第五話「学食で遭遇する忌敵」

 その週の金曜日正午、むつみは大学の食堂、学食でA定食をかっ込んでいた。


 今日までの締切りでドイツ語の課題があったのを思い出したのが、昨夜ベッドにもぐりこんでスマホでゲームをしている時であった。


「うん?

 なにか重要なことをあたしは忘れてなかったかしら。

 光熱費の引き落としは終わってるし、ゴミ出しは、明日じゃないし。

 明日といえば、やっと金曜だよう。

 長い一週間だった、あれっ、金曜? 金曜ってたしか」

 

 ガバッとベッドの上で跳ね起きる。


「ドイツ語の課題って、確か明日が最終締め切りだったんじゃない?」


 六畳一間の部屋にはベッドに勉強机、小さなテーブルが置かれており、その上には通学用の布ショルダーバッグが、でんと乗せられている。


 部屋着兼寝間着のスエット姿で、あわててそのショルダーバッグを引き寄せた。

 数冊の教科書とバインダーノートを、バサバサッとテーブルの上にぶちまける。


 バインダーノートを急いでめくると、「どあああっ」悲鳴が口から漏れた。

 完全に忘れていたのだ。課題を。


 それから一晩中灯りをこうこうと点けたまま、気がつけばカーテンから朝の陽射しが差し込んできていたのであった。


 なんとか課題はできたものの朝食を摂る間もなく、走るように大学の門をくぐる羽目になってしまった。


 ブルーのシャツにジーンズ、腰には秋物のベージュ色のカーディガンを巻きつけてひたすら走る。


 ご飯は必ず三度食べることを家訓にしている、蓮下れんげ家。

 したがって朝食を抜くなんてことはまずない。


 キューッと鳴り続けるお腹をだましながら、なんとか午前中を乗り切ると、力の入らない脚を叱咤激励しながら学食に走ったのであった。


 A定食の食券を自販機で購入し振り返ると、すでに定食用のコーナーには四人ほど列を作っていた。


 体育会系の、ゴツイ身体つきの男子学生たち。

 道着からすると、空手部の連中のようだ。


 他の学生たちは関わり合いを避けるかのように、定食以外のコーナーに並んでいた。


 四人の部員たちは、さすがに昼ご飯を提供してくれる食堂のおばちゃんたちには因縁をふっかけるようなことはしない。


 はーん、あやつらねえ。

 ここで会ったが百万円、あら、百万年? どっちでもいっか。

 ここで一発ガイーンといきますかねえ。

 つってもあたしはか弱き乙女だからして。


 胃が悲鳴を上げているむつみは、その列をスルリスルリと横から通り抜けて先頭に立った。


「おいっ、コラッ、なんじゃあっおまえ!

 横から割り込むなんて、どういうつもりじゃっ。

 俺らが空手部と知ってんのか、おうっ」


 トレイを持った道着姿の男子が、拳ダコのある手でむつみの肩をつつく。

 角刈りの額には青々とした剃り込みが光っている。


「キャーッ!

 セクハラよぉ!

 美しくてか弱き乙女を、手籠にしようとしてるわっ。

 誰か助けてえ」


 むつみは表情筋を動かすことなく、甲高い声だけを上げた。

 剃り込み野郎は突然の叫び声に、ビクンッと驚く。


 周囲がざわめき始めたのを見て、すかさず自分に非がないことを強調しようとした。


「ちょ、ちょっと待てや。

 俺はおまえが割り込んできたからだな」


「イヤーン、乙女の清い肉体が、ケダモノの餌食になるう!

 性犯罪者よーっ、ケーサツに通報してちょーだーい!

 ジエータイでもいいわよぅ!」


 さらにトーンを上げて、声だけで叫ぶ。


 食堂内の学生たちは、指さしながらひそひそとささやきあっている。


 構内では我が物顔の連中も、顧問やOBから犯罪だけには手を出すなときつく申し渡されているため、四人は躊躇ちゅうちょした。


 むつみはといえば、その目はカウンターの内側でA定食用のトンカツと魚フライ、コロッケをおばちゃんがお皿に載せているのをロックオン状態である。


「あっ、おばちゃん、ご飯は大盛りでお願いねえ」


「お、おい、こらっ、なにが大盛りじゃっ!」


「しつこいわねえ、ちょっと。

 いいじゃない横入りされたくらいで、オトコのくせに。

 武道家面しちゃってるのに隙があるからよ、ス・キ・が」


「くうっ、言わせておけばこのアマッ! 空手部をなめてんのか」


 ブチ切れた剃り込み野郎が、むつみの肩を掴もうとした。


「あっ、ほらゴキブリ!」


「えっ!」


 むつみは床を指さした。

 いくら猛者でも、いきなり足元にゴキブリが現れれば大抵はギョッと身を引く。


 むつみはカウンターに置かれたA定食のセットを素早くトレイに乗せ、サッと疾風のごとくテーブル席に移動していった。真っ赤なウソであったのだ。


「さあ、飢餓状態の胃の腑よ、おっ待たせえ。いっただきまあすっ」


 テンコ盛りになったドンぶりを手に持つと、勢いよく口に運んでいく。


 切られたトンカツは、二切れを器用に箸ではさみニタリと微笑む。

 まずはソース無しで食す。むつみの決め事である。

 

 ふと周囲が暗くなった。


「おい、おまえ」


 定食をトレイに乗せた先ほどの剃り込み野郎が、三人の仲間を連れてむつみの背後を取り囲んでいた。


 周囲のテーブルで昼食を摂っていた他の学生たちは、凶暴な空手部員たちのただならぬ気配に、トレイを持って席を移動していく。


 はあっ、むつみはため息を吐く。


「まだなにか用なの、婦女暴行犯さん」


「て、てめえっ、俺がいつおまえみたいなオンナを襲ったよ!」


「あのね、あなたのそのイヤラしい、好色そうな目つきはそれだけで立派な犯罪よ。

 習わなかったのかしら、講義で。

 どうせ彼女いない歴が、あなたの年齢なんでしょ」


 剃り込み野郎は太い唇を噛み、わなわなと震えだした。


「言わせておけば、こいつっ」


「あっ、ゴキブリ!」


「同じ手に引っかかるかよ、馬鹿オンナっ」


 ところが、むつみの指さすテーブルの上を、栄養豊富なまるまると太ったゴキブリがゆっくりと移動しているではないか。


 むつみは瞬時に箸で掴んだ。


 男子たちの表情が固まる。


 えっ? 

 どうして箸でゴキブリを? 

 いや、その前に、ゴキブリってあんなに易々とキャッチできるのか?


 四人の顔色がサッと蒼くなった。


 むつみは顔を上げて、キュウッと口元を曲げる。


 すまして歩いていれば、軒並み男子学生が振り返るほど器量だけは良いむつみ。


 だが今浮かべている表情は、微笑んでいる分だけ得体のしれぬ怖さがあった。


「あああああっ」


 剃り込み野郎は思わず後ずさりする。


「先ほどはレディファーストしていただいて、心より感謝申し上げますわ。

 つまらないものですけど、これはお礼ですの。

 空手部のお・に・い・さ・ま」


 ひょいと箸を振った。


 憐れゴキブリ。

 弧を描いて男子学生が持つトレイの味噌汁茶碗に、ポチャンと着水した。

 やはり熱かったのか、ゴキブリは懸命に脚を動かして跳ね回る。


「ヒッ、ヒッ」


 目を皿のように広げ、もがくゴキブリを見つめ悲鳴を飲み込んだ。


 他の仲間たちは、むつみをコワいモノでも見るかのように顔を引きつらせている。


「ふん、オトコのくせに。

 いくら拳を鍛えたからって、そんなちいちゃな虫にビビっているようじゃあ、黒帯が泣いてるわね」


 いや、そんな問題ではない。

 だって食事している箸で、普通ゴキブリを掴むか? 

 まさか、その箸を再び使うつもりなんてことは。


 空手部員たちはゴクリと嚥下えんかする。


 テーブルの上に置かれたナプキンケースから一枚抜くと、むつみは軽く箸を拭き、何事もなかったかのように再びドンぶりご飯を口に運ぶ。


 ゲーッ! ウソだろーっ!


 まさかが現実になった。


 関わったら、絶対ヤバいタイプの女子ではないか。


「アッ、ま、まさか!

 こいつがかっ!」


 その時四人の脳裏に、同時にあるキーワードが浮かんだ。

 大学内で噂されている「戦慄せんりつのサイ子」なる、不気味な呼び名が。


 何学部の何回生かは誰も知らない、その女子大生。


 見かけは相当な美女であるらしい。

 モデルのようなスラッとしたスタイルで、男を一瞬にしてトリコとしてしまう妖艶なオーラをまとっていると言うのだ。


 だがその美しき女子大生は精神構造がぶっ飛んでおり、彼女に一度目をつけられると決して逃れられない。

 

 ターゲットにされると、昼夜を問わず下宿先の玄関前に何時間でも立っているとか、果ては不在中にピッキングで部屋に忍び込んで、手作りのお弁当を置いていくとか。


 しかもそのお弁当にはゴキブリや蠅の素揚げ、猛烈な腐敗臭を漂わせる白菜キムチが干からびた米とともに入っているのだと言う。


 つづく

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