、さらなる惨劇の幕が上がることはなく、記憶の隅に追いやられることとなっていたが。

 あの時受けた戦慄は、今でも忘れられない。つまりは――


 間違いなく、あれがそうなのだ・・・・・・・・


 口の中が乾いている。

 いまだ息を乱しつつ、グリュネは出もしない唾を呑もうと何度も咽を動かすがうまくいくはずもない。

 ゆるりと迫る五翼の戦士よりも、どうしても不気味な戦士の影にグリュネの視線は囚われてしまう。


「……何の因果かしらね」


 記憶によれば、オズワルドは斥候の元探索者。変則的な戦士の格好も彼なりに小剣を活かそうと戦闘スタイルを模索した結果なのだろう。

 まさか、作品の出来映えを証明するために、身元を隠し復帰までして、挙げ句、こんな“魔境”の地に入り込み朽ち果てていようとは。

 そして、それを捜査側にいた自分が追われる立場・・・・・・となって出遭ってしまうとは、何とも皮肉がきいている。

 だが、こうなってしまうと決意を決めた状況が大きく変化したことを認めないわけにはいかなくなってくる。

 つまりは“仕切り直し”――。

 あいつ・・・は『水鳥』の獲物であり、取りこぼした仕事は唯一の汚点といってもいいだろう。それを処理せず旅立って・・・・しまえば、それこそメンバーに合わせる顔がない。


「これは……意地でも死ぬわけにはいかないわね」


 再度の決断も早かった。

 嘆息ひとつで前言を撤回し、闘志に燃える瞳でグリュネはオズワルドを睨み据える。


 オズワルドとの因縁。

 メンバーの思い。


 死ねぬ理由が増えてくれば、自分に都合良く解釈するのも徐々に難しくなってこようというものだ。


(こんな偶然……カターシャ、まさかあんたの仕業・・・・・・じゃないでしょうね?)


 五翼の戦士の利き手を見極め、攻撃の軌道に樹木が入り込むよう傍らに立つ。それで一手防ぎつつ、グリュネはオズワルドの迎撃に集中する。

 前衛がいない不利はあっても、敗北が確定するわけではない。自分にとっての勝利条件を冷静に見極め、最善の策で勝利を呼び込む――班長としての指揮統制の経験をグリュネはいかんなく発揮する。


(勝たなくていい)


 ヤツの足を削って動きを止められれば、あとは逃げに徹すればよい。相手が一人なら逃げ切る自信はある。ついでに、事の顛末を捜査当局に伝えれば、晴れて事件は決着を迎えることになる――いや、何かの証拠だけは持って帰らねばならないか。

 できれば『引き裂くものティアリング・ソード』を。

 何か余計に厄介な話しになったような気もするが、何とかするしかないとグリュネは腹を括る。

 だが二対一の状況で、その上、だいぶ疲労が溜まっており術の回数が限られるという状況に軽い絶望感は否めない。

 グリュネが得意とする地の精霊ならば、少しは回数が上がるという程度。特に子供の頃から得意だった“転がし”ならば三回、いや四回は使えるか?


(ええい、もう、やるしかないのよっ)


 まるで申し合わせたように二体が同時に近づき、大柄な戦士が大型戦斧グレート・アックスを持ち上げた。

 狙い通り――。

 だが、グリュネの背に悪寒が走り、樹木の盾があるにも関わらず思わず一歩後ずさる――それで命拾いしようとは。

 唐突に銀灰色の刃線が放たれ、ズカンッと盾替わりにしていた樹木が見事に両断されていた。


 ――え?!


 気づいたときには、グリュネの目の前を走り抜けた斧刃が大地に深く切り込んでいる。間違いなく斧技スキルの発動結果だが、技の出鼻を感じ取れないのは厄介だと悟る。

 通常、過度な精神の集中が使役者から感情を拭い去り、それ故に独特の無表情や感情のない瞳によって“技の出鼻”を察知するのが高レベル者達の共通したコツなのだが、死体が再起動してるだけの連中には、はじめから感情がないために判断つかないのが非常に厄介なところであった。

 他にも手段がないわけではないのだが、近接戦のプロでもない者にとっては対応策がなく、すべては運試しというのが現状だ。

 ズリズリと斜めに幹が滑っていき、バサバサと枝葉を鳴らして樹木が倒れていく。あまりの豪快な結果にグリュネも驚き身を固めてしまう。


「あ……ふぐっ……」


 気づけば口中に血の味が広がり、息苦しさにグリュネは喘いでいた。わけも分からず血を吐いて、そこで鋭い痛みに鼻を押さえれば、ぱっくりと切り裂かれていることに初めて気づく。

 先の斧の一撃がグリュネの鼻梁を真横にすっぱり斬り裂いていたのだ。


「ぐぶ……は」


 マズイ。これでは術の行使に精神を集中させることができない。だが慌てる間もなく、右から痩身の影が迫ってきており、禍々しい剣身を見せびらかすようにして、女体を切り裂ける歓びに奮えているように見えた。


(逃げ――間に合わないっ)


 ピウンと独特の風切り音を鳴らして、オズワルドの小剣がグリュネの腕を切り裂く。

 避けたのではない。

 最初から腕狙い――要はなぶられているのだ。

 “生前の嗜好”というのでなく、あくまで染みついた戦い方を再現しているだけなのだが、“嗜好の再現”としか思えない嫌らしい戦法にグリュネは嫌悪感を覚える。

 相手の右手を左手を使えなくしていき、足を止めさせ、やがて棒立ちの身を切り傷で埋めていく。

 小剣のスピードを活かし、隙を見て急所を突く戦法は標準的技法のはずなのに、オズワルドがやると嗜虐的なものになるから不思議なものだ。

 いや、“十三家殺し”の時もそうだった。まるで使える部位を余すところなく丁寧に、都合124箇所を切り傷で埋め尽くされた遺体は、老若男女の分け隔てなく殺人鬼によって使いきられて・・・・・・いたのだから。


「……血が止まらない」


 傷口はきれいに見えるのに、切り傷から流れる血がさらさらなままであることにグリュネが気づき戸惑う。

 『魔術工芸品マジック・クラフト』ならばいざ知らず、普通の鍛冶師が造るものにそのような追加効果があるはずがない。その手の『遺失技術』は百年以上も前に絶えているからだ。ならば――


「呪い……? 武器ではなく、あくまで呪具ということ?」


 寒気のする考えにグリュネの顔色はさらに悪くなる。特殊な技能を持たないオズワルドの狂気の執念が生んだ産物だなどと、不快極まりない考えをグリュネは強く振り払う。

 とにかく逃げに徹すべし。

 次々と手近の樹木に身を寄せて、二体の攻撃が連繋にならぬよう、同時に捌かなくてもいいように動き回るがオズワルドの狂剣を避けることはできない。

 両腕に浅い傷が無数に付けられ、流れ続ける血で真っ赤に染まり、ついには短剣を取り落としてしまう。


「くっ……」


 せめて呼吸さえ楽になれば。

 とん、と背中にあたる樹木に逃げ道を阻まれ、戦士が左をオズワルドが右に並び立ち、ついにグリュネが進退窮まったその時。

 意外にもオズワルドの速さを凌駕して大柄の戦士が大型戦斧グレート・アックスを振り下ろせば、ふいに、踏み込んだ足がガクリと折れて、斜め切りの軌道が縦に変化した。そのままグリュネの右そばを豪風が唸って大地に叩きつけられる。


「――ひっ」


 思わず身を竦めるグリュネの視界の端で、オズワルドが何やら味方であるはずの戦士に向かって小剣を振り翳すが、彼女にはもはや認識することもできない。

 ただ、動体視力が追いついていれば、閃く小剣に戦士の背後から伸びた影が刃を合わせて弾き飛ばしたのを捉えていたはずだ。そして、さらに伸びた影の足がオズワルドの痩身にめり込んで吹き飛ばした結果さえも。

 すべては一瞬の出来事で起こったことであり、グリュネが理解できたのは、片膝つく五翼の戦士と寝転がる殺人鬼が無様な姿を晒しているその事実だけであった。


「…………」


 一体何が起きたというのか。

 だが、呆然と佇むグリュネの前で、突然現れた第三者による戦いはまだ終わっておらず、むしろこれからであることを思い知ることになる。

 初めに反応したのは、片膝着いた姿勢のまま、片手で無造作に重量級の戦斧を振るった五翼の戦士。グリュネが知る限り、『銀翼』手前の『白羽』に達した彼の膂力は常人の域を超えたところにあるはず――それを謎の第三者もまた、無造作に肘を蹴りつけ豪腕を抑え込んでしまうとは。

 その隙をまるで狙っていたかのごとく、オズワルドが踏み込んでくるのを第三者が何かを投げて迎撃する。


 キンッ


 掲げた円盾で火花を散らして、間合いに入り込んだオズワルドがすかさず自慢の小剣を一閃、二閃させた。


 ピピゥ


 口笛のような独特の斬撃音を発する速撃に、だが、視認しているとしか思えぬ器用さで、第三者は腕を揺らし上半身を捻ってきれいに回避してみせる。無論、それに動じぬ『徘徊する遺骸リビング・デッド』――さらに二閃させるに応じて、第三者が戦士の肘を土台に蹴り上げ、瞬時に間合いを外してしまう。いや、オズワルドの真横に跳んだのだ!

 次に起こった出来事は、もはや二体が生前の知覚力を持っていたとしても認識することは叶わなかったであろう。


 意表をつく第三者の跳躍に、それすら動揺も見せずにオズワルドが真横に剣技スキル『朧月』――最速の水平切りで剣先僅かに真空刃を生み出し、間合いを騙す上級技――を放ち。

 その疾風に合わせるように身体を水平に寝かせて跳躍し、第三者がかわしたところで。

 遅れて頭上から唸り下ろされてきた大型戦斧を、さらに宙で身を捻ってやり過ごす電光石火の曲芸に、視認できる者がいたならば、もはや驚愕どころか呆れ返っていたに違いない。


 もはや人間業ではないであろうと。


 確かにその認識に間違いはなかった――小剣を持ったオズワルドの手が、トサリと地面に落ちるのを目にすれば。


 避けるだけでも信じられぬのに。


 いつの間に、第三者は反撃を試みていたのか。

 その一場面のみ削除されたかのように、気づけばオズワルドの背後へとその者が通り過ぎていたときには、殺人鬼の首はその罪を罰せられたがごとく胴体から切り離されて草地の上に転がっていた。

 まるで兜が転がっているような無機質さが、状況の異様さを際立たせている。


「……我ながら甘すぎるな」


 大型戦斧を構え直す戦士へと振り返り、その男・・・は独りごちる。今し方見せた凄まじいばかりの戦い振りに何も感じるところがないのか、ため息さえつきそうな声にいくばくかの後悔さえ窺わせるとはどういう神経の持ち主なのか。

 体格のいい戦士に比べれば長身痩躯と見えてしまうが、袖無しから除く腕は太く肉の筋は見事に浮き上がって秘めた剛力の凄みを感じさせるものがある。

 限界まで絞り込まれた肉体だと思えば、先の動きもむしろ納得しようというものだ。


「…………」


 何度も修羅場を潜り抜けてきた経験からすれば、助けてもらったのだとはグリュネにも理解できる。だが、何か言おうと口を開くも言葉が出ないのだからどうしようもない。

 あまりに想像を絶する出来事があっという間に起こったために、単純に思考が追いついていないからだが、これはやむを得ないというものだ。

 結局、嘆息を洩らして諦めたグリュネに男の方から声がかけられる。


「ここは任せて、先に行け」

「え、いや一緒に」


 戦うと言いかけてグリュネは口を噤む。どうみても足手まといになると気づいたからだ。


「気にするな。これは自己満足だ」


 口にした男の顔面に斧刃が叩き込まれて――それが残像であると気づいて、思わず口を押さえたグリュネが肩を落とし、大きく息を吐き出す。

 軽いバックステップをしていた男は、すぐに元の位置へ踏み出し二歩目でまたも残像の首を豪風を纏う斧刃が斬り飛ばす。

 恐るべきは重量級の武器で連撃を仕掛ける五翼の豪腕か、残像を錯覚させる俊敏さで回避してのける男の方か。

 結果からすれば、男は狂いなく一定のリズムで踏破してのけ、一流の戦士を相手に難なく懐まで入り込んでしまう。

 そこで、わざわざ立ち止まる大胆さよ。


「死んだ上に、女を虐めるなんて……憐れだな」


 いきなり飛んできた意表をつく蹴り足へ、男が半身で踏み込み、次の瞬間には戦士が派手にすっころばされていた。

 すぐさま男の踵が戦士の顔面へ叩き込まれ、続けて全体重を載せた一撃を留めとばかり踏み降ろす。

 ただそれだけ。

 それで呆気なく戦いが終わりを告げた。


「……なんてひと


 ようやくグリュネが口にできたのはそれだけだ。思考力が欠如してるとはいえ、『百羽』に達した戦士と稀代の殺人鬼を相手に、ほぼ何もさせずに一蹴するなんてことがあるだろうか。

 戦いにすらなっていない。

 そんなことが――。


「……まだいたのか」


 ちらと一瞥をくれる男に、そんな状況ではなかっただろうと憤ったのを呑み込んで、グリュネは今度こそしっかりと「助けてくれてありがとう」と何とか礼を述べる。

 もう少し気の利いたことを口にしたいが、まだ頭が混乱していて何を云えばよいのか分からないのだ。そんな彼女の気も知らぬげに、「云ったろう、自己満足だと」男は素っ気なく応えて顎をしゃくる。


「?」

「この森は危険だ。早く逃げた方がいい」

「まだ奴らが……?」

「いや。もっと怖いのが来るからさ」


 冗談なのか、ちょっと笑う男に眉をひそめつつグリュネは問いかける。これだけは知っておかねばならないことを。


「私はグリュネ。公都で『水鳥』というパーティを率いていたわ。貴方は……どこのパーティ?」

「ぱーてぃ? ……それは分からないが、秋水という」


 暗がりではっきりしないが、あまり見たことのない顔立ちであることにグリュネは今になって気づく。そういえば言葉も何かおかしい気が。


「それより早く行け。外で争いがあるから巻き込まれるなよ」

「貴方は行かないの?」

「やることがあるのでな」


 そう云うや秋水が森の奥へと歩き始める。


「ちょっと――」

「気をつけろ……もう二度と会うことはないだろう」


 止める間もなく秋水の影が小さくなり、すぐに見えなくなってしまう。

 まだよく顔も見ていないのに。

 勝手に助けて勝手に去ってしまい。

 何だかもやもやして気持ちが晴れないまま、気づけば夜の森の中、グリュネだけがただひとり。


「……夢ならいいのに」


 無性に寂しさが湧き上がってきて、グリュネは強く首を振った。森の外へ顔を向ける。とにかく奇跡的に拾った命だ。ぐずぐずしないできちんと生き残らなければと気持ちを強くする。

 オズワルドの凶器やついでに戦士の遺留物も漁らせてもらいつつ、グリュネはようやく“魔境”からの脱出を果たすことになる。


「ふぅ……何か空気がおいしく感じる」


 鬱蒼たる樹林帯から抜けだし、開放感をいや増す夜空にほっと胸を撫で下ろす。疲弊しきった心身に目に映る夜景がなぜか涼やかに染み渡る。

 だが、それも一瞬の出来事にすぎない。なぜなら、今の気分もすべて台無しにするような喧噪が、丘陵地を下った先で巻き起こっていたからだ。


「あれは……騎士団? どうして? え、奴らと戦ってる……?」


 ひどく当惑するグリュネの耳にさらに混乱させるように不気味な咆哮が駆け巡った。

 知っている。

 遺跡で遭遇したことのある大型の『怪物』に似た咆哮。それはグリュネの位置とは別の位置――“魔境”の奥から響いてくる。


「まさか……あのひとが云ってた怖いもの・・・・


 まだ助かっていないのだと気づいた絶望感を味わいながら、グリュネの足はしばし動かすことができなくなっていた。

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