陽炎の温度
「あの人、鞄忘れて行きましたから」
そんな風な言葉で、彼女は『雨宿りさん』との過去話を切り上げた。
僕は、握りつぶした温州みかん風味清涼飲料水のペットボトルを、きりきりと捻り上げる。
景気のいい蝉の声が林間に満ちる昼下がり、僕は使われなくなったバス停のベンチで、ずぶ濡れの女の子と話している。八月十五日、入道雲が連なる真夏日である。
隣に座るこの女の子は、ずぶ濡れさん。本名不詳、享年十七歳。正真正銘の幽霊だ。
両親の海外出張によって、ばーちゃんの営む酒屋の二階に居候生活を始めてから、一週間ほど経った頃、僕はこのバス停で彼女に出会った。
最初は正直やばい人がいると思った。考えてもみて欲しい。廃墟のベンチにずぶ濡れの女の子。相当危ない取り合わせだ。警戒するのもわかるだろう。
まあしかし実際話してみれば、気さくでかわいい人だった。
あの日もいろんな話をしたな。
どうしてここにいるのかと聞いてみた。昔からずっとここにいるとのことだった。
どうしてずぶ濡れなのかと聞いてみた。土砂降りの日に死んだからとのことだった。
それはどういうことかと聞いてみた。わたしが幽霊だということ、とのことだった。
うん。
やばい人どころではなかった。
そんなこんなで幽霊と知り合うことになった僕だが、特にお祓いを受ける予定はない。
あの日に出会った幽霊は結局、普通にかわいい、普通の女の子でしかなかったのだ。死んでいること以外は。
それから約一カ月。今日も、僕と彼女は楽しくおしゃべりしている。
暇さえあれば足しげくバス停に通い、ずぶ濡れさんもまた、いつも笑って出迎えてくれた。
まあ、大体分かるとは思うけど、うん。
僕は、ずぶ濡れさんのことが好きだ。
何でって、一ヶ月間ふたりっきりで仲良く話したかわいい女子を、好きにならない男子って、いる?
いたら僕は男子とは認めないね。
というわけで現在僕は、さきほど『恋人にしてあげようか』などとからかわれた際に、とっさに『幽霊は趣味じゃない』などと心にもないことを言ってしまったミスを、どう取り戻そうか全力で考えているところだ。
……だがまあ、今の時点では僕に勝ち目はないだろうな。
だってほら。
バス停の隅に置き忘れられた、『雨宿りさん』とやらの鞄を、微笑みを浮かべて見つめる彼女の横顔を見る。
あーあー。うっとりしちゃって、もう。
僕は見たこともない、『雨宿りさん』なるサラリーマン。ずぶ濡れさんより前に、ここにいた幽霊らしい。さっきまで、ずぶ濡れさんと彼のエピソードを聞いていたところだが、語っている時の彼女の顔と言ったらもう。
人間にあんなに幸せそうな顔が出来るのか。ゆるゆるふわふわきらきらと、見ているこっちが惚れ直しそうだった。
あー、まったく。
幽霊に、初恋かあ。
うん、さっき男子がどうだとか言ったけど、初恋です。十六歳にして、はじめてです。
しかも、半端じゃないハンデの恋敵付き。
とんだ人生ハードモードだ。
「……そうっすね。僕も会ってみたいっす」
なあ、『雨宿りさん』よ。あんたは彼女のこと、どう思ってたんだ?
会って、そう尋ねてみたい。
「ふふ。結構気が合うかもしれませんね」
まあ気は合うだろうな。なんだかんだ言っても、彼女の話からして、好きじゃないとは思えないし。同じ女の子を好きになったのなら、気は合うだろう。
いつか会おうぜ、『雨宿りさん』。気が合う故に、会って語り合うのか、殴り合うのかはわかんないけど、その日までに僕だってきっと、このハンデを埋めて見せるさ。
だって生きてるんだぜ? 何か出来ないことがあるか?
蝉の音が重なる夏の真ん中。
隣に座る幻じみた陽炎の温度。
だけど僕は今、それを確かに感じている。
〈了〉
夏、したたる。 ziggy @vel
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