第4話・恋の悩みとプレゼント

 特に何事も無かった六月もあっと言う間に過ぎ去り、七月も中旬を迎えようかというある日の夕刻。

 俺は帰宅途中に忘れ物をした事を思い出し、急いで学園へと戻って来た。

 そして息を切らせながら戻って来た校舎内は、不気味なくらいに物音も無く静まり返っている。

 運動部員は運動部専用棟、文化部員も文化部専用棟へそれぞれ移って部活にいそしむので、放課後の本校舎に生徒が居る事はほぼ無い。だからかもしれないけど、こうして校舎内に響く自分の足音を聞いていると不法侵入でもしているかの様な気分になり、ついつい足をゆっくりと進めて足音を抑えようとしてしまう。

 まるで泥棒にでもなったかの様な気分で廊下を歩き、自分の在籍する教室へと辿り着いた俺は、少し建て付けの悪くなった教室前方のドアをスライドさせて中へと入った。


「あっ」


 ドアをスライドさせて教室内へ入ると、中央付近にある机でうつ伏せになって小さく泣き声を上げている女子の姿が目に入った。その状況を見た俺は、なんてタイミングの悪い場面に出くわしてしまったんだ――と思い、そのまま固まってしまった。

 驚いたとは言え思わず声を出してしまったのは失敗だったと思ったけど、例え声を出さなくても、ドアをスライドさせた音で中に居る相手にはバレてしまうわけだから、どちらにしてもこの状況は回避不可能だっただろう。


「な、鳴沢なるさわ君!?」

「よ、ようっ! 奇遇だね!」


 うつ伏せで泣いていた女子は俺を見た途端、涙に濡れた顔を手で拭き始めた。

 それを見た俺は、何も見てないよ――と言わんばかりに右手をぱっと上げて明るい対応をする。人って思いもよらない状況に出くわした時には、妙な反応をとってしまうもんなんだなと、そんな風に思った。

 クラスメイト全員の名前を全て覚えているわけではないけど、確かあの子の苗字は真柴ましばだったと思う。名前は最初の自己紹介の時に全員のを聞いたけど、女子はほぼ苗字しか覚えていない。まあ、それが普通だとは思うけど。

 俺は遠慮がちに教室内へ入り、真柴の方を見ない様にしながら急いで自分の席へと向かい、机の中から目的の忘れ物を手に取った。


「じゃ、じゃあなっ!」


 気まずさが半端ない俺は早々にこの場を後にしようと、入って来た時より更に足早で教室外へと向かう。

 だが、あと少しで教室の外に脱出できるというところで、真柴は顔を俯かせながら大声で泣き始めた。


 ――お、おいおい。勘弁してくれよ……。


 周りに誰か居るわけではなかいから、俺が真柴を泣かせたと思われる心配は無い。だからと言って、このまま真柴が泣いているのを見続けるのもどうかとは思うし、無視して帰るのも気が引ける。

 どうしたものかと思いながら頭をポリポリと掻いた後、俺は小さく息を吐いてから真柴へと近付いた。


「どうかしたの? 真柴さん」

「えっ……?」


 涙を流しながら顔を上げ、前の席に座った俺を見る真柴。

 まさか俺が戻って来るとは思っていなかったんだろう。その表情はかなり驚いている様に見えた。


「何があったかは分からないけど、とりあえず涙を拭くといいよ」

「うん……ありがとう」


 目の前に差し出したハンカチを素直に受け取ると、真柴はそれで涙を拭いてから少しずつ気持ちを落ち着けている様だった。そしてしばらくすると落ち着きを見せ始めた真柴は、ぽつりぽつりと泣いていた理由を話し始めた。

 俺はその話をしばらく黙って聞いていたんだけど、その内容を要約するとこうなる。

 つい先日、真柴は彼氏と些細な事で喧嘩をしてしまい、その後で何度連絡をしても返事をくれないので、もう彼氏から嫌われたんだと思って泣いていたんだそうだ。まあ、仲良くしようと喧嘩をしようと本人達の自由だが、意識的にだろうと無意識的にだろうと、周りを巻き込むのは止めてほしい。


「話は大体分かったけどさ、それって最近の事なんでしょ? 嫌われたって決め付けるのは早いんじゃない? 相手だってクールダウンしてる最中だったり、気持ちの整理をしているだけかもしれないし」

「でも……」

「人の心は変わりやすいもんだけど、相手への気持ちがあるならもう少し信じてあげなよ」

「…………」

「まあ、余計なお節介だったとは思うけど、きっと大丈夫だよ」


 その言葉には何の根拠も無い。言ってみればこれは、ていのいい気休めだ。

 だけどそんな分かりきった気休めも、時には嬉しい事もある。それは不安で傷ついている時は尚更だ。

 俺は悟りきった様にそんな事を思いながら席を立ち、そのまま教室の後ろ側から出ようとした。


「あの、鳴沢君、ありがとう。それと……」

「ああ、心配しなくていいよ。この事は誰にも言わないし、言うつもりも無いから」


 そう言って出入口の方へと歩いて行き、ドアをスライドさせて教室を出る。


 ――やれやれ、ようやく解放されたな。


「龍之介」


 教室から出てふうっと溜息を吐くと、すぐ横から小さな声で名前を呼ばれて驚いた。


「なんだまひろか、ビックリさせるなよ」


 小声でそう言いながら、ひじで軽くまひろの身体を小突く。

 そして廊下を歩きながら何でまひろがこんな所に居るのかを聞いたところ、部活で使う物を廊下にあるロッカーに忘れていたのを思い出し、それを取りに来たとの事だった。

 俺は道具を持ったまひろと一緒に廊下を歩き、下駄箱の方へと向かう。


「色々大変だったみたいだね」

「もしかして、聞いてたのか?」

「うん。悪いとは思ったけど、ちょっと気になったから」

「誰にも言うなよ?」

「もちろんだよ」


 まひろはにこやかな笑顔でそう答えた。なんだかまひろが見せるその表情は、ちょっと嬉しそうにしている様にも見える。


「龍之介ってさ、結構世話焼きだよね」

「そうか?」

「うん。そう思うよ」


 まひろはにこやかにそんな事を言うけど、別にあれは真柴を助けようとしたわけじゃない。単純に泣いている女の子を無視して帰るのに抵抗があっただけだ。


「あれはな、恋人持ちリア充がいかにして爆発していくのかを観察してたんだよ」

「もう……龍之介はひねくれてるなあ」

「人間てのはどこか捻くれたところがある生き物なんだよ」

「否定はしないんだね。龍之介らしいよ」


 苦笑いを浮かべながらも、どこかにこやかにも見えるまひろの表情。そんなところまで可愛らしく感じるから不思議だ。


「あっ、そうだ。今度の日曜日なんだけど、予定が空いてたら買い物に付き合ってくれないかな?」

「買い物? 別にいいけど、何を買うんだ?」

「お母さんの誕生日プレゼントを買いに行きたいんだけど、何を買えばいいのか迷ってて。それでね、龍之介にも意見を聞きたいんだ」

「なるほど。そういう事ならいいぜ。恋人に贈るプレゼントって言ったら断ったけどな」

「はははっ。そうだろうね」


 そう言って楽しそうに笑うまひろは、相も変わらず可愛らしい。

 それにしても、日曜日に恋人じゃなくて親友の男と二人で買い物とは、なんと平凡過ぎる日常だろうか。とりあえず、日曜日に恋人持ちリア充共と出会わない様に、願いを込めて全員爆発するおまじないでもかけておくとしよう。

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