第105話・やる気とご褒美
昼食後。
劇場へと戻った俺は、再びみんなの練習風景を見つめていた。
いよいよ明日が本番だからか、舞台上では本番さながらの熱を帯びた演技が繰り広げられている。その様子は見ているだけで身震いがする程の気迫に溢れていて、これは既に本番じゃないだろうか――と、そんな風にすら思えてくるくらいだ。
俺は本を読んでいる時、その物語に自己投影をするんだけど、この演劇というジャンルにも似たものを感じる。いつの間にか舞台上の役者達にシンクロし、その世界観の中に一緒にいる様な感覚になってくるからだ。
そんな舞台上の演技を見ているだけで、明日の本番が何倍も楽しみになってくる。
「鳴沢君。ちょっといいかな?」
本番さながらの暗い劇場内。
そんな中、天井にある照明で明るく照らされている舞台上をいつもの様に見つめていると、背後から声が掛けられた。そして俺がその声がした方を振り返ると、そこには劇中で照明を担当する女性スタッフさんが居た。
「はい? 何でしょうか?」
また雑用を頼まれるんだろうと思った俺は、その用件を聞こうと席から立ち上がった。
すると女性スタッフさんは用件の内容を説明をしてくれたわけだが、その内容は予想したものとはまったく違うもので、俺は少々戸惑ってしまった。
「――あの、本当に僕がやって大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫よ。そんなに難しい事じゃないし、あとでちゃんとタイミングを合わせる練習はするから」
女性スタッフさんから用件を聞いた俺は、最初は素直に頷く事ができなかった。
しかし演出の急な変更により、変えざるを得なくなった部分の人員補充をする為には人員が足りないらしく、そこで雑用として参加していた俺に白羽の矢が立ったという事を説明された。
「……分かりました。僕でいいならやってみます」
「ありがとう、凄く助かるわ。それじゃあ、またあとでね」
そう言って演出家の先生のもとへと向かって行く女性スタッフさん。
正直乗り気ではないけど、こうしてこの演劇チームに参加している以上、俺も無下にお願いを断る事はできない。
それからしばらくして休憩時間へと入った頃。俺は劇場のロビーにある自動販売機でお茶を買い、それをゴクゴクと飲んでいた。
冷房の効いた劇場内で椅子に座って舞台練習を見ていただけなのに、手に汗握る迫真の演技に文字通り汗をかいてしまい、こうやって喉を潤しているというわけだ。
「龍之介君」
聞き慣れた雪村さんの声にペットボトルを口から離し、そのまま後ろを振り向く。
振り向いた先に居た雪村さんの顔はにわかに上気し、舞台での練習がいかにきつく厳しいものであったかを感じさせ、首に掛けられたピンク色のタオルで額に浮かぶ汗をトントンと押し拭いている。
「雪村さん。お疲れ様」
「お疲れ様。あの、スポット照明の仕事を頼まれたって聞いたんだけど、本当?」
「うん。演出が変わって人が足りない――って言われてね」
「ごめんね。突然頼んでついて来てもらったのに、そんな事までさせちゃって……」
雪村さんは本当にすまなそうに頭を下げてきた。
でもこんな風に頭を下げられると、俺としては反応に困ってしまう。別に雪村さんが悪いわけでもなければ、頼みに来たスタッフさんが悪いわけでもないから。
それに気が乗らないとは言え、その頼みを了承したのは俺自身。だったら誰に謝られる必要も無いわけだ。
「謝る必要なんて無いよ。俺が自分で了承した事なんだから。まあ、ゆっくりと演劇鑑賞できなくなるのは残念だけどね」
「そんな事は無いよ?」
雪村さんと同じく、少し上気した感じでこちらへとやって来た憂さんが、にこにことした笑顔で俺へ近付いてから肩をポンポンと叩く。
「スポット照明を置いている場所からの演劇鑑賞も、結構乙なものだよ? 普段は絶対にそんな位置からは見たりできないんだから」
憂さんのその言葉に、俺は妙に納得してしまった。
最初こそ客席からゆっくりと演劇鑑賞ができなくなると思ってガッカリしてたけど、確かに言われた様に、そんな環境下での演劇鑑賞などそうそうできる経験ではないだろう。物は考えようだとはよく聞くけど、今くらいその言葉がしっくりと胸に落ちた瞬間はない。
しかしこんな感覚を覚えるのも、言っている人が憂さんだからというのはあり得る。この人はどこまでもポジティブ志向で、ネガティブな思考も無理やりに明るい方向へと変えてくれる様な、そんな不思議なものを感じさせるからだ。
「そうですね。そういった見方もありますよね」
「うんうん♪ それにラストシーンに登場する陽子を照らすのは龍之介君なんだから、これでもか! ってくらい目立つ様にしてあげてね。陽子もきっと喜ぶから」
そう言いながらチラチラとわざとらしい感じで雪村さんを見る憂さん。本当にイタズラ好きの子供の様な人だ。
「ゆ、憂先輩!? 何を言ってるんですか!」
そんな憂さんに対し、雪村さんはさっきよりも更に熱を帯びた感じで顔を赤くして抗議する。
それにしても、憂さんの言ってる事には無理がある。俺がどんだけ頑張ったところで、スポットライトの明るさは変わらない。よほど奇抜な色彩にでもしない限りは、スポットライトで目立たせるなんて無理な話だ。
「あれれっ? 陽子は嬉しくないの? 龍之介君が陽子の事を照らしてくれるんだよ?」
「もうっ! 憂先輩っ!」
「アハハハッ! ごめんごめ~ん!」
顔を赤くした雪村さんが憂さんに詰め寄ると、憂さんは両手で軽く頭を覆う様にしながらその場から逃げて行った。
そんな憂さんを見ながら、大きな溜息を吐く雪村さん。いつもこうやって憂さんにおちょくられているんだろうなと思うと、ちょっと同情してしまう。
「もう……ごめんね、龍之介君。先輩が変な事を言って」
「いやいや。でも、雪村さんの大切なシーンで俺が照明をやるんだから、なんだか緊張しちゃうよ。失敗したらどうしよう――ってさ」
実際は照明を点けたり消したりするだけだろうけど、それでも微妙なタイミングというのはあると思う。そう考えると、俺みたいな素人に任せて大丈夫なのかな――と、不安にもなる。
「大丈夫よ! 龍之介君はちゃんとやれる。それは龍之介君を見てた私がよく知ってるから! あっ……」
そう言うと雪村さんは、恥ずかしそうに顔を逸らした。
そんな雪村さんの言葉と態度に、俺も思わず気恥ずかしくなってしまう。
「えっと……と、とにかく頑張るよ!」
「う、うん……あっ、そうだ。龍之介君がちゃんとお仕事を完遂できたら、ご褒美に私が出来る事で何でも一つお願いを聞いてあげる」
「えっ!?」
恥ずかしそうに逸らしていた顔を突然こちらへ向けると、雪村さんは唐突にそんな事を言った。
「だ、だから頑張ってねっ! それじゃあ!」
雪村さんはそう言うと、焦り気味に劇場の方へと走り去った。
きっと不安がっている俺を気遣ってあんな事を言ってくれたんだろうけど、気遣い方がちょっと雪村さんらしくないなと思えた。
でも、何でも一つお願いを聞いてあげる――というその甘美な響きは、俺の中に生じた些細な違和感すらも掻き消してしまう程の破壊力を持った言葉だった。
――何でも一つ――って事は、あんな事やこんな事をお願いしてもいいのかな? ンフフ……よしっ! ここはいっちょ、気合を入れて頑張るかっ!
俺は次々と頭に浮かぶ様々な煩悩を糧に奮起しながら劇場へと戻り、それから照明スタッフさんに機材の取り扱いの説明を受けてから、その日の稽古の終わりまで照明のタイミング合わせを練習した。
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