第四話「板切れの秘密」

 弁道べんどうは、瞬きさえ忘れたかのように微動だにしない。


 下請法違反で勧告を受けた企業は、その詳細が発表され周知の事実となる。


 それはどう脚色しようと、企業にとっては負の面しかもたらさないことは明らかである。


 万事休す。

 そんな言葉を生涯で初めて抱く、弁道であった。


 ~~♡♡~~


「今日はどの茶器でもてなそうかのう」


 曲桜まがざくら老人は両手に一抱えもある、汚い木箱を持って帰ってきた。


「へえっ、おじいちゃまは茶道をたしなんでるんだ」


 テーブルの上にあった酒瓶やペットボトル、電話帳にカップ麺の容器を足で蹴散らして木箱を置き、むつみの問いに曲桜は親指を立てた。


「さよう。わしは物心ついたときから手ほどきを受けておるでな」


 油や煤で変色した木箱の上蓋を開けた。


 今度は巨大な蜘蛛一族がワラワラと一斉にでてくるのではないかと、むつみは一瞬目を閉じる。


「あ、あうっ、ヒャアアーッ!」


 横に座る則蔵のりぞうがいつになく、素っ頓狂な感情表現の声を上げた。


 やっぱり!


 むつみは身を固くしながら、本能により両腕で顔を隠す。


「お、お、おじいちゃん!

 この木箱って」


 則蔵は中をのぞき込んだ。


「うん?

 これはおぬしらに茶をふるもうて進ぜようと思うてな。

 久しぶりに出したんじゃ」


 曲桜は両手を木箱に差し込んで、中味を取り出した。 


 その汚い木箱の中には、きたてのゆで卵のように表面がまばゆい桐の箱が合計三つあり、そのひとつを手にしているのだ。


 むつみは腕の隙間からそっとのぞく。


「えっ? 大蜘蛛の一家じゃなかった?」


 則蔵が上半身ごとむつみに振り向いた。


「む、むつみさん、こ、こ、この桐の箱に入っているのはっ」


「入っているのは?」


「お、お、おーっ!」


「はあっ?」


 則蔵は小さな目を真ん丸に見開き、両手で木箱と曲桜を何度も差し言葉を発しようとしているのだが、思考と声帯が連動せず逆方向にずれてしまったかのようだ。


「おたたたっ、おたおた、おたたたたーっ!」


 ゲゲッ!

 ノリゾーさんが! 


 むつみは今度こそ則蔵の最後のネジが、ピーンとはじけ飛んだと思った。


 前からどこか一般人には到底理解不能な言動の持ち主であったが、ここへきてとうとうイッちゃったんだと確信した。


「どうしたんじゃな、お若いの。

 さあってと、今日はどの茶器を使こうてみようかのう」


 則蔵がオソロシイ勢いでパントマイムをしている姿には目もくれず、曲桜は桐の箱を打って変わって愛でるようにそっとテーブルの上に置く。


 あまりテンションを上げ過ぎたのか、則蔵はクルンと白目を向いてそのままソファにもたれてしまった。


「ちょっとっ、ノリゾーさん! ノリゾーさんったら!」


 むつみはあわてて何をどう勘違いしたのか、則蔵の口元から無理やり防塵マスクをぎ取ってしまった。


 則蔵の丸い鼻の穴がクワッと開き、思いっきり空気を吸い込んだ。

 途端に則蔵の身体が大きく痙攣し、バネ仕掛け人形のようにソファの上で跳び上がった。


「グッ、グエエエッ!」


 強烈な悪臭で則蔵は覚醒する。


「気が付いた?」


 むつみは心配そうにその顔をのぞき込み、則蔵が片手で口と鼻を押さえながらむつみの手にした防塵マスクを指さすのを認識した。


「あっ、ごめんごめん」


 則蔵は防塵マスクを引ったくり、急いで顔にはめた。


「ハアッ、ハアッ、し、死ぬかと、思ったんだあ」


「何を大袈裟に。たかがゴミの腐敗臭じゃないのさ。

 ところで何をあわてていたのよ」


「えっ?」


 まただわ。

 えっ? って。

 たった今自分が騒ぎ立てたんじゃないのよ。

 やっぱりあのまま昇天させてあげたほうがよかったのかも。

 

 むつみは大きくため息をつく。


「どうじゃな、若い衆。

 この茶器なら、今の季節感を演出するにはもってこいであろう」


 曲桜は桐箱から丁寧に大ぶりの茶器を取り出し、目の前で眺める。

 則蔵の身体が、ビクンッと跳ねた。


「お、お、思い出したんだあっ」


 茶器を指さし、むつみを向く。

 則蔵は唾を飛ばしながら叫んだ。


「せ、千家せんけ十職じっそくの、ちゃ、茶碗師ちゃわんしが作った、お宝なんだあーっ!」


「なにそのセンケジッソクって」


 むつみは首を傾げる。


「ほほう、お若いの、よくご存じじゃな。

 千家十職とはの。

 千利休せんのりきゅうを祖とする千家の流れをくむ茶道の家元である表千家、裏千家、それに武者小路千家の三千家に出入りする『職家しょっか』のことでな。

 代々にわたって茶の湯の道具を作ってきた者たちを、そう呼ぶのじゃ」


 ちなみに現代では茶碗師、釜師かまし塗師ぬし指物師さしものし金物師かなものし表具師ひょうぐし袋師ふくろし一閑張細工師いっかんばりさいくし柄杓師ひしゃくし土風炉師どぶろしの、十の職家を表す尊称である。


「でもって、なぜノリゾーさんは驚くのよ」


 残念ながらむつみに茶の世界における知識は、皆無であった。


「な、なぜむつみさんは驚かないのか、ぼ、ぼくはそちらのほうが驚きだあ!」


 則蔵はゴーグル越しに目を細めてむつみをさげすむ。


「はあっ?

 だって、お茶をいただくお茶碗なんでしょ。

 あたしのアパートにだってお茶碗くらいあるわよ。

 しかも、ペアセットの。うふふっ。まだ未使用だけど」


「そのお茶碗ひとつで、高級外車が買えるんだあ!」


 むつみは則蔵の言葉に、呆けたように口を開けた。

 むつみの持つペアの湯呑みは百均で購入したものである。

 

 こ、高級外車?

 えーっと、えーっと、一万円より上ってこと?


 現役の茶碗師である第十五代らく吉左衛門きちざえもんが手掛けた黒茶碗は、現在七百万円近い値段で取引されているのだ。

 たかがお茶碗と侮ってはいけない。


「な、な、なんですってええっ!」


 驚愕するむつみに、則蔵はうなずく。

 大きな目をさらに見開き、むつみは口を開けたまま曲桜が手にしている茶器と、テーブルに置かれた桐箱を凝視した。


「ふむ。

 お若いの。よう勉強されておるようじゃな、感心、感心」


「なんで、お、おじいちゃんがそんな茶器を、も、持っているのかなあ。

 それがとんでもない値打ち物って、知ってるのかなあ」


「愚問じゃわい、お若いの。

 わしゃあ茶人さじんぞ。

 それなりの道具は持っておっても不思議じゃなかろう。

 なんなら他にも見せてしんぜようかの。

 もちろん茶の道具だけじゃのうて、掛け軸や花器も揃うておる。

 目利きのお主が見たら腰を抜かすわい」

 

 ちょっと待って。

 あっ、心臓がバクバクして言葉にならない。

 お茶碗ひとつでベンツが買えるなら、それ以外のお道具だってもちろん超高級品ってことよね。

 それがなにゆえこのゴミ屋敷に、ゴミと一緒に置かれているの?


 むつみは高鳴る胸を押さえるように、両腕を抱えた。


 かたわらでボーっと宙に目を彷徨さまよわせていた則蔵が、「ああっ!」と再び声を上げる。


「わ、わかったっ!

 ぼくが森の周辺で見つけたあの看板を、い、今思い出したんだあ。

 あの看板は朽ちて字がよく判読できなかったけど」


「ほほう、あの門標もんひょうはまだこの森にあったのかな。

 裏千家分派曲桜流茶道家元、曲桜甚右衛門じんえもんと書いてあったはずじゃがの。

 いつのまにやら、どこかへいってしもうて、探すのも面倒で放っておったのよ」


 くすくすと白い髭が含み笑いで動く。


「おじいちゃまって、お茶の先生だったの!」


 むつみは乾いた声で、目の前の座る老人を見据える。


「いかにも」


「それならどうしてこんなゴミ屋、いえ、こじんまりとしたお家に独りで住んでるの?

 あっ、みちこちゃんは別として」


「なんでじゃろうのう」


 曲桜はホウッと息を吐きながら茶碗を置いて、指先で髭をなでる。

 遠くに置き忘れてきた過去を振り返っているかのように。

 

 別の遠くのほうから、車のクラクションが聴こえた。


 むつみたちはすっかり忘れているが、刀木はいまだカタナギんちゃん号の中に閉じこもり、みちこちゃんの容赦ない攻撃に怯えているのだ。


 最終手段として、クラクションを鳴らして威嚇しているのか、はたまたむつみたちに救援を求めているのかは定かでないが。


 室内の三人はそれをまったく無視していた。


 つづく

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