第六話「ピンチ到来」

 そのおぞましきお弁当を生ゴミとして廃棄などしようものなら、またもや不在中に部屋へ忍び込み、壁に血のような真っ赤なペンキで「わたしのてづくりおべんとうのこさないでいっぱいたべてねたべてねたべてねえええ」と大きく書いた上、同じ弁当をさらに三段重ねの重箱に入れて置いていくらしい。


 サイ子は早朝、ターゲットにした男子学生の下宿先アパートにあるゴミ捨て場でゴミ袋をすべて開封し、お手製弁当が捨てられていないかどうかを確認までしていると、まことしやかに言われている。

 

 そして壁の赤い文字横には十数匹の茶羽ゴキブリを、蝶の標本さながらに釘で留めていくとまで陰でささやかれていた。


 サイ子の呼び名は女子の名前が「才子」、「紗衣子」なのか、それとも「サイコパス」のサイコなのかまではわかっていない。


 実際にそのサイ子に目をつけられて、恐怖のあまり大学を中退してこっそりと地元に帰った学生もいるし、心を病んで闘病生活に入った者もいる。

 真相は定かではないのだが。


 この噂は、なぜか体育会系のクラブ員中心に伝わっていた。

 だから空手部の面々も知っていたのだ。

 だが、誰もサイ子の顔は知らなかった。


 幸いなことに、空手部員は目をつけられていなかったと言うことになる。

 サイ子は、つまり面食いのようだ。


 だが、いま目の前で定食を貪り食べる女子こそ、噂のサイ子かもしれない。

 いや、今の常軌を逸した行為は、サイ子以外考えられない。

 人類の天敵ゴキブリを怖がらない女子など、サイ子以外にいるはずはないのだから。

 

 ヤバいって、絶対にヤバいって!

 顔を覚えられたら、どこでナニされるかわかったもんじゃない。

 ここは間違いなく逃げるが勝ちだって!


 そう判断した空手部の三人は、固まったままの剃り込み野郎を、引っ張るように連れていった。


「はあ。

 せっかくのお食事タイムだってえのに。

 それにしたって、たかがゴキブリ一匹で顔面蒼白だなんて情けないわねえ。

 お掃除業なんてやってたら、もっとエゲツナイ場面がしょっちゅうよ。

 空手部なんていきがっちゃっているけど、ぜーんぜん大したことないじゃん」


 むつみは独りごちると、今度は魚フライにグサッと箸を刺した。


 まさかサイ子なる異常者に間違われたなんて、これっぽちも思っていなかった。


~~♡♡~~


 刀木かたなぎは珍しく脚を揃えて、事務所のソファに腰を浅く降ろしている。

 両手を握り、膝の上に置いていた。


 煙草の紫煙がフワッと刀木の顔を覆う。

 煙草を吸わない刀木は思わずむせてしまった。


 向かい側に座って煙をわざと刀木の顔に吹きかけているのは、白髪をオカッパにした老婆であった。


 小さな身体であるが、どっしりと座り背もたれに背中を預けている姿は、貫禄がにじみ出ている。


 茶系の渋い秋物の上着に同系色のスカートは、見るからに高級そうである。


「あっ、コーフィでもお召し上がりに」


「いらないねえ、どうせ安物のインスタントだろ。

 わたしゃあね、きたてのブルーマウンテンしかいただかないのさ。

 それにコーヒーを買う銭があるならさ、刀木くんよぅ。ここの家賃に当ててほしいもんさねえ」


「いや、それはごもっともなご意見でございます、鱶乃小路ふかのこうじオーナーさま」


「はあ、しかしあれだねえ。

 相も変わらず閑古鳥が飛び交ってるわ、この事務所は」


 老婆、鱶乃小路須美すみは汚いモノを見るように、眉間にしわを寄せている。


 スカートの膝もとに小さな糸くずがついているのを発見し、指で摘みあげる。テーブルの上にある、アルミの灰皿の上で放した。


 フワリと糸くずが舞い、なぜか刀木の頭頂部でウエーブした髪に引っかかる。


「まっ、そういうこった刀木くんよう。

 わたしも慈善事業で賃貸ビルをやってるわけじゃないしさ。

 なんてったって、ここはメーエキ近くの一等地だからね」


「さようですなあ。見かけはボロでも、こんなに便のよい物件なんて」


「ボロ?

 今あんた、ボロって言ったかい」


 すかさず両手をブンブン振る刀木。


「な、なんてことをおっしゃいますやら。

 味わい深いこの荘厳なたたずまいなんざ、ちっとやそっとじゃ真似のできない風格、そう風格がにじんでおります。

 例えるなら、鱶乃小路オーナーさまのごとく、と申しますか」


「そりゃあ、わたしが棺桶に片足を突っ込んだババアだって言いたいわけかい」


「い、いやそんな滅相もございません!

 まだまだ充分女性としての艶やお色気に、わたしなんざクラリときている次第で」


 墓穴を掘らせたら、右に出る者はいないであろう。

 そんな刀木に一瞥いちべつをくれると、鱶乃小路は立ち上がった。


「とにかくさ、今月末にはきっちり滞納分を払っていただくからね、刀木くん。

 そうだ、帰りに不動産屋へ出向いて、空き部屋ありの広告でも出してもらってこようかね」


 すかさず刀木はソファから汚い床に両手をついて、いきなり土下座した。


「不肖刀木、なんとしてでも家賃をお支払いいたしますゆえ、どうぞ今しばらくの猶予をいただきたく、ここにおんねがい申し上げまするう!」


 額を床にくっつけて、時代劇めいたセリフでひたすら懇願する。


 恥も外聞もおかまいなし。

 この場面さえ乗り切れば、しばらくは大丈夫だということを刀木は長年のやりとりで熟知していた。


 頭のひとつやふたつ下げるなんて、ここから追い出されるくらいなら屁でもない。

 

 床を見つめながら刀木はニヤリとほくそ笑む。

 ビルの近隣には、徒歩三分以内にキャバクラが何件も軒を連ねているのだから。こんなにいい条件の場所は他にない。


 ギャギャギャンッ! 

 しばらくするとドアの開閉する音が聞こえてきた。


「ふうっ、やっと帰ったかい、あの銭亡者強欲ババアめ。

 けっ、たかだか三ヶ月の家賃を滞納したくらいで、このわたしに土下座までさせやがって」


「あ、あのう、社長」


「おう、戻ったかいノリゾーよ」


 刀木は則蔵のりぞうの声に顔を上げた。

 そしてそのまま凍りつく。


 ドアを開けて入ってきた則蔵の横に、てっきり帰ったと思い込んでいた鱶乃小路が、声を出さずに口元に笑みを張り付け立っていたのだ。


「ほう、銭亡者強欲ババアたあ、いったいどこのどちらさんのことだろうねえ。えっ、ノリゾーくんや」


「オーナーさまあ!

 ええっと、どちらさんと問われれば、確か昨夜面談したクライアントの」


「クライアントってのは、キャ、キャバクラの女の子のこと、なんだあ。

 女の子っていうけどちょっぴり歳を取っていたって、社長が朝から憤慨してたんだ。社長のおかあさんよりも、年齢が上だったんだって」


 則蔵は真面目な顔で鱶乃小路に説明する。


「バ、バカッ! ノリゾー!」


「家賃を滞納してまでキャバクラ通いかい、刀木くんよ。

 やっぱり不動産屋に寄って行かなきゃねえ」


 刀木は膝をついたまま、鱶乃小路のスカートを掴んだ。


「オーナーさまっ、どうぞ、どうぞご慈悲をぉ」


 鱶乃小路はその手を払いのけ、「あんたも再就職先を探したほうが身のためだよ」と則蔵のつなぎ後ろの尻ポケットからのぞく、小さな鈴のついたお守りをチリンとはじいた。


「ぼ、ぼくはこの会社が、す、好きだから頑張るんだ。

 かあちゃんも頑張れって、就職が決まったときに近所の神社でお守りを買ってきてくれたんだあ」


「へえっ、いいおかあちゃんだねえ。就職祝いに安産のお守りかい」


「そう。身につけていたら何でも一緒だって。

 それにお祝いだからって、その日はぼくの大好物の、バター醤油ご飯を作ってくれたんだあ。

 でもバターが切れていたから、醤油だけだったんだけどね」


 嬉しそうな則蔵に、鱶乃小路はやれやれと頭を振って、ようやく帰って行ったのであった。


~~♡♡~~


 むつみは午後の講義が終わると、事務所へ向かった。


「ありゃ、珍しいじゃないですか、社長がいるなんて」


 刀木と則蔵がソファに座っているのが目に入った。


 則蔵はブツブツと独り言を口にしながら、雑巾を手縫いしている。

 もっさりとした印象であるが、手先はかなり器用なのだ。


 一方刀木は、腕を組んだまま深いため息をこれ見よがしについている。

 ちらりとむつみに視線を送ると、あらためてネガティブな息を吐く。


「むっちゃん、なにか良い知恵はないものかなあ」


 布製ショルダーバッグを肩からおろし、むつみは則蔵の横へ腰を降ろす。


「キャバクラの女の子をくどく知恵ですか」


「そう。どうやって若い女の子を、いやいや、くどく知恵ならいくらでも湧いてくるんだよ、わたしは」


「ならいいじゃないですか」


「違うってえの。さっきここの大家が来てさあ」


「ふ、鱶乃小路須美さんっていう、ぜ、銭亡者強欲ババアなんだあ」


 則蔵はまつり縫いをしながら、むつみに教えてくれた。


つづく

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