「夫婦になってから」
役に立てるように*
窓の向こうに快晴がある。
澄み渡った青は薄雲と共にゆっくりと横に流れていく、空の上に浮く聖域は今も移動を続けていた。
台所の小窓から窓の外を眺めながら、皿を拭いていたエルフィは、気持ちの良い春の陽気に小さくあくびをする。
ニールの気配は今は近くにない……今日は一日、邪竜退治へ向かっていった彼の帰還をひたすら待つ日になりそうだ。
エルフィはニールの強さを知っているし、信頼しているけれど、待っているだけというのはやはり、辛いもの。
彼の竜士にエルフィはなったけれど、優しい聖竜は彼女を連れて邪竜を退治しに行く気は今のところないらしかった。
──連れて行って貰えたところで、シャーナやルドーのように戦う力も術もないエルフィでは、何の役にも立たないだろうけど。
「戦う、わたしが戦うには……」
エルフィはうーんと唸りながら、布巾で皿を磨いた。
熟考する間に何枚もの皿がピカピカになっていく、うんうん唸る彼女の意識は、背後から声を掛けられるまで現実に帰って来ない。
「エルフィ、ちょっといい?」
呼び声に振り向いた先には、笑顔を浮かべたシャーナが立っていて。
エルフィは数度瞬きをしてから、汚れひとつなくなった真っ白な皿を棚にしまった。
「エルフィ、ニールと一緒に行きたいんでしょう?」
話があるからおいで、と言われ、エルフィはシャーナの後ろをついて歩いていた。
廊下を進んで向かう先はシャーナの自室である、リリとミミが摘んできた野草が生けられた花瓶の横を通りながら、エルフィは苦笑混じりに頷く。
「よく分かりましたね、シャーナさん」
「そりゃわかるわよ、エルフィのことだもん、森に聞かなくても分かる」
くるり、と回る緑髪。
面白いものをみつけた、とでも言いたげなシャーナの瞳に見つめられ、エルフィはとりあえず笑って誤魔化す。
「あはは、シャーナさんには敵わないなぁ。
隠し事とか絶対、出来なそう……」
「──戦う方法、教えてあげる」
え、とエルフィが聞き返すのと、シャーナが歩みを止めたのは同時だった。
勝手知ったるシャーナの部屋の前についただけなのに、まるで何か不思議なことが起きたみたいな顔をしているエルフィのことを、いたずらっぽく笑ってシャーナは手招く。
「まずは入って入って。
良い物をあげるよ」
揺れた新緑が部屋の中へと入っていった。
***
「まずはね、形から入るのが良いと思うんだ」
「……あの、シャーナさん?」
本と鉱石に溢れた部屋の中で、エルフィは奥へと歩いて行ってしまったシャーナに声を掛ける。
戦い方を教えるとは、と聞きたいのだが、シャーナは寝台の下から木箱を引き摺り出すのに忙しいらしく返事をしてくれない。
「あったあった、これなんだけどさ」
木箱をひょいっと持ち上げて、シャーナは部屋の中央にある机の上に置く。
良く二人でお茶をする机に、木箱が鎮座した、小さくはないが凄く大きくもない箱の中身は何なのだろう、とエルフィは近寄る。
「シャーナさん、これは?」
「エルフィにあげる、開けてみて。
ルドーにも手伝って貰って用意したんだよ、あとは選んでもらうだけ」
何やら機嫌の良いシャーナの言っていることは全く分からない。
だからエルフィは質問するのは後にして、とりあえず言われた通りに木箱の蓋を開けることにした。
寝台の下にあった割には埃を被っている様子もない、蓋に手を掛け持ち上げる。
中から出て来たのは、黒い布と──。
「……ニールの、鱗と爪?」
それ単体では鉱石にしか見えない銀色の輝きと、黒曜石の如き鉤爪。
無造作に仕舞われていた二つの塊を、エルフィは見紛う事なくあのひとの物だと判断した。
「正解、見たらわかるか。
生え変わりとかで剥がれた奴を貰ってきたの」
「な、何のために?」
戸惑いが露わなエルフィの問い掛けに、今度は答えが返ってくる。
「エルフィが使う武器の材料にするために」
シャーナは普段と同じ、のほほんとした顔でそう言った。
さて、とエルフィは考える、何処から聞いたものか……。
「エルフィは戦いたいんでしょ?
お留守番してるのにも飽きて来て、せっかくニールの竜士になったんだから邪竜退治に連れて行ってほしいって、違う?」
幾度となくこの部屋でお茶会を開いて来たシャーナとエルフィは、今日も向かい合って座って紅茶を飲む。
床に一旦下ろした木箱を眺めながら、エルフィは言った。
「お留守番に飽きたわけではないですよ。
……でも、わたしも何かニールの役に立てないかなとは考えていました。
竜士は聖竜の手助けをするもの、戦う術があれば良いんじゃないか、とは」
「ふうん、まあ細かいところはなんでも良いんだけどね。
私としては、エルフィが戦える様になるのは大いに賛成なんだ、だから教える」
紅茶に角砂糖を落とし、かき混ぜながらシャーナは語った。
「竜士は独りで待つ期間が絶対に来るの。
聖竜が死んで次の生を迎えるまでの間は、どうしてもね。
そんな時でも私たちは、人や邪竜から狙われる、幾ら死なないからって痛い思いはしたくないじゃない」
シャーナの言っている意味がなんとなく分かってきて、エルフィは頷いた。
自分が傷付かないようにするためには、身を守る術が必要だ、襲われたなら撃退するだけの力がいる、それは理解できる。
思えばニールは自らが持つ万能で、己が竜士を好き勝手に変えることはしなかった。
恐らく彼の力なら、自由に生きる竜の万能ならば、エルフィの姿形を変えることも、それこそ戦う力を持たせる事だって造作もない事だろう。
エルフィは巫女でもないし邪竜殺しでもない、何の異能も持ちはしないただの人間だ。
ニールの為だけを考えれば、エルフィは戦いに役立った方が良いし、そう望まれても違和感はないなぁ、と彼女自身も思う。
きっと彼は、エルフィがもつ人間性を尊重したのだと思う。
弱くて無力で、だけど成長して行ける人間の在り方を。
その気持ちをエルフィは大事にしてあげたかった、彼が持つ人類愛の片鱗を。
人間らしくコツコツと努力を積み上げて、成長して、いつか彼や皆の役に立てる力を持った自分になる。
それが今のエルフィの目標だ。
「武器にするとしたら、何になりますか」
エルフィは箱の中から鱗と爪を持ち上げ、机の上に置いてシャーナに問うた。
彼女はそうね、と一呼吸し、問い返してくる。
「どんなものが良い、と聞いても分からないかな、長いものか短いものか、軽いもの重いもの」
「えーっと、ルドーさんの大剣みたいなのは絶対振り回せないと思うから……」
エルフィは頭の中で自分が武器を使う姿を想像した、重たい物には振り回されそうだし、長い物は引っ掛けそうだ。
「どんな武器でも戦える様に鍛えてあげるつもりだよ。
こう見えても私、歴戦だから」
悩む妹分に姉はとっても楽しそう。
エルフィは迷いに迷って、絞り出す様に言葉を続けた。
「短くて、軽いもの。
……出来れば素早く動きたい、です」
「なるほど、取り回しやすくて身軽なら、短剣かな」
シャーナが頷いて、エルフィから爪と鱗を預かる。
任せなさいと胸を張り、シャーナは自信満々に言った。
「竜の爪と鱗を使った武器を作る、竜の巣直伝のとっておきのやり方があるのです。
大昔は私をまほーつかいと呼ぶ人間すらいたんだよ、全然魔法じゃないけど」
「巫女だったり魔法使いだったり、いろんな風に呼ばれていたんですね」
凄いでしょ、と言うシャーナをすごいすごいと心底から誉めるエルフィ。
褒められ尽くして満足したシャーナは、ご機嫌な笑顔で言った。
「じゃあ、鱗と爪で一本ずつ、作っておくから」
「……に、二本も作るってことですか?」
てっきり作るのは一本だと思っていたから吃驚してエルフィは思わず声を上げる。
がすぐに気付いた、予備だ、竜の鱗と爪は神秘の力でも無ければ砕けないから、きっと破壊ではなく紛失に備えて作ってくれるのかな、と。
エルフィの思考などお構いなしに、シャーナは目をぱちぱちさせながら言った。
「だって腕は全部で二本あるでしょ?」
「えっ……?」
エルフィが頭の中で描いていた、短剣を一本振り回す自分の姿。
それにシャーナによって修正が入れられる。
「ちゃんと、両腕を使って戦える様にしてあげるからね」
満面の笑みを浮かべたまま言われて、エルフィはもしかして、自分はとんでもない師匠を持ってしまったんじゃないかなと思った。
「シャーナさん、この黒い布は何ですか?」
近いうち、シャーナの手によって短剣使いへと育て上げられることが確定したエルフィは、木箱の中に残っている布を取り出す。
服でも何着か作れそうなほど大きい漆黒の布は、良く見れば特殊な織り方をされているらしくとても丈夫で分厚く、その割に軽い。
繊維も特別なんだろうか、その辺りは詳しくないエルフィは、シャーナの方を伺った。
「ああ、忘れるところだったわ。
そっちはルドーからエルフィへの贈り物、普段の格好も可愛いけど、戦うならそれなりの装備がいるでしょって」
「装備、やっぱり服を作る材料ですか?」
わあと、少しはしゃいだ声をあげたエルフィを、微笑ましく思いながらシャーナは頷く。
「そうそう、服っていうか、作るなら外套になるかな。
邪竜殺しの加護が入った特別な素材で、それはちょっとの殺意じゃ通しもしない。
神秘で無ければ破れない盾、って説明だったかな」
ルドーから聞いた話を思い返しながら喋るシャーナの声を聞きながら、エルフィはその漆黒に魅入った。
深い穴に広がる闇のよう、しかも底無しの。
ルドーがいつも邪竜退治の時に身に纏っているものと同じ、だろうか。
「黒は、すきです」
呟くように言って、エルフィは笑った。
何だか皆の優しさを、沢山貰ってしまった気がする。
「それは良かった、詳しくはルドーに聞いてみてね……本当にこれで箱は空かしら?」
確認するように木箱をシャーナが覗き込む、その様子が何だかおかしくて、エルフィは声を上げて笑った。
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