第95話・とある平日の午後

 先日の茜が告白された騒動も終わり、俺はいつもの日常へと戻っていた。

 ああいう事があると、こういった何も起きない日常というのが、いかに素晴らしいものなのかをよく実感できる。

 ファンタジー小説や漫画などの非現実世界に身を置きたい――そんな事を考えた事がある人は結構多いと思うけど、実際にあのような世界観に身を置いたら、きっと安心して過ごせない毎日になるのは間違い無い。

 でも、人がそんな非現実世界に身を置きたいと思うのは、現実がいかにつまらなくて味気無いかを知っているからだと思う。だからこそ、そういった非現実世界への憧れを持つのだろう。

 しかしながら、それでも人は安定と安心を求める。本当に人間って生き物は、おかしくも矛盾した思考を持った生き物だ。まあ、だからこそ人は思考の世界で遊べる様にと、想像力というものを身につけたのかもしれない。


「あー、俺もこの世界に行きてえなあ……」


 そんな事を思いながら、いつもの様に見ていたラブコメ漫画の世界への憧れを募らせる。しかし俺の場合は世界観と言うより、登場人物達の置かれている状況に憧れを抱いているんだと思う。

 まあそれはともかくとして、七月も中旬を過ぎたというのに、ここ五日くらいはまるで梅雨を思わせる雨模様が続いていた。

 窓の外では激しい雨が降り続けていて、その雨が屋根を激しく叩きつけている音が部屋のベッドで寝そべっている俺の耳にもはっきりと聞こえてくる。窓外に見える空が暗く淀んでいるせいで、時計を見ないと今が朝なのか昼なのかが分からないくらいだ。

 まあ、今日は学園から帰って来たあとだから、既に夕刻を過ぎているのは分かってるんだけど。

 ベッドから下りて本棚へと向かい、今まで読んでいた本の続きを手に取ってから再びベッドの上へと戻って寝転がる。この怠惰に過ごす時間のなんと贅沢な事か。

 そんな事を思いつつ漫画本を読んでいる時、視界の端で突然ピカッと稲光が見え、家が震える様な凄まじい轟音が鳴り響いた。


「うおっ! ビックリしたあ……」


 突然鳴り響いた轟音に、身体がビクッと跳ねてしまう。


 ――まったく、雷って奴はいつもこうやって唐突に人を脅かしやがる。心臓が止まったらどうしてくれるんだ。


 漫画本をベッドに置いてから窓際へと移動し、雨足が更に激しさを増している外を見つめる。

 まるで夜の様に暗い空。その暗い空にピカピカと激しい光を放つ雷。

 たまに鳴り響いてくる凄まじい雷の轟音が、まるで小さな地震でもきたかの様にして家を揺らす。加えて風も強まってきてる様子で、しっかりと閉められた窓がガタガタと揺れていた。その様はさながら、大型台風にでも見舞われているかの様だ。


「お兄ちゃん。居る?」


 コンコンと部屋の扉を軽くノックする音のあとに、杏子の小さな声が聞こえてきた。

 そんな扉越しに聞こえてきた杏子の声音は、いつもと違ってどこか弱々しい。


「居るぞ。どうかしたのか?」

「良かった。それじゃあ、今すぐ私の部屋に来て」

「え? 何でだ?」

「いいから! すぐに私の部屋に来て! すぐだからねっ!」


 杏子が少し強い口調でそう言ったあと、パタパタとスリッパを履いて移動をする音が廊下の奥へと消えて行くのが分かった。

 それにしても、杏子にしては珍しく余裕の無い感じだ。

 どうしたものかと思いつつも、俺は窓のカーテンを閉めてから杏子が居る部屋へと向かう。


「来たぞ、杏子」

「あっ、入っていいよ。お兄ちゃん」


 杏子の許可を得た俺は、ドアノブを回して扉を開ける。

 すると扉を開けた先には、杏子よりも小さな女の子が座布団に座って居るのが見えた。


「あれ? 愛紗じゃないか。どうしてここに?」

「あっ、お邪魔してます。今日は杏子と一緒に勉強をする約束をしてたんですよ」


 ――そうか。学園から帰って来た時に玄関にあった小さなスニーカーは、愛紗の物だったのか。


「そうだったんだ。ところで杏子、いったい何の用事だ?」

「お兄ちゃん。ここ」


 杏子は一言そう言うと、ノートを広げたテーブルがある床の一角を指差した。

 そこはちょうど愛紗の対面にあたる位置で、その場所をクイクイッと人差し指で何度も指し示す。どうやらそこに座れという事らしい。


「いったい何だってんだよ?」

「うん。OK♪」


 渋々ながらも杏子の希望通りに指し示された場所へ行き、そこにあぐらをかいて座る。

 すると杏子はそれで満足したと言わんばかりの笑顔を浮かべ、そのままテーブルの上にあるノートに視線を移してから勉強を始めた。

 俺は座ってから少しの間は杏子と愛紗の様子を見ていたんだが、二人揃って話を始めるどころか、教科書を見ながらノートに向かってカリカリとシャープペンを走らせ、綺麗な文字を書いているだけ。俺を部屋に呼んだ理由の説明が行われる様子は一切無い。


「……なあ、杏子。俺を呼んだ理由は何だ?」

「えっ? お兄ちゃんを呼んだ理由? そんなの決まってるじゃない」


 杏子はそう言うと、スカイブルーのカーテンが閉められた窓の方をクイクイッと指差した。

 その指先を見てとりあえず素直に窓の方へと視線を移すが、杏子が指差した方を見ても別に変わったところも無く、俺が求めている理由を説明する様な何かがあるわけでもなかった。


「いや、さっぱり意味が分からんのだが……」


 そんな俺の言葉に杏子が溜息を吐いた瞬間、凄まじい稲光のあとに雷の轟音が連続で鳴り響いた。


「「キャ――――ッ!」」


 部屋の中に杏子と愛紗の悲鳴が響き、左斜め前の位置に居た杏子が俺に向かって飛び付いて来た。そして俺の真向かいに居る愛紗は、両手で耳を塞いで目を瞑っている。

 俺はこの時、やっと杏子が俺を部屋へと呼んだ理由が分かった。

 つまりこの二人は、雷が怖いのだ。だからその恐さを軽減する為に、わざわざ俺を部屋に呼んだんだろう。杏子は昔っから、雷が超苦手だったから。


「雷が怖いのっ!!」


 抱き付いたままの杏子が、俺の胸に顔をうずめたままでそう叫んだ。そんな杏子の身体は、小刻みにブルブルと震えている。


「ああ。十分に理解できたよ」


 俺はそう言ってから怖さで身体を震わせている杏子の頭を撫でた。

 普段は兄をおちょくったりする困った妹だが、こういったところは素直に可愛いと思える。

 とりあえず杏子を落ち着かせた俺は、このままぼーっと部屋に居るのは耐えられないと訴え、自室にある漫画を取りに行く許可をもらった。


「すぐに戻って来てよね!」

「分かってるよ」

「五秒で戻って来てよねっ!」

「お兄ちゃんに人間の限界を超えた要求をするのは止めなさい」


 不安がって無茶な要求をする杏子を置いて自室へと戻り、読みかけでベッドに置いていた本と、その続きを本棚から数冊取り出してから杏子の部屋へと戻る。

 そしてそのまま杏子と愛紗の勉強が終わるまでの間、俺は部屋の中で静かに読書を続けた。

 しかしそんな中でただ一つ問題だったのは、雷の轟音が鳴り響く度に、杏子が容赦無くアメフトばりの勢いで飛び付いて来る事だった。

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