第一章「アルバイト先の大いなる事情」

第一話「プロの商売道具」

 所々むしられたような痕のある合板テーブルをはさみ、ソファに向き合って腰を降ろしている二人がいた。

 そのソファも、開いた穴をガムテープで塞いだ合成皮革製だ。


 ひとりはストレートヘアを、毛先を内向きにカールさせたボブカットの女の子である。

 クルリンとしたアーモンド型二重の大きな目が、手にしたスマホの画面を追っている。


 反対側に座っているのは、五分刈りカットの若い男性だ。

 丸刈りといっても暴力団のコワイ系ではなく、高校球児かお寺の見習い小僧のような印象である。

 小豆あずきのような小さな目元がそう見せているようだ。


 男性は膝をピッタリとそろえ、その上にティッシュを広げている。


 何をしているのかといえば、足元のバケツに突っ込まれた数本のブラシを、一生懸命ピンセットを使って掃除をしているのだ。


 かなり大きな身体つきだが、お年寄りのように背をちんまりと丸めて作業している。


 二人は同じ青いつなぎ服を着ていた。これは会社の制服である。


 胸のポケットには、「カタナギ・ビューティ」と黄色い刺繍文字が入っていた。


 この部屋はカタナギ・ビューティなる会社のオフィス。


 いや、オフィスなどと横文字で名乗るのも恥ずかしい、小汚い事務所であった。


 会社が間借りしているこのビル自体がすでに老朽化しており、壁にはひび割れが縦横無尽に走っている。


 たまにビルの下を大型トラックなどが走れば、裂け目からはコンクリートの粉が舞う。


 窓際に置かれている唯一のスチール机。積まれた書類の上には、粉やほこりが地層を作っていた。


 わずか十坪程度の狭い室内。


 二人が座っているソファの周囲には、様々な清掃用道具が雑然と置かれている。


 床磨き用のポリッシャー、ドライバキュームにウエットバキュームの大型掃除機、ワックスや洗剤の入った業務用のタンクなどなど。


 壁際には色の剥げた金属製のラックが並んでおり、スプレー、ブラシ、雑巾、工具入れなどが目いっぱい積まれていた。


 これらから推測されるように、カタナギ・ビューティなる会社はプロのお掃除屋を生業なりわいとしているのである。


 お掃除業の看板を掲げているのであれば、せめて自分の事務所くらいは整理整頓しておくべきではないか。


 ボブカットの女の子、蓮下れんげむつみも最初はそう思っていた。


 だが、ここへアルバイトに来て半年経った今では、まったく気にならなくなっていた。


 自ら進んで整理整頓しようだなんて、そんな奉仕精神などとっくに失せていた。

 なぜなら、労働に対する報酬がうやむやのうちに滞っているからである。


 対価に見合わぬ労働は、絶対にしない。


 そこまでシビアな感情を抱くようになってしまっていたのであった。


 今でもたまに思い出す、あのアルバイト採用の面接初日。


 フッ、と苦笑とも自嘲ともつかぬ乾いた笑みが知らず浮かぶ。「クウッ、だ、だまされたぁ!」と悔やんだあの日は遥か遠い過去であった。


 カサカサカサッ、むつみのつま先を痩せ細ったゴキブリが通り過ぎた。


「フンッ」とむつみの形の良い鼻先から息が漏れ、履いているスポーツシューズが素早く動き、靴底からビッチョンッとやや湿った音が響いた。


 アパートのキッチンに同種族が突如出現したとき、キャーッなどと悲鳴を上げていた頃の自分が、可愛くて、懐かしい。


 もう決して戻れぬ世界に足を踏み入れてしまったから。


 世の中に怖いモノは何もない、むつみであった。


「ねえ、ノリゾーさん」


 むつみは目線を動かさずに、坊主頭の男に呼びかけた。


 唯一の正社員である生沼なまぬま則蔵のりぞうは、一心不乱にブラシを見つめて小さなゴミをピンセットで挟んでは、膝に広げたティッシュペーパーの上に並べている。


「聴いてる? ちょっとぉ、ノリゾーさんっ」


 むつみはスマホを見やったまま、声のトーンを一段階上げる。


 則蔵は、口元をすぼめてゴミ削除を継続していた。


 二人しかいないのに、気づいていない。


 なぜ気づかないのか。


 それはブラシのお掃除に、全神経を集中させているからほかならない。


 そこで「はあっ、ったくぅ」と、むつみはようやく顔を上げた。


「おらあっ! ノリゾー!」


 むつみの甲高い怒鳴り声に、則蔵はようやく自分が呼ばれていることに気づく。

 小さな、象のような目をパチクリとさせた。


「あ、ああ。ぼ、ぼくのこと、呼んだのかなあ」


 やけにのんびりとした口調で、則蔵は目をしばたたいた。


「ええ、そうよっ。

 ノリゾーさんさあ、さっきからずっと何やってんの」


 当年十九歳のむつみより五歳年上の則蔵に対して、おかまいなしのタメ口である。


「こ、これは、ブラシのお掃除だなあ。

 社長から言われてるんだ。

 プ、プロとして、商売道具は常に綺麗にしておけって。

 プロ、だからねぼくたち」


 むつみは小汚い事務所内を見回し、フフンと鼻で笑い飛ばす。


「いや、それは見ればわかるって。

 あたしが入る時間の前から、やってんでしょ」


「う、うん」


「てことは、なに。

 一時間以上も微動だにせず、一心不乱にブラシを掃除してんの?」


「あははぁ、正確には、さ、三時間十七分、だなあ」


 むつみは壁に掛けられた年代物のボンボン時計を見上げた。

 現在午後一時半を回ったところである。

 

 むつみは大学の午後の講義が休講であったために、学食でクラスメート二人と昼食を摂ったあとキャンパスのベンチでおしゃべりし、先ほど事務所にやってきたのだ。


 そう、空手部員たちに毒づいていた三人のうちのひとりである。


 則蔵はニコニコと笑顔を浮かべ、ピンセットでつまんだ小さなゴミ片を自慢げに顔の前に掲げた。


「いや、そんなものをドヤ顔で見せてもらわなくても、結構です」


 冷たくピシッと言い放たれ、則蔵はしょんぼりと肩を落とした。


 そのあまりにも悲しげな姿に、ほんの少しだけ罪悪感を覚えたむつみは話題を変える。


「ノリゾーさんってさあ、メーダイを卒業しているのに、どうしてこんなショボイ会社で働いてんのさ。

 メーダイって言えば、あの天下の国立ナゴヤ大学だよ」


「ええっと、卒業は、し、してないんだあ。

 四回生のときに、退学めちゃったんだ」


「でもさ、現役で入試を突破してんでしょ。

 だって、旧帝国大学だよ。

 偏差値なんて、あたしの通う中京都ちゅうきょうと大学の何十倍何百倍も上よ。遥か銀河の彼方にある超エリート大学よ。

 ヌボーって顔して、本当は頭がすこぶるいいことを、隠してるんでしょ。

 なんだったっけ。

 もうアルパカは、梅を食す?」


 則蔵は褒められたせいか、顔を真っ赤にして恥ずかしげに視線を斜め下に落とす。


「い、いや、そんなことは、ないんだあ。

 えーっと、それと、アルパカってなんだろう。

 もしかして、能ある鷹は爪を隠すってことわざの、じょ、女子大生バージョンかなあ」


 ボソ、ボソッと則蔵は遠慮気味にむつみに言った。


 そ、そうよ、美形女子大生は鷹よりもアルパカ派なのよ、とむつみは無理やりの反論を返す。


 だがツボを押さえたむつみのおだては、強力な回復魔法であった。


 むつみのややまなじりの上がった大きな目元に、スウッと通った鼻梁。

 バランスのとれたキュートな小顔で正面から尊敬の眼差しでこう言われれば、大抵のオトコはすぐに立ち直る。


 特に薄茶色の大きな瞳は、魅惑的な目力が宿っていた。


 つまり、むつみは超美形の女子大生であるのだ。


 そして則蔵は紛れもない単純なオトコであった。


 ただし則蔵はむつみのキュートさに頬を赤らめたわけではない。

 単に母校を褒められたからにすぎない。


 むつみは、梅を食べるアルパカのほうが可愛いのに、と頭に描きながら話を続けた。


「ナゴヤ大学の、なんだっけ」


「農学部、お、応用生命科学科、だあ」


「そうそう、それよ。

 そんな素人を煙に巻くような学問を修めてて、すごいよね。

 だけどさあ。

 実験のときに失敗して、変なガスを吸い込んじゃって、そんで今みたいにボーっとするようになったんだってね。

 ちょっとだけ、かわいそうかも」


「あ、ああ、いやあ、これは生まれつきだって、かあちゃんが言ってた」


 むつみは大きな瞳を動かしながら、目の前に座る則蔵を値踏みする。


「どう考えても、生まれつきとは思えないけどなあ。

 超エリートでいらっしゃるのに。

 まあ、それは置いといて。

 ところでさ、社長はどこへ行ってんのよ」


 つづく 

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