第36話・一年前の姿

 特に何事も無く正月も過ぎ去り、一年の三学期を迎えてしばらくが過ぎた二月のある土曜日の朝。俺は自宅の玄関前で、出掛ける杏子を見送ろうとしていた。


「ハンカチ持ったか? ちり紙持ったか? 筆記用具は忘れてないか? 受験票は忘れてないか?」

「お兄ちゃん、落ち着いて。昨日の内にちゃんと準備してるから大丈夫だよ」

「もう一度確認しとけって! ちゃんと準備してるつもりでも、忘れてる事は多いんだぞ?」

「お兄ちゃん。今日起きてからいったい何度確認させるつもり? これでもう八回目だよ?」


 そんなに確認させていた記憶はまったく無いけど、杏子がそう言っているんだからそうなんだろう。それにしても杏子のやつ、よく俺が言ってた回数を数えてたもんだ。


「そ、そっか。悪かったな」

「心配してくれるのは嬉しいけど、私は大丈夫だから」


 今日は杏子が花嵐恋からんこえ学園の入学試験を受ける日だ。

 余程自信があるのか、それとも無謀なのか、杏子は志望校を花嵐恋学園の一本に絞り、滑り止めもしていない。だから兄としては心配にもなる。


「分かった。とにかく頑張って来い!」

「任せておいてよ。春からはお兄ちゃんと一緒に登校できるから。それじゃあ、行ってきます」


 余裕の笑みを浮かべてそう言うと、杏子は元気に手を振って花嵐恋学園へと向かって行った。杏子の事だから上手くやるとは思うけど、しっかりしている様に見えて天然をかますところもあるから心配だ。

 ちなみに杏子には言わなかったが、杏子が合格しても一緒に登校する予定は無い。まあ、これは杏子に言わなくて正解だと思う。言えば杏子のモチベーションを酷くいでしまう結果になったかもしれないから。

 落ち着かない気持ちで杏子を見送ったあとに自室へと戻り、俺はそのまま部屋の中をウロウロしていた。しかし、俺がそわそわしていても仕方がないから、とりあえず落ち着く為にベッドへと寝転がった。

 寝転がったベッドから見える掛け時計は、午前八時半を少し過ぎた辺りを指し示していた。杏子を見送ったのが七時半頃だったから、結構な時間を使って室内をうろうろしていたらしい。


「大丈夫かな……」


 あと一時間もしない内に花嵐恋学園の入学試験が始まるわけだが、杏子が緊張していないだろうかと、今更ながら心配になる。


「そういえば、去年は俺が杏子と同じ立場だったんだよな……」


 あの時の俺は、今日の杏子と違って相当緊張していたと思う。

 そんな事を思いながらベッドで寝返りを打って瞳を閉じると、朝早くに起きたせいか、すぐに眠気の波が押し寄せて来た。俺はその眠気に一切の抵抗をせず、そのまま眠りの波に身を任せた。


× × × ×


「龍ちゃーん! 急がないと試験に遅刻するよー!」

「分かってるよ! 先に行っててくれー!」


 俺とした事が緊張のあまり眠れず、寝坊して遅刻しそうになっている。しかもそれが、よりにもよって高校受験の日だなんて洒落になってない。


「杏子! 何でもっと早く起こしてくれなかったんだよっ!」

「私は何度も起こしたよ? お兄ちゃんが起きなかっただけだもん」

「くっ……」


 ここで杏子を責めても仕方がないので、大急ぎで準備を済ませてから部屋を飛び出し階段を駆け下りて行く。もはや今の俺には、パンの一枚すら咥える余裕も無い。


「もうっ! 龍ちゃん遅過ぎ!」

「何で先に行ってないんだよ!?」

「龍ちゃんを置いて行けるわけ無いでしょ!」

「たくもうっ! 行ってきます!」

「お兄ちゃん! 受験票忘れてるよっ!」


 よりにもよって、絶対に忘れたらいけない物を忘れるとは幸先が悪い。

 杏子が急いで持って来てくれた受験票を素早く受け取り、俺は茜と一緒に玄関を飛び出してから全力で花嵐恋学園へと向かい始めた。こんなに全力疾走をかますのは、小学校で遠足に遅れそうになった時以来だった。


「――あっ、龍之介に茜ちゃん! 急いでっ!」


 しばらくして花嵐恋学園の校門前に着くと、そこには腕時計を見ながら焦った様子で声を上げるまひろが居た。


「お前も待ってたのか!?」

「うん。二人共来ないから心配してたよ」

「龍ちゃんが寝坊するから!」

「だから悪かったって!」


 三人で校門をくぐり抜けてダッシュで校舎内へと向かう。

 既に周りには他の受験生の姿は無く、腕時計を見ると受験開始の十五分前だった。


「どこの教室に行けばいいんだ!?」

「龍之介、茜ちゃん、こっち!」


 まひろは待っている間に試験を受ける教室をチェックしてくれていた様で、スムーズに俺達を誘導してくれる。

 そして辿り着いた教室の扉を勢い良く開けると、受験生達と監督官らしき人が一斉にこちらへ注目した。


「受験生か? 早く席に座りなさい」


 俺達は急いで自分の受験番号が書かれた席へと座る。

 急いで走って来たせいで息は乱れ、静まり返る教室の中で、ずっと走りっぱなしだった俺と茜の大きな呼吸音が妙に大きく聞こえていた。


「――テスト始め!」


 午前九時十分。

 試験開始前にテストに関する説明を受け、花嵐恋学園合格の為の一歩が始まった。普段ではありえない緊張感の中、俺は試験問題と向き合う。

 試験が全て終了するのは十五時頃。一つたりとも油断するわけにはいかないという気負いもあったけど、茜とまひろに受験勉強を見てもらった成果はあった様で、比較的出題された問題には答える事ができた。

 そして緊張に満ちた午前中の試験はあっと言う間に終わり、俺達は午後の試験を前に開放された食堂で昼食を摂っていた。


「とりあえず、一休みってところだな。ここでしっかりとリフレッシュして、次に備えないと」

「そうだね。茜ちゃんは試験どんな感じ?」

「私は特に問題無いかな」


 余裕の表情でまひろの質問に答える茜。

 茜は成績は抜群にいいから、この試験が余裕なのは間違い無いだろう。


「龍之介はどう?」

「とりあえずはまあまあって感じかな」

「まあ、不安があるのは龍ちゃんだけだと思うけどね」

「うるせー。まひろはどうなんだ?」

「僕は今のところ問題無い感じかな」


 そんな事を聞いた俺が馬鹿だったと思う。まひろも成績はかなりいい方だから、この返答は容易に予想できたはずだ。


「そうですよねー。君達にとっては今回の試験は余裕ですよねー。あー、頭がいいって羨ましいなあー」

「もう、ふて腐れないでよ。要するに百点だろうと七十点だろうと、合格すれば結果は同じなんだから」

「そ、そうだよ、龍之介。頑張ればいいんだから」


 二人は俺を励ましているつもりだろうけど、そんなのは頭のいい奴だけが言える慰めだ。俺は深々と溜息を吐きながら、残りのご飯を食べ進めた。

 そして昼食タイムが過ぎたあとで午後の試験が開始され、俺は再び試験問題へと向き合う事になった。

 出題される問題は、俺にとってはかなり難しい。だけど一問でも多く解かなければ、周りに居る誰かに負けてしまう。俺は今までの努力を無駄にしない為にも、必死で試験問題と向き合った。


「――ふうっ……やっと終わった……」


 試験時間は思っていたよりもあっと言う間に過ぎ去り、全ての試験科目をやり終えた俺は、席から立ち上がって大きく背伸びをした。


「龍ちゃん、まひろ君、お疲れ様」

「茜ちゃん、お疲れ様。龍之介もお疲れ様」

「おう。マジで疲れたぜ」


 俺は伸びをしたあとで再び椅子に座り、だらしなく身体を前のめりにして突っ伏した。


「龍ちゃん、これからファミレスに行かない?」

「ファミレス? 行ってもいいけど、あんまり金は持ってないぞ?」

「OKOK。それじゃあまひろ君、行こっか」

「うん」


 第一志望である花嵐恋学園をあとにし、駅前にあるファミレスへと三人で向かう。

 そして到着したファミレスの中に入ると、さっきまで試験を受けていたであろう他の学校の生徒も数多く来ていた。そして俺達は店員の案内で、都合良く空いていたボックス席へと座った。

 ガヤガヤといつもより騒がしい店内。そしてそんな店内を俺が見回している内に、まひろと茜は次々とメニューを見て品を注文していく。


「おいおい、そんなに頼んで大丈夫なんか?」

「大丈夫だよ。今日はね、これまで頑張った龍ちゃんの為に、まひろ君と私でお疲れ様会をしようって計画してたの。ねっ! まひろ君」

「うん。龍之介は本当によく頑張ってたもんね」


 ――おいおい、お前達だって頑張っただろうに……俺の為にこんな……。


 二人のサプライズに感動してしまい、思わず目頭が熱くなる。


「茜、まひろ、サンキューなっ! 合格したら俺の家で盛大にお祝いをしようぜ!」

「やった! 楽しみにしておくからね、龍ちゃん」

「僕も楽しみにしておくよ」


 それから夕暮れを迎えるまでの間、俺達三人は思う存分、飲んで食べて楽しんだ。

 そして試験日から約一ヶ月後。俺達は全員見事に花嵐恋学園に合格した。


× × × ×


「ううん……あっ、もうこんな時間なのか……」


 懐かしい夢を見ていた気がする中、俺は唐突に目が覚めた。

 そしてはっきりと覚めきらない意識の中で部屋の時計に目をやると、時計の針は既に十五時過ぎを指し示していた。


「そろそろ杏子が帰って来る頃か……」


 俺は軽く頭を左右に振ってからベッドを下り、いそいそと着替えを済ませてから机の上に置いていた財布を手に取り、ズボンのお尻ポケットへと入れた。


「ただいまー」


 着替えが済んだタイミングでちょうど玄関の方から杏子の帰宅した声が聞こえ、俺は急いで部屋を出てから階段の方へと向かった。


「お帰り、杏子。さっそくだが出掛けるぞ」

「ん? どこに行くの?」

「ファミレスだよ」

「えっ、急にどうしたの? お兄ちゃんのおごり?」

「ああ。今日は俺の奢りだ」

「本当!? やった!」


 杏子もこれまで頑張ってきただろうから、今日はその苦労をねぎらってやろうと思う。

 俺は嬉しそうにはしゃぐ杏子に腕を組まれながら、懐かしい思い出と共にファミレスへと向かった。

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