第四話「負けるな、くじけるな」

 則蔵のりぞうが大型掃除機を軽々と持ち上げ、車内へ載せた。


「おっしゃあ、準備完了。はーい、みんな乗ってちょうだいな」


 助手席にむつみ、後部席に則蔵が大きな身体を押し込んだ。


 ハイエースは国道六十八号線、通称太閤たいこう通りと呼ばれる道を西へ向かう。


「今回は、どんな伝手を頼って仕事を取って来たんです?」


 むつみは流れゆく車窓に顔を向けたまま、刀木かたなぎに問うた。


「まあ、わたしの広い人脈をちょっと手繰たぐれば、この程度の仕事はすぐですよ、むっちゃん」


「人脈って、またキャバクラですか」


 刀木はちらりとむつみに視線を投げ、意外そうな表情を浮かべる。


「またキャバクラ、ってね。

 わたしがキャバク、いや、女性同席飲食店へ通っているのは、あくまでもビジネスのためですよ、ビジネス」


「結構ですねえ、趣味と実益がマッチなさってて」


 むつみは大きな目をさらに見開いて、ハンドルを握る刀木の顔をのぞき込む。


「いやいや、なんですかその目は。

 わたしはビジネスに対し、類いまれな鋭敏なる臭覚の持ち主ですからして。

 そこのお店に勤務なさっている女子が、マンションを退去するのに原状回復を管理会社から言われてるって情報をキャッチしたわけですな。

 ただその女子は、故郷で病気のご母堂の面倒をみなきゃいけない。だからお掃除をする時間がない。

 よよと泣き崩れるか弱き女子を、あなた、放っておけますかってえの。

 わたしは困っている人を見過ごせない、慈愛に満ちた仏さまのような男なんですから」


「でも、キャバクラですよね」


「はっはっはっ、職業に貴賤はありませんぞ。

 大学で学ばなかったかな」


 カタナギんちゃん号が向かっているのは、地下鉄「中村公園なかむらこうえん」駅近くのマンションである。

 事務所からはわりと近い。


 むつみはヘッドレスト越しに、後部席に座っている則蔵をうかがう。


「フェ、フェルマーの最終定理となるとアンドリュー・ワイズが完全に証明したんだけど、八宝菜を作るときに、かあちゃんはなぜ野菜は姿煮のままで、さらに隠し味として板チョコを入れるのか。

 こ、これを証明するとなると、東洲斎とうしゅうさい写楽しゃらくがたった十ヶ月で絵師を辞めた理由がヒントになる。うん、ヒント」


 ブツブツつぶやいていたため、関わらないように前を向いた。


 お掃除料金は業者によって異なるが、ワンルームの片付けであれば作業員三名で五万円から七万円前後が定価となる。

 テレビなどのリサイクル法定料金は別払いである。


 むつみは早速アルバイト代を皮算用していた。


 ~~♡♡~~


 午後六時半。

 事務所のボンボン時計が、詰まった配管のようなこもった音で鳴った。

 

 窓側のソファに刀木、反対側にむつみと則蔵が座っている。

 刀木は顔を伏せたまま、正面に座るむつみをちらりちらりと盗み見る。


 むつみは眉間に深いしわを作り、まなじりがクワッと上がった般若のような形相で腕を組んでいた。

 少しでも触れれば、とたんに大爆発を起しそうだ。

 つまり怒髪天を突く状態であった。


 合板テーブルの上に置かれているのは、文庫本サイズの紙を束にしたものが三つ。

 その紙は、ド派手なピンク地に毒々しい色彩で、「優待券」と丸文字で印刷されている。


「え、えーっと」


 刀木はゴクリと喉を鳴らしながら、言い訳を模索していた。

 脳内では自己弁護を図るべく託種の言葉が、超高速で飛び交っている。


 むつみの口元は、への字になったまま微動だにしない。


「ああ、まあ、なんだなあ。

 結構今日は汗をかいちゃったよねえ、ノリゾーよ」


 則蔵は膝を揃えて座っているが、その目は天井の蛍光灯めがけて飛んでいる大きな蛾を追いかけていた。

 口元は半開きである。


「社長」


 不穏な空気の流れる事務所内。

 静かな、それでいてドキリとするむつみの問いかけ。


「これで、ご飯は食べられるのでしょうかしら」


 むつみは怒りの炎が燃える瞳を動かして、テーブルに置かれた紙束を指す。

 一千度を超す灼熱の瞳が、キッと再び刀木に向けられた。


 さして暑くもないのに、刀木の額に垂らした髪先からポッタンと汗がしたたり落ちる。


 半端ないむつみの目力。

 目を合わせれば、間違いなく目玉が吹き飛ばされるとばかりに、刀木は視線を斜め下に素早く向けた。


「えーっとぉ。

 そ、そうねえ。

 まっ、これでご飯をいただくのは、ちと無理かなあ」


「あたしらは、プロのお掃除屋。

 そうでしたよねえ」


「も、もちろんですよ、むっちゃん。

 わたしたちはお掃除を通して社会に貢献」


「そんな御託は、もう結構ですわ、社長。

 今日のご依頼主のおかた。

 よくもまあこれだけ汚したな、と思われるお部屋にお住まいでしたわね」


「そ、そうそう!

 わたしも長年このビジネスをやってきているけどさ。

 今回の部屋は、ちょっと引いちゃったかなあ。

 ドン引きってやつぅ?

 あんなに可愛い女子が住んでいたなんて、想像できないよねえ。

 汚部屋なんていう次元を軽く超越してたもの。

 玄関を開けた途端さあ、思わず気を失いそうになっちゃたよねえ、はっはっは。

 それにさあ、特におトイレ。

 もう、あれはギネス級よねえ。

 歓楽街の隅っこにある公園にさ、たまにあるよね。築三十年、一度も清掃された痕跡のないお手洗いって。

 それよりひどかったわ、うん。

 どう使えばああなっちゃうのかなあ」


「そのおトイレは、女子であるあなたが担当ね、とおっしゃったのはどちらさまでしたかしら」


 刀木は記憶を手繰るように眉を動かし、「はて?」と、すっとぼける。


「住人が女性の場合、洗面所は女子であるあたしが受け持つ。

 それはお仕事ですから、構いませんわ。

 あたしだって、伊達に半年もお掃除屋さんでアルバイトしているわけではございませんから。

 これもお金を稼ぐため。そう割り切っております」


「いやっ、さすがはむっちゃん。

 それがプロ魂だよ! 

 おい、ノリゾーや。聴いたかい、むっちゃんの今の言葉を。

 やはり上に立つ経営者が優秀だと、アルバイトさんでも気合がちが」


 バィーンッ!

 いきなり合板テーブルを、真っ二つに割る勢いで叩くむつみ。


「ああっ、か、かなりビックリ!」


 刀木は両手を上げて、ついでに片足も上げた。


「社長!」


「は、はいなっ」


「この大量のキャバクラ優待券を、今すぐに現金に換えてきなさい!」


「い、いや、だって換金っておっしゃっても。

 この辺の懇意にしてる金券ショップでもそれは無理ってもんよう、むっちゃん」


 むつみは両手をテーブルについて、グワッと身を乗り出す。

 刀木の顔から五センチの距離に、むつみの般若も目をそむける顔が近寄った。


 硬直する刀木。


「え?

 代金はお店の優待券でもいいよ?

 そんなお金があるなら、故郷のおっかさんに美味うまいものでも食わせてやれ?

 いつでもボクは相談にのるよ?

 はああっ?

 いったいなんなんですか、それ!

 あたしたちは、ていのいいボランティア活動団体ですか!

 おうかがいいたしますけど、この優待券で会社の経営は成り立つんですか!」


 一気呵成いっきかせいにまくしたてるむつみ。


 あまりの勢いに、刀木は両目を固く閉じ、両腕で頭を抱え長い脚を折り曲げてソファの上で縮こまる。


「ヒ、ヒエエッ、暴力はダメです! 叩かないでぇ、むっちゃぁん!」


 刀木の胸ぐらをつかんで、二、三発ぶん殴ろうとしかけたむつみは、「ああああっ!」と素っ頓狂な則蔵の叫び声に振り返った。


「が、蛾が蛍光灯にはさまれた!」


 則蔵は小さな目を見開いて、天井を指さす。


 その好機チャンスを刀木は見逃さなかった。

 スルリとソファから身体を回転させて、そのまま事務所のドアまで一気に走る。


「じゃ、じゃあ今日は解散ってことで! 

 スタッフ諸君、明日も元気よく仕事に邁進いたしましょうぞ。

 それではわたしはクライアントと、打ち合わせにいってきまーす」


 刀木は開けたドアから顔だけのぞかせて、むつみにウインクしたまま瞬間に姿を消した。


「あっ、待ったぁ!

 逃げるな社長!」


 むつみは追いかけようとして、ガクンと立ち止まる。

 つなぎのベルト部分を、則蔵がしっかりと握っていたのだ。


「む、むつみさんっ、は、早くあの蛾を助けてあげないと」


 キーッ、とむつみは髪の毛をくしゃくしゃにかきむしる。


「こんな会社、もう辞めてやるう!」


 ふと見たテーブルの上から、キャバクラの優待券が煙のように消えているではないか。


 刀木は逃げ去る寸前に、貴重な優待券をかっさらっていったのだ。

 そのままお店に走って行ったに違いない。


 ガクッとうなだれ、ストンとソファに崩れ落ちる。


 袖がクイクイと引かれているのに顔を上げた。


 則蔵が口を半開きにしたまま無言で、その小さな目が天井とむつみの顔を行き来し、うんうんとうなずいている。

 つまり蛾の救出に手を貸してほしい。そう顔が物語っていた。


 むつみは肺の空気を全部吐き出すように、大きくため息をつくのであった。


 つづく

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