愛しい*
夢の中で、何か大きな物に包み込まれた。
吃驚したけれど悪い気はしなくて、わたしは恐る恐る、自分を包むものに触れてみる。
正体のわからないそれは、あたたかくて、いいにおいがした。
──お前は可愛い炎の子。
声がする。
幾つもの声が重なって聞こえてくる。
──お前は気高き竜の裔。
あなたはだれ、と問い掛けてみた。
返事はない、声の主に対話をする気はないようだ。
──いつか、お前は世界を救う。
異界の名を持つ聖竜の背で──。
声はまだ何か言っていたようだけど、どうやら夢はそろそろ覚める。
***
目を開くと、暖かい日差しが木の葉に透けて見えた。
庭の木陰で本を開いて、そのまま眠ってしまったらしい。
かつて駆け回った森でも良く昼寝をしていた、エルフィは変なところで危機感が無い。
三年前は誰もいない部屋の中ですら、誰かがいるような気がして、満足に眠れないほどだったというのに、人は変わるものである。
酷く曖昧な夢を見た気がして、目を擦りながら野原に投げていた体を起こした。
今の時間はたぶん、もうすぐおやつ。
リリとミミが人間体でお菓子を食べることを覚えたので、最近は手の込んだ物を作ってみたりもしているのだ。
今日は確か、昼ごはんの後にクッキーを焼いて、台所の戸棚に入れてあるはず。
出してあげようとエルフィは立ち上がる。
かつての病弱さが何処かへと飛んでいった体は羽根の様に軽い。
息をするのもやっとだったなんて嘘みたいだ、今の自分ならなんでも出来る気がする。
シャーナからもうすぐ短剣が出来上がる、と昨日聞いたので、戦う為の訓練もそろそろ始まるはず、この体の調子なら問題なくついて行けるだろう。
自由に動ける健康体、なんて素敵なのだろうかとエルフィは思った。
これを与えてくれたニールには感謝しなくては、彼の竜士になってからあまりにも色々なものをもらい過ぎている気がする。
恩返しをしなくちゃ、ニールにもシャーナにもヴァンにもルドーにもリリとミミにも。
あの夜から私の何もかもが変わった、それは皆のおかげなんだと。
エルフィは満面の笑みを浮かべる、幸せな気持ちでいっぱいな胸の中には、怖いものなんて何一つ無い──。
「お前はさ、黙っていればいいんだよ。
黙って僕の目だけを見ていれば良い」
己の内側で響き渡った声に、脚が竦んだ。
思い出さずに済んでいた過去が、与えられた幸せの裏にこびり付いていた。
なんで思い出すんだろう。
なんで、あの人の顔が忘れられないんだろう。
真っ赤な目、真っ赤な髪、真っ赤な手、真っ赤な爪、真っ赤なナイフ、真っ赤なわたし。
一歩も踏み出せない足元に広がる、自分の影が怖くなってエルフィは息を呑む。
このままでは沈んでしまうのではないか、あの腕に掴まれて、影の中に飲み込まれて。
そして気付いたらまたあの城にいるんだ。
今、生きていることが幸せだった。
幸せだからエルフィは思い出す、痛いを、苦しいを、怖いを。
……思い出した、これが恐怖だ。
麻痺させるしかなかった、生まれてきてからずっと人生を埋め尽くしていた感情だ。
心が影に呑まれる前に、エルフィは頭を左右に振ってぎゅっと目を閉じた。
さぐれ、探れと己に言い聞かせる。
わたしは知っているはず、空を駆ける銀翼を、夕映えに輝く黒い爪と唸る喉を。
世界で一番、美しい生き物。
それを頼りにエルフィは暗がりから這い上がった。
わたしと彼を繋ぐ線は、どんな時でも真っ直ぐにふたりの間を繋げている。
「エルフィ、呼んだ?」
聞こえてきた声に、弾かれた様に顔を上げそれと同時に走り出す。
幼子みたいな泣き声を上げて、現れた人型の胸へとエルフィは飛び込んだ。
「大丈夫、俺はここだよ。
何かあった?」
受け止めてくれた体は戸惑っていて、だけど優しく背を撫でてくれる。
エルフィは滲む涙を彼の胸に擦り付けて、自分でも呆れるほど泣いた。
子どものように泣き喚き息もつけない彼女を襲った恐怖は、『線』を伝わって彼にも感じ取れたようで。
ぎごちなく、扱いきれていない体で彼女の背を撫でながら、彼は言う。
「怖い夢を見たな」
そうだ、こわいゆめ、だったのだ。
全部ゆめで、あなただけが現実だ。
エルフィは胸がつかえて息をするのもやっとだった、暫くの間忘れ去っていた不自由さはまだ、身の内で息を潜めていた。
落ちついたエルフィは、埋めていた胸から顔を上げる。
冷静になってみると恥ずかしくて目を合わせられない、そんな彼女に対して何の容赦もせず、ニールはエルフィの顔を覗き込む。
「大丈夫か、俺のことわかる?」
「……わかります」
分からなくなることなんてあるものか、エルフィがはにかみながら返せば、ニールは良かったと笑った。
「急に呼ぶから何かと思った」
「ごめんなさ……ありがとう、ニール」
反射的に謝りそうになってエルフィは言い直す、ニールは満足げな顔だ。
手を繋ぎ歩き出しながら、彼は言った。
「きみが望むなら、俺は何処までだって飛んで、何だって壊せるよ」
いつもと変わらぬ善性な声色のまま聞かされたニールの思考は、人間を守護する聖竜とは思えないほど危険なもので、エルフィは首を横に振る。
「……貴方だけは、そんなことしてはいけません」
「分かっている、言ってみただけさ」
ニールは笑い声を上げた。
その「たのしさ」や「おかしさ」はエルフィにも伝播してくる。
同時に、彼がどれだけの気持ちでさっきの言葉を言ったのかも分かって、エルフィは複雑な心境だった。
……過去に受けた傷も暴力も誹りも、エルフィはちゃんと覚えている。
それを抵抗もせず受け入れていた自分を戒めるためにも、不死の体を求めたのだから。
だけど復讐とか恨みを晴らすとかは、エルフィは考えていなかった。
あくまで向き合って、乗り越えたいだけなのだ、自分自身が生きていくために。
この考えも「線」を通ってニールに届く、口に出さなくたって伝わるだろう。
そう思ったけど、エルフィは考え直した、かつて対話をやめるなと、ニールは言ったのではなかったか。
「もう少し、整理が付いたら。
ちゃんと言葉にして話します」
エルフィの掛けた言葉に、ニールは目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
***
「ミミ、何だか口のなか、いろんな味がするの」
「リリ、それがあまいなの、人間の食べ物はふくざつなの〜」
台所の棚にしまっておいた特製クッキーを出してやると、リリとミミは瞳を輝かせ興味津々で食べかけのクッキーを見た。
お気に召した様子の双子を見ながら、エルフィは満面の笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん、ありがとうなの」
「ありがとなの〜」
「どういたしまして。
今度は果物のゼリーを作ってあげましょう」
未知の食べ物の名を聞き、双子は歓声を上げた。
実を言えばエルフィは、この子たちに姉と呼び慕われるのを大変気に入っていた。
「おまかせあれ、リリとミミの舌を唸らす絶品を作りますよ」
ふふんと、自信満々に胸を張る。
そんなエルフィの姿がシャーナにそっくりだったので、双子は大笑いをした。
「まねっこなの?」
「シャーナのまねっこ?」
「えっ、別に真似をしたわけでは……」
何だか笑われている、恥ずかしい。
真っ赤になったエルフィを見て双子が更に笑った。
次はどうからかって遊ぼうか、なんて可愛い顔して考えている双子の頭の上に、ぽんと慣れ親しんだ掌が置かれる。
「こら、あんまりエルフィをいじめない」
「パパなの〜」
「パパに見つかったの〜」
あは〜!っと笑って、双子は身を翻し父親のお説教から逃れた。
庭へと駆けていった小さな背中は、そのうち竜の姿に変わって空へ飛ぶ。
ヴァンに構われにでも行ったのだろう。
娘たちを見送り、やれやれとため息を吐いて、ルドーはエルフィの方に振り向いた。
「ごめん、いつも賑やかで」
「いえいえ、わたしまで元気を貰えて嬉しいですよ」
お互いに苦笑いを交わし合うのはいつものことだ、エルフィはそうだと、思い出した様に両手を合わせた。
「あの黒い布、ルドーさんがくれたってシャーナさんに聞きました、ありがとうございます」
「ああ、ちゃんとエルフィに渡ったか。
よかったら使って、良い守りになる」
何のことかは伝わったようだ、ルドーは自分が今まさに身に付けている黒い外套の、腹の辺りを掴みながら言う。
「流石に邪竜に本気でぶち抜かれたら大穴空くから気をつけて」
「ぶち抜かれたことあるんですね……」
色々想像してしまったのか、エルフィは嫌そうに顔を顰めた。
そんな彼女を見ながら、本当に表情豊かになったなとルドーは思う、安心した。
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