Another「双生の太陽」*
母親は竜士だった、元々は異能を持って生まれた人間。
この世界では特別な能力を授かって生まれてくる人間は少なくないと、母親は語った。
だが自分の持つこれは所謂「巫女」と呼ばれる者たちとは、少し違うのだとも。
「邪竜殺しといってね、この世に生を受けた人間の半分の、さらにもう半分が持って生まれる力だとされている」
「巫女のように、神から愛されて賜る力ではない──世界を正しく回すための、役割みたいなものだ」
「私たちは、邪竜の転生を断つことが出来る、やりようによっては聖竜のもね。
試した馬鹿はいないから分からないが」
「お前の体にも同じ力がある、ルドー。
良いか、その力は竜士になるからこそ価値があるんだ」
繰り返し、繰り返し、幼い頃から今まで何回もそう聞かされて来た。
女手ひとつで母親は、常に黒い短剣を持って子を育てた、戦えるように。
「邪竜殺しは聖竜と、竜士の間に生まれてくる子に宿るもの。
私もお前も、そうだった」
父親のことは良く知らないし、見たこともない。
ただ母親がずっと、空の彼方を眺めて誰かを待っていることだけは確かだった。
***
靴紐を結んで立ち上がり、重たい外套を羽織って、ルドーは伸びをした。
眠気から逃れるためには体を動かすのが一番だろう、いつもより早い時間だが家を出ようと、準備をしていたところ。
ルドーは、家の周辺を囲っている広大な森の中へと向かうつもりでいた。
まともに戦えるようになってから毎日続けて、もはや日課になっていることである。
朝は得意でもないし、どちらかと言えば何もせず一日を過ごす方がルドーは好きだ。
しかしまあ、これは親孝行の一環でもあるので文句を言うつもりはない。
玄関先に立てかけられている、愛用の片手剣を手に取って準備は完了だ。
歩き出そうとすると、背後から母親の声が掛かった。
「行くのか、今日も」
「……もちろん、母さんが聖竜探して来いって言ったんだろ」
親子は向き合って互いに同じ黒髪を眺める。
歳若く見える母親は、息子に対してよろしいと頷いた。
「物分かりが良いな、そういうところ、父親に良く似ている」
「……だから、そう言われても分からないんだって」
ルドーが気まずくなって母親から目を逸らすと、視界の外から聞こえてくる呟き。
「それもそうだな、すまないね」
何て返したら良いのかも、どんな顔したら良いのかもルドーは分からない。
逃げ出すように家の外へ出た。
父親が聖竜だったとは聞いているし、そうだろうという確信もルドーにはあった。
己の体は人の形をしているが、身体能力が人並み外れたものである、という自覚が芽生えたのは幼少の頃だ。
たまたま人里に降りていた時、横転した馬車を一人で持ち上げたことがある。
結果、下敷きになった人を助けることができたものの、向けられた視線は子ども心に結構深めな傷を残した。
純粋な人の子ではないと言われて、寧ろ救われたくらいだ。
成長は普通にしているけれど、不老の母を見ていると自分に老いが来るのか、寿命があるのかも分からない。
しかしルドーにとって寿命とか老化のことは特に、気にする必要があることではない。
何故なら自分は竜士になることが決定している、不老不死になる運命なのだ。
幸いにもルドーは自分自身のことが結構好きなので、永い時を生きていかなければならないという事実にこれといった不満はない。
問題なのはもっと根本的な話。
竜士は一人ではなれないということ。
「いないんだよなぁ」
ルドーは隅々まで歩いた森の中を見回して呟いた。
肝心の聖竜がどうしても、見つけることができないのだ、見慣れた森が続くだけ。
「家を離れるべきなのか……」
目についた大木の根に腰掛けて、ルドーは腕を組む、やはり一人で遠くまで聖竜探しに出るしかないのだろうか。
あの家に独り、母親を残して。
分かってはいる、そうしなきゃいけない事くらいは。
どのみち竜士になれば邪竜退治の旅に出ることになる、遅いか早いかの違いしかない。
だけれど、どうしても母親に対してたった一言が言えない。
ルドーは諦めて、家に帰ることにした。
一日がまた無駄になる、こんな日をもう、幾度となく繰り返していた。
「ルドー、この森の中は探し尽くしたのではないのか」
家に戻って剣の手入れをしていると、母親がそんなことを言った。
まあ、言われるだろうとは思っていたので、ルドーは手を止める。
さて、どうしたものか。
母親はきっと、さっさと出て行けと言いたいのだろう、己の役割を果たしに行けと。
ルドーが母親に対してどう思っているかを知ったらなんて言うのだろうか、聞いてみる勇気はない。
ルドーは体を投げ出すように寝台に倒れ込みながら、母親に目を向ける。
「いや、もう少し探してみるよ」
「……そうか、昔は至る所に聖域が存在したものだがな」
母親は椅子に腰掛けて、手元に置いた自分の短剣を見つめていた。
長い間、大切に扱われているその短剣が武器としてどれだけ優秀か、何度もぶっ飛ばされてきたから、ルドーは身をもって知っている。
それが母親にとっての思い出の品であることも、ルドーは分かっている。
竜の鱗を想起させる黒鉄を見ながら、母親は話を続けた。
「戦争が起こってからは、多くの聖竜と竜士が姿を消した」
「……終戦はまだなんだっけ」
「ああ、聖竜王国は今、世界の八割を手中に収め、残りの二割に梃子摺っている」
ふうん、とルドーは相槌を打って頭の中で地図を広げて考えてみた。
聖竜王国を中央に置いて、広がる大地。
多種多様な民族と宗教が密接しながら独立し、生存圏を得ていたこの世界も今は、何処に行っても「王国」だということだ。
「なんで聖竜が邪竜と戦ってる横で、人間が戦争を起こしたんだ、邪魔になるだろ」
「邪竜との戦いを終わらせる為、だそうだ」
はあ?と思わずルドーは起き上がったが、母親は短剣を見つめたまま。
何を思っているのか分からない表情から、続きの言葉は放たれた。
「世界を統一し人間が団結すれば、邪竜を討ち滅ぼせる力が生まれるだろうと」
「……子どもの発想だよそれは、邪竜と相対したことがある奴なら絶対にそんなことは言わない、自然災害にいくら人が集まって挑んでも死ぬだけだ」
「そうだね、災害には災害で対処しなければならない、私たちに出来るのは手伝いだけ。
だがなルドー、人は希望を抱き英雄を作らねば生きていくことが出来ないんだ」
薄く笑う顔は、諦めも悲嘆も全て含んでいて、ルドーはやはり何も言えない。
母親は息子の目を見て、言った。
「人間に戦争への協力を頼まれても頷くな。
兵器として使い潰されるだけだ」
「邪竜との戦いを終わらせることが出来るのは、それこそ「最古」の聖竜だけさ」
つまらない話をしたねと、母親は立ち上がって、これで話はおしまいだ。
ルドーは最後まで何にも言えず、出来ず、ただ天井を眺めていた。
母親には「時間」が刻まれ過ぎていて、言葉が正しく届くか、いつも不安になる。
だから迷って、ルドーは何にも言えないのだ。
***
「俺が会いたいのは聖竜なんだけどな」
──いつも通りぼんやりして終わるだけでは済まない日も、たまにはある。
ルドーは全力で森を駆け抜け、木の幹を蹴り飛ばし、小川を勢い良く飛び越えた。
後ろから迫って来ているのは、唸り声を上げながら走る邪竜だ。
飛ぶこともなく、わざわざ地上を。
翼を広げて追い込んでくる様は何処か楽しげですらある。
邪竜は生きる為に狩るのではなく、滅ぼす為に殺す、奴らにとって人間は憎んでやまない対象であり、痛ぶるべき玩具なのだ。
魔素で森を汚染しながら迫る巨体を、家から離すように誘導しながらルドーは困り果てていた。
「俺一人じゃ荷が重いんだよなぁ」
背中の鞘から片手剣を引き抜く、邪竜と相対するのはこれが初めてではないけれど、勝率自体は低い、痛み分けが関の山だろう。
背後から迫って来ている存在は、人間が相手取って良いものではないのだから。
転生を断てるとは言え、自分の異能はあくまでトドメに作用するもの。
一息に歴戦の戦士になれる訳でもなければ、聖竜が持つ神秘のように万能でもない。
命を奪うときに真価を発揮する異能、邪竜殺しは戦う聖竜を手助けする為のものであって、自分を勝たせる異能ではない。
母親がルドーに聖竜を見つけろと言い続けているのはこの為だった。
竜士にならねば邪竜殺しは生まれてきた理由を腐らせる、役目を果たせないからだ。
邪竜を殺すのは、ただの人間には不可能。
どんな異能も能力も、奴らは容易く噛み砕いて、腐らせてしまえる。
だが現状、ルドーには力を貸してくれる聖竜などいない。
いないものを望んだって仕方がない。
野放しにすれば家が危ないから、自分がどうにかするしかないのだ。
父親が生きていればこんなことは気にしなかったのだろうが。
──俺のこと、自分の子どもだと思ってるのかも怪しいけど。
竜種にとって子どもは勝手に生まれてくるもので、育てるという概念がないのだから。
枯れ枝を踏み抜くのを感じながら、ルドーは邪竜の方へと振り返る。
逃げるなんて選択肢は最初から無しだ、ここで何とかする。
この森は永い時の中、独りで愛竜を待ち続けている人がいる場所。
踏み壊させるわけには行かない土地、此処だからこそ意味があるのだろう、きっと。
母親だからってだけではなく人として助けたい、どうにかして再び巡り合ってほしい。
俺を育ててくれたこの森で、愛する存在ともう一度、穏やかに暮らしてほしいから。
ルドーは邪竜と睨み合い腹を括った。
魔素の霧に突っ込んで、障害も侵食も覚悟して進むしかない、退けるくらいなら何とかなるはずだ。
決めたのなら後は動くだけ、ルドーが足を踏み込もうとしたその直前だった。
森に響き渡った轟音が、第三者の介入を伝えてくる。
振り返る間もなく、背後から聞こえてきたのは。
「そこの人、伏せてくれる?」
女の声と共に「新緑」が押し寄せる。
反射的に前に倒した体の上を通過して、無数の蔦が邪竜を縛り、枝が黒い体を貫いた。
「助けてくれてありがとう。
すごいな、聖竜と竜士が揃っているところ、初めて見たよ」
ルドーは、ほどけた髪を結び直している女性に声を掛けた。
先程の邪竜は、竜士なのだろう彼女と、隣で沈黙している若葉色の聖竜によって倒され、ルドーが命を断ったところだ。
母親以外の竜士を、ルドーは初めて見た。
聖竜だってまともに出会うのは初めてだ、邪竜との違いが一目で分かるのは本能なのか、それとも身に宿る異能故か。
独特の存在感に気圧されているのに気付かれないよう、ルドーは竜士から三歩分距離を開けて立つ。
女というよりは少女にも見える、相棒の聖竜と同じ色の髪を揺らした彼女は冷静な表情で、ルドーに言った。
「こちらこそ、ありがとう。
あなた邪竜殺しでしょ、助かったわ」
異能を見抜かれたことにどきりとする、ルドーの心情を知ってか知らずか、女は傍の鱗を撫でて労わりながら問いかけてくる。
「この辺りに住んでいるの?」
「そう、母親と一緒にね。
……そろそろ一緒じゃなくなるかも……」
ルドーは口から滑り出て来た言葉を慌てて飲み込んだ、初対面の人間に話す内容ではない、何を口走っているのだ自分は。
彼女は新緑の瞳でルドーを見つめる。
「ここから離れて、家を出るのでしょう?」
「……なっ」
何故分かったと口走りそうになるのをルドーは手で抑えた。
若葉色の聖竜が此方を一瞥してくる、その威圧感に腑が震え上がる。
ルドーの事情を一瞬で見抜いた彼女は、瞬きをしてから、ああと呟いた。
「ごめんなさい、長く生きてるから大体、相手が何を考えているかわかるの」
「そういう次元の話じゃ、なかったけどな」
「あなた「森」でよく独り言を言うでしょ、気をつけて、聞かれているわよ」
だれに、という問いに答えはなかった。
代わりにというのも変だが、彼女はまだ聖竜の背には戻らず、ルドーを見ながら問いかけてくる。
「何か困っているの?」
考えの読めない瞳が持つ雰囲気は、母親に似ている、ルドーは遅れて頷きを返した。
やり取りを見ていた若葉色の聖竜が溜息を吐く、彼女はその鱗を優しく撫で続ける。
「俺はルドー、君たちの名前は?」
「私はシャーナ、この子はヴァン」
魔素の影響が少ない場所まで移動する最中、ルドーと彼女は挨拶を交わした。
ルドーはシャーナの横顔を見ながら問う。
「きみ、はやっぱり、不老不死?」
「当たり前でしょう」
若葉色の聖竜ヴァンが、小川の水を飲み始めたのを見て、シャーナも同じように手で水をすくって飲む。
何というか、森林の中にそのまま溶け込んでいきそうな姿だ、森の精霊とか言われても信じられるかもしれない。
ルドーは竜士と聖竜の様子を興味深く思って眺めながら、口を開いた。
「さっき、植物を操っていたようにみえたけど……」
「──ヴァンの力よ、使わせて貰ってるの」
今のところルドーの問いかけに全てシャーナは即答している。
何処か人間離れした雰囲気は、やはり竜士が持つ特異性が要因なのだろう。
彼女はルドーに体ごと向き直って言う。
「それで、何をそんなに困っているの?」
自分はそんなに分かりやすいのかと、ルドーは苦笑いを浮かべた。
初対面なのに、ここまで見抜かれてしまうなんてよほど考えが顔に出ているんだろう。
彼は素直に今現在、一番困っていることをシャーナに話した。
「俺は邪竜殺しだから、竜士にならなきゃいけない、だから聖竜を探しているんだ」
「ふうん……?」
シャーナは不思議そうな顔をして、ルドーを眺めながら首を傾げる。
彼女の目線はルドーの瞳というより、その奥を見ているような気がして落ち着かない。
「竜士って、ならなきゃいけない、でなるものじゃないと思うけれど」
「えっ、そうなのか。
母さんにずっと、そう言われて来たから」
──感情をあまり表に出さないようにしているんだろうか、シャーナの表情には些細な変化しか起きない。
それは横の聖竜がこちらを警戒していることも関係しているのだろうか。
「竜士はなりたいからなるものだよ」
シャーナは言い切って、ルドーを見定めるように目を細めた。
いや、勝手にそう感じただけで、彼女にはそういう意図はないのかもしれないけれど。
同年代か少し歳下くらいの少女に見えるのに、瞳に漂う気配が確実に違うと分からせてくる、きっと途方もないくらい歳上だ。
ルドーは母親と話す時とはまた違う緊張を覚えながら、シャーナに問うた。
「とにかく、俺は聖竜を探している。
……君たちが来た方にいる、のかな」
「それはないと思う。
私たちは戦争で、住んでいたところがなくなったから逃げて来た」
「ああ、そうだったのか」
曖昧な返事を返して、ルドーは沈黙してしまう、何と言えば良いのか。
住む場所を追われるというのは辛いことだ、彼女たちは何度もそれを繰り返して来たのだろうか。
シャーナは更に首を傾げ、言葉を重ねた。
「考えすぎ、そんなに頭を使って喋る必要、ある?」
「……なんでも分かるんだな」
ルドーが降参だと言わんばかりに両手を上げて見せれば、シャーナは初めて微笑む。
「聖竜に会いたいなら自分に自信を持つこと、私たちの心を映す鏡のような存在よ」
目配せをして、通じ合っているのが良くわかる動作で愛竜の顎を撫でるシャーナ。
竜が喉を鳴らして甘える生き物だなんて知らなかったから、ルドーは驚きを隠せない。
シャーナが何かに気付いたように一度、近くに聳える大樹を見上げた。
そうしてから彼女は、ルドーにはっきりと笑いかける。
「これは勘なんだけど、あなたもうすぐこの森で聖竜に会えると思うわ」
「……本当か?」
「ええ、でも言ったでしょう。
自分にもっと自信を持った方が良い、いるはずの存在が見えない時があるから」
言うだけ言って、シャーナはヴァンの背中へと飛び乗り鎧に足を掛けた。
何が何だか分からないけれど、竜士がそういうものなのは母親で慣れている。
ルドーは彼らを見送る体勢を取った。
「あなたとは縁がある気がする」
若葉色が飛び立つ直前、シャーナはそんな言葉を言い残し──ルドーがその真意を知るのはもう少し後の話だ。
***
静けさの保たれたこの森は、幼い頃から遊び場だった。
何処に何があるかも、住んでいるかも良く知っている、だからこそルドーは頭を抱えてしまう。
シャーナはああ言ったけど、この森には聖竜なんていやしない。
だから良い加減、ここから出て行かねばならないのだ──分かっていてもルドーは中々その気になれない。
せめて父親が転生して現れてくれたら、母親を独り残してしまうこともないのに。
会ってみたいかと言われたら、良く分からないと答え続けてきた父親の姿を想像しながら、ルドーは小川に沿って森の中央付近へと歩いていた。
さっきの邪竜との戦闘で汚染された範囲は狭かったが、魔素による侵食は広がるものだ、いつかはこの森も終わるだろう。
ここに住めなくなったら母親はどうするのか、そんな事ばかり考えている。
ルドーにとってはただ一人の繋がりがある人間なのだ、心配するに決まっていた。
普通の家族と同じように残して巣立って行くには、些かあの人は永く生きすぎる。
「……なんだ?」
考え事をしながら歩いていても、足元が疎かにならないのは、母親との訓練の賜物だ。
気配や異変に敏感であるように育てられているルドーは、自身の周囲に起きた些細な変化をすぐに感じ取った。
周囲だけでない、森全体が変わっている。
見慣れた風景の中で、木々も植物も良く知るものばかり、唯一いつもと違うのは。
「森が、明るい?」
──まるで春の日のような木漏れ日。
穏やかに吹く風の中で、滅多に姿を見せない野生動物たちが顔を出し始める。
心なしか空気の味まで変わったような気がして、ルドーは混乱した。
突如として森に齎された安寧の正体に、ルドーの母親ならば気付いただろう。
聖竜と縁深い竜士ならきっと、口を揃えて同じことを言ったはずだ。
「聖域」に足を踏み入れたのだと。
良く知っているはずなのに、まるで知らない場所へ迷い込んでしまったかのようで、ルドーは全方位を確認した。
静かな森であることに変わりはないが、至る所から生き物の気配がする。
葉の一片でさえ温もりを持っていそうな、不可思議な穏やかさが森を満たしていた。
敵意を持つ存在がいないことを確かめたルドーは、足を奥へと向ける。
進む先は森の中心地、大木の横に開けた草原がある。
そこは幼い頃、良く母親に打ち負かされていた場所だ。
ルドーの思い出の地には既に先客がいた。
最初、岩でもあるのかと思ったが、違う。
──息を呑んでしまうほど巨大で、身動ぎひとつしないのに、それは確かに生き物だ。
霊峰のように、灰色の鱗を纏った竜が大地に伏せて呼吸している。
それに気付いた時、ルドーは金縛りにあったように動けなくなった。
この場所に満ちる安寧の主を前に、ルドーは何か言うことも出来ない。
眠っているのだろうか、起き上がる気配のない灰色の──聖竜。
ルドーはやっとの思いで呟く。
「……本当に、いた」
感動を覚えながら、呆然と立ち尽くす。
初めてこの森で過ごしている聖竜を見た、まさかシャーナの言った通りになるなんて。
ルドーの声に反応したのか、聖竜は少し翼を揺らして、緩慢に首を持ち上げる。
開かれた目に真正面から見据えられた。
目の前にいる存在は、いつでも此方を容易く殺すことが出来るだろう生き物だ。
唾を飲み込んで、早鐘を打つ心臓を飼い慣らそうとルドーは必死になる、その間も灰の瞳は此方を見ている。
聖竜の顎が開かれたと同時、甲高い鳴き声が聞こえてきて、ルドーは呆気に取られた。
鳴き声は聖竜の翼の下から聞こえてくる、ぴいぴいと響く声はふたつ。
灰色の聖竜はややあってから、声の主を隠している右翼を持ち上げた。
──何故翼を上げてくれたのか、何年経ってもルドーには分からない。
だけどその日、その場所でルドーは運命に会ったのだ。
灰色の翼の下から、眩いほどの橙色が飛び出してくる、ルドーは突っ込んできたそれを受け止めた。
暴れる存在は、硬い感触でずしりと重い。
けれど小さくて、頼りない体で一生懸命に生きている。
橙色の子竜が、ルドーの腕の中にいた。
「お前も、聖竜なのか?」
ルドーの問いにぴいと鳴いた、子竜の鱗が光を反射して太陽のように輝く。
同じ色の瞳はまるで宝石だ、しかし生命力に溢れていて、血が流れた生き物であることを伝えてくる。
ルドーの腕の中から飛び出した子竜は、灰色の聖竜の鼻先に乗っかった。
聖竜は気にしていない様子で、鼻の上で踊る子竜を眺めている。
ルドーは暫く、半端に腕を持ち上げた格好で呆然としていた。
次々に現れた聖竜たちを前に頭が混乱している。
様変わりした森の様子も相まって、これが現実なのかも疑わしい。
「……うん?」
ルドーが我に返ったのは足元に、硬いものがぶつかったからだった。
見てみれば、頭上ではしゃいでいる子竜とそっくりそのままの姿をした存在がいる。
飛び立とうとしないその子は、ルドーを見上げてか細く鳴いた。
ぴいぴい、途切れ途切れに鳴く声を聞き、地面に膝をついた彼は問い掛ける。
「双子なのか、お前たち」
上から飛び降りて来た子竜が、地面に疼くまる子竜に寄り添う。
そっくりな姿、大きさも鱗の色だって同じだ、けれど片方が明らかに元気がない。
双子を見つめるルドーの頭を、灰色の鼻先が小突く。
彼はルドーと共に双子を見下ろしていた。
それから起きたことは怒涛と言って良い。
ルドーは毎日、灰色の聖竜が形作る聖域に足を運んだ。
双子の子竜はルドーの姿を見るなり突っ込んでくるようになり。
遊び相手だと思われて、それはもう散々に振り回された。
忙しなく飛び回る子竜に頭をどつかれたり、それを追いかけようと地面で暴れる子を放っておけず、抱き上げて走ったり。
聖域に守られながら過ごす双子に追い立てられ、駆けずり回って遊び相手にされたあと、ルドーは草原の上で大の字に転がった。
「乗るな乗るな……頼むから」
ぴい、と鳴いたのがどちらなのか、もうルドーには聞き分けが付く。
腹の上によじ登って来たのは飛べない方の子どもだった。
両の翼の付け根が体と癒着していて、上手く動かせないようなのだ。
片割れが元気に飛ぶのを羨ましそうに見ているこの子は、のんびりしていて鈍臭い。
「翼を治さないと、姉ちゃんみたいに飛べないぞ」
「ぴ?」
聖竜には治癒能力がある、だからそれを使えば良い、と促すのは何度目か。
言われた意味が分からないようで、首を傾げながら顔を押し付けてくる。
子竜たちを姉妹だと判断したのは勘だ。
竜種は雌雄も自在だと聞いたことがあるが、この子たちは雌である気がした。
暴れん坊で元気いっぱいの姉は、灰色の聖竜にちょっかいを掛けている。
聖竜は何をされても不動だ、無言を貫く巨体には、会話が通じているのかいないのかも分からない。
「聖竜は喋るって聞いたんだけどなぁ。
……誰でも良いから俺を竜士にしてくれないか?」
「ぴぴぃ」
ルドーが投げ掛けた言葉に対し、灰色の瞳が瞼を伏せる、完全に拒否されていた。
子竜たちはどっちも話が分かっていない顔だ、腹の上で寛ぎ出す橙色の翼を見ながらルドーは呟く。
「困ったなぁ」
見つけたは良いけれど、次に進めない。
聖竜の願いを知るためには対話が必要だ、灰色はそれをする気が無さそうだし。
子竜たちに至っては、此方を人間という生き物だと認識しているかも怪しい。
考えているうちに意識が遠退いていく。
近くで寝息が聞こえてくるのにつられて、ルドーは木漏れ日の中で微睡んだ。
***
夢を見ている、それは午睡の中で意識が繋がった、ある存在の記憶。
腹の上で眠る子と、彼の呼吸が重なっていく。
──姉の後ろを追いかけていた妹は、生まれつき翼を動かすことが出来なかった。
癒着した翼の付け根を動かすと激痛が走るからだ、治癒能力で治そうにも、痛みが邪魔して上手くできない。
子育てという概念がない竜種は、子どもを放って何処かへと飛び立ち、ふたりきりになった双子は力を合わせて生きると決めた。
聖竜にとって、飛ぶことが出来ないのは致命的だ。
何度も足手まといになって置いて行かれて、だけど、寂しくなって鳴く妹のもとに、姉はいつだって駆け付ける。
──ふたりで、ひとつの命だから。
生まれた時に決めたのだ、片割れと共に生きようと。
飛べないから何なんだろう、関係ない、いつでも一緒にいるのだと。
──いっしょに、とびたいな。
──いっしょに、
遠くまで飛んで行きたい。
力を持たずとも懸命に生きる。
そんな双子を容赦なく、邪竜が襲った。
食われ掛けた双子を助けてくれたのが、灰色の聖竜。
「翁」は聖域を作って、双子たちの安寧を守ったのだ。
それがこの子たちが此処へやってきた経緯であり、ルドーと出会った理由だった。
***
──意識が浮上したとき、ルドーの腹の上には双子が揃って乗っていた。
穏やかな寝息を立てている子どもたちは、結構な重さだ。
息苦しさを覚えながら、退かすのも忍びなくて、結局そのままの状態でルドーは灰色の鱗を見上げて口を開く。
「あんた、爺さんだったんだな」
言った言葉に返事はない、喋るつもりは変わらずないようだ。
夢の中で双子たちと繋がったのは、この場所の特異さと、傍にいた聖竜が起こした神秘の結果だろうと、ルドーは推測する。
「俺にこの子たちを助けろってことか」
答えはない、ないからルドーは勝手に、翁の態度を解釈することにした。
──母親にこの聖域のことを話したとき、こう言われたのだ。
聖域は誰にでも開かれることもあれば、主たる聖竜が許したものだけ招くこともあるのだと、それが本当なら。
この森を駆けずり回って一度も見つけられなかったこの老いた聖竜が、ルドーを何らかの理由で此処に招いたということ。
「遠くに飛んで行きたい、か……」
ルドーは、腹の上で寝ている橙色の鱗に触れてみる。
縮こまった翼と、広がった翼。
姉は望み通り何処まででも飛べるだろうが、妹は無理だ。
自分の食べる物さえまともに狩れず、翼に邪魔をされて駆けることも出来ないのに。
ふたりで生きたいこの子たちの今生は、きっと早いうちに終わってしまう。
聖竜は転生を繰り返す生き物、だから放っておいても良いとはルドーは思えなかった。
魂の片割れ、ふたりでひとつの命。
離れるなんて有り得ない、その一心で双子は此処に辿り着いて、苦しくても共に生きることを望んでいる。
それを思いながら、ルドーは考える。
幼い頃から竜士になるよう育てられ、そうなることに不満も持たずに生きてきた自分。
母親には、己の役割を果たすために竜士になるのだと言い聞かされ。
しかし若葉色の竜士が言うには、竜士はなりたいからなるものらしい。
どちらも正しいことを言っていて、けれど選択するのはいつだって自分だ。
正解を決めて、答えを出して、己の足で立たねばならない。
だけどルドーは、そんな細かいことよりも先に、双子に対して思うことがあった。
──離別を恐れる気持ちには、ルドーにも覚えがある。
繋がりを大切に思い、共に生きていきたいのだという、その願いを叶えてあげたいと思うのは変だろうか。
「……変かどうかも、自分で決めるんだ」
穏やかな寝息が腹の上から聞こえてくるなか、ルドーは一つ決意をした。
自分の存在が何かの役に立つと信じて生きてきた、それが今なのではないかと。
落ちてくる葉が、緑から枯れ葉に変わり始めている。
旅立つにはきっと、本格的に冬が来てしまう前が良い。
***
「母さんはどれくらい長く生きて来たんだ?」
母親にそう問うた理由は単純に、今まで聞いたことがなかったから。
そして今から言うべき言葉を自分の中で整理する為でもある。
家に戻ってきたルドーは、椅子に腰掛けて母親の横顔を窺った。
母親は冬に備えて、新しい膝掛けを編んでいるところだ。
毛糸の絡まりを解きながら、母親はルドーの問いに答える。
「さあ、どれくらいだろう。
……竜士になったのは、邪竜が生まれて間もない時期だったと記憶しているよ」
「じゃあやっぱり、何万年も前から母さんは生きているんだな」
「ある日突然、邪竜殺しだと自覚してね
それからお前の父に出会った」
ルドーは机に腕を置いて、まだ火の入っていない暖炉を眺める。
母親はいつからこの場所にいるのか、愛竜と過ごした思い出の地なのだろう此処は、昔からこの姿だったのだろうか。
次の言葉を発したのは、母親の方だった。
「ルドー、お前は考えすぎる」
「……助けてくれた竜士にも言われたよ、喋るのにそんな考える必要があるかって」
「ああ、この間話していた彼女のことか。
そう不貞腐れるな、母はお前のそういうところが愛しいと思っているよ」
絡まりが、解かれていく。
ひとつひとつを整理して、正しい順番に並べ替える。
悩み続けていたことに答えが出る、そんな気配にルドーは目を伏せた。
喜ばしいことだ、やっと前に進める。
だというのにその瞬間を前にすると、寂しいと思う。
ルドーはこの森で母親に育てられた。
それを過去にして前へ進むのが、巣立つということだ。
寂しいのは当然で、母を残して行かねばならないのも当たり前だった。
ルドーがずっと踏み出せなかった一歩は、子として親に抱く普通の気持ちだ。
ルドーは目を開いて、母親の方を見る。
丁度、毛糸が真っ直ぐに伸びたところだった。
「母さんの言うように、俺は竜士になるよ。
どうやってなるかはまだ、考えているところだけど」
母親はいつもと変わらず、考えの読めない瞳を息子に向ける。
だけどその目が逸されたことなんて一度も無かったのだ、言葉がちゃんと伝わらないなんてことは、無かった。
「俺はずっと、母さんが一人で生きてて、寂しいんだと思ってた」
「いいや、独りなどではなかったよ。
私の横にはお前がいたのだから」
母親がくれる優しい言葉は、時にルドーを前へ進ませ、休みたい時に休ませてくれる。
それはこれから先もきっと変わらない。
この人は永劫のなかで、母親でいることを選んでくれたのだ。
一瞬に等しかっただろう子どもの成長を大切にしてくれた。
だから、ルドーも選ぶことにする。
邪竜殺しとか、聖竜と竜士の子とか関係なく、自分はあなたの息子だと。
胸を張って、生きるべきだ。
「俺は此処を出て行くよ。
母さんみたいに自分の役割を果たして、それで……」
「いつか父さんに、会えたらいいな」
ルドーは笑って、やっと吐き出せたことに安堵する。
喉を塞いでいたのは憐憫だとか、憧れだとか様々なもので、それら全てを受け止めた母親は、柔らかく微笑んで頷いた。
「それで良い、優しい子よ、母を思ってくれてありがとう。
お前が元気に生きていてくれれば、何処にいたって、私は孤独じゃない」
「それに私は、自分のことが好きだからね。
独りも気楽で良いものさ、だから心配せずとも良いのだよ」
在り方を変えて行く世界で、進んで行く時代を眺めながら、生き続けるということ。
永い時を生きるなら、自分を好きでいた方が良い、母親の考え方はしっかりとルドーにも受け継がれていた。
「渡さなければと思っていた物があるんだ、此方へおいで」
母親はルドーを手招いて、家の庭に建った小屋にある、作業場へと連れて行った。
いつもは入ると怒られるのだけど、今日は良いらしい。
遠慮がちに付いてくるルドーを見て、母親が首を傾げる。
「どうした?」
「……いや、昔勝手に此処に入って大目玉を食らったなって」
「ああ、あれはお前が九つになったばかりの時だったな、昨日の事のようだよ」
母親がくすくす笑う、今日は表情豊かだ、ルドーは珍しいものを見たと内心呟く。
作業場の中は物に溢れていた、何に使うか分からない工具や、広げられっぱなしの材料を見て納得する、子どもを入れたがらないわけだ、転びでもしたら大怪我をしそう。
「少し待っていてくれ。
一応言っておくけれど、危ないから走り回らないように」
「……俺を幾つだと思ってるんだ」
「もう十九になったね」
肩をすくめるルドーにからからと母親は笑った、今日は本当に珍しい。
作業場の奥から布に包まれた身の丈ほどもある何かを抱えて出てきた母を見て、ルドーは思わず声を上げた。
「何だそれ、武器?」
「察しが良いね、大剣だよ」
半分冗談で言ったのに当たっていたらしい、驚くルドーの目の前で、母は掛けられていた布を取り払った。
現れたのは漆黒、刃も柄も黒く染まった身の丈ほどもある大剣が台の上に横たわる。
母親は懐かしむように黒鉄に目を落として、言った。
「これは私の作品、お前の父の鱗と爪を材料にして打ったものだ。
刀身に神秘を伴っている、邪竜に対して特効性を持つ」
「……母さんの短剣と似ているけど」
「短剣は私の母の作品、今はもう何処にいるかも知らないけどね。
私も不老の母を残して巣立った、お前と同じように」
ルドーは右手を伸ばして、漆黒の柄に触れる、邪竜を殺す為の武器でもあり、自分という存在の根源でもあり。
母親との繋がりでもあるそれは、良く手に馴染む。
「お前ならば振れるね、ルドー。
いつも言って聞かせてきたが、その怪力も脚力も人を守る為のもの、聖竜と共にあるべくしてそうなっているんだ」
「自分を必要以上に恐れなくとも良い。
お前が人を傷付けることなどあるものか」
柄を握る手に、母親の手が重なる。
今はあまり触らないでほしい、震えているのが伝わってしまう。
まさか泣くわけにもいかないから、ルドーは歯を食いしばって耐える。
それくらい、掛けられた言葉に安堵した。
──翌朝、ルドーは此処を出て行くつもりでいる。
だからだろうか、母親は伝えたいこと全てを言葉にしているようだった。
「私の名前を教えようか、ルドー。
知っておけば何か困ったことがあった時、助けくらいにはなるかもしれない」
靴紐を結んで、重い外套を羽織る。
いつもの朝と同じように準備をするルドーに、母親は言った。
鞘に収まった大剣を背中に背負いながら、ルドーは首を横に振る。
確かにルドーは母親の名前を知らないけれど、別に知る必要もないと思う。
「いいよ、母さんは母さんだし、それに。
暫くは自分の力で頑張ってみたい」
手袋をはめた左手を開いて、閉じる。
母はルドーが旅に出る時の為に、一通り旅装を用意してくれていた、これもその一つ。
母親から貰うものは、これで全部だ。
「本当にどうにもならなくなったら、帰ってくるかもしれないけど」
「そう言いつつ帰って来ないのがお前だよ。
負けず嫌いなんだから……そこは私に似たのかな?」
母親は可笑しそうに笑っている、そんなに笑えるなら普段からそうしてくれたら良かったのにと、ルドーは苦笑いを浮かべた。
「自分に自信を持てと言われたのだろう?
……とても大切なことだよルドー。
何よりもまず自分が、選んだ道を信じること、誰よりも己を好きでいることだ」
白い手が伸びてルドーの頭を撫でてくる、そんなの子どもの頃以来だったから戸惑って、ルドーは目を逸らす。
視界の外から声がした、楽しそうに、少しだけ寂しそうに。
「人間である己を愛し、己を愛してくれる誰かと、共に生きなさい」
目線を戻した時、母親は笑顔だった。
その顔を見れて良かった、この人に育てられて、本当に良かった。
告げようとした言葉は、少しだけ詰まったけれど、ちゃんと形になって母に届く。
「ありがとう、いってくる」
「……ああ、気をつけて。
母はいつでもルドーを愛している」
笑顔は寂しそうで、けれどなによりもルドーの門出を言祝いでいて。
今度は迷わず、ルドーは家を後にした。
踏み締めた大地は枯れ葉で埋まっている、もうすぐ厳しい冬が来る。
人間は思い出を宝物にして生きていける、今はそれだけ持っていこう。
***
──再び足を踏み入れた聖域は、変わらず木漏れ日で溢れていた。
暖かい日向、綺麗な空気、静かな森。
ルドーはその中を歩いて行く。
すると、奥の方から橙色が突っ込んできた、姉の方だ。
慣れた手付きで抱き止めると、甲高く鳴いて暴れ出す。
尋常ではない様子に、ルドーは驚きながらも口を開いた。
「なんだ、どうした?」
子竜が体を使って背中を押してくる、必死の訴えにルドーは森の中を走った。
──まさか、何かあったのか。
奥にはいつもと変わらず、伏せた灰色の聖竜がいる。
しかしその瞳は開かれて、傍の命を見つめていた。
ルドーは、草原の上で血塗れになって倒れている妹に気付く。
「……おい!」
浅く上下する胸と、折れた左翼と脚と。
今にも生き絶えそうな様子で、何とか耐えている妹の横に、ルドーは膝を突いた。
外傷ではない、何かに襲われて出来た怪我でもない。
まるで高いところから落ちて、ひしゃげたような体を抱えて、ルドーは言った。
「飛ぼうと、したのか」
返事はない、妹の横に姉が降り立つ。
姉は妹に体をくっつけて温めようとして、ふたりともルドーは抱え上げる。
血は流れ続けて、骨も飛び出して、だっていうのに神秘はこの子の体を治さない。
ルドーは冷たくなる体を、溢れ落ちそうな体を抱き締めて引き止めようとした。
「ふたりでひとつ、なんだろう」
呼び掛けに姉がか細く鳴く、妹はルドーを見上げている、その瞳が濁り出す。
飛べない竜は生きてはいけない、自然の理がこの子を殺し、永劫の時に姉を置き去りにしようとしている。
ルドーは双子を救える方法を探した。
機能していない治癒能力に頼らず、どうにかしてこの子の傷を塞ぐ方法を。
焦りの中で熟考を重ねるルドーの頭を、いつかのように灰色が小突く。
──瞬間、腕の中から伝わってくるものがあった。
それは幻のようで、夢のようで、けれど確かに双子が抱いているもの。
濁流が、ルドーの意識を攫っていく。
──さみしいのは、いや。
独りきりは、いや。
──痛いのは、いや。
痛くなかったら、飛べるのに。
繋がった意識の中、双子が夢見た景色が見える、それは快晴、片割れと共に飛ぶ空。
痛みもなく、正常に機能が働いて、自分の体を自由に動かすことができる様。
声高に叫ばれるのは「願い」だ。
ルドーは血を吐く子を抱き寄せて、その背中を撫でる。
「ああ、分かった。
痛いのも苦しいのも、俺が変わってやるからお前、自分で体を治せ」
妹が喉を鳴らして、死にかけの体で甘えてくる、飛びたいというなら叶えてやるとも。
それが出来る存在に、俺を変えてくれ。
ぴい、と聞こえる高い声、目を向ければ姉がルドーの手に頭を擦り付けていた。
それに応えてやりながら、お前も、とルドーは続ける。
「寂しいなら、独りになりたくないなら。
俺がお前らを結ぶ「繋がり」になってやるから、だから頼む」
「俺をお前たちの竜士にしてほしい」
親から巣立って歩き始めたばかりの彼が、掴もうとしているのは心臓を結ぶ光の線だ。
竜士を選ぶのはあくまでも聖竜、ルドーはこの子たちに選ばれなければならない。
見つめた四つの太陽色は、顔を見合わせている、くるると、鳴き合ってぴいと決める。
腕の中から伝わる意識は、彼に最後の問い掛けをした。
──ずっと、一緒に遊んでくれる?
「ああ、もちろん」
問いに対して、ルドーは笑顔で答えた。
溢れ出た光がルドーと双子を繋ぐ。
縁を辿って一つになる、結ばれた線は真っ直ぐに、永く永く伸びていく、そして。
共有された感覚を伝って体に流れた激痛が、ルドーの意識を奪った。
──覚醒と同時、飛び起きた勢いで枯れ葉が舞った。
びっくりした顔で飛び立つ翼。
ルドーは必死になって辺りを見回し双子を探すと、飛んでいた橙色が降りてきた。
「よかった、治ったんだな」
呼び掛けに応えるように、元気よく妹が翼を開いた。
翼の付け根には癒着の名残があるが、問題なく動いている。
身体中の傷も完治していて、嬉しそうな姉と取っ組み合いをし始めた。
ルドーは安心しきって、もう一回草原に倒れ、はあーっと長く息を吐き空を見上げる。
竜士になるのだとは思っていたけど、まさかこんな形になるとは。
自分の心臓は確かに双子と繋がっている。
それを感じながらルドーは起き上がった。
体にはもう痛みはない、妹の体から全ての外傷が消えたからだ。
正直、夢現の中で何度か死ぬと思ったくらいの激痛だったが、何とか戻って来れた。
あの痛みの中にあの子がいたのだと思うと、心臓が軋む。
ルドーは気持ちを切り替えて、双子に問い掛ける。
「なあ、俺は旅に出たいんだけど、お前らはどうしたい?
此処に残るとなると、ちょっと気まずいんだけど」
ルドーは別れを告げてきた母親の顔を思い浮かべた。
双子はきょとんとしたあと、大急ぎで飛んでいく──灰色の聖竜の元へ。
双子と翁が何やら対話しているのを見上げながら、そういえばとルドーは呟く。
「この爺さん、なんでふたりを助けたのか、分からないままだな」
老竜は不動のまま、双子の動きを目だけで追っていたが、やがて大きな欠伸をした。
対話が終わったのか、ルドーの元に橙色が戻ってくる。
「なんて言ってた?」
「ぴ!」「ぴぴ!」
「……聞いといて悪い、分からないや」
ルドーの左腕に姉が、右肩に妹が乗る。
その様子を眺める灰色の瞳。
思えばこの瞳はいつも双子を見守り、ルドーのことを見据えていた。
真意を問おうにも、対話をする術がない、話す気がないのか喋るのが得意でないのか。
考え込むルドーの頭上で、木が揺れ葉が落ちてくる。
見上げてみれば、のそりと巨体が起き上がり始めていた。
四肢を踏ん張る度に大地を揺らす巨体。
激震にルドーは慌てて、片手でぐらついた妹の背中を支える。
森の静寂が破られ、動物たちが逃げていく。
一体なんだというのか、ルドーの疑問に灰色の聖竜は行動で答えた。
──翼が、広がる。
聖域が音を立てて割れた。
それは主たる聖竜が、此処を離れることを選んだからだ。
双子が空を見上げて高く鳴く。
見送るような態度にルドーは、聖竜が此処を去るのだと気付いた。
灰色の瞳がルドーのことを見て、最後に双子を見て、目を細める。
まるで、この子たちのことを託されたような気分になってルドーは背筋を伸ばした。
何か言葉を掛ける暇も、ないまま。
灰色の聖竜は、一瞬で飛び立つ。
まるで夢の終わり。
森はルドーの良く知る姿へと帰る。
此処で起きたことが現実だと教えてくれるのは双子の存在と、目の前の光景だけだ。
空へと姿を消した聖竜の伏していた場所に、一面の花畑が残っていた。
あの巨体の下で育っていたとでも言うのだろうか、舞う花弁が祝福のように、双子へと降って。
「ぴいーっ!!」
庇護してくれた者のいなくなった森で、双子は鳴いて、ルドーと共に空を眺める。
もう二度と出会うことはないのだろうと、何となく分かったから。
暫くして、双子と一人は歩き出した、今まで育ったこの森を離れて。
独り立ちの機会は平等に与えられていた。
***
「お前らの名前を決めないとなぁ」
「ぴっ!」「ぴぃ!」
街道を双子と共に歩きながらルドーは腕を組んで、うーんと考えた。
背中で大剣が揺れている、最低限の荷物で身を固めている彼は、難しい顔で唸る。
「呼びやすい方が良いよなぁ、何かから肖って付けるか」
「ぴぃ〜!」
楽しそうに飛んでいた姉が、ルドーの右肩に着地した。
出会った頃よりなんだか大きくなっている気がする、すぐにこういう事も出来なくなるのだろう。
考え事をして歩きながらも、ルドーは何かに気を取られている妹に目を向ける。
「おーい、ちゃんとついて来てくれよ。
お前はすぐフラフラ飛んでいくな」
「ぴ?」
何がなにやら分かっていない様子で、のんびりと妹は飛ぶ。
姉がおかしそうにケラケラと鳴いた、そんな声も出せるのかとルドーは思う。
「とりあえず、街道を進んで王都まで抜けるぞ、戦争中だからどうなってるか……」
「ぴぴぃ」「ぴー」
「こらこらこら、落ちてるもの食わないでくれ頼むから」
まだまだ生まれたて、世界のことなんて知らない子どもたち。
ルドーは双子に教えて歩く、この世の厳しさも優しさも。
築き上げていく関係性が、繋がりになって道になる。
道を辿れば必ず会えるのだ、世界で一番大切な片割れと。
その命を待ち続ける、一人の人間に。
──秋が終わる、冬を越える、春を迎えて、夏を過ごし、また一巡。
竜士は永劫を生きて、その中で双子の親になっていく。
Another「双生の太陽」完
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