第5話 第一部 南方編 亶州 1891年11月4日-2

 扉を抜けると短い廊下となっていてその先は中庭に面した廻廊に成っていた。

「支部長が奥にいるわ。遅れたけどあたしは副支部長のキャナル…それにしてもあんた大した自信だね」

「自信とかの話じゃない。最初の約束は守ってくれってだけだ」

「まあ、良いんだけどね…」キャナルはそれきり黙ってしまう。

 処置無しと言う事らしい。


 満月に照らされた石畳の中庭は静かで先ほどの喧騒が嘘のようだった。昔から此処で教練が行われて来たのだろう、石のほとんどは表面が摩耗したり割れたりしていた。

 庭木の影を踏み越えて俺たちは中庭の突当りの灯りの漏れる建物に向かう。


 頭の冷えた俺は少しだけ言い訳をした。

「あんたらに迷惑は掛けないさ…シャロウスピルからの返答はどうだったんだ?」

「要無し…じゃ無かったね。事情が分からんから現地で決めてくれってさ」

 エリスめ。

「まあ、詳しい話は支部長がするだろうし…此処からの話にはあたしは口を挟まないよ」


 漆喰の壁を丸く切った窓からは障子越しに人の気配がした。

 キャナルは脇の扉をノックもせずに引き開けると中に声を掛ける。

「誠(チェン)、待ち人が来たわ…予想以上だから注意しなよ」

 早速口を挟まないと言う約束を反故にして彼女は俺を招く。

 トラブル体質なのはお互い様だと心の中で毒吐きながら中に入る。


 中に居たのは一人の南方人だった。

 華夏系が良く着る紺のぴったりとした胡服を纏った男は李誠(リーチェン)と自己紹介をした。

「遠路はるばる星辰海からお疲れ様です。リーストンさん、先ずはこの辺境の地まで足を運んで頂けた事を感謝致します」

「こちらこそ…実は先ほど酒場で行き違いがあって此方のキャナル副支部長に失礼があったのですが、謝罪させて頂けるでしょうか?」

 李の切れ長の瞳がキャナルをちらりと見やる。

 当のキャナルはやられた、と言う顔で頰を掻いている。

 俺は礼儀に対しては礼儀で返すのだ。

「キャナルは言葉が足りないところが有りまして…非礼が有りましたら私からも謝らせて頂きます」

「あ…ああ、お茶だね。取って来るわ」

 罠にハマった形のキャナルが慌てて出て行く。


 勧められて椅子に座った俺は対面に同じ様に腰掛けた総髪の男を改めて観察した。華夏系らしい線の細い長身で面長の顔には有るか無いかの微笑みを湛えている。

 内心を窺うのに苦労しそうな喰えない華夏人と言う外見は実は道すがら聞き及んだ彼の評判にはぴったりだった。曰く、彼は支部を食い物にしている、軍閥と組んで私的な商売を始めた、そして最後が重要だが、直近の列強の対因子作戦に対してサボタージュを行なった、と…それは俺の最初の情報のエリス相手に熱弁を振るった熱血漢と言う印象とは全く相入れなかった。


 俺は率直に疑問をぶつける事にした。


「李誠さん、あなた随分評判が悪いですね…シャロウスピル支部長から聞いた話とは随分齟齬があるみたいですが」

 キャナルが聞いたらそれ見た事かと怒鳴りそうな言い方だったが幸い彼女はお茶汲みだ。

「…それは三ヶ月前の件に付いてでしょうか?」

 気を悪くした様子も無くまるで最初からその疑問が出る事を予期していた様に彼は焦点に言及した。

「ええ、岐嶺高原のグール発生地への列強合同の掃討作戦に対して一番の地元の筈のこの支部はあれこれ理由を付けて誰も参加させなかった。ところが同じ目的なのに地元の領事委員会だけの小規模な作戦には随分と乗り気だと…誰だっておかしな話だと思う筈です」

「さて…理由をお話しする事は吝かでは無いのではすが少々難しい…信じられる理由と信じられない理由どちらをご所望でしょうか?」


 煙に巻きに来たか?

 レトリックを多用する奴に碌な奴は居ない。

 俺の心の天秤は大きく傾いた。

「信じられる理由に決まっている。いや、そうだな…俺が今回この話を受けてもいいのか理解出来る様に明確に話してください」

「分かりました。では率直に申しましょう…今回は金になるからです」

「…列強の軍が動いた作戦を金になら無いと踏んだのですか?」

「見せ金をいくら積まれても実際に支払われなければ絵に描いた餅です。期間は一ヶ月で実作戦時間は一週間にも満たない。現地調査も碌に行わず、地元勢力には列強の威光を借りて通告も無し…これでは夢想家の扶桑貴族のおぼっちゃまの自己満足にしかなりません」


 扶桑貴族?聞いている限りではこれに関わる該当者と言ったら俺の依頼主になる筈の領事委員長の片瀬岐越総領事しか居なかった。

 どう言う事だ?

「それで金にならない理屈は無いでしょう?失敗する作戦からだってふんだくれるだけふんだくればいい…俺は別に冒険者協会員が金儲けしてはいけないなんて言うつもりは無いですし」

 俺は話を聞き出す為に敢えてこの腹の見えない華夏人の言い方に乗った。

「列強が動くのに失敗は有り得ません…つまりは尻拭いの犠牲の仔山羊が要ると言う訳です。そしてそれは将来有望な列強貴族から選ばれる事は有りません…現にこの件では作戦を現地で指揮したアキタニアの叩き上げの平民大佐が南の小島で長期の休養と相成りました」


 …段々と分かって来た。

 これはエリスも騙された事に成るのか?

 因子討伐より保身を重視する協会支部長…残念ながらそう言うタイプは少数派とは言えない。ただそうすると今回費用を掛けて広域依頼を仕掛け、伝手を辿って目ぼしい人間に当たりを付けた事の意味が気になる。追い詰められてのアリバイ作りか此奴なりの成算があるのか…まあしかし、この男の見方が全てという訳じゃ無い。


 俺の直接の雇い主は領事委員会だ。

 それに高原のグール発生が嘘という訳では無いだろう。


 グール…因子に汚染された人間の末路は凶暴化して周囲に脅威を与えるだけでなくその体液への接触を通じてグール化される人間を量産する。それが辺境の更に奥の高原だとしても放置して良い訳がない…しかもエリスによれば汚染は都市部に波及する兆候が有ると言う。


「まあ、あなたにも事情があるのは分かりました。でも、今回乗り気な理由はなんですか?片瀬子爵がどれ位の金持ちかは分から無いけど列強合同の派遣部隊の予算より手元が潤沢とは思えないんですが…」

「金蔓を見付けたのですよ。子爵の個人的な保障で金を出してくれるところが現れたのです。どう転んでも共同租界レベルの政治なんて怖くも無いですからね…で、先ずは部隊整備の為に腕利きの魔動錬金術師を用意すれば委員長閣下の覚えもめでたくなると言う訳です…"火蜥蜴(サラマンダー)"、あなたの高名はここ南方でも鳴り響いていますよ。勿論、作戦成功なら冒険者協会としての本務も務めた事になる」

 鳴り響くは大袈裟だが俺の通り名を持ち出した李はここで初めてはっきりとした笑みを浮かべた。


 本当にそうなら俺もこの保身に長けた支部長の事をどうこう言うつもりは無い。因子が原因の脅威の討伐には協会から報奨金が出るがその大元の予算は列強の合議体で有る誓約公会議からとなる。古竜との誓約に従って因子を討伐する義務があるのは列強(正確には公会議の理事国)だからだ。因子への一次対応の責任は列強にあり冒険者協会は列強や被害を受けた国家、民間の依頼に応えるだけなのだ。

 積極的に動く義務は無いし、その様な組織にもなっていない。


 合同作戦への対応はともかく俺の件に付いておかしな動きをしないのであれば知った事では無かった。

「なるほど…でも、随分総領事閣下は度量が広いんですね。一度裏切った相手にものを頼むとは」

「…ええ、片瀬子爵はとても度量の広い方ですよ」

 再びアルカイックスマイルを取り戻した李が答えた。


 その後は事務的に進んだ。

 幾つか必要な事を確認して話は済んだ。

 明日扶桑領事館に俺を連れて契約を済ませば協会の役目は支払いの仲介だけになる。


 また護衛役のパーティメンバーの件も俺が必要無いと言うとあっさり了承された。

 結局何だったのだと問う俺に李は水に落ちた犬を叩こうとする者は多いと言う事です、と答えた。まあ、あなたが斃れたら変わりは何とか見つけますよと澄まして言う彼に俺は二の句が告げ無かった。何処までも韜晦(とうかい)の過ぎる男だった。

 茶盆を持って戻って来たキャナルはため息を吐いたがもう何も言わなかった。


 ただ…

「そうだ、今晩はここに宿を取った方がいいわ。広間のうるさい連中も一緒だけどね」

 僻遠の地の冒険者協会には大概宿舎が併設されている。

 まともな宿屋がほとんどない地域でも依頼遂行に支障が無いようにする為だが俺はほとんど利用した事が無かった。

「いや、もう宿屋は取ってある。荷物もそっちに置いてあるしな」

「明日からは駐屯地だからマシだけどさ。街中は最近色々物騒になって来てってね…まあ、勝手にしなよ」

「…明日の8時だな」

 苦笑いをしながら肩を竦める彼女を尻目に俺は部屋を出た。


 大広間に戻るとあの二人組はもう残っていなかった。

 個人的なトラブルになるかと覚悟はしていたが諦めが早くて助かった。

 魔術師の少女も熱しやすく冷めやすいタイプなのだろう。


 亶州は人口が15万に達する岐越地方最大の都市で城内全体が列強の共同租界となっている。汨河(べきが)と言う南方中東部を代表する大河の中流一の河港として繁栄していたが、城外市域には傀儡(かいらい)化した自治政府、その外側は汨南連合を名乗る軍閥が支配する南方を象徴するような複雑な勢力図となっている。

 南方全体には華夏民共国と言う中央政府がある事になっているがこんな辺境の地ではそれは新聞紙上に時たま現れる文字列に過ぎなかった。


 冒険者協会はこの城内の租界の中、北の城門と河港へと通じる大通りの途中にあった。

 協会を出た俺は大通りを港の方に向かって歩き始めた。

 汨河を遡る汽船でこの街にやって来た俺は港の近くに宿を取っていた。

 市の繁華街の一つであるこの大通には数々の酒家餐庁(しゅかさんちょう)が並び酔客で溢れていたが、そろそろ月も中天に差し掛かる時分となって店仕舞いするところも多くなって来た。追い出された客達は酔いどれ足で帰るかそれとも開いている店を探すかで迷っている風だった。

 そこには周辺地域から徐々に増えている筈のグールの噂の影響は感じられ無かった。

 李の話ではここ三ヶ月程でこの街の周辺地域でもグールに関する依頼が相次ぐ様になったと言う。冒険者が実際に交戦して討伐した例もあると言う事だった。


 俺は終わり掛けた喧騒の中を歩きながらこの依頼の事を考えていた。


 片瀬公は租界の兵力と冒険者だけでグールを討伐しようとしているという事だった。その為に私財を注ぎ込んでいると言う。それは共同租界の意思決定権を持つ領事委員会の意思とは微妙に、或いは大きく異なっている可能性が高い。しかも作戦の目的地は岐嶺高原と呼ばれる少数種族が居住する地域で租界の権限の及ばない軍閥支配地域の更に奥なのだ。

 意地になっているとしか思えなかった。


 片瀬子爵はまだ二十代だと言う。

 経験の浅いエリート外交官が挫折を認められずに足掻いている、そう見える。

 水に落ちた犬と李支部長は表現したがそれは的確過ぎる例えだった。


 そうだとすると李の話は考えれば考えるほど腑に落ちなかった。

 俺の仕事は比較的安全な駐屯地でオートマトンや魔動機の整備を行うだけだからまだマシだが実際に共同で出撃するだろう李達は下手をしたら先の作戦の遺恨を残す軍閥支配地域で孤立し兼ねないのだ。

 政治的失墜より敵中での戦死の方が割に合うとは思えなかった。


 適当に話を合わせて金を引き出すつもりなのだろうか?

 俺のような連中を紹介すれば支部にはコミッションが入るし、協会を通し辛い個人的な依頼なら丸々個人の手にはいる。或いはもっと大きな仕掛けを考えているのか?

 亶州支部には注意する必要があるだろう。


 エリスはこの依頼を真面(まとも)な依頼と言った。

 彼女が李の言葉だけで判断したのか他の情報も元にしたのかは分からない。

 しかし、因子による被害は存在してどう言う意図かは分からないがそれに対応しようとしている人物が依頼を協会に掛けた。

 依頼主がどこまで本気か分からないし、作戦自体、成功も覚束ないもので周囲は顕在的、潜在的な敵ばかりだとしてもそれは事実だ。


 俺は昔エリスと、そして彼女の父親と約束をした。

 力の使い方を間違えないと…

 その約束を守りながら俺の目的を果たすには因子を討伐し続ける必要があるのだ。


 だとしたらもう一歩を踏み出す必要がある。


 通りを此処まで来ると街の灯りは殆ど残っていなかった。

 路地からは阿片の香りが漂ってくる。

 その更に奥から漏れる微かな苦鳴と嬌声が入り混じり夜の静寂に色を添えた。


 月が照らす南方の街並みの中を歩きながら俺はそう思った。


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