夕立の残り香

 やー、どーも。

 今年もみんみんしゃあしゃあと蝉がうるさい季節となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 あたしは、そうですね。突然頭から水に飛び込みたいような衝動に駆られることがよくあります。

 そんなときはどうするかって? ま、実際にそうしてますね。

 あたし、水泳部ですんで。

 たとえやりたくなかろうが、放課後になれば二十五メートルプールに飛び込むことになりますから、ね。

 水泳部ってほら、夏、涼しそうでいいねーとか、言われるじゃないですか。個人的にあれ、やめてほしいんですよねえ。

 確かにですよ? 水に入っている間は多少マシかも知んないですけど、泳いだ後とか、水からちょっとでも出てる部分、めっちゃ火照るんですよ。暑いのなんの。それにうちは屋外プールですからねえ。正直、陸上部やら野球部やらより、日焼けはしますよ。だって水着ですもん。男子なんかそりゃもうほぼ全身です。女子だって結構ね。

 気にしてる子も多いですけど、水に入るとなれば日焼け止めも何も意味ないわけですし。ていうかプールが汚れるからつけると怒られますしね。みんな色々試してがんばってるみたいです。

 ……あたし? 気にしてません。いえ全く。

 水泳が好きかって? まあ好きじゃなきゃあやってないと思いますけど。泳いでると気分いいですし。あたしは基本的に自由形専門ですけど、水を突っ切って進むあの感じがもう、ね。

 まあまあ部活の雑談はこれくらいで良いとして、あたしが誰だか……ま、だいたいわかりますよね。

 さーちゃん。友達はみんなそー呼んでるんで、それでよろしく。

 ちなみに酒屋のさーちゃん、が由来です。たどってみるとかわいげゼロですねー。

 夏は好きですよ。じっとりと温んだ空気が肌に吸いつくようなあの感じ、そんなに嫌いじゃないです。むしろその状態から水に飛び込んだときの清涼感と言ったら。正直ほかの季節にはないですよ。あんな楽しみ。

 蝉の声だって、冒頭でああは言いましたけど、冬とかになると、不意に聞きたくなったりします。初夏に最初の蝉が鳴き始めたりするのを聞くと、なんとなく気分が高揚するし、逆に秋口に蝉の声が減っていくと、なんとなく気分が沈んでいくんですよねえ。あの、耳で聞くんじゃなくて全身に浴びるような、肌に沁み込んでいくようなあの感じ。あれが一種の、『夏』そのものなんじゃないでしょうかね。

 ……あー、頭の良さげな物言いをしてみましたが、ちょっと無理があったみたいですねえ。わかってますよー、あたしが一番。

 あ、でも。

 あいつは嫌いだったみたいですよ、夏。

 まあ、何ていうかそんな叙情感覚的なことじゃなくて、ふつうに暑さに弱かっただけみたいですが。

 体が弱いとか、そういうんではないんですけどね。山一つ向こうから自転車で登校してくるくらいですし。

 あたしは家でもうちわでだいたい乗り切れますけど、あいつは『冷蔵庫に詰まりたい』って言ってましたね。

 いや、死ぬわ。

 そのあいつってのは誰かって? そりゃあ、まあ。

 あたしの後ろの席の、こいつですけど。

 誰もいない? そりゃそうです。こいつ去年、死んでますから。

 去年の夏休み、ちょうどそれが終わった日、でしたっけね、あれは。大雨、というか嵐の日のことでした。

 何で一年も前なのに席が残ってるのかって? あたしと友人で頼んだからです。

 なんていうか、自分でもガキっぽい感傷だとは思うんですが、一緒に卒業したくて。

 と、言っても、あいつはこんなところにはいないと思いますけどね。学校の怪談として化けて出てくれでもしたら面白いんですが、まあそんなタマじゃあないでしょう。出てきてもたぶん迫力不足ですね。

 いるとしたら、そーですね、あの場所だと思います。あいつあの夏中、そのことばっかり考えてたみたいですから。

 卒業の日に、呼びにでも行こうかと思います。

 あの古びたバス停に。


 さてさて。

 あたしのともだちのことですから、多少脚色が混じるかもですが。

 あの夏の中、ふわふわきらきらしていたあいつと、相も変わらず、仏頂面のあたしの小話。

 盛夏、放課後、風が舞い込む窓際よりお届けします。

 

 過度なご期待、なさらぬよう。

 


 〇



 あいつがこの学校に転入してきたのはまさに、最初の蝉が鳴き出すか、というぐらいのころ。

 細かく言えば、後に言う岩戸景気の真っ最中、昭和三十五年の六月十九日のことだった。

 梅雨もそろそろ終わり。鬱屈な雲の隙間から、夏のそれに近づいた日差しが降りそそぎはじめ、あたしの所属する水泳部も、ようやく本腰入れて活動できるというところだ。

 担任に連れられて教室に入ってきたあいつは、この辺の人間とは全く違った雰囲気を纏っていた。ふわふわというかなんというか、あいつの周りだけなんか空気がゆるい。そんな感じ。

 ほんの少し色素の薄い、肩口くらいまでのふわっとした髪、白い肌、あたしよりも頭一つ分くらい小さな背。なんというか、森の小動物、みたいな。

 チョークをとって、黒板にかつかつと名前を書く。ちょっと癖があるけれど、きれいな字だった。悪筆のあたしからするとうらやましい。黒板に書かれた名前は、凛としていて、正直本人の雰囲気とはちょっと合わなかったかな。

 そいつはぺこりとひとつおじぎをして、緊張した面もちで黒板に書いた自分の名前を読み上げ、あいさつの口上を述べ始めた。

「わ、わたしは東京から来ましたっ。この辺にはおばあちゃんの家があるので毎年来ていますけど、住むことになるとは思いませんでした。三日ほど前に越してきましたが、住んでみれば思っていたより…………えーと、えーと、思っていたより田舎ですね! ものすごく田舎ですね! わたし田舎のことはよくわかりませんけど、早くこの田舎に馴染めるようにがんばります! 田舎のみなさんよろしくお願いします!」

 ケンカ売ってんのか、こいつ。

 ここどんだけ田舎なんだよ。地名みたいに使いやがって。みんなぽかーんとしてるじゃねえか。

 あいつの席は、あたしの後ろに決まった。この教室の両端の列は、机一個分後ろに下げられているので、左端の一番後ろになったあいつには、隣の席がない、ということになる。転入生をいきなり孤立させるもんじゃないよ。

 先生に席を告げられて、あいつはかつかつと上靴の音を立てて歩み寄ってくる。その足音が、机に頬杖をついたあたしの前で止まった。

 目だけを動かしてその顔を見る。あたしの目線に気がつくと、あいつはにこりとやわらかく笑った。


「さーちゃん、おひさしぶりです」

「ん。ひさしぶり」


 そんな感じであいつとあたしは、二度目の出会いをしたのであった。



 〇



 あたしの家は、明治創業の地元じゃちっとは名の売れた酒屋だ。地酒の評判もよく、遠くから買いにくる常連さんも結構いる。あたしの部屋はその店の二階。一人部屋をもらったのは、あたしが七歳の時だった。もともとここは、父さんの部屋だったらしい。

 父さんは、あたしが生まれるより少し前に戦争で死んだ。生前は南の方のらばうるとかいうところでゼロ戦を乗り回していたそうだ。

 写真で見れば、どちらかといえば線が細い母さんに比べて、豪放磊落な笑みを浮かべたごつい人だった。たぶんあたしは父さんの血を継いだのだと思う。

 もともとここには父さんの遺品が置かれていたが、それをおばあちゃんが片づけてあたしにこの部屋をくれた。いつまでも遺品を置いておくのは、父さんの性に合わないだろうと、一気に処分してしまったそうな。父さんもまた、このおばあちゃんの血を継いでいるんだなあと、そう思った。

 現在店を経営しているのはおばあちゃん。母さんはそういうタイプではないので、おそらく店はあたしが継ぐことになるだろう。おばあちゃんにも、『おまえは大酒呑みの才能がありそうだ』って言われたしな。いや、別に酒屋に必要な才能じゃないだろ、それ。

 まあ、事実その才能はあったけどね。

 どうやって確かめたか? おっと、ナイショナイショ。

 この部屋は結構気に入っている。風通しも良いし日光も入る。見える景色も悪くないし、概ね非の打ち所はないだろう。しかしただひとつ、ただひとつだけ欠点を上げるとすれば……

 この部屋からは、花火大会が見えないのだ。


 花火大会、正式名称を、『納涼花火祭』という。

 町の端っこ、山のふもとで行われるそれには、町の住人、山の向こうの村の住人が共に集まり、共同で催される。

 あいつの言ではないが、結構田舎なこの町も、一時賑やかに活気づく。

 あたしも毎年参加しているが、正直花火は好きだが人混みは嫌いだ。というわけで、出来ることならのんびり家から眺めたい、というところなのだが、あいにくこの部屋からはちょうど見えない。

 なのであたしは毎年屋台で買い物した後、ごちゃごちゃした人混みから抜け出して、ほんの少し離れた植え込みのあたりに座って見ている。

 中学一年の、あの夏もそうだった。


 あたしはひとしきり露店の食べ物を買い込んだ後、例年のごとく人混みから抜け出ると、あたしのいつも座っていた場所に、見覚えのない先客を見つけた。

 ひとり、ラムネをくぴくぴ飲みながら花火を見上げるその顔は、露店の周りではしゃいでいる同年代の連中とは、どこか違うもののように見えた。

「…………」

 あたしは、断りもなくその隣にどっかりと腰を下ろすと、ぽんっ、とラムネの栓を抜く。

 突然隣に現れたあたしに驚いたのか、先客は目を丸くしていた。あたしはしゅわしゅわと音を立ててあふれるそれを一口呷ると、

「そこ、あたしの場所だよ」

 と言った。今思えば随分理不尽で頭の悪い台詞だ。まあ若気の至りということで勘弁してほしい。

 それを聞いて先客は、焦ったようにぺこりと頭を下げた。

「え、と、すみません。知らなかったもので。すぐ余所へ行きます」

「べつにいいよ」

 じゃあ最初っからそんなこと言うなという話だよなあ。

「……見ない顔だね。あんたもひとり?」

「ええ、まあ。人混みは苦手なもので。初めてひとりで来ましたけど、ちょっと人酔いしちゃいました」

「奇遇だね。あたしもだよ」

 ちなみにこのときのあたしは奇遇という言葉の使いどころが合っているか若干不安だった。

 くいっとラムネを呷って、中のビー玉がかりんと音を立てる。あたしたちはしばらく無言で、空に踊る火花に見入っていた。

「……ねえ、あんたこの辺の子?」

 先に沈黙を破ったのはあたしだった。

「いえ、夏休みなのでおばあちゃんの家に遊びに来ただけです。まあこっちにはせいぜい三日くらいしかいませんが。家は、東京です」

「東京? すごい都会じゃん。へえ、あんた都会っ子か」

「うーん、どっちかっていうと、こっちの方が性に合うんですけどねえ」

「ふーん」

 花火の明かりを浴びて涼やかに照らされたその横顔には、やわらかく、そしてどこか寂しげな微笑が浮かんでいた。

「…………ねえ、あんた名前は?」

 

 それが、あたしとあいつの出会い。

 そして四年後の六月十九日、あたしたちは高校の教室でまた顔を合わせることになる。



 〇



「ね、ねえねえさーちゃん、あの転入生の子、マキゲちゃんに連れてかれてたよ。だ、だいじょうぶかな」

 友人が若干青ざめた顔で耳打ちしてきたのは、あいつの転入から、わずか三日目の、昼休みのことだった。

 あー、もう始まったか。

 マキゲというのは、この学年の女子のなかで、まあ番張ってるみたいなやつだ。親父さんが県会議員ということで幅を利かせているが、なんというか、正直見てて痛々しい。ちなみにあたしはこの女と出会って、ですわ口調で話す人間の実在を知った。

 とにかくあいつはまあ、たぶんそのマキゲに目をつけられたということだろうな。連れて行かれたということは。

「あーあ、やっぱりかー。ナカジ、あいつどこ連れてかれたわけ?」

「えっと、たぶん校舎裏、だと思う」

「ベタなのは口調だけじゃないんだな……あたしちょっと様子見てくるわー。やりすぎてたら止めないとだし」

「さ、さすが姉御っ。お願いしやすぜ」

「誰が姉御だ」

 外に出て、校庭から校舎の裏に続く路地に入ってしばらくすると、マキゲのキーキー声が聞こえてきた。あいつのほうの声は聞こえないので、口論というわけではなく、マキゲが一方的にがなっているだけらしい。たぶんこの角を曲がったところだな。

 あたしがその角からちょっと顔を出して様子を見ようとすると、不意にばしゃ、という水音が聞こえた。

 あわててのぞき込むと、マキゲの脇に二人の取り巻きが並んで、ひとりは空のバケツを持っている。その正面に立っているあいつは、頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れだった。

 水を、かけられたのか。

 マキゲが嫌みなほどすました態度で言う。

「転入生さん。わたくし、あなたがどれほど都会から来たのかは存じ上げませんけれど」

「東京ですよ」

「知ってて言ってるのよ!」

 口を挟んだ取り巻きを一喝して、マキゲは続ける。

「こほん。そう、あなたがどれほど都会から来たのかは存じ上げませんけれど、田舎には田舎なりのルールというものがありましてよ。あまり調子に乗らないことですわね」

 高圧的に言うと、マキゲは嘲笑を満面に浮かべて、ずぶ濡れになった相手の姿を満足げに眺めた。

 あいつの表情は濡れた前髪の下で見えないが、おそらく涙ぐんでいるか、そうでなくともひどい気分を味わっていることだろう。

「あー……これはやりすぎ、だな」

 あたしは小さくつぶやくと、その場を収めるべく、一歩前に、出ようとした。

 出ようとした、時。


 がしっ。と。

 あいつが、マキゲに抱きついた。

 全力で、そりゃもう押し倒す勢いで。

 そしてもちろん、ずぶ濡れで。


「な、な、な……!」

 じわじわと、唖然とするマキゲの制服に染みが広がっていく。そしてあいつはそのまま、水をこすりつけるかのように熱烈な頬ずりをかました。

「ぎゃあああああああっ!!?」

 すました態度もどこへやら。目も当てられないほどに取り乱して、やっとのことでマキゲはそのハグを振りほどいた。二人の取り巻きはと言えば、ご主人のピンチにただわたわたおろおろとしている。

 ぴんと張っていたセーラーは無惨にもぐしゃぐしゃ。あだ名の元たる整った巻き毛も、頬ずり攻撃の前に哀れにもぼさぼさだ。自信たっぷりだったその顔は今や涙目。

 対して顔を上げた下手人の方は、にっこりと柔和に笑っている。

「ごめんなさい。怒らせてしまった理由はわたしにはさっっっぱり分かりませんが、何かわたしが不快にさせてしまったのなら謝るだけは謝ります。ごめんなさい。でもわたし、あんまり悪目立ちもしたくないので、どうか仲良くしてくれると嬉しいです」

 うわあ、すっげえ。

 深々と頭を下げるそいつを前に、マキゲも青い顔で呆然としている。そして、はっと自分の制服の惨状を見て、涙目でわめき散らす。

「おおおおお覚えてらっしゃい!!」

 わお、その台詞実在したんだ。

「わお、その台詞実在したんですねー」

 うわ、思考が同調した。不覚にも吹き出しそうになった。

「~~~~っ!!!」

 ついにマキゲは嗚咽を漏らしながら走り去ってしまう。その際あたしの目の前を通ったが気づかなかったようだ。取り巻きがあわてて後ろから追いかけていった。

 そしてその後ろから、てくてくとあいつが歩いて出てくる。

「さあ、さーちゃん、教室に戻りましょう」

「あんた……気づいてたわけ?」

「ええまあ」

「あー、その、大丈夫? 水かけられたりとか……」

「ええ。東京のいじめこんなもんじゃないので」

「………………さいですか」

 この前ひさびさに再会したそいつは、結構、たくましく成長していた。

「うーん、でも何であんなに怒ってたんでしょう?」

「十中八九初っぱなの田舎連呼だろうよ」

 ほんとに気づいてなかった。どころかあいつはそのときなにを喋ったかさえ、緊張で忘れていたそうだ。

 変なやつだ。一対一なら(この際取り巻きは数えない)存外したたかなのに、大勢の前に出るとてんでダメとは。



 〇

 


 その日は朝から、ひどい雨だった。

 不格好な雨合羽で登校する羽目になったり、湿気で髪がぐしゃぐしゃになったりで朝の教室には不満が渦巻いていた。皆それぞれひどい目に遭っていたようだが、教室の一番後ろに陣取るあいつは、一際異彩を放っていた。

 ちょっと濡れちゃったとかそんな段階ではなく、またも全身ずぶ濡れ。こいつ、よく濡れるなあ……。

「一体どうしたわけ、その有様」

「えへへ……途中で傘がお亡くなりになりました」

「あちゃあ……しかしあんた、この雨ん中自転車で来たわけ?」

「いえ、今日はバスを使いました」

「へえ、バスを」

「ええ、おかげで楽に登校できました」

「いや、その有様は楽に登校できたには含まれないよ」

 しかし、この辺でバスというと、この町内でも全く役に立たないと評判の、あのポンコツ路線のことかな?

 それからあいつは、何やら思い出しているような表情で、口を開く。

「それで……バス停で、不思議なサラリーマンに会いました」

「不思議なサラリーマン……って、何?」

「何がどう不思議とかうまく説明できないんですが……うーん」

「若い人?」

「ええ。二十四、五歳ですかね」

 へえ、この町ならばまだしも、あの過疎化でぼろぼろの村の方にそんな人がいたのか。確かに田園風景には似つかわしくないな。珍しいっちゃ珍しい。

「じゃあその人と一緒にバスで来たわけ?」

「いえ、あの人はバスには乗りませんでした。『俺はただの雨宿りだから』って」

「んん? サラリーマンってことは会社員でしょ? 村から仕事に出るのにバスに乗らないって、それおかしくない? 村の方にスーツを着てやる仕事があるとは思えないし……」

「んー、そうなんですよねえ」

 それは確かに不思議な人だなあ。ていうか、ヘンな人じゃない?

「明日もバスで来んの?」

「はい。道がしばらくはぐちゃぐちゃでしょうから」

「ふーん、じゃひとつ、気をつけなよ、あの路線は……」

「あ、さーちゃん、先生来ましたよ」

「お、ほんとだ、やっべ。準備してないし」

 この時あたしが、あいつにここのバス路線の恐ろしさを伝え損ねたために、翌日、彼女は四十分の大遅刻をする羽目になるのだが、それはまた別の話である。



 〇



 とぷん。

 小さな水しぶきをあげて、両手からつま先までぴんと伸びたきれいな流線型が、鏡のような水面に沈む。

 理想的なドルフィンキックを動力に水中を滑るように進むそれは、徐々に浮上し、水面に浮き出ると鋭い槍波が生まれた。

 見た目にはゆっくりと、なめらかなストロークで両腕が水をかき、キックは小刻みに正確なビートを刻んでいる。

 プールの端まで来ると、ほぼ減速のない流れるようなクイックターン。そのままペースを乱さずに戻って来て、スタート位置にとん、とやわらかくタッチ。この間、呼吸は三回であった。

「二十九秒二九」

 あたしが記録を読み上げる。

 ふう、とひとつ息をついて、あいつはゴーグルを外した。プールサイドに体を引き上げると、キャップを脱いでぷるぷるとかぶりを振る。濡れた髪が頬に張り付いて、そこから水滴がしたたっていた。

 こいつがあたしと同じ水泳部に入部してから一ヶ月半ほどになる。水泳の経験は、小学校の頃に少し、などと言っていたのだが、蓋を開けてみれば、中学校からやっているあたしよりも速いという、正直笑えないものだった。見た目の印象を大きく裏切り、今では女子水泳部のエース格である。ちなみにあいつがただの初心者だと思って調子に乗ったあげく、記録でぼろぼろに負けた実は水泳部なマキゲお嬢様は、ただいま傷心でスランプ中。

 別段体を鍛えているわけではないと思う。どちらかというとあいつの泳ぎは、とことん水に馴染んでいる感じだった。それに加え、フォームがとにかくきれいだ。下手に力を入れることも、また抜きすぎることなく、我流が混じることもない、お手本を絵に描いたようなフォームだった。

 しかしこいつは中学校じゃ三年間文学部なんぞに入っていたそうだ。しかも部員一人の。三年間棒に振ってるよ、それ。

 まあ毎日自転車で山を越えてくるくらいだし、基礎体力はあるのだろうが、それでもこの水泳への適合具合は意外だった。

「ふう、ありがとうございました。さーちゃん、帰りましょう」

「ん、そーだね」

 あたしたちは誰もいないプールサイドを後にする。

 次の大会で活躍できそうなこいつは、コンディションに乱れがないか確認するため、毎日部活が終わった後にタイム計測するよう部長から言いつけられている。計測係はあたしだ。

 塩素の匂いの染みついた更衣室で着替えた後、プールバッグを抱えて、二人並んで校舎から出る。夕方の風が、並んだあたしたちの濡れた髪を、さあっと冷やした。

 校門を出てしばらくのところにある駄菓子屋で、一本二十円のアイスキャンデーを二本買って、二人してぱくりとくわえる。これが最近の日課だった。

「ねー、あんたさ」

 あたしは、ガードレールにもたれてソーダ味のアイスキャンデーをぺろぺろ消費しながら、横でそれを子供のようにしゃぶっているそいつに声をかける。

「う?」

「ソレを口から出せ」

「……はいはい。で、何ですか?」

「最近、例のバス停の兄ちゃんはどうなの? まだいるわけ?」

「雨宿りさんですか? いる、っていうか、毎日会ってますよ。大変楽しくお話をしています」

「……バスには乗らないのに?」

「はい」

 言って、あいつは溶けて手に垂れそうになったアイスキャンデーの雫を舐め上げる。

 うーん。あのときは冗談のつもりで言ったのだが、その兄ちゃんはもしかして本当に件の幽霊だったのかもしれない。……じゃなきゃ相当な変人と言うことになるしな。

 あたしもぽたぽたと溶けて垂れ始めたそれをぱくりとくわえる。

「……えと、さーちゃん、県大会っていつでしたっけ」

「ん? ……えーっと、確かに八月十五日だったと思うけど?」

「ですか。もうあんまり間がないですね」

「そだね」

 しゃくっ。

 溶けてやわらかくなったアイスキャンデーを、しゃくしゃくと咀嚼する。溶けきらないうちに喉に流し込んだそれが、体の芯をすっと冷やした。棒に残ったソーダ味をぺろりと舐めて、駄菓子屋前のゴミ箱にぽいと放り込む。

 温んだ空気が、冷たさの余韻を少しずつ消していった。

「最近マキゲに何かされてない?」

「はい、今日も上靴に画鋲が入っていたので、お返しに恋文を入れておいてあげました」

「恋文て……」

「力強く凛々しい字で便箋三枚分、少々古風ながらも情熱的に彼女への愛を綴った後にわたしの名前を書いておきました」

「うわ、えぐい」

「文学部的意趣返しです」

 あの性格からしてきれいに乗せられそうだ。そして最後に名前を見て噴火するだろうな。

 マキゲは最近もう、遊ばれてる感がある。何をしてもこいつが全くこたえないもので、意地になっているというか何というか……

「だってやってくることがどんどん幼稚になっていくんですもん。なんだかかわいくて。わたしは仲良くしたいんですけどねー」

「あんた趣味悪いよ」

「えへへ」

 マキゲのやつもそろそろあきらめた方がいいと思うなあ。最近は学級の中(担任含め)でも彼女らの対立は微笑ましく見守られてしまっている。いや、担任は止めろよ。

 そんな感じでぐだぐだと喋りながらしばらく歩くと、小さなバス停に着いた。例の路線のやつだ。

「んじゃ」

「はい」

 なんて、そんな風に軽く声を掛け合って、いつも通りにあたしたちは別れる。

 空はもう茜色に染まっていた。

「…………」

 ふと、振り返る。

 バス停の待合いベンチに腰掛けたあいつは、ひとり空を見上げていた。

 夕焼けの色に照らされたあいつの目は、あの空より向こう、どこか遠くを見ているようだった。

 ……まただ。

 あいつは、数日前の水泳の地区大会の日以来、時々あんな表情をするようになった。

 そこに浮かんでいるのは、僅かな、本当に僅かな微笑み。寂しげなような、諦めたような、そして何だか、愛おしそうな。

 あんな表情をする人間を、あたしは他に知らない。

 …………いや、一人だけ知っている。

 母さん。

 父さんの遺影を見るときの、母さんの表情だ。

 どこか、手に届かないところにいる人間を想うときの表情だ。

「ねえ!」

 あたしは、叫んでいた。自分でも意識しないうちに。

 だって何だか、その表情をする人を見ると、その人もそっちに行ってしまいそうな気がするから。

 あいつがこちらを見た。もうあの表情は浮かんでいない。きょとんとした、いつものあいつの、ゆるい表情だった。

「その……ま、また明日な!」

 言葉の先が思いつかなくて、とっさにガキみたいな別れの挨拶を叫んだ。

 あいつはやっぱりやわらかく笑って、ひらひらと手を振った。


 ――――次の日、マキゲが朱い顔をしてあいつの方をちらちらと見ていた。

 いや、その発想はなかったわ。


 

 〇



 昼下がり。

 大会も終わって水泳部の活動もひと段落し、あたしは久々に午後を無為に消化していた。店先の長いすに座ってぱらぱらと人が行く往来を眺めながら、ただ、ぼーっと。脇に置いた漫画雑誌は読むでもなく、温んだ風がめくるままに放置している。片手のうちわは対して涼しくもない風を頬に浴びせ、半分ほど麦茶の入ったコップはたらたらと汗をかいていた。

「お、さーちゃん、こんな時間から店にいんのは珍しいねえ。なんだい? 今日はさーちゃんがオジサンにお酌してくれるのかい?」

「うるせー。とっとと死ねクソジジイ」

「はっはー、こりゃどうも。いやー、さーちゃんももうちょっとオンナノコらしくすればいいのになー」

「焼酎ぶっかけて燃やすぞ」

 常連の軽口を適当にあしらって、また往来に目をやると、ひときわ目立つ人影が一つ。漂白したみたいな真っ白いワンピースに、ゴテゴテと飾りのついた麦藁帽。気取ったハイヒールでぴんと立つあのくるくる髪の女は――――

「お、マキゲ」

 ぽろっとこぼすように言うと、向こうも気がついたらしく、こちらを見ると露骨に『げっ』という顔をした。

 優雅じゃない顔だな。

 バッチリ目が合ってしまっては今更通り過ぎづらいのか、んんっと軽く咳払いをすると、

「あらまあ、これはこれは転入生さんの保護者さんじゃありませんこと? ええと、さーちゃんさん、ですわよね? ごきげんよう、ですわ。うふふ」

 この女は高慢なしゃべり方をしないと死ぬ病にでもかかっているのだろうか。その巻き毛が爆発したりするのだろうか。見てみたい。

「いや、『庶民の名前なんかいちいち覚えてないお嬢サマ』アピールはいいって。二年間同じクラスで同じ部活じゃん」

「ぬぐっ……ふ、ふふん。どうやらやることもなくなっていたずらに午後を浪費している、といった感じですわね。いやですわねー。うら若き乙女がはしたない」

「そっちこそ取り巻きはどうしたんだマキゲお嬢様。親父さんが失脚して見放されでもした?」

「な、なななっ、なんっと無礼なっ! お父様は健在ですわよ! 口にお気をつけなさい、こんな貧相な酒屋、潰して更地にして差し上げるのは簡単ですわよ!」

「はん。あいにくあんたン家はあんたのひい爺さんの代からウチの酒呑んでんだ。店畳むなんて言ったらそっちから土下座して止めにくるよ。帰ったら親父さんに聞いてみな」

「ぬぐぐぐぐ……そ、そういえば先日の大会は残念でしたわねー。いやあ、いいところだったのにゴール直前でまさか両足同時に攣って沈むとは……ふふ、お気の毒ですわ」

「いやーまったく。その性格と同じようにねじくれた巻き毛をスイム帽に詰め込んでるうちに予選組の召集を逃したお嬢様の言うとおりで。あ、自分で持ってきた茶は自分の水筒に入れなきゃだめだよ。詰め直してあげたあたしの親切に感謝してほしいね」

「あなたの仕業でしたの!?」

「このクソ暑いのに温かいお茶とは物好きだねえ」

「ぐぎぎぎ……!」

 顔を真っ赤にして蒸気を吹き上げんばかりのお嬢様との不毛な睨み合いが数十秒続いたあたりで、きりきりと回る車輪の音が割って入った。

「あれ? あれあれあれま。さーちゃんにマキちゃん。わたし抜きで二人で遊ぶなんてひどいじゃないですか」

 なんとも的外れなことを抜かしながらしまりのない声で言うのは、あたしがなぜか保護者ということになっている転入生、つまりあいつだった。

「ててて転入生さん! あああ貴女先日はよくもあんな、あんな……っ!」

 宿敵の登場に露骨に平静を失うマキゲ。いや、元々平静ではなかったか。どうも画鋲の仕返しの恋文のことをまだ根に持っているらしい。しかしさっきとは顔の朱さの意味が違うように見えるのは気のせいか。気のせいであれ。

「うふふ、久々の熱筆でした。自信作です」

「よよよくもあんな人の心を弄ぶような真似をっ!」

「でも書いてあることはあながち嘘じゃないですよ? 『嗚呼、貴女の艶やかな御髪を指で梳いてみたい。其のカアルが揺れる度にやつがれの心までも弾むやうだ』……ふふ、指で梳いてみていいですか?」

「じょ、冗談じゃありませんわ!?」

 ああ、遊ばれてるなあ。

 こいつはこのきゃんきゃん言ってる奴の扱いを完全に心得てしまったようで、バケツの水をぶちまけられたときのような緊迫感はもう欠片も感じられなかった。マキゲ、ちょっとだけ哀れ。

「んで、町になんか用事?」

「ええ。ちょっとおつかい頼まれちゃいまして。でもあいにくとお目当ては品切れでした。現在とぼとぼ帰宅中です」

「ほー」

「そこでお二人さんで談笑しているところに出くわしたわけです。もう、仲間外れなんてあんまりじゃないですか」

「あれが談笑に見えたんなら眼鏡でも買うことを勧めるよ」

「まったく失礼な。誰がこんな性悪ツリ目と楽しくお話なんて。的外れにも程がありましてよ」

「あん? なんだとアタマにコロネぶら下げやがって。つーかあんたもなんか用事があったんじゃないの? あたしと違ってうら若き乙女らしく午後を浪費なんてしてないんでしょ?」

「む……えっと、そ、その通りですわよ! きちんとした用事が、その……」

 ……要はこいつも暇してたわけだな。まあ、運動部って暇が少ない分その暇が出来たときに使い道がぴんとこないってのは分かる話だけど。

「で、ではそろそろ失礼することといたしますわ。用事、そう用事がありますので」

「はいはい用事用事」

「あらら、マキちゃん帰っちゃうんですか?」

「そのマキちゃんって言うのやめてくださる?」

「いやです」

 ああ、ようやくうるさいのがいなくなる、というところで、あたしの後ろのガラス戸からコツコツと控えめなノックの音。振り返れば前掛けを着けた母さんが、丸盆を持って立っていた。

「西瓜が切れましたよ……あら、お友達?」

「あ、いや」

「おふたりとも、そんなところに立っていてはお暑いでしょう……どうぞ日陰に座って、食べていってくださいな」

「あ、あの、わたくしは」

「うちの娘、ガサツなところもありますけど、不器用なだけなんですよ。どうか、仲良くしてあげてくださいね」

 長いすに座るあたしの脇に切った西瓜を載せた盆を置くと、母さんはするすると引っ込んでいってしまった。

「えっと……」

 数十秒後、なんとも気まずげな顔で西瓜をかじるマキゲの姿が、あたしの隣にあった。うん、分かるよ。母さんのあの儚げな声で言われると断りにくいよな。逆隣にはしゃくしゃくと西瓜をほおばるあいつ。あたしも一切れ手にとってじゃくっとかぶりついた。

「……そんな大口開けて、はしたないですわよ」

「用事とやらはどうしたのさ」

「……」

「西瓜に塩ってわたしちょっと理解できないですね。甘さが引き立つって言いますけど、甘いもの食べたいのに最初に感じるのが塩っけって言うのはちょっと……」

「会話の流れってものを読まないねあんたは」

「えへへ」

「褒められてませんわよ」

「……」

 なんとなく、無言になる。しかしなぜだか、気まずいという感じはしない。フツーに険悪な相手が隣にいるはずなのだが、何なのだろう、この感じは。

 じゅいじゅいと、人通りもまばらな通りにあぶら蝉の鳴き声が充満して、裏の用水路で冷やしたらしい西瓜の冷たさが、口に心地よかった。昼下がりの日差しはいつの間にか橙の西日に変わって、風はラムネ色の涼しさを含み始めていた。

 そんな妙な静けさがしばらく続いた後、

「くす」

 と、隣のあいつが小さく笑った。

「なんですの、いきなり」

「いえ、なんか『いいなあ』って思って」

 いいなあ、か。なんだろう、認めたくないけど、確かにそんな感じ。認めたくないけど。

「何が『いいなあ』なんですの……まったく、なんでわたくしがあなた方なんかとこんな……」

「いいじゃないですか。ともだちってこんな感じ!」

 ……。『ともだち』、か。そういえば、あたしは別に人付き合いは苦手じゃないけど、『友達は誰?』と聞かれて『こいつです』と言えるような相手って、どうもピンとこない感じがする。こんな感じなんだろうか、『ともだち』ってのは。

「と、友達……だ、誰があなた方なんかと」

「ま、そーだね」

 きれいに皮だけになった西瓜を盆の上に戻して、マキゲが立ち上がる。

「わたくしはこれで失礼いたしますわ。転入生さん、あ、あの破廉恥な手紙の件、覚えていなさいよ!」

「はい。ばいばーい、です」

 あいつが後ろ姿にひらひら手を振る。マキゲは数歩行ったところでふと立ち止まり、こちらに背を向けたままでごにょごにょと歯切れ悪く言う。

「えっと、あの……『西瓜ご馳走様でした』と、お伝えくださる?」

 耳が朱くなっているのが見えて、くく、と笑いをかみ殺す。

「あいよ。伝えとく」


 マキゲの後ろ姿を見送った後で、隣でにこにこしているあいつに、あたしは呟くように言う。

「ねえ」

「はい?」

「今日の花火大会のことだけどさ」

「花火大会。ああ、そういえば今日ですね。久しぶりに二人で見ます? 懐かしいなあ、昔も一緒に見ましたよね。あのころはまだわたしの方が背が高くて……」

「いや、そうじゃなくて」

 あいつの台詞を遮ってあたしは言う。というか思い出を捏造するな。あのころもあたしの方が背高かったわ。

「だからさ」

「はい?」


「今日の花火大会、例の『雨宿りさん』とやらと一緒に行ってきなさい」


「……え? えええーっ!?」


 さて、『ともだち』ってのがどういうものかまだよく分からないけど、『ともだち』ってのは、たぶんこういうとき応援してやるもんなんだろ?



 ○



  実を言えば、あたしは中一以来花火祭には行ってない。めんどくささが勝って花火を諦めたわけではない。ただ単に、窓の向きで見えないなら屋根に登ってしまえ、という荒技を開発したため、わざわざ人混みの近くまで出かけなくても見れるようになったのだ。おばあちゃんには『父親と同じことをするな』と怒られた。マジかよ、父さん。

 だがまあ、今になって少しばかり後悔している。

 ちゃんとあそこまで行って見ていれば、またあいつに会えたのだろうか、なんて。

 だから今年の夏はあいつを誘って花火を見るつもりだったのだが、そこで出てきたのが件のサラリーマンのあんちゃんというわけだ。

 ま、一夏話聞かされてりゃあ嫌でもわかるって話。こちとら毎日のろけられていたようなものだ。どんなお話をしたとか何をして遊んだとかにこにこして話すもんだからなあ。

 もう幽霊だかサラリーマンだか知らんが、くっつけちまえって、そんな感じだ。

 大丈夫、勝算はある。あいつは派手さはまるでないが、そりゃあまるでないが、結構男子の人気は高いのだ。大勢の前に立つと転入当日のごとくテンパってしまうようなところはあるが、基本的に物腰柔らかで人当たりはいいし、セーラーの制服が一番似合うとかいう評価も聞いたこともあるし、マキゲのようにあしらわれてみたいというちょっぴりアレな層からの支持もある。

 そのサラリーマンがよっぽどのゲテモノ好きでない限りは、むしろ勝算は高いと言っていい。

 久しぶりに、実に四年ぶりにあいつと一緒に花火を見る機会を、どこの馬の骨とも知れないサラリーマンなんぞに譲ってやったのだから、それなりの成果は出してもらわないと困るぞ?

 それにしても、あいつとその『雨宿りさん』が、晴れてアベック誕生となればどうなるのだろう。

 たぶん、あいつは、今までにないような感情を抱いて、今までにないような表情を見せるのだろうな。恋愛とか初めてっぽいし。あは。楽しみ。

『雨宿りさん』とやらにあいつを取られるのはちょっと気に食わないけど、あたしはそれを見るくらいで満足してやろう。夏休み明け、成果報告させるから覚悟しとけよ?

 ……がんばれよ。暫定『ともだち』。


 なーんて。

 屋根の上で花火を見つつ、のんきに考えていたあたしはしかし。

 夏休み明けにあいつと再会することは、なかったわけで。


 まあ、ご存知の通り。


 

 〇



 八月三十一日。ほかの学校より一足早く、あたしらの学校の二学期は始まる。

 その始業式は、あいにくの大雨に襲われることとなった。

 校庭には大小いくつもの水たまりが出来、車軸を流すような大粒の雨が花壇のお花さんたちを無惨になぎ倒し、さすがの蝉の大合唱も雨の音にかき消されている。今日寿命が尽きたやつはさぞ無念であろう。

 こんな冗談のような大雨が降っているというのに、冗談のようなことにただいま発令されているのは大雨・洪水注意報。つまり登校義務ありだ。

 というわけで我々は各自文句たらたらながらこうして登校してきているわけだが、予鈴が響いから数分してもあいつの席は空席のままだった。なんだ、遅刻か? バスに乗りさえしていれば、あいつは学級でも結構早めに教室に着いているはずなんだが……この分だとバスを逃したか? それとも自己判断で自宅待機か……まあ、何にせよ、花火の日のことについてあいつに結果報告させるのは少々延期というわけだ。まったく。

 そんな風にあたしが頬杖をついて頭の中で不平を述べていたとき、教室の戸が、ばん! と勢いよく開かれた。ようやく担任が来たのかと思ったが、そうではなかった。

「て、転入生はっ、転入生さんはいやがりますかしら!?」

 息を荒くして言うのは、見るまでもない。今更あいつを頑なに『転入生』なんて呼ぶのは……うん。やっぱり。

 例の恋文事件以降、斜め上の勘違いをして、あいつと目が合う度に赤面して目を逸らすようになったマキゲさんだ。

 珍しく取り巻きも連れていない彼女は、教室の中をぐるりと見渡すと、あたしを見つけて、一直線にこちらに向かってきた。なんだなんだ。

「あなた、転入生さんの保護者ですわよね!?」

 保護者じゃねーよ。

「……何さ? 新しい嫌がらせでも思いついた? あいにく今あいつはいないよ」

「……! じゃあ、じゃあやっぱり……もしかして」

 ? 何を取り乱してるんだ? このかませ犬系お嬢様は。

「ちょっと、来てくださいまし」

 マキゲは返事も聞かずにあたしの手を取ると、引っ張るようにしてあたしを廊下に連れだした。

 教室が蜂の巣をつついたようにざわめきだしたのが聞こえる。

 ――――なんだなんだ? ついに酒屋の姉御とマキゲお嬢様の決闘か? さーちゃんがんばれー。お、俺はお嬢様推しだっ! はいみんな賭けた賭けたー。姉御に一票っ。

 などなど。アホかお前ら。賭けんな。

「……で。何?」

 外野のがやがやを聞き流しながら、若干うんざりしながら尋ねる。しかしマキゲの表情は、愉快そうな周囲の空気とは対照的に、ひどく真剣で、深刻そうだった。

「落ち着いて、聞いてくださいましね」

 落ち着いていないのはおまえだ。そう言ってやろうかと思ったが、それを口に出す前にマキゲの言葉があたしの軽口を封じた。


「今、彼女は行方不明ですわ」


 ………………は?

「えっ……と、何を――――」

「つい先ほど、職員室の前を通りかかったとき聞こえましたの。先生が彼女の家に電話をかけていましたわ。確かに聞きました。『家の方は既に出られたのですね?』と。それでわたくし、もしかしたらその間に転入生さんが登校してるんじゃないかと思って……でも、やはり来てはいなかったのですわね」

 家は出ている。しかし、来ているはずの時刻になっても学校には来ていない。つまりは――――行方不明。

「は、はは。何言ってんだ、あんた。恋文の仕返しとはいえ、いくらなんでも冗談が過ぎる――――」

「本当ですわ」

 本人も動揺しているのがよくわかる、それでいて強い口調だった。

「本当、ですわ」

 楽しげに見物していた周囲も、どうやら真剣な話をしていると察してか、徐々に静かになっていった。

 そんな風にみんな黙り込んで、いったいどれくらい経っただろうか。おそらく一分もなかっただろう。しかしあたしは、何時間も立ち尽くしていたような気分だった。しばらくして現れた担任の声でみんなは教室に戻され、それから、総合的に判断して危険だと思われるために、雨が弱まるのを待って一斉に下校となるとか長々と説明されたが、すべて頭を素通りして抜けていった。ごちゃごちゃな頭は、ひたすらあいつのことを考えていた。

 行方不明? また大げさな。遅刻だよ、ただの遅刻。

 あいつは、きっとバスに乗り遅れただけだ。

 今はきっとほら、バス停で雨宿りしてるんだ。

 それこそ、今頃例の雨宿りさんとふたりで楽しくおしゃべりしてるかもしれないぞ。

 はは、きっとそうだ。

 きっと、そうだ。


 

 〇



 葬式の間のことは、ほとんど覚えていない。何を言っているのかさっぱりわからない坊さんの経を上の空で聞き流して、ただ、呆然としていた。

 始業式の翌日、あたしたちは全校集会で校長からそれを聞かされることとなった。事故死、と、それだけが伝えられた。

 後から聞いた話では、落雷による感電死、だったそうだ。

 覗いた棺桶の中のそれには傷一つなく、きれいで、穏やかだった。

 あいつのご両親は、まるで生気を抜かれたように、無言でぽろぽろと涙を流していた。周囲からは、級友たちのすすり泣く声も聞こえる。

 ……落雷。落雷、か。

 そんなどうしようもない、理屈も何も通用しないようなものに、突然あいつは連れて行かれてしまった。

 何の因果関係もない。誰を恨むことも出来ない。ただ世界からあいつが引き算されただけ。あたしに何一つ関係ないところで、あいつはいなくなってしまった。

 ほんとうに、何をどうしようもない。

「………………」

 あたしは斎場を出る。あの日とはうってかわって、憎たらしいほどの晴天だった。本当に、憎たらしいほどの晴天だった。

 空を睨みつけて、視線を前に戻すと、景色がぐにゃりと歪んで、滲んで見える。

「…………あれ?」

 ぼろぼろと、両目から流れ出したものが頬を濡らす。それはぬぐってもぬぐっても止めどなく、あふれて止まらなかった。

「…………」

 両親は、十七年もの間、あいつのそばにいた。それに比べてあたしはどうだ。全部ひっくるめても、せいぜい三ヶ月にも満たない。

 たったそれだけ。

 それだけの付き合いで。

 それだけの関係だ。

 なのに、この頬を濡らすものは。この胸を引き裂くものは。

 心の底から、噴き出すものは。

 あたしは、馬鹿馬鹿しいことに、このときやっと実感したのだ。


 ああ、あたしたち、ちゃんと『ともだち』だったんだなあ。


 それからは、止まらなかった。しゃくりあげて、嗚咽を漏らして、人目もはばからずに、泣いて、泣いて、泣いた。

 温かくて、冷たくて、痛かった。

 何度も、何度も、あいつの名前を呼んだ。

 それでもやっぱり、二度とあいつに、手は届かなかった。

 


 〇


 

 おかえりなさい。

 どうでした? うまく語れたかどうかはわかんないですけど、あたしとあいつの話はこれで終わりです。

 ちなみに、今は春です。語り始めたときからずいぶん経っちゃいましたね。

 もちろん蝉なんか一匹も鳴いちゃあいないけど、それでもあいつを思うとき、あの夏の温んだ風を、ふと感じるんです。馬鹿馬鹿しいけど、笑えるほどにはっきりと。

 改めて、あたしの話はここで終わりですけど、今日、三月九日が何の日かと言えば、まあ分かるでしょう?

 卒業式。今はその朝です。学校に行く前に少し、いや、かなり遠回りして、件のバス停に向かっているところです。

 ほら、言ったでしょ。あいつを呼びにいこうかと思ってるって。

 そりゃああたしは幽霊なんか見えないけど、もしかしたらまだ、そこにいるんじゃないかな。って。

 雨宿りさんとやらがまだいるかは知らないですけど、いるんだったら今日一日くらい、あいつを貸してもらいましょう。

 その話をおまけに付けて、今日のところは、終いにしましょう。それじゃ、お達者で。



 〇



「よう」

 あたしは、無人のバス停に呼びかける。

 あいつに聞いちゃあいたが、初めて自分の目で見るそれは、予想以上にぼろぼろで、周囲には草が生い茂り、トタンの屋根は春の陽気に開いた花に彩られていた。何だこれ。ほんとに使われてるのか?

「…………久しぶり。元気してた?」

 いやいや、死んでるって。誰もいないから自分でつっこみを入れる。

 周り、人いないよな。まあ、滅多なことがなきゃ人が通らないとは聞いているけど。

 ええい、もう完全にいる前提で話すからな。

「あー、っと。あんたさ、今日、何の日かわかる? 卒業式よ、卒業式」

 無人のバス停は応えない。

「だからさ、今日くらい学校の方に来てみない? あんたの席は、ちゃんと取ってあるから」

 無人のバス停は応えない。

「さすがに卒業証書があるとは思えないからさ、せっかくだから、書いてきた」

 無人のバス停は応えない。

「マキゲのやつとふたりでさ。あいつ、すっげー達筆なのな」

 無人のバス停は応えない。

「ちゃんとリボンで縛ってある。ここ、置いとくからな。飛ばされないように持ってろよ」

 無人のバス停は応えない。

「……じゃあ、あたし行くから。来るなら勝手に後ろでもついて来なよ」

 無人のバス停は応えない。

 でも、エンジンの音が、聞こえた。

「……!」

 あいつが毎日乗っていた例の路線バスが、がたがた揺れながら、道の向こうから走ってきた。時刻表を見てみると、十分も早かった。

「ははっ……聞いてたとおりだね」

 苦笑する。そうだ、どうせなら今日はこれに乗っていこう。

 あたしの前で停車したそれが、間抜けな音を立ててドアを開ける。

 乗車口に足をかけ、車内に足を踏み入れようとした、そのときだった。

 あの優しげな空音が聞こえたのは。



『ごめんね、さーちゃん。ありがとう』



 あの夏の風が、後ろからさあっと吹き込む。振り向いたその先、乾いた地面に、小さな水たまりが出来ていた。

 バス停のベンチに置いた手作りの卒業証書は、風に煽られたのか、いつの間にか消えていた。

「…………はは」

 ドアが閉まる。

 あたしは、一人掛けの座席に腰を下ろした。

「あーあ、フられちゃったか」

 まあいい。今、はっきりと分かったから。

 ふと、自分がわずかに微笑んでいることに気づく。

 鏡で確かめるまでもない。きっと今、あたしの顔には、あの表情が浮かんでいるのだろう。あの夕焼けの、微笑みが。


 いつか時間が、あたしもそこへ連れていってくれるだろうから、

 それまでほんのちょっとだけ、待っていてもらおうか。

 古びたバス停。蝉の残響。



 記憶をくすぐる、夕立の残り香。



〈了〉

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