第三話「カタナギんちゃん号、出動」

 いや、だがここは同名の違うビルではないか。


 むつみは首を傾げながら再度アプリを確認する。

 何度見ても目の前に立つビルが目的地のようだ。


「ちょ、ちょっとなにこのオンボロビルは。

 周りの建物との違和感が半端ないんですけど」


 見上げる建造物は長年の雨風にさらされ、元の色が判別しないくすんだ黄土色に灰色や黒いシミにまみれていた。


 両隣のビルが真珠のように輝く白い壁のために、余計にこの建物が異様に映る。


 耐震基準って何のこと? 美味おいしいの? とくすんだ壁が笑っている。


 この時点でなぜ引き返さなかったのかと、むつみは後から悔やむのだが、人間はすべからく選択を誤る。


 ビルの玄関奥は廃墟のように暗い。


 それでもポジティブなむつみは「まっ、行くだけ行ってみっか」と再び鼻唄まじりにビルの中へ足を踏み入れたのであった。


 ~~♡♡~~


「はいっ、採用です! おめでとうございますうっ」


 薄汚れたソファに、長い脚を組んで座るスーツ姿の男性は、むつみが事務所のきしむドアをこじ開けて恐々のぞき込んだ途端に、大きな声で叫んだ。


 驚いたむつみは「ヒッ」と悲鳴を飲み込む。


 一見ハンサムな男は立ち上がると、ニコヤカに口元をつり上げてむつみに近寄ってきた。笑うとかなり下品な顔である。


 その男がカタナギ・ビューティの社長、刀木かたなぎ鋭作えいさくであった。


「お待ちしてましたよぅ、お嬢さん。

 わたしは当社CEOの刀木と申します」


「い、いえ、人違いです。ってか、あたし、やっぱり不採用でお願いします!」


「なになに、我が社に遠慮はご無用ですぞ。

 ささ、どうぞ。

 ここが日本のお掃除業界の寵児ちょうじと呼ばれる、カタナギ・ビューティの本社オフィスです」


「はっ?

 今なんて?

 すいません、あたしの聞き違いかな。

 まさかと思いますが、おそうじ? オ・ソ・ウ・ジィ?

 そうおっしゃいましたか?」


「さよう。

 我が国は、経済戦争で他国に負けじと一心不乱に戦ってきました。

 名目GDPで五四十兆円を超えようとする昨今、お父さんもお母さんも共働きで家計をやりくりせねばならない時代。

 当然、家のお掃除は疎かになっていく。

 そこに目を付けたのが我々です。

 これは間違いなくビジネスになるとね。

 まっ、全国には我が社を後追いするようにお掃除業者が、雨後の竹の子のように看板を出してきておりますが。

 いや、しかし我が社を選んだお嬢さんの心眼は大したもんだ、うん」


「あ、あのう、お話し中にホント申し訳ないんですけど。

 ここって美容関係の会社では」


「いえ、お掃除関係です」


 胸を張ってむつみを見下ろす刀木。

 むつみは、くるりと回れ右をする。


「帰ります」


「い、いや、ちょっと、もっと詳しく日本の」


「ヒエーッ!」


 今度は思いっきり悲鳴を上げた。


「えっ、わたしは何も触っておりませんよ。

 そんな痴漢に襲われたような声を出されたら、あなた、ご近所に」


 むつみの耳は、刀木の声を聴いていない。


 それよりも振り向いたすぐ背後の暗い廊下に、ぬり壁と一つ目小僧を合体させたような妖怪、もしくは、あのフランケンシュタインの怪物と見紛う巨大な影が立っていたのだ。


「おっ、ノリゾー。ちょうどよかった。

 ほら、このお嬢さんが我が社でぜひアルバイトしたいと、わざわざお越しくださったんだ」


 むつみの背後、つまりビルの薄暗い廊下に立っていたのは則蔵のりぞうであった。


 むろんこの時点で、むつみは彼のことは知らない。


 則蔵は青いつなぎ姿でモップにバケツを持ち、ボーっと直立不動の姿勢である。


 刀木も背は高いが、則蔵はさらに上背があった。しかも結構横幅もある。


 廊下が薄暗いために、むつみは化け物と見間違えたようだ。


 硬直したままのむつみを刀木は「失礼しますよう」と言いながら、その両肩に手をかけて再度回れ右をさせる。


 そのまま事務所中央にあるソファまでいざなった。


「ええっと、それでは今日から採用と言うことで、この申込書にお嬢さんのお名前、ご住所など書き込んでくださいな。

 あっ、マイナンバーは結構ですよ。

 おい、ノリゾー。ちっ、なに突っ立てるんだよ。

 おおい、ノリゾーやぁい!」


 則蔵はむつみの悲鳴に逆に驚き、立ったまま気絶していたことを、むつみはあとから知ることになる。


 ~~♡♡~~


 本当に車検が通っているのか、相当怪しげな中古のトヨタハイエースが、カタナギ・ビューティ唯一の社用車である。


 お掃除業者は車体に社名を入れていない場合が多い。


 なぜなら、お掃除関係の社名が入った車が家の前に停まっていると、ご近所から色々と噂されることがあるからと言われている。


 したがってカタナギ・ビューティの社用車には、一切社名を入れていない。


 代わりに会社のマスコットである、『カタナギんちゃん』なる得体のしれない不気味な黒い鳥が、ボディにプリントされていた。


「これって、黒魔術に出てくる恐怖の人食い鳥ですよね」と、むつみは入社当初刀木に、したり顔でうなずいた。


 ダチョウの胴体にトサカのついたコブラの頭部、バネかと思われる正体不明な脚が四本、クジャクのように広げた尾は、どう見ても数十本の折れた矢が突き刺さった落ち武者のよろいだ。


 国道で信号待ちしていると、通りかかった子どもは車を指さしながら必ず泣き叫び、外国人観光客たちはバシャバシャと写真を撮りながら「オウッ、マイガァッ!」と胸元で十字を切る。


 それは置いといて。


 むつみは結局カタナギ・ビューティに、あの日からアルバイトとして勤めることになったのであった。


 何事も経験、と潔く腹をくくってしまうポジティブさがむつみの長所である。


 ただ笑いの絶えない職場というのは、実は冷笑や嘲笑であることに気づいたのは意外に早かったのだが。


 今回刀木が取ってきた仕事は、ワンルームマンションの住人からの依頼である。

 引越しをするために、部屋の掃除をしてほしいとのことであった。


 刀木、則蔵、そしてむつみの三人、つまりカタナギ・ビューティの全従業員は電気工事業者のように太い革ベルトを、つなぎの上に巻いていた。


 このベルトにはキャンバスバッグ、キャンバスサック、キャンバスドライバーサックが取り付けられている。

 そこに刷毛、ブラシ、ドライバー、ケレン棒を差し込んでいるのだ。


 ビル前に社用車を横付けし、大型掃除機、モップにバケツ、洗剤などを詰め込む。


 刀木しか自動車免許を持っていないため、それらの道具はむつみと則蔵が一緒に玄関まで運ばなければならない。


 かなり重量がある道具は、則蔵が運搬する。

 むつみはもっぱらバケツなどの軽量道具しか担当しない。


「ぼくは、シ、シシャモが大好きだから、力があふれてるんだよ。

 ニュートンの運動方程式って、む、むつみさんは好きかい?」


「いや、好きも嫌いも、そんなん文系女子にはキョーミないし」


 二人はエレベーターから道具を運びながら、口を動かしている。


 則蔵のシシャモからニュートンへいきなり大ジャンプする、唐突なフリにはとうに慣れている。

 いつものことだから。


「ニュ、ニュートンが一六八七年に出版した、プリンキピアで運動に関する三つの法則を発表したんだ。

 えーっと、運動の三法則は、第一が慣性の法則、第二が運動の法則、第三が作用反作用の法則だな。

 そ、そういえば、かあちゃんが作るリンゴのジャムは塩辛かった。

 ジャムが甘いモノだって知ったのは、中学校で初めてイチゴのジャムパンを食べたときだったなあ。

 あの時は驚いて、クラスのみんなに教えてあげたんだ。

 ジャムはご飯のおかずにするよりも、パンのほうが絶対に美味おいしいって」


 なぜここでリンゴよ。

 ああ、ニュートンだからか。


 むつみは納得する。


 えっ? ちょっと待って。

 し、塩味のジャム?


「ささ、皆の衆。早いとこ積んでちょーだいな」


 運転席から刀木が顔を出した。


「社長もたまには手伝ってくださいよう」


 むつみはバックドア(後部跳ね上げ式ドア)からバケツを載せ、口を尖らす。


「なに言ってんのぉ、むっちゃん。

 わたしは我が社唯一のドライバーですよ。

 ハンドルを握る大切な手や、アクセルとブレーキを踏む足に万が一のことがあったら、それこそ大変よぅ」


「はいはい、下働きは部下の仕事ですよねっ」


 かわいい舌を突き出してブウたれるむつみであった。


 つづく

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