第12話:初めての責任、取ってもらうから



「はぁ、はぁ……」


 自室に逃げ込んだ亜衣はつい先ほどの行為にドキドキしていた。

 とくん、とくんと早まる心臓の鼓動。

 自分の胸に手を当てて、ときめく心を何とか押さえこもうとする。


「嘘でしょ……伊月とキスしちゃった?」

 

 これは夢か、現実か。

 その判断をしようにも思考が追い付かない。


「キス……私と伊月が……」


 あまりにも突発的な行動だった。

 家に来ているとは思わず、うかつにも久しぶりに顔を合わせてしまった。

 あの事件以来、避け続けていたのに。

 その後、彼に押し倒されてからのキスまでの流れは想像すらしていなかった。

 不意打ちだったゆえに心の準備も何もできていなくて。


「……バカ伊月のくせに」


 真っ赤になって照れる彼女は自分の唇を指で撫でる。

 唇が触れた瞬間に身体は電気が流れたかのように痺れた。


――あんなの初めてだったわ。


 亜衣にだってキス自体に憧れもあった。

 ファーストキス。


――伊月とはいつかすると思っていた。


 夢が現実になった。

 嬉しくてつい自分からも彼を求めた。

 理性を失いかけて、ただ衝動に身を任せて。

 しかし、冷静になってみればあることに気づく。

 問題なのは伊月の心だった。


「これって偶発的な事故みたいなもの。まだ恋人ってわけじゃないわよね」


 亜衣にとっても、このシチュエーションは想定外だ。

 恋人になり、それなりの雰囲気でキスされるとばかり思っていた。


「私にキスしたってことはアイツも私を好きってこと?」


 両想いならこれを機に、恋人にステップアップすることもできるが。


「でも、伊月の事だから単純にエッチな意味で、相手なんてどうでもよかったのかもしれない。……その可能性はあるわよね、うん」


 想いを確認しあっていない今は素直に喜ぶのはまだ早い。

 ここで、相手の想いを勝手に想像し思い込むのは簡単だ。

 けれども、亜衣はそういう単純なタイプでもない。


「まだ好きだと言われていないんだから」


 確証がない亜衣にとってはそれが何よりもまず、考えてしまうことだった。

 キスの余韻がまだ身体に残っている。

 初めて異性と唇を交わしたあの瞬間が忘れられない。

 だけど。


「……とりあえず、服を着よう。くしゅんっ」


 彼女はまだ自分がタオル一枚の姿という事を忘れていた。

 普段は冷静な彼女だが思いの外、動揺しまくっているようだった。





 私服に着替えて彼女はベッドの上に座る。

 近くに置いてある猫のぬいぐるみを抱きしめながら、


「……衝動的とはいえ、あんなことをしてしまうなんて」


 静かな部屋で彼女はひとり言を呟く。


「そもそも、なんでここにいるわけ?」


 数時間前に『興奮した』発言で彼女の中での好感度は微減している。


――アイツがすぐに謝りに来ることなんてあったっけ?


 普通ならば不機嫌な亜衣に対して一晩置いて、翌日の再アタックが伊月の行動だった。

 なのに、こうも短時間に二度目の訪問がされるのは珍しくもある。


「それだけアイツも気にしてくれているってことなのかな」


 そこを嬉しく思ってしまう微妙な乙女心。

 微笑する亜衣だが、「でも……」と言葉を区切る。

 

「こんなことになって、私達の関係は変わっちゃうのかな」


 何かが変わることへの期待。

 何かが変わることへの不安。


「それでも、何も変わらなかったらどうすればいいの」


 幼馴染としての関係を変える機会はこれまでもあったはずだ。

 だけども、居心地がいいだけの理由で彼女達は次へと進まなかった。


――関係を変えることよりも、関係を失うことが怖いから。


 亜衣にとってはそれが何よりも怖いことだった。


「好きって早く言ってよ。私を安心させてよ」


 ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、


「……じゃなきゃ、許してあげない」


 初めてのキスを奪ったこと。

 亜衣にとっては早く心の不安から解放されたい。


「それにしても……遅くない?」


 そろそろ、亜衣の部屋に伊月がきてもおかしくない。


「すぐに謝りに来るはずなのに。罪悪感、抱いてない? まさか、逃げた?」


 冷静さを取り戻せば、伊月ならばきっと行動について謝罪しに来る。

 亜衣はそう考えていた。

 しかし、いくら時間が経ってもその気配がない。


「……伊月。許してあげるから早く来なさいよ」


 彼女は怖くなって自分から部屋の外へと足を踏み出した。

 頭でいくら考えていても、不安が消える事なんてないのだから。

 隣の部屋はまだ電気がついている、伊月はまだそこにいるようだ。

 彼女は音をたてないように、扉をこっそりとあける。

 そこにいたのは――。


「お前らは無邪気でいいよな。見てるだけで癒される」


 子猫とじゃれ合う伊月の楽しそうな姿だった。


――な、何をしてるのよぉー!?


 信じられないとでも言いたげな亜衣は唖然としてしまう。


――ば、バカ伊月~。猫とじゃれあってるんじゃないわよ!


 自分がどれだけこの短時間に悩んでいたのか。

 そのことがバカらしく思えるほどに。


――私がどれだけ不安になったと思ってるのよ。バカ……。


 不安と安堵、入り混じる複雑な気持ち。


「――追いかけてこないと思ったら、猫と遊んでるんじゃないわよっ!」


 亜衣は伊月に怒鳴りつけて、彼に迫る。


「ご、ごめんなさい」


 素直に謝るしかない伊月だった。


「人がどれだけ……」

「どれだけ?」

「そこに突っ込むなっ。もうっ、バカ、最低っ。私に何をしたと思ってるの」


 伊月は軽く視線をそらしながら「えっと」と言葉を選び、


「……キスしました」

「無理やりが抜けてるわ」

「うぐっ。ま、待ってくれ。亜衣からだってしたくせに。強制じゃなかった」


 キスをしてしまった。

 どんなに言い訳しても、その事実は変わらない。


「……は、初めての責任、取ってもらうからね」


 亜衣は唇を尖らせて拗ねるような口調でそう告げた――。





 その頃、リビングで咲綾と遊んでいた保奈美は凛花に電話をしていた。

 お店の営業時間も終わる頃のタイミングを見計らって、


「そう。伊月君と咲綾ちゃんが家に来てるの。うちの娘と話し合いの最中よ」

『あー、ホンマかぁ。伊月もずいぶんと亜衣ちゃんの事、気にしてたから』

「そろそろ2時間くらいになるけど、まだ下りてこないわ」

『長期戦か。あんまり遅くなるようやったら伊月は追い出してもかまわんで』


 ソファーに座る保奈美の膝の上で咲綾は眠ってしまっている。

 猫と遊んでいるうちに眠たくなってしまい、そのまま寝てしまった。


「明日は休日だし、問題はないでしょ。あの子たちは今、大事な時間だと思うの。この問題を解決できるなら、深夜になっても話し合うべきよ」


 娘の事を想う保奈美としては反対する理由がない。

 

『保奈美ちゃん、ごめんやで。片付けが終わったらすぐに咲綾を迎えにいくわぁ』

「ゆっくりでいいわよ。咲綾ちゃんの寝顔は見ていて可愛いし。そうだ、旦那も帰ってきてるから、たまにはゆっくりとお酒でも飲まない?和樹さんも呼びなさいよ」

『それもいいなぁ。……ねぇ、和樹クン、これから保奈美ちゃんところへ行く?』


 電話越しに凛花の旦那である和樹|(かずき)を呼ぶ。

 家族ぐるみの付き合いがある滝口家と小倉家。

 妻同士が友人であるとともに、旦那同士も気が合う良い友人関係を築いてる。


『オッケーやって。それなら、これからふたりで行かせてもらうわ』

「うん。用意して待ってるわ。咲綾ちゃんはお布団の方に寝かしておくわね」

『保奈美ちゃん、ほんまありがとうなぁ』


 友人の計らいに感謝する凛花はそのまま電話を切る。

 その時、2階から「バカ伊月ッ!!」と亜衣の叫ぶ声が聞こえた。

 どうやら怒っているような声が響いてくる。


「あらあら。ふたりは喧嘩中かしら?」


 それもいいと保奈美は思う。


「想いは言葉にしないと伝わらないんだから。ぶつかりあうしかないのよ、亜衣」


 普段は大人しく、言葉も少なめな亜衣。

 想いを抱く相手にしか我が侭な本当の自分をさらけ出せない。


「我が侭なのに、それをさらけ出せるのが伊月君しかいないの。それに気づいてる?」


 思わず口元には微笑さえ浮かんしまう。


「早く、自分に素直になりなさい。そうすれば、亜衣も楽になれるのに」


 ぐっすりと眠る咲綾を抱きかかえて、保奈美は別室に運ぶ。


「ふふっ。亜衣もこんなに小さな頃があったのにねぇ。子供の成長は早いわ」


 子供の成長を見守る。

 そんな保奈美は昔の小悪魔系美少女ではなく、母親としての顔をしていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る