　あなたは喫驚していた。

　この世界のすべてが激（げき）盪（とう）しようとしていた。

　逢（おう）魔（ま）時（どき）の穹（きゆう）窿（りゆう）にて――一般に『天国』と呼称されるものだろうが――四大天使と邂（かい）逅（こう）し大天使ガブリエルと契約したあなたは澆（ぎよう）季（き）混濁の現代において――『澆（ぎよう）季（き）混濁』という仏教用語も仏教の湮（いん）滅（めつ）された世界では虚無にひとしかったが――不老不死の聖人として新興宗教の教祖にさせられようとしていた。無論敬（けい）虔（けん）なるプロテスタントであったあなたは信仰の自由が獲得された日本においても――牧師の資格もなかったし宗教法人を牽（けん）引（いん）する気（き）魄（はく）もなかったこともあり――独自の宗教を濫（らん）觴（しよう）させることに毅（き）然（ぜん）とした抵抗感を抱擁していた。混（こん）沌（とん）たる事態は斯（か）様（よう）に踟（ち）蹰（ちゆう）するあなたを摩（ま）訶（か）不（ふ）思（し）議（ぎ）なる運命へと嚮（きよう）導（どう）してゆくのであった。というのも――あなたの記憶が正確ならば実在していたはずの――仏教儒教道教の三大宗教が湮（いん）滅（めつ）されて爾（じ）来（らい）奇妙に湾曲した世界においてさらに四百年の盈（えい）虚（きよ）を閲（けみ）したころ――世界情勢としては中国の基（き）督（りすと）教（きよう）原理主義団体『天命』が宗教とくに基（き）督（りすと）教（きよう）弾圧に臥（が）薪（しん）嘗（しよう）胆（たん）している露（ろ）西（し）亜（あ）国内で猖（しよう）獗（けつ）を窮める暴力主義的行為を瀰（び）漫（まん）させるなかで第二次中露戦争が勃発せんとしていた爾（じ）時（じ）であった――あなたは人類史を転覆させるほどの魁（かい）偉（い）なる歴史の改（かい）竄（ざん）に勘付いたのである。畢（ひつ）竟（きよう）あらゆる書籍あらゆる事典あらゆる教科書あらゆる民族の記憶から『基（き）督（りすと）の存在が湮（いん）滅（めつ）された』のである。最高峰の世界宗教として欧（よー）羅（ろつ）巴（ぱ）亜（あ）米（め）利（り）加（か）露（ろ）西（し）亜（あ）大韓民国さらには元来改（かい）竄（ざん）されていた歴史のうえで主要教国となっていた中華人民共和国あなたの祖国たる日本などを席（せつ）捲（けん）していた基（き）督（りすと）教（きよう）が狂（きよう）瀾（らん）怒（ど）濤（とう）の勢力で現代のみならず巨億の人類の歴史上からも『完璧に湮（いん）滅（めつ）されて』しまったのである。巨億の人類が三大宗教のみならず磅（ほう）礴（はく）たる世界を網羅する基（き）督（りすと）教（きよう）まで忘却しながらも敬（けい）虔（けん）なるプロテスタントであるあなただけが基（き）督（りすと）教（きよう）の記憶を髣（ほう）髴（ふつ）とできたのも奇妙だったがあなたはこれも全知全能である神霊の霊威によるものだと考（こう）覈（かく）していた。――僥（ぎよう）倖（こう）なることに巨大なる歴史の改（かい）竄（ざん）は刹那にではなく徐々に世界を豹（ひよう）変（へん）させていったのだが――聖人基（き）督（りすと）の存在が湮（いん）滅（めつ）されたことによって如（い）何（か）に世界史が改（かい）竄（ざん）されたかというと邃（すい）古（こ）羅（ろー）馬（ま）帝（てい）國（こく）が『滅亡しなかった』。神（しん）聖（せい）なる皇帝の存在を湮（いん）滅（めつ）させんとする基（き）督（りすと）と狂（きよう）瀾（らん）怒（ど）濤（とう）のゲルマン民族の侵略という端（たん）倪（げい）すべからざる内外からの要因によって崩壊した羅（ろー）馬（ま）帝（てい）國（こく）は改（かい）竄（ざん）された歴史上では帝（てい）國（こく）の内部分裂を惹（じやつ）起（き）した基（き）督（りすと）が消滅したことで一致団結してゲルマン民族を邀（よう）撃（げき）し史実上の崩壊をまぬかれ爾（じ）来（らい）一時期は現代における露（ろ）西（し）亜（あ）中華人民共和国圏内にまで領土を拡張し二十世紀には澎（ほう）湃（はい）たる二遍の世界大戦によって領土を縮小させるものの遼（りよう）遠（えん）なる二十六世紀の現代にいたっても――欧州連合のかわりに――欧（よー）羅（ろつ）巴（ぱ）全域を支配する魁（かい）偉（い）なる覇権国家として存続することになったのである。

　あなたは焦燥感に猛襲された。

　無論のことながら現代においても基（き）督（りすと）教（きよう）が復活することはなく不老不死のあなたを教祖とせんとする新興宗教の予備組織も雲散霧消した。漸（ようや）く跼（きよく）天（てん）蹐（せき）地（ち）のあなたはおのれの力量によって神（しん）聖（せい）なる基（き）督（りすと）教（きよう）を復活させんと蹶（けつ）起（き）することとなった。勿（もち）論（ろん）基（き）督（りすと）教（きよう）の存在を隠蔽された黎（れい）民（みん）に虚空の存在となった基（き）督（りすと）教（きよう）を標（ひよう）榜（ぼう）することはできなかったが教祖の存在した宗教は湮（いん）滅（めつ）されたものの神道印（いん）度（ど）教猶（ゆ）太（だや）教など自然発生的に存在した民族宗教は――猶（ゆ）太（だや）教の開祖たるモーセは現代歴史学においては架空の人物とされていた――現代にも継承されていた。ゆえに基（き）督（りすと）教（きよう）とおなじ神霊YHWHを信仰する猶（ゆ）太（だや）教の亜種畢（ひつ）竟（きよう）『繁（はん）文（ぶん）縟（じよく）礼（れい）の民族による隔絶のない猶（ゆ）太（だや）教』という曖（あい）昧（まい）模（も）糊（こ）とした新興宗教の開祖としてあなたは基（き）督（りすと）教（きよう）の復活へと邁（まい）進（しん）してゆくのであった。畢（ひつ）竟（きよう）浩（こう）瀚（かん）の旧約聖書を唯一無二の聖典とし――基（き）督（りすと）と基（き）督（りすと）教（きよう）の湮（いん）滅（めつ）により新約聖書までもが殲（せん）滅（めつ）されてしまったこともあり歴史の改（かい）竄（ざん）された世界において『聖書』といえば旧約聖書を意味するのみであったが――不滅の神霊YHWHによる天地開（かい）闢（びやく）や傲慢なるアダムとイヴの楽園追放――架空の人物としてだが――聖者モーセの享受した十戒の遵守などを教義としながらアダムとイヴの末（まつ）裔（えい）たる巨億の人類を完璧に平等なるものと認識し閉塞的であった猶（ゆ）太（だや）教と旧約聖書の世界を万（ばん）斛（こく）の黎（れい）民（みん）にあまねく伝（でん）播（ぱ）せんとしたのである。勿（もち）論（ろん）基（き）督（りすと）教（きよう）の湮（いん）滅（めつ）された世界で元来猶（ゆ）太（だや）人特有の民族宗教である猶（ゆ）太（だや）教を巨億の人類を差別なく抱擁する宗教へと豹（ひよう）変（へん）させ完璧なる神道国家として豹（ひよう）変（へん）した日本の僻（へき）陬（すう）において――仏教のみならず第二の国教として一（いつ）世（せい）風（ふう）靡（び）していた基（き）督（りすと）教（きよう）まで湮（いん）滅（めつ）された日本では基（き）督（りすと）教（きよう）の神霊YHWHが八（や）百（お）万（よろず）の神々に垂（すい）迹（じやく）したという『神神同体説』も勦（そう）滅（めつ）され澎（ほう）湃（はい）たる第二次世界大戦後巍（ぎ）然たる天皇陛下の人間宣言を閲（けみ）したのちも神道こそが真実の国教であるという認識が瀰（び）漫（まん）し義務教育の段階から皇族こそが日本社会の中枢であるという暗黙の諒（りよう）解（かい）が毅（き）然（ぜん）として涵（かん）養（よう）されるようになっていた――標（ひよう）榜（ぼう）することは巍（ぎ）峨（が）たる神道を侮辱する危険人物と排斥されかねない蟷（とう）螂（ろう）之（の）斧（おの）といえる無謀なる計画であった。さらに百年二百年と盈（えい）虚（きよ）を閲（けみ）してゆくうち不老不死のあなたの存在は傲慢なる自然科学界のみならず宗教界をも震（しん）撼（かん）させる存在となり軈（やが）てあなたが濫（らん）觴（しよう）させた新興宗教は古（こ）色（しよく）蒼（そう）然（ぜん）の政界に新政党を樹立せんとするなど巍（ぎ）然たる日本政府をも激（げき）盪（とう）させるほどに巨大なる団体へと発展してゆくのであった。

　あなたは憂慮していた。

　あなたが獅（し）子（し）奮（ふん）迅（じん）の精神で新興宗教を勃興させてから茫（ぼう）邈（ばく）たる千五百年を閲（けみ）して世界情勢は――混（こん）沌（とん）たる現代世界情勢を磐（ばん）石（じやく）とすべき巨億の人類の歴史という範（はん）疇（ちゆう）からして――奇奇怪怪なる運命に嚮（きよう）導（どう）されていった。前述のとおり基（き）督（りすと）教（きよう）が殲（せん）滅（めつ）されたことにより露（ろ）西（し）亜（あ）正教会を抱擁する露（ろ）西（し）亜（あ）と魁（かい）偉（い）なる基（き）督（りすと）教（きよう）国家となっていた中華人民共和国との第二次中露戦争は回避されたがさらに磅（ほう）礴（はく）たる視野で見（み）霽（はる）かすと覇権国亜（あ）米（め）利（り）加（か）は自然神論を標（ひよう）榜（ぼう）するフリーメーソンが牛耳る国家となり邃（すい）古（こ）の希（ぎ）臘（りしや）神話を国教とする――嘗（かつ）て欧（よー）羅（ろつ）巴（ぱ）と呼称されていた地域を席（せつ）捲（けん）する――覇権国羅（ろー）馬（ま）と宗教的対（たい）峙（じ）関係におちいり三十一世紀から三十九世紀にかけて澎（ほう）湃（はい）たる世界規模の大戦を二遍にもわたって勃発させた。猖（しよう）獗（けつ）を窮める第一の大戦――万（ばん）斛（こく）の黎（れい）民（みん）は『第三次世界大戦』と認識していたが――は邃（すい）古（こ）の希（ぎ）臘（りしや）神話を標（ひよう）榜（ぼう）しこれを排斥する宗教学問藝（げい）術（じゆつ）を勦（そう）滅（めつ）せんとした覇権国羅（ろー）馬（ま）の大統領が羅（ろー）馬（ま）国内での羅亜親睦会議開催中に万（ばん）斛（こく）の藝（げい）術（じゆつ）家が信仰するフリーメーソンのなかでもとくに過激派的な新進気鋭の画家により銃撃され僥（ぎよう）倖（こう）にも致命傷にはいたらなかったが魁（かい）偉（い）なる一国の大統領が銃撃されたことから覇権国羅（ろー）馬（ま）では亜（あ）米（め）利（り）加（か）への敵（てき）愾（がい）心（しん）が鬱（うつ）勃（ぼつ）となり暴走した軍部が亜（あ）米（め）利（り）加（か）に奇襲攻撃かくして新型の大量破壊兵器まで投入した結果三ヶ（か）月（げつ）間で十五億人の犠牲者をかぞえて終結した。三十九世紀第二の大戦――或（ある）いは『第四次世界大戦』――は資本主義国家となっていた露（ろ）西（し）亜（あ）国内の秘密結社による陰謀で覇権国羅（ろー）馬（ま）が侵略を計画していると警鐘また覇権国亜（あ）米（め）利（り）加（か）の援護というかたちで二大覇権国家の総力戦となり一年三ヶ（か）月（げつ）にわたる悲劇となった。あなたは揣（し）摩（ま）憶（おく）測（そく）していた。矢（や）張（は）り混（こん）沌（とん）たる人類史の豹（ひよう）変（へん）の裏側では巨億の人類の運命を嚮（きよう）導（どう）せんとする魁（かい）偉（い）なる陰謀が蠢（しゆん）動（どう）しているはずだと。