第六話「魔物の出現」
緩やかなカーブを曲がって行く。
左右に生えた木々が「へえっ、ホントに行くの? 大丈夫? 後悔するよ」と言いながら道を開けていく感覚にむつみは囚われた。
「おっ!」
「あっ!」
「あ、ああ?」
前部に座る
突如緑のカーテンが開け、カタナギんちゃん号は広場に出たのだ。
広場とはいえ、樹木がないだけで雑草は自由気ままに根を生やしている。
約二百坪、二十五メートルのプールだと二つ分程度の空き地であった。
「これは」
むつみは写真では確認していたものの、目の前に建つゴミ屋敷に目を見はった。
元は和風建築の二階建て家屋であったのだろう。
だがその壁はそこかしこが崩れ、そこにツタが毛細血管のように張り巡らされている。
中学か高校の実験室にあった、人体模型を思い出す。
屋根瓦も崩れ、青いビニールシートに覆われた部分もあった。
それだけではない。
家の周囲には想像をはるかに超えるゴミが山と積まれているのだ。
ビニール袋に入っているならまだしも、一斗缶や空き缶、土にまみれたペットボトル、新聞や雑誌の束、段ボールからは廃棄処分されたような衣類が山のように積まれている。
斜めに置かれたプラスチック製の風呂釜には、真っ黒な得体のしれない廃液が満タンに入り、七色の光彩を放っていた。
そこはまるで、異世界のようであった。
ひっそりと建つ一軒家を異界との接続点として、見知らぬ世界から大量のゴミを送りつけられている。そんな映像が浮かんでくる。
「あ、ああ、この景色に見覚えがある」
則蔵の声にむつみは振り返った。
「見覚えって、ノリゾーさん。
昨日ここで写真を撮ったんでしょ」
「えっ?」
「そのとぼけた『えっ?』はマジ? それとももう昨日のことは、忘却の彼方?」
「あはは、むつみさん。
い、いくらぼくが、物忘れが激しいからって、昨日のことくらい覚えて、はて、覚えて?」
「ない?」
「う、うん。
ラマヌジャンのデルタって呼ばれてる保型形式の計算なら、暗算でできるのに。
平安時代後期に焼成された、
なぜ昨日のことが思い出せないんだろう。
はっ、そうかあ!
夕べにかあちゃんがこさえた晩ご飯は麻婆茄子だったんだけど、唐辛子を入れ過ぎたからって真っ赤だったんだあ。
あまりの辛さに、一日の行動が忘却の彼方へ飛んで行ったんだな。
ハバネロに島唐辛子までブレンドしてあった。うん、ブレンド。
唐辛子の辛さは、スコビル値によって決まるって、むつみさんは知っていたかい。
スコビルってのは、カプサイシンの割合のことなんだあ。
それに何を思ったのか、気付いたらぼくはタバスコを二瓶まぶしてしまったから、か、かなり辛かった」
「よく死ななかったわね、それ」
「うん、お替りした」
刀木はそのやり取りの最中に、なぜか運転席でごそごそしだした。
「あれっ、おっかしいなあ。
ちょっとサイドブレーキが甘いぞ。
ノリゾーや、悪いんだけどちょっと先に下車して、家の前にある品々を確認してきてくんないかなあ。
あれれ、マジにまずいわ。これ」
まっ!
どんぴしゃ、寸分変わらずにあたしの予想が的中。
って、このおっさん、マジにぶん殴ってやろうかしら。
「あ、ああ。じゃあ行ってくる」
則蔵はなんの疑いも抱かず、後部席のドアを開けた。
「ノリゾーさん!
もしまた化け物が出たら、必ず己の身を犠牲にしても、あたしひとりは守るのよ!」
むつみは振り向きざまに手のひらで思いっきり刀木の頭をはたき、「ああ、社長、ごめんなさあい。うっかり当たっちゃったぁん」と甘えた声で謝罪する。
刀木はうめきながらも、手で大丈夫だとVサインを作った。
ゴーグルにマスク姿の則蔵は、ゆっくりと巨体を車外に出し、草の生えた大地を歩き出した。
むつみは万が一に備え、拳を握る。
左右に振れながら則蔵はゴミ屋敷に近づいて行った。
その直後だ。
積まれたゴミの山の後ろに廃墟のごとく建つ建物の裏から、いきなり黒い大きな影が飛び出してきた。
「ヒヤァッ!」
むつみは思わず悲鳴を上げ、運転席の下でゴソゴソやっていた刀木は慌てて頭を上げようとして、思いっきりハンドルに頭頂部をぶつけた。
「いってえっ!」
「しゃ、社長! あ、あれは」
「目からマジで火花が飛び散ったよう。
って、あれ?」
なんと飛びだしてきたのは子牛ほどの大きさのある、犬であった。
「あれって、犬?」
刀木はポツンと口にする。
「犬ですけど、あれは最も凶暴な土佐犬ですよ!」
「と、土佐犬っ?」
突き出した口吻は真っ黒で、巨体は赤茶色。
江戸時代の後期から明治にかけて、闘犬の盛んであった土佐藩で、四国犬にマスティフ、ブルドッグ、ブル・アンド・テリア、グレート・デーンなどを交配して作られた、まさに闘うための犬である。
気性はとんでもなく荒く、国内でもよく重過失傷害などでニュースになるほどだ。
むつみは息を飲んだ。
ゴミの山を飛び越えた土佐犬が宙に舞う。
そのまま立ちすくんだかのように固まっている則蔵に、頭から跳びかかる。
刀木は大きく口を開けたまま固まり、むつみは両手で顔をおおった。
今日の夕刊の見出しは決まった。
お掃除業者の若者。禁断の地、
ああっ、ノリゾーさん。
彼女とデートする経験もなく、おかあちゃんの奇天烈なご飯しか口にしたこともなく、短い生涯を終えるのね。ご愁傷さまでございます。
むつみはゴーグル内を涙で、防塵マスク内を鼻水で溢れさせながら嗚咽を上げた。
「む、むっちゃん」
「いやっ! あたしはノリゾーさんが食い殺される姿なんて見たくない!」
「あのね」
「アンタが社長なんだから、部下の亡骸くらいちゃんと埋葬してあげてよっ」
「ア、アンタって。そうじゃなくてね」
むつみは顔を伏せたまま、隣りをチラ見する。
「あのう、ほら。
なんかノリゾーのやつ、犬を抱えて嬉しそうに転がり回ってるんだけど」
「はあっ?」
刀木の言葉に、むつみは泣きはらした目でフロントガラス越しに正面を向いた。
鋭い牙の咢で噛みつかれ、血まみれになった則蔵を想像していたむつみは唖然とする。
「あははぁっ、く、くすぐったいんだあ」
八十センチはあろう体高の大型闘犬を抱きかかえ、則蔵は笑いながら草地を転がっていた。
獰猛なはずの土佐犬は尻尾をふりふり、嬉しそうに則蔵の顔をゴーグルとマスク越しになめまわしている。
「えーっとだ。
これなら大丈夫かしらねえ。
つかぬことをお伺いしますけど、むっちゃんって、犬は大丈夫かな」
「実家では、豆柴のミカンって子を飼ってますけど」
「ああ、じゃあ犬アレルギーはないんだ」
「犬アレルギー?」
猫アレルギーはよく耳にするが、実際に犬アレルギーと呼ばれる症状も存在はする。するけども。
「わたしも犬はどちらかといえば、好きだったんだよねえ。可愛いもんねえ。
ところがさ、困ったことに、二十歳を過ぎたころから犬アレルギーになっちゃったもんだからね。
主治医の先生から、絶対に犬のそばには近寄らないで、なあんてお達しをくらっちゃってさあ」
「ゴーグルにマスクをしてるんだから、大丈夫じゃないですか」
「うん、できるならそうしたいんだけどさ。
あっ、そうそう犬アレルギーの人はね。視界に犬が入っただけで症状がでちゃうんだよなあ、これがまた」
刀木はわざとらしく、両手で身体をさすりだした。
結局なんだかんだと理由を付けて、先にむつみを行かせようとする魂胆が見えみえであった。
「よくそんな意気地なしで、キャバクラで俺はモテモテだぁなんて言いますよね」
「まあ、キャバクラに土佐犬はいないからねえ」
はあっ、とむつみは肩を落としながら助手席のドアを開けた。
つづく
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