第106話・言葉の壁は誤解を生む
時刻が十九時を過ぎた頃。
みんなと一緒に宿泊所へと戻って来ていた俺は、夕食を済ませたあとで憂さんと一緒に買出しに行ったコンビニへと向かった。
そして俺はコンビニでから揚げとペットボトルのお茶を買い、それを持って外に設置されているゴミ箱の横に立ってムシャムシャとから揚げを頬張っている。
宿で食べる料理はもちろん美味しいんだけど、分量と味付けの濃さが俺には少し物足りない。だからこうして身体に悪そうなジャンクフードを買いに来た訳だ。
――明日はいよいよ本番か。
頬張ったから揚げをモグモグと噛んで飲み込み、手に持っていたペットボトルのお茶を口に含んでゴクリと飲む。
「あの、すみません。少々よろしいでしょうか?」
そうやってモグモグとから揚げを摘まんでいると、コンビニから出て来た女性に突然声を掛けられた。
「はい? あ、どうも」
その相手は午前中に劇場ですれ違いに声を掛けて来た人だった。
そんな女性へ向けて俺がペコリと軽くお辞儀をすると、相手も同じ様にこちらに向かってお辞儀を返してくれた。
「午前中はお忙しいところを呼び止めてすみませんでした」
「あっ、いえ。大した事をしていたわけじゃないので、気にしないで下さい」
女性はその言葉にもう一度ペコリと頭を下げると、持っていた飲み物を口へと運んだ。そして口にした飲み物をそっと離すと、ふうっと息を小さく息を吐いてから再び口を開いた。
「あなたも明日の演劇に出演されるのですか?」
「いえ。自分は裏方なので、舞台への出演はしません」
「そうでしたか」
女性は俺の言葉を聞いて少し残念そうな表情を浮かべて俯いた。
それを見た俺は、その様子が少し気にかかった。午前中の様子からしても、
「あの……失礼とは思いますけど、舞台に出演する生徒の親御さんですよね? 何で会いに行かないんですか?」
悪い癖だとは思うけど、疑問に思うとどうしても聞きたくなるのが俺の性分だ。
「……私がこうして見に来ている事は、娘にも家族にも内緒なんです」
子供の舞台を見に来るのを本人にも内緒にしている上に、家族にまで内緒にしていると言うのは変な話だ。まあ、複雑な家庭事情を抱えているみたいだけど、せっかくの娘さんの晴れ舞台を本人にも家族にも隠れて見に来たなんて、凄く寂しい話じゃないか。
しかしそうは思っても、俺がそういった家庭事情に首を突っ込む事などできる訳がない。
「そうでしたか……立ち入った事を聞いてすみませんでした」
俺がそう詫びを言うと、その女性は『気にしないで下さい』と言って微笑んでくれた。その柔和な微笑みは、どことなく自分の母親を感じさせる。
そしてその女性は『ではまた』と言うと、静かにその場から去って行った。
俺はしばらくその場でから揚げをつまみつつ、十五分くらい経ってから宿へと戻った。
「――あっ、龍之介君。どこかに出掛けてたの?」
宿に戻ってロビーを抜けようとした時、ソファーが置いてある待合所から声が掛けられ、そこには飲み物を片手にもう一方の手で俺に向かって手を振る雪村さんの姿があった。
この宿の浴衣を着ているところを見ると、どうやらお風呂上りみたいだ。
今日の雪村さんも顔が少し高揚した様に赤くなっていて、その様を見るだけでゆっくりと温泉に浸かって来たんだろうと思える。
それにしてもやはりいい。こうして女の子のお風呂上りの姿を見られるのは、学園行事の修学旅行くらいしか機会は無い。何より学校自体が別の雪村さんの浴衣姿など、普段では絶対にお目にかかれないから、紛れも無いレアショットと言えるだろう。
それを考えれば、こうしてその姿を見れただけでもこの演劇合宿の手伝いに来た価値がある。
「ちょっとコンビニまでから揚げを買いにね」
「そうだったんだ」
俺は雪村さんが居る方へと歩いて近付き、向かい側のソファーへ座ってから質問に答えた。
「明日の本番、緊張するなあ。照明をやるだけなのにこの緊張感なんだから、役者の人達はもっと凄いプレッシャーや緊張感なんだろうね」
「うん。確かに緊張もするし、凄くプレッシャーも感じるけど、それ以上に楽しみなんだ。自分が演じる役が、見ている人にどんな気持ちを感じさせるのか、見ている人の心に何を残せるのか、それを思うとワクワクしてくるの」
そんな事を満面の笑顔で話す雪村さんは本当に楽しそうで、それはこれまで見てきた彼女の笑顔とはまったく違って見える。
それは、本当にやりたい事をやっている――っていう、充実感の様なものがその笑顔から感じ取れるからだと思う。
俺はそこから約二十分くらい、夢中で演劇について話す雪村さんの話を聞いていた。
「本当に雪村さんは演劇が好きなんだね」
「あっ、ごめんなさい。私だけ夢中で話しちゃって……」
「いやいや、面白い話だったよ。あんなに夢中で楽しそうに話す雪村さんは初めて見たし、小さな子供みたいで可愛かったよ」
「も、もう……からかわないでよ……」
「あっ、いや、ごめんごめん。別にからかうつもりじゃなかったんだけどね」
話をしている時の雪村さんはまるで子供の様に夢中で演劇の事を話していて、本当に可愛く見えていた。それにしても、俺なんかの言葉で恥ずかしげに顔を俯かせるなんて、雪村さんは本当に純な人だと思う。
将来、好きな人に告白でもされたら、雪村さんはいったいどんな表情をするんだろうか。もしかしたら、燃え尽きそうな程の真っ赤な顔で俯いたりするのかもしれない。
そんな雪村さんの姿を想像すると思わず笑みがこぼれそうになったけど、よくよく考えると、それって雪村さんが誰かと恋人になるって事だ。そう思うと、微笑ましく思えたその状況が、途端に胸がムカムカする状況へと変わる。
「クンクン……あれあれ? こっちから甘い匂いがしてくるなあ~」
その言葉にはっと我に返ると、いつの間にか雪村さんの背後に来ていた浴衣姿の憂さんに気付いた。
憂さんはまるで犬の様に鼻をスンスンと鳴らしながら、雪村さんと俺を交互に見る。また何か変な事を言い出すつもりなんだろう。
「うんうん。この甘い匂いは……君達から発せられている様ですねっ!」
一通り匂いを嗅ぐ動作を終えると、憂さんはそんな事を言い出した。
雪村さんは元から甘くて良い匂いがするから話は分かるけど、俺は甘い物を食べたわけでも香水を使っているわけでもないので、俺まで含める意味が分からない。
「俺は別に甘い匂いなんてしないと思いますけどね?」
自分の腕を鼻先まで持って行ってクンクンと匂いを嗅いでみるが、別段甘い匂いなどしない。むしろさっきまで食べていたから揚げの匂いがまだ残っていて、俺にはその匂いしかしない。
「はあーっ……龍之介君は本当に困ったさんだねえ」
憂さんは両手の平を上に向けてその両腕を横にやり、首を左右に振ってそんな事を言う。
「私が言っているのはそんな事じゃなくて、Smell of loveの事だよ。特に陽子からそれを感じるかなあ」
――何だって? スルメラブ? 雪村さんがスルメを好きって事か?
どうやら英語を言ったみたいだが、英語が超の付く程苦手な俺にはその意味がまったく解らない。
「ゆ、憂先輩っ!? ななな何を言ってるんですかっ!?」
そんな事を疑問に思って悩む俺とは違い、雪村さんは慌ててソファーから立ち上がると憂さんの両肩をパッと掴み、激しく揺さぶりながら早口で何やらまくし立て始めた。
二人のこんなやり取りも今では見慣れたものであり、お笑い芸人で言うところの定番ネタとも言える展開だ。案の定、二人がそんなやり取りを交わしたあと、いつもの様に雪村さんが顔を赤く染めたまま、『もう知りません!』と言ってその場から去って行った。
そして憂さんはいつもの様に、『やり過ぎちゃったみたい』と言ってペロッと小さく舌を出す。
「憂さん。雪村さんをからかうのも程々にしないと」
「いやあ、陽子って反応が可愛いから、ついつい
苦言を
どうやら憂さんにとって、あれは雪村さんとのコミュニケーション手段の一つであり、欠かせないものらしい。まあ、憂さんだって雪村さんが本気で怒る様な事はしないだろうから、そこは俺が心配するまでもないだろう。
「あっ、そういえば憂さん。さっきの英語はどういう意味だったんですか? 俺、英語が凄く苦手で、まったく意味が解らなくて」
「ああ。それでずっと首を傾げてたんだ」
憂さんは自分の中の疑問が晴れたと言わんばかりの、清々しい表情でそう言った。
「そうだなあ。教えてあげてもいいんだけど、ここはあえて宿題って事にしておくね。ちゃんと勉強はしないと駄目だよ?」
憂さんはちょっと意地悪な笑みを浮かべてそう言い、俺の肩をポンポンと軽く叩いてから部屋の方へと戻って行った。
「宿題ねえ……」
まさかこんな遠くの地に来てまで宿題をもらうとは思ってもいなかった。
憂さんが去ったあと、俺はおもむろに携帯を取り出してからメッセージ画面を開き、そこに『スルメラブって英語は、日本語でどんな意味なんだ?』と文章を打ち、成績優秀な妹である杏子へと送信した。
そして数分後、携帯がブルルッと震えてメッセージが来た事を知らせてくれる。
俺は急いでメッセージ画面を開き、その内容を確認した。そして成績優秀な杏子からの返信には、『ラブは分かるけど、スルメって読む英語は聞いた事が無いよ』と、そう書いてあった。
「んん~。いったいどういう事だ?」
憂さんの言った英語に更に首を傾げる事になり、本番前の夜だというのに、俺はそこからしばらく頭を悩ませる事になった。
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