第二話「アオリ広告に誘われて」

「幼稚園のときも、しょ、小学校のときも、ずうっとこうだったって。かあちゃんが言ってた。

 だ、だけどなぜか勉強はできたんだなあ。どうしてかなあ」


 則蔵のりぞうはブラシとピンセットを持ったまま腕を組み、口の中でブツブツと独り言を続ける。


「いや、もうその話はいいから。

 あたしが訊いているのは、社長はどこで油を売ってんのかってことよ。

 まさか真っ昼間から、またキャバクラへ行ってんじゃないでしょうね」


「こ、高校のときは、みんなからイジメられていたんだなあ。

 だけど、勉強はできた。

 毎日殴られたり蹴られたり使い走りさせられて悲しかったけど、べ、勉強はできた。

 うん。ご飯もいっぱい食べた。

 かあちゃんの作るおかずは、美味うまいのか不味まずいのか、わ、わかんないけど食べた。

 ああっ、そうかあ! 

 毎日納豆とメザシを、欠かさずかあちゃんが食べさせてくれてたからだあっ。

 だから、勉強ができたんだ。

 な、納豆にはビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンE、ビタミンK、ナイアシン、パントテン酸、葉酸、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄分、亜鉛が含まれてるし、メザシにはBPAのdha、カルシウム、タウリンが豊富に」


「ストーップ! ストップ!

 もう、そんな講義はいいから。

 あたしは文系女子なんだから、解説は結構」


 むつみは眉間にかわいいしわを寄せて、大きく手をふった。


 ギャギャギャンッ! 


 錆びついた金属を無理矢理こすり合わせた、背中に鳥肌をたたせる音を響かせて、事務所の入り口ドアが開かれた。


「たっだいまぁっと。

 あら、むっちゃん、今日はお早い出勤だこと」


 長身の若い男が入ってくるなり、むつみに手を振った。


 グレー系の洒落た秋物スーツに、クレリックシャツと呼ばれる縦ストライプの身頃、袖と衿は白い生地になっている洒落たワイシャツを着こなしている。


 見てくれはちょっと粋な、ハンサム男だ。


 やや長めの髪は天然ウエーブが波を描いている。

 額に一筋の髪をわざと垂らしており、本人は恰好よいと思っているようだ。


 だが、むつみからは「ウザい」の一言で片付けられていた。


 男はむつみより一回り近く年長である。

 そのため、むつみも普段は一応ナンチャッテ敬語で話すが、ウザいに尊敬語も丁寧語もない。


「社ッ長ッ、またどこへシケ込んでいたんですかっ」


 詰問口調で、むつみは大きな目でにらむ。


「おやまたこれはご挨拶ですなあ、むっちゃん。

 こうみえても、わたしは会社経営者ですぞ。社長自ら営業をしてきたに、決まってんじゃあないのよ」


 カタナギ・ビューティ社長である刀木かたなぎ鋭作えいさくは、上から目線で片方の口元を曲げた。


 ちなみに名刺には社長ではなく、CEO(最高経営責任者)と刷りこんでいる。


 刀木は上着を脱ぎながら社長席に向かう。

 ほこりが堆積した窓際のスチール机だ。


 肘掛けの片方が外れたチェアに腰を降ろし、机上のほこりを「フーッ」と吹いた。


 舞い上がったほこりがなぜか刀木の顔面を襲う。「ブェックシャーン!」と大きなくしゃみをひとつ。


「それでっと。

 わたしの不在中に、クライアントから電話テルはあったかな」


「なぁんにもございません。

 いたっていつも通り、閑古鳥だけが飛び交っていまぁす」


 むつみは嫌味たっぷりに、指さしながら事務所内に首をめぐらす。


「まあ常に多忙な我が社。

 ゆえに、たまにはきみたちスタッフも休養が必要だからね。

 いいんじゃないのよ。戦士の休息ってね。

 むっちゃん、コーフィをれてくれる?」


 むつみは事務所の奥にある小さなキッチンへ、親指を向けた。


「ご自分でお好きなだけ作ってください。

 コーヒーったって、インスタントの粉にお湯を入れてかき混ぜるだけですから」


「あらあら、今日も虫の居所がお悪いようで。

 おーい、ノリよ。

 コーフィ、プリーズ」


 則蔵はすでにブラシの掃除に全神経を集中しており、刀木が帰社したことさえ気づいていないようだ。


 刀木はもう一度声を掛けようとして口を開いたが、無駄だと知っているために頭を振り、やれやれと立ち上がった。


 その鼻孔に熱いコーヒーの、安っぽい香りが漂ってきた。


「しっかたないから、特別大サービスですよ、社長」


 むつみがお盆にコーヒーカップを三つ乗せて立っていた。


「いや、さすがは我が社の紅一点、プリティむっちゃん。嬉しいなあ」


「社長、大サービスついでにおうかがいしますけど、今月こそアルバイト代はいただけるんでしょうね」


 むつみはねめあげるように、刀木に鋭い視線を投げた。


 手にしたコーヒーカップの香りを嗅ぎながら、凶器の視線をかわすように目を閉じる刀木。


「むふふふっ。

 なぁにをおっしゃるのよ、むっちゃん。

 そのためにわたしはクライアント回りをしてきたのですぞ」


「えっ、じゃあ久しぶりに仕事を取ってきちゃったりしたんですか!」


「オフコース、もっちろん」


 刀木は小指を立ててカップの取っ手を持ちながら、むつみにウインクするのであった。


 ~~♡♡~~


 今から半年前のことである。


 中京都ちゅうきょうと大学学部英文科二回生のむつみは、学食のテーブルを陣取り、アルバイトの求人雑誌を眺めていた。


 ランチもこの場所で摂り、休憩も学食で取る。

 なぜなら、小腹がすいたときにすぐに麺類やカレーライスが口にできるからだ。カフェでコーヒーを片手に一服するという選択肢は、むつみにはない。


 お茶するくらいなら、うどんをすするほうがよいのだ。


 実家は隣接する三重県にあり、入学後は大学近くの学生専用アパートでひとり暮らしをしている。


 仕送りは充分にあるのだが、二回生になったことだしアルバイトをすることで社会経験を積みたいな、と思い立ったわけである。


 Tシャツの上にピンク色のパーカーを羽織り、スキニージーンズというスタイルだ。


「はあ、あたしにピッタリのバイトって、なかなかないなあ」


 テーブルの上には、数冊の無料配布求人誌が積んである。


「まっ、時給はそこそこでいいんだけど、やりがいがあって仕事は楽で、できればイケメンのバイト仲間がいれば最高なんだけども、っと」


 髪を耳にかけながら、両目を見開いてページを追う。


 三冊目の最終ページに目が留まった。

  かなり小さな文字でこうあった。


「あなたの余暇を有効に使いませんか。

 当社は美を追究し、社会に貢献する企業です、か。

 美を追究ってことは化粧品やエステ関係かな。

 ええっと、ノルマはございません。時間帯は応相談。笑いの絶えない明るい職場です。

 あなたの持つ、美に対する熱い想いを発揮してください。

 業界では一目置かれている新進気鋭の企業です。

 カタナギ・ビューティ、ねえ」


 ふむ、とむつみは顎に手をやる。


「まあ、美に対しては一家言あるあたしに、もってこいのバイトじゃん。

 ノルマもないみたいだし、社名から察するに、イッケメンがうようよいそうだわ」


 その場ですぐにスマホから電話を入れた。


 会社の所在地は、メーエキ裏、つまりJRナゴヤ駅裏であった。

 ナゴヤ駅界隈は市内で最もにぎわう繁華街である。


 大学からは地下鉄を一回乗り換えで行けるし、三十分もかからない。


 むつみは鼻唄気分でスマホの地図アプリを確認しながら、メーエキの裏通りに林立するビルの間を歩いていく。


 肩からは勉強用道具の入った、布製ショルダーバッグを引っ掛けていた。

 にぎやかな街の香りが鼻孔をくすぐってくる。

 

「くわしくは来社した時にって言われたけど、都心に勤めるOLさんを対象にしているお化粧品関係の会社なんだろうなあ。

 えーっと、『鱶乃小路ふかのこうじビルヂング』はっと。

 この辺りは洒落たビルばっかりだわね。どんな白亜の建物かしら」


 すれ違うサラリーマンやOLも、なんだか華やいで見える。


 やはり町中で働いている人たちは颯爽としてカッコいいわねえ。

 あたしもオトナへの階段を上がって行くのよ、このアルバイトで。

 さあさあ、どこですか、あたしの審美眼を求める企業は。


 あった。

 

 五階建てのビル壁に、『鱶乃小路ビルヂング』と看板が出ている。


 つづく

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