炎天に滲む
「ねえ、雨宿りさん」
うっすらと下草に生じた朝露が、朝から随分と景気のいい日差しにきらめいている。
しかしこうも毎日同じ景色ばかり見ていると、曇りや雨の日のことが思い出せなくなるな。
「雨宿りさん、ねえってば」
これから昼になれば暑くなって、バスが四回通り、夜は熱帯夜。笑えるほどに空は綺麗だが、入道雲くらいあった方が風流だと思う。
「古典的いじわるですか? それとも目パッチリのまま居眠りですか?」
ここから見る景色にはもう飽きた、と。最後にそんな風に考えたのはいつだったかな。今はもう飽きも通り越して何も感じなくなった。うんざりすらしていない。うんざりする事には、随分と前にうんざりしてしまっていた。
「……ちょっと、からかうにも度が過ぎますよ」
しかしどうだろう、景色も季節も変わらないというのは、もしかすると幸運なことでもあるんじゃないか? 仮に冬が来たとして、俺はこの辺に毎年降る豪雪に耐え得るような服は持っていない。今着ているスーツとシャツだけだ。夏の日差しにはちょいとばかり暑いが、冬の寒空に放り出されたらひとたまりもない。一夜で凍え死ぬんじゃなかろうか。
うんうん、そう考えれば少しは……いや、毎日同じなら、せめて春か秋がよかったな。俺は暑いのも寒いのも嫌いだ。
「あーまーやーどーりーさんっ!」
澄んだ高めの声が、不意に俺の意識に滑り込んだ。
「…………ん? なんか言ってた?」
横を見れば、涼しげな半袖のセーラー服を着た小柄な女の子が、こっちを見てむくれている。
「『ん? なんか言ってた?』じゃないですよ! 五言も無視してくれやがりまして、一体なにをぼーっとしてたんですか!?」
「ああ、ごめん考え事してた」
「むー。まったくもう……」
ぷいっとあっちを向いてしまう女の子。ちいさなほっぺがぷうっとふくれている。思わずつっつきたくなったが、怒られそうなのでやめた。
それにしても、話しかけておいてそっぽを向いてしまうというのはどうなのだろうか。やっと相手が聞く態勢に入ったというのに、本末転倒という気もする。もっとも彼女もそれに気づいたようで、若干うつむきがちに、恥ずかしげに顔を赤らめてこちらにまた向き直った。
この子はずぶ濡れちゃんという。
……うむ、紹介になっていないな。
しかし俺は、この子についてほかの情報を持ち合わせていないのだ。本名も知らない。しかもずぶ濡れちゃんというそのあだ名すら俺が勝手につけたものなので、実質この子のことは何も知らないに等しい。わかっていることといえば、現状、俺とずぶ濡れちゃんは友人である、ということくらいだ。
「そ、それにしてもわたし、聞こえないような声で話しかけたつもりはなかったのですが。それが聞こえないほど真剣に、一体何を考えていたんですか?」
朱くなった顔を前髪で隠すようにしながら、ずぶ濡れちゃんは言う。微笑ましいなあ。
「いいや他愛のないことだよ。単にまだ若干慣れないだけさ。人に、話しかけられるってことにね」
「ふーむ。まあ、ずっとひとりぼっちだったわけですしね」
「んー。その通りだけどなんか心に刺さるなあ」
そう、俺はつい最近までひとりぼっちだった。圧倒的にひとりぼっちだった。
ひたすら繰り返す炎天下の夏の日に、たったひとり、憎たらしいほどの晴天をにらんでいた。
凍え死ぬ、ね。我ながらちゃんちゃらおかしい妄想もあったものだ。
一度死んだ人間が、死ねるものか。
ずぶ濡れちゃんが口を開く。
「雨宿りさんは幽霊さんなわけですけど、やっぱり相当長い間ここに居たわけですよね」
幽霊さんなわけですけど。その言葉が示すとおり、俺が死んでいることは彼女と俺の間での前提だ。
ちなみに雨宿りさんとは俺のことらしい。出会った日に雨が降っていたかららしいが、そもそも俺にはその雨は見えないのだ。
死んだ人間である俺が見ている景色は、俺が死んだその日で止まっている。生き物が通る、草が生える。そんな目の前の出来事は見えるのだが、どうやらあの空だけは、いつまでもあの日を繰り返しているようだ。天気はずっと死んだ日の晴天のまま。気温の上下、夕焼けの色、一日に一度だけ通るちぎれ雲の形にいたるまで、あの日をなぞり続けている。
出会った日も俺の記憶の中ではカンカン照りなので、『雨宿りさん』などと呼ばれるのは、しっくりこないというのが正直な感想である。彼女が気に入っているのならそれはそれでいいのだが。
「うん。そうだよ。空は相変わらず変わらないけど、その辺の下生えから木が一本伸びるくらいの時間はあったかな」
ふむふむ、なるほど。と顎に手を添えて頷くずぶ濡れちゃん。前から思ってたけどこの子の一挙一動は、そのときそのときに読んでいる本の影響をかなり受けている気がする。最近は推理系かな? 読んだことないけど。
ずぶ濡れちゃんは好奇心に瞳を光らせて言う。
「じゃあじゃあ雨宿りさん、ずばり、この辺で昔と一番変わったところって、どこですか?」
「変わってないよ。全然」
かくん。肩を落とすずぶ濡れちゃん。
「つまんないですー。田舎ってそんなものなんですか?」
むう、せっかく地元に興味を持ってもらったようだけど、出鼻を挫いてしまったかな。でも仕方ないだろ。変わってないんだから。
「はは。このきみが言うところの『ド田舎』が、時代の流れと正比例して変わっていくのなら、たぶん今この辺に田んぼはないよ。隣町とくっついてるんじゃないかな」
むー。と眉を寄せていたずぶ濡れちゃんだが、納得したようにこくりと一つ頷くと。
「そうですね……この辺のひとたちが昔から変わらず農業に従事していてくださるからこそ、我が家の毎日のおいしいご飯があるわけですもんね。うん、そう考えれば。いいですね、昔ながら。ビバ・農村ですね!」
……なんか変な逆転の発想を身につけていた。あと『びば』って何だ?
「まあ、変わったと言えば、毎日ここを通るバスの時間のズレが、日に日にひどくなっていくってことかな」
「あれ悪化していってるんですか……」
はあ。とずぶ濡れちゃんはため息をつく。聞けば彼女、都会から越してきたらしいし、田舎の世知辛い情勢にはあまり馴染みがないのだろうな。俺が生きていた頃も、大人になっていくに従ってみんなどんどんここを離れていった。同級生然り、潰れた農家然り、十年来のお隣さん然りだ。ここから隣町に就職した俺は、わりと珍しい方だろう。
「あ」
と。ずぶ濡れちゃんは何かを思いついた様子。くるりと一周バス停の中を見渡して、こちらへ向き直る。
「ーーところで、ここって結局、なんていうバス停なんですか?」
……バス停の名前、ね。
久しく考えたことがなかったな。
確か、あの日が最後だったか。
「さあ? 俺が最初にここに来たときにはもう名前んとこハゲてたしねえ」
そんなふうに投げやりに答えて、俺は晴天を仰ぐ。
――――これは、俺という人間が……いや、今の俺を人間と呼ぶのかはわからないけど。
ともかく俺という奴が、どれだけ嘘吐きで、カッコつけの弱虫かっていう話だ。
すれ違い続けたふたりの、嘘吐きの側の物語。
あるいは、炎天に滲む陽炎の向こうの、帰らない夏の物語。
朝から騒ぎだしたクマゼミの声が、いやに耳にこびりついていた。
今日も、あの日も。
〇
その朝が、いつもと何か変わっていたかと言えば、そんなことはなかった。
いつも通りに小鳥はさえずり、いつも通りに気の早い蝉がミンミン言い始めている。
俺はバス停のぼろっちいベンチに腰掛けて、今日はどう暇をつぶすかを考えていた。
楽しいことをして過ごす一日は短く、仕事など面倒なことをして過ごす一日は長く感じるという。それに対して、だらだらと過ごす一日というのは、終わった瞬間に消滅する。何も考えずにぼーっとしていると、いつの間にか一日が終わっていたりするだろう。そんな感じだ。
無為に過ごす一日は蓄積しない。すぐに時間感覚を失い、日付感覚を失う。最初の数年こそ日付をまじめに数えていたりした俺だが、だらだらな生活(死活?)を続けた結果、今はもう自分がどれだけの間ここにいるか、皆目見当がつかない。毎日毎日、無為で非生産的に生きている。もとい死んでいる。つまりは、常に退屈なのだ。
あ、でも昨日は面白かったな。夕方くらいから低いツバメが、何羽もバス停の前をかすめて飛んでいった。
ツバメは好きだ。空を切り裂いて飛ぶような形の翼がカッコよくて、子供の頃から見かける度に目で追っていたものだ。またこういうことがあると、ちっとは暇つぶしになるんだが。
しかし、確かツバメが低く飛ぶって何かあったような……なんだっけか。
そんな風に、いつものごとくどうでもいいことに頭を悩ませ始めたときだった。
ぴちゃぴちゃ。
と、俺の横で、水が滴るような音が響く。
ぼーっと中空を眺めている俺の隣に、いつの間にか誰かが立っていた。少し荒い息づかいが聞こえている。
「…………」
横目で見れば、そこにいたのは一人の女の子だった。頭のてっぺんからつま先まで、ずぶ濡れの女の子だった。
女の子は、スカートの裾を軽く絞る。ぴちゃぴちゃと、雫がバス停の埃っぽい床に落ちた。
ああ、なるほど、さっきのはこの音か。
彼女は軽く肩で息をしていた。ここまで走ってきたのだろうか。まあそれに気が付かない俺も、相当だな。
さてと。
俺はまた視線を正面に向けて、この来客がどれくらいぶりかを概算する。が、すぐに諦めた。もはや大まかな時間すら見当がつかない。体感時間で考えるには余りに長すぎた。まあともかく、それくらいぶりの来客である。
ぺたん、と女の子は俺の隣、ベンチの端っこに腰掛けた。
それを横目で見る俺の視線に気づくと、彼女はこちらににこりと笑いかけた。
「……や、おはよう」
とりあえず、そう挨拶してみる。
女の子は、自分の着ているびしょびしょの服に視線を落とすと、軽く苦笑いした。
「おはようございます」
濡れて光る頬に穏やかな微笑を浮かべて、彼女は言う。澄んだ柔らかい声だった。頬に張り付いた一房の髪から、雫が一筋流れ落ちた。
一瞬、言葉に詰まる。こういうところは、昔から成長していないらしい。だめだなあ、俺。
俺は誤魔化すように言う。
「あ、ああ、ごめんよ。ベンチを独占しちゃって。そんな端っこじゃ狭いだろう」
鞄をバス停の隅にほうって、あわててベンチの右側にずれる。ベンチの足に踝をぶつけた。
「~~~ッ」
「あ、どうも」
「……いえいえ」
頑張って大人っぽい声を出して、笑いかけて見せた。くそ、痛ってぇ。
俺はまた前を向く。無理しているのがばれそうだったので。
「……」
痛みをこらえて涼しい顔を作る俺の横顔に、ちらちらと隣からの視線を感じる。なんだ、見られてるな。すごい見られてるな。よせ、じろじろ見るなって。やばい、顔が朱くなりそうだ。なんだこの子。そんなに熱視線送るなって。最初横目だったのに今もうがっつりこっち向いてるし。観察されてる。なんだ、俺なんかヘンか? やせ我慢バレバレか?
「…………」
いやしかし、俺がヘンかどうかよりも、明らかに向こうに不審な点がある。
久々の来客に動揺して突っ込めずにいたが、さすがに看過できないぞ。
俺は、彼女の方に向き直る。
「……っ」
思ったよりも顔が近くにあってびっくりした。や、やめろよ、こちとらオンナノコ耐性皆無なんだから。
いやいや、それはいいとして。
「きみ……全身ずぶ濡れだけど何かあったの?」
そう、それだよ。尋常じゃなく汗かいてるってわけでもなさそうだし、そのまるで水に落ちたか豪雨に降られたかみたいな格好はなんだ? まさか古典的いじめか?
そんな俺の心配をよそに、女の子はきょとんと首を傾げて言う。
「……? いや、この雨で濡れたに決まってるでしょう」
「……雨?」
雨……ねえ。
俺は空を見上げる。通り雨も降りそうにない晴天だ。この子は一体何を言って……あ。
「ああ……なるほど」
不審な点があるのは、やっぱりこっちだったようだ。
思い出したぞ、ツバメが低く飛ぶときって……
はは、そうか。
今日は、雨が降っているんだなあ。
見渡す限り、青空の広がる雨の日に。
そんな風にして、俺はずぶ濡れちゃんと出会ったのだった。
〇
ずぶ濡れちゃんに、俺が死人だと知られてしまったときの気持ちを一言で言うなら、『あー。もう終わりか』だ。
短かったなあ、本当に。たったの二回しか話していないというのに。
しかし俺、怪談なんぞになっていたとはな。俺は死んでからほとんど人間なんて見ていないのに、向こうからは見えていたのか……まったく。どっちが幽霊かって話だ。
ともかく、半ば放心状態でふらふら帰路につくずぶ濡れちゃんの背中に、多少、いやかなり暗鬱な気分で『さよなら』と呟いたものだった。本当に久しぶりに誰かと他愛のないおしゃべりをして、笑いあって。だから本当に名残惜しかった。
しかし同時に、俺はほんの少しだけ、ほっとしていたんだ。
彼女と出会ったことは、俺の中の何かを少しずつ変えてはじめていた。まず、今までずっとひとりだった俺は、ひとりの時に誰か違う人間のことを考えるようになった。ずぶ濡れちゃんのこと、その周りの人間のこと、記憶の向こうに霞んだ、たぶん俺が死ぬ前に出会った、誰かのこと。
死んでから数十年、ただただ存在するだけで、時間を浪費してきただけの俺は、誰かのために時間を使うようになっていたのだ。
その変化は、数十年なにひとつ変わらなかった俺の中の、小さな一つの塊を壊していく。
その塊の中には、きっと大切なものが入っていて、そして俺は、それがあることを知るのが、怖かった。
だから、ずぶ濡れちゃんの背中を見送ったとき、思ったんだ。
俺は知りたくない何かを、知らずにすんだんだと。
だから。
今朝、何食わぬ顔でバス停に姿を現したあの子を見たとき、俺がどれだけ驚いたかわかるだろうか。
変わりたくないし、知りたくもない。だからこれでよかったんだと、ひとり納得したくせに。
幽霊の俺と友人になったことを、『とっても素敵だ』なんて言ってくれたとき、どれだけ嬉しかったかわかるだろうか。
そして今、俺の未練が見つかるまで、一緒にいてくれるなんて約束してくれて。
俺がどれだけ幸せだか、わかるだろうか。
俺の隣で、カブトムシ相撲の決着を見て目を輝かせている彼女の横顔を見る。
ほんの少しだけ日に焼けた幼さの残る顔。そよ風に揺らぐふわふわした髪。膝の上の水泳バッグから微かに立ち上る、塩素の匂い。
「…………」
たぶん、何も考えていなかったと思う。本当に、気づけば、という感じだ。
そう、気づけば、俺の左手が隣に座るずぶ濡れちゃんの頭を、くしゃくしゃと撫でていた。
くしゃくしゃと。なでなでしていた。
「……? ~~~~っ!? え、あ、えっと。あ、雨宿りさん……!?」
あわてたような彼女の声と、指先にからまる柔らかな髪の毛の感触、そして微かに感じるその体温に、俺ははっと我に返る。
「……わ。ごめん。つい」
「つ、ついって…………!」
その声は驚きに震えている。うわあ、やばい。
「その、今のは……えっと、ご、ごめん」
「いえ、あの……えっ……と」
ずぶ濡れちゃんは口ごもってうつむいてしまった。微かに肩がぷるぷる震えている。
うわあ、やっちまった。バカか俺は。知り合って数日のオンナノコの頭をいきなり撫でるとか、変態か。痴漢か。やばい。イヤだったよな。なにこれ、泣かしちゃった? とりあえずもっと真剣に謝るべきか? そうだ、謝らないと。許してもらえるかは別としても。なにやってんだよ、俺。
「あー。その、ほ、ほんとに――――」
「あの……!」
こっちの言葉が出るより前に、ずぶ濡れちゃんが声を上げた。うつむいたままで。自分の出した声の大きさに、若干びっくりしている様子だった。
「えっと、その………………」
彼女は数秒ためらうように口ごもってから、すっと、頭を差し出すように体をこちらに傾ける。
えー、っと……これは?
「あの………………ど、どうぞ」
うつむいて垂れた前髪の隙間から、真っ赤になった顔が見えた。
………………マジか。
「……は、はい」
今度は緊張でガチガチになりながら、ぎこちなくそのふわふわした髪をもう一度撫でる。指に感じる体温が、さっきより若干熱いような気がした。
…………。
この子は今、生きているんだなあ。
手のひらから伝わるその感触に、ふと、俺はそんなことを考えた。
俺の中で壊れていく小さな塊の中にある何かは、まだ見えない。
だけどいつか、ずぶ濡れちゃんとの時間が、それを探し出してしまうだろう。
俺は、知らなきゃいけない何かと、向かい合うことになるだろう。
変わるのは怖い。知るのは怖い。
それでも俺は、そのときが来たら、ちゃんと向かい合おうと思った。
変わることを、受け入れようと思った。
たとえそれで、ずぶ濡れちゃんとの時間が終わることになってもだ。
だって俺は『今』、ずぶ濡れちゃんと一緒にいたいから。
「あああ、あの……そろそろ、いいですか?」
「あっ。ごめん」
その感触とあったかさが、ちょっとだけ名残惜しかったのはナイショだ。
〇
ぷしゅー。と、いつも通り間抜けな音を立てて、おんぼろのバスがドアを開ける。
いつもより倍は重そうな荷物を持って、ずぶ濡れちゃんがよろよろと立ち上がった。
今日は水泳の地区大会とやらがあるらしく、備品やら何やらを運ぶため、今日の彼女は大荷物なのだ。
ずぶ濡れちゃんは荷物をバスに引っ張りあげようと悪戦苦闘しているが、ずるずると引きずるばかりでうまくいかない。どころかつやつやした高そうなスポーツ用の鞄が砂利道にこすれて、正直見ていられなかった。
「よっ」
「……っ!?」
俺は彼女の後ろから手を伸ばして、彼女の手から鞄の取っ手をすっと取り上げる。うわ、ほんとに重いじゃないか、これ。
ちょっと勢いをつけて、なんとかうまくバスの中に放り込んだ。ずぶ濡れちゃん、きみ、これを持ってここまで歩いてきたのかい?
当のずぶ濡れちゃんは、急に後ろから荷物を持っていかれたのでびっくりしているのか、前を向いて固まっている。
大きな荷物を持って、大会に出かけるというずぶ濡れちゃん。俺は激励を込めて、ぽんとその両肩に手を置いた。
「いってらっしゃい。がんばれよ」
ずぶ濡れちゃんは前を向いたまま、心なしうれしそうな声音で、
「はい、いってきます」
と、そう言った。
ぷしゅー。
もう一度聞き慣れた音を立てて、バスのドアが閉じる。
彼女を乗せたバスはぶるるとうなり声をあげて、ろくに舗装もされていない砂利道を、ガタガタと走っていった。
「…………ふう」
俺はまた、ベンチに腰を下ろす。
よく考えたら鞄を放り込んだときの俺、運ちゃんが見てたらどういうふうに見えたんだろな……
ずぶ濡れちゃんがいなくなったバス停で、今日も俺はひとりになった。
さてさて、あの子が帰ってくるまで何をしようか。
そんなことを考えている自分に気がついて、俺はひとり苦笑を漏らす。
――――俺は今、誰かを待っているんだなあ。
ほんの少し前まで、俺はここに存在しているだけだった。止まった景色の中で、過去も未来もなく、ただただそこにいるだけ。
しかし、今の俺には理由があった。待っている。誰かを待っているんだ。ただそこにいるだけで、俺は自分の理由を持つことができるんだ。
そんな当たり前のことを喜べるくらいに、実はずぶ濡れちゃんと出会う前の俺は、不幸だったのかもしれない。
……不幸?
不幸。不幸。不幸、ねえ。
そんな風に考えたのは初めてだった。
俺は死んでから何十年もの間、ただ存在しているだけ、という状態だったけど。時間が経ったことすらろくに感じない、何も感じないような状態だったけれど。どうだろう、もしかしてそれって、ものすごく不幸な状態だったんじゃないか?
何も感じないというのはつまり不幸も感じないということになるだろうけど、生きる中で感動がなにひとつないと言い換えればどうだろうか。やはりそんな人生はまっぴらだ。なぜかって、そんなの幸せじゃないから。
幸せじゃないってことは、不幸だってことだ。
つまり、俺は不幸だったのか。
……ふーん。そっか。俺は不幸だったんだ。不幸であると気づけないほどに。
じゃあ今は? いや……聞くまでもない。
俺は今、幸せだ。胸を張って言える。
そして、その幸せは、ずぶ濡れちゃんと出会って始まった。
ずぶ濡れちゃんが、俺を幸せにしてくれたんだ。
………………。
じゃあ。
ずぶ濡れちゃんは?
「………………ずぶ濡れちゃんは、俺と出会って、幸せなんだろうか?」
ぽつりとつぶやいた言葉が、俺の中、まだ知らない大切なものを隠す壁に、確かにまたヒビを入れた。
「…………あれ」
いつの間にか、太陽は空のてっぺんにかかっていた。
ほんの数分のつもりだったんだけど、俺はそれほどの時間考え込んでいたのか。んー。やっぱりひとりぼっちの時間感覚は簡単には直らないもんだなあ。
「だいたい正午か。えっと、そろそろずぶ濡れちゃんの泳ぐ頃かな?」
そんな風にひとりつぶやいて、俺は空を仰ぐ。
見上げる空はどこまでも青く、雲一つない。あの日と同じ、晴天だ。
空はどこまでも広がっている。
だけどこの空の下に、あの子はいないのだ。
だってこの空は、あの日のものだから。
どれだけ二人がそばにいても、同じ空の下には、いられない。
雨宿りさんとずぶ濡れちゃんの間には、時間という距離が、どうしようもなく開いているから。
「…………?」
ちくり、と、胸の奥に何かが刺さる。
怪我? 病気? バカな。俺の体は変化しない。止まっている。そんなものがあるはずない。
だったらこの痛みは?
胸の奥、消えそうな声で叫ぶように疼く、この痛みは?
…………分かってる。体が痛いんじゃないんだ。もともと死人に体なんてありゃしないし。
そう、この痛みの、いや、この感情の記憶は、死んだ前にまでさかのぼる。死んでからの俺が、知らない感情。
そっか。そうだな。
「今俺、寂しいんだ」
小さな友人と会えなくて。小さな友人と、同じ景色を見れなくて。大事な友人を、行って励ましてやれなくて。それが痛いくらい、切なくて寂しいんだ。
俺の体は止まってる。だけど心は、動いてる。
「はは、女の子と会えなくて寂しいって、俺は
情けない。俺は死んで、こんなに弱虫になってしまったんだ。大人の仮面を被って、やさしくカッコよく振る舞って。結局、独りになりたくないだけだったんだ。弱虫でカッコつけで嘘吐きな、俺。
そんな俺を、俺はやっと見つけてあげられたんだ。
「……いってらっしゃい。がんばれよ」
彼女を送り出した言葉を、もう一度繰り返してみる。少しでも励ましてやれただろうか。ほんのほんの少しでも、俺は力に、なれただろうか。
この空が彼女に続いてなくたっていい。同じ景色を見れなくてもいい。いつまでも、この胸が痛いままでいい。
ただこの想い一つだけ。大切な俺の友人に、届け。
届け。
〇
甲高いヒグラシの合唱を突き破るように、エンジンの音が響いた。
見れば、ガタガタと揺れながら、ぼろっちいバスが夕焼けを背に走ってくる。時刻はすでに、午後五時半を回っていた。
俺は、立ち上がって出迎えたい気持ちを抑えて、バスが目の前に停車するのを見ている。
ずぶ濡れちゃんの前では、カッコよくて大人な俺でいなくちゃな。
開いたドアから、ずぶ濡れちゃんは後ろ向きに、荷物を引きずって出てくる。あ、コケそうになった。危なっかしいなあもう。
何とか荷物を運び出して降車した彼女は、そのまま砂利道を走り去るバスを眺めていた。
「…………」
バスを見送り、彼女が振り返る。今日ひとりの間ずっと、思い描いていた笑顔だった。
「……よう、どうだった?」
ベンチに座ったままで、俺は声をかける。俺の顔を見て、ずぶ濡れちゃんは優しげに目を細めた。
「はい。優勝は惜しくも逃してしまいましたけど、次の大会には進めました」
惜しくも逃したって……ほんとに部活で活躍してたんだな、この子。
「そいつは重畳。でも優勝は残念だったね」
「ええ、隣の子が意外な伏兵でした。あーあ、ちょっと欲しかったですねー。優勝杯」
優勝杯を狙えるほどなんだ……。
俺は以前この子のことを大人しめの文化系と推理したけど、ちょっと怪しくなってきたな。
「……いいじゃないか、来年もあるんだろ?」
そしてたぶん来年は優勝できると思うよ。順当に実力が伸びたら。
「まあ……そうですけど」
ずぶ濡れちゃんは苦笑いを浮かべる。でもそれはどこか、やりきった満足感のようなものが滲んでいた。
「――――あ、そうそう聞いて下さいよ」
彼女は俺の隣に座って、今日のことを報告してくれる。
途中までダントツだったのに、足が吊って首位を逃した親友が悔しげに『ヤケ酒だ』と呟いていたこと。
スタート係の禿げたオジサンの頭が、日光で激しく輝いていたこと。
ずぶ濡れちゃんへの嫌がらせに、水筒に熱いお茶を入れて、間違えて自分で飲んだかわいい(?)ケンカ友達のこと。
いろんな学校の水泳部を見て、やっぱりどこも日焼けはするんだと再確認したこと。
最後にとなりの子に負けてしまって、やっぱり悔しかったこと。
たくさんたくさん泳いで、へとへとに疲れたこと。
そんな風にいろいろな話を聞いているうちに、傾いていた夕日は森の縁にかかって、少しずつ夜が空を埋め始めていた。
「それで、ずぶ濡れちゃん。今日は楽しかったかい?」
ずぶ濡れちゃんは、にこりと笑う。
「――――はい。まあちょっと残念ではありましたけど、楽しかったです……よ……?」
そして、その表情が固まって、なにやら、戸惑っている様子を見せた。
「……ずぶ濡れちゃん?」
声をかけると、ずぶ濡れちゃんは俺の顔をちょっと見て、それから目を逸らす。
ん? なんで目ぇ逸らされた? 俺なんかしちゃった?
ちょっと心配になったが、単に夕日を見ていただけらしい。
その横顔は夕日を見たまま、穏やかに、そして、なぜか寂しげに笑った。
「いえ――――なんでもありません」
……なんでもないって顔は、してないぜ。
俺はそんな風に――――口に出さない。
ずぶ濡れちゃんの心は、ずぶ濡れちゃんのもの。彼女がなにかをそこにしまうと決めたのならば、俺にそれを聞き出す権利はないんだ。
他人の心は、わからない。だって、違う人間がふたりいるんだから。
それでいい。
「……そうかい」
俺も倣って夕日に目を向ける。森の輪郭を真っ赤に燃やすそれは、笑えるほどに美しかった。
となりのふたり、違う空。
こんなに綺麗な夕焼けも、となりの誰かとすら分かちあえない。
無言のふたりの間に、哀愁を含んだヒグラシの声だけがひたすら流れていた。
ああ、面倒だ。なぜ寂しさなんか思い出してしまったのか。ふたりでいる方が、よっぽど痛いじゃないか。
俺とずぶ濡れちゃんは、同じ方向の空を見上げ、違う夕焼けを見ている。それはもう、どうにもならない。だからそれは、仕方ない。
でもせめて。たったひとつだけ、悪あがきをしてもいいだろう? 願うくらいなら、いいだろう?
「ずぶ濡れちゃん……教えて欲しいんだ。今日は、晴れてるかな」
せめてきみの空にも、雲一つないことを。
「きみにも、同じ夕焼けが見えてるかな」
静寂の時間は長かった。ちらりと横目に見れば、彼女は、何かを諦めたような、でもそれでいて嬉しそうな笑みを浮かべている。
「……見えませんよ。雨宿りさんと同じ夕焼けは、見えません」
「…………」
はは、やっぱりだめだな、俺は。ずぶ濡れちゃんのほうがよっぽど大人じゃないか――――
「でも」
「…………?」
「きっと同じくらい、綺麗です」
「…………そっか」
なら、良かった。
俺とずぶ濡れちゃんは、同時に目を伏せる。それは諦めであり、納得であり、しかし時間の壁への、最後の抵抗だった。
きみは気付いてるか、わからないけど。
目を閉じれば、ふたりの景色は、同じになるんだ。
時間が俺たちを分かとうと、互いの姿が見えなかろうと、俺たちはこうして、そばにいる。
証拠にほら。ヒグラシが揺らす、夏の空気のその隙間。
確かに、きみの温度を感じるよ。
「――ずぶ濡れちゃん」
「はい?」
「……おかえり」
だから、これからどんなに寂しくても、俺はこうして、何度でもきみを迎えよう。
「はい。ただいま、です」
おかえり。大事な大事な、俺の友人。
〇
「こ、今夜……花火を見に行きませんか?」
なぜか顔を真っ赤にしたずぶ濡れちゃんにそう言われたとき、正直俺は、困った。なぜってそりゃ、ねえ。
「あああ、あの、今夜は、納涼花火祭があるんです。雨宿りさん、地元民だからご存じだと思いますけど。もも、もしよかったら一緒に……なんて……その……あぅ」
……参ったなあ。
実は俺は死んでから、一度も花火を見ていない。まずひとつ、毎日が全く変わらないので、花火大会がいつなのかもわからないからだ。
そしてもうひとつ、夏の空を彩る花火は、果たして俺に見えるのかと、そう思ったからだ。
花火は好きだ。その納涼花火祭だって、生きてるときは毎年必ず見に行っていた。自分だけの秘密の場所なんてのもあったくらいだ。
……だからこそ。
できれば、それは知らないままでいたいんだ。
俺は、目の前でぎゅうっと目を瞑って、返事を待っているずぶ濡れちゃんを見る。
……でもこれ、断れないよなあ。
「…………あーあ。ま、これもひとつのけじめってやつかな」
自分にしか聞こえないくらいの声で呟いたその言葉に、自分で引っかかる。
けじめ? けじめって、何の何に対するけじめだ? また少し、俺の中の塊にヒビが入ったような気がする。
何か、突き詰めるべきものなのかもしれないな……。うーん。
「……あ、あの」
俺があれこれ思案していると、空気に耐えきれなくなったのか、ずぶ濡れちゃんがおずおずと口を開く。
ほんの少し潤んだ目。朱に染まった顔。そしてうつむき気味に目だけで俺を見上げる。
「……だめ、ですか……?」
反則だろそりゃ。
八月二十二日、午後八時二十分ごろ。
俺は、ネクタイを抜きワイシャツの袖をまくり髪を乱して、という学生みたいな風体で、おろおろわたわたと混乱するずぶ濡れちゃんを眺めていた。
ちなみに彼女は今、薄紅色の地に二匹の琉金の泳ぐ上品な浴衣を身につけている。髪もお団子にまとめられて、なんというか、その、すごくいい。うまく言えないが。
そうそう、彼女が困惑している理由は、俺が大事な情報を伝えるのをすっかり忘れていたことによる。それというのは、俺が幽霊は幽霊でも、地縛霊であるという、身も蓋もない事実だった。
ずぶ濡れちゃんは、どうやら打ち上げ場近くの植え込みあたりで花火見物としゃれこむつもりだったようだが、あいにく俺の活動可能範囲は、山一つ。つまり村や町との境までだった。うん、地味に広いが、今は役に立たなそうだ。
いやあ、伝え損ねていた俺のミスなのだが、これはもう仕方ないかな。開始まであと十分。山の中から見える場所を今から見つけるのは、不可能だ。
………………。
あの場所、以外なら。
俺の秘密の、あの場所。
この子は、俺なんかのためにこんなに気合いを入れてきてくれている。誘ってくれたときだって、何でかは知らないけど、相当勇気を振り絞ってくれたみたいだ。
俺だけ、逃げてちゃあ、いけないよな。
「……仕方ないなあ、じゃあ俺が連れてってやるよ。俺だけのとっておきの場所に」
それを口に出した瞬間、一つ、あの場所についてのことを思い出す。
あ、そうだ。あの場所って確か……。
はは。
ま、好都合?
たとえ花火が見えなくとも、だ。
俺はずぶ濡れちゃんの手を取った。
林間を走り抜けてたどり着いたのは、森の中にぽっかりと開いた、大きな池。そう、ここが俺の秘密の場所である。
俺は横目でずぶ濡れちゃんを見やる。予想通り、呆然としていた。
そりゃそうだよな。ぽかんとするよな。当然だよ。
「こんなとこから見えるわけないじゃないですかっ!」
とか、言いたくなるよな。
「……せ、せめて少しでも始まる時間が遅れないでしょうか。その間に別の場所に……」
「無理だね。ここの花火は毎年八時半きっかりに一発目が上がるのが伝統だから」
「がっでむ!」
俺は腕時計を見る。あと、三十秒だ。
この場所は、実は打ち上げ場の裏。ぎりぎり山の中で、かつ一番近い。
花火が上がると、それは池に反射して、鏡写しに火花が踊るという、冗談みたいな場所だ。ここより眺めがいい場所はないと、断言できる。
俺は文句を言おうとしたであろう彼女を人差し指で制して、その指で視線を池に向けさせた。俺も池を見る。
はは、ずぶ濡れちゃん、きっと驚くぞ。
あと三秒。
保証する。きっと最高の眺めだ。
あと二秒。
……だから、せめてもう一度だけ。
あと、一秒。
俺も花火が、見たいなあ。
――水面に、花は開かなかった。
はっきりと、俺の中の塊が大きく欠け落ちるのがわかる。
「……! う……わぁ……っ!」
横では、ずぶ濡れちゃんが、感嘆の声を上げていた。
ーーよかった。きみには見えてるんだね。
「……学生の頃は毎年、こっそりここに見に来たもんさ。実はここは打ち上げ場の裏なんだ。ぎりぎり山の中だし、どこよりも近い」
「すごいです!」
「惚れた?」
「いえ」
「うわ、ばっさり」
俺は得意げな顔を作って、いつもの調子で軽口を並べる。なぜか、喋る度に、体から何かが流れ出ていくような気分だった。ちくちくと、胸の奥がまた痛む。俺は今、この子に嘘を吐いているんだ。思いやりなんかではなく、俺の中からこの笑顔を失わないように。
横にいるずぶ濡れちゃんは、水面を見て、うっとりしたような表情を浮かべていた。
「でも、正直この眺めにはベタ惚れです」
「……気に入ってもらえて何よりだ」
それはそれは、空虚な響きだった。
ずぶ濡れちゃんは、無言で空と水面に見入っている。俺も未練がましく空を見上げた。しかし、その火花の欠片すら、俺の目には映らなかった。
「…………はは、やっぱりな」
小さく呟く。
俺には、無理だ。
カッコつけの仮面を被るのでも、弱虫を隠すのでもなく。
自分の心を守るために、彼女を騙すなんて。やっぱり俺には、無理なんだ。
でも、彼女と一緒にいる限り、また嘘を吐かねばならないときが来るだろう。
だってそのとき、正直になって彼女を傷つけることは、もっと出来ないから。
俺の中で、向き合わなきゃならないことを隠す何かは、ぼろぼろと崩れ始めていた。
彼女が俺の様子が変わったことに気が付いたのか、声をかけてくる。俺は適当に話を逸らしては、曖昧に取り繕った。
「きっと君が来なければ、俺はずっとあそこで、独りぼっちだった」
ぽろりと、本心からの言葉が零れる。
「雨宿りさん……」
そう、独りぼっちの俺は、君の笑顔を知った。
きみの笑顔を見続けるためには、きみをまたいつか、騙さなきゃいけない。
さもなければ、傷つけなきゃ、いけない。
「雨宿りさん、見てください。ほら、あんなに大きくて赤い」
……それはきっと、正しくない。
「ああ、目が覚めるような赤だね」
ああ、そうだ。やっとわかった。俺は……
「……雨宿りさん」
「ん?」
「……花火、綺麗ですね」
「……そうだね」
ここにいちゃ、いけないんだ。
ぱきん、と。
向き合うべき何かを隠していた壁は、完全に砕け散った。
砕け散ったそれは――――
花火が終わったらしく、ずぶ濡れちゃんが立ち上がる。動かない俺に声をかけてくるが、もう何も聞こえなかった。
俺は水面を見つめて、ふっと笑みを零す。
「……そろそろだな」
これが、最後だ。
きみとの、最後の思い出になる。
「ほら、見て」
次々舞い上がる淡い光の玉。
再び驚きに染まる、彼女の表情。
もう一度噛みしめる、彼女といる幸せ。
ずぶ濡れちゃんとふたり、星空に浮いているような幻想的な光景の中で、俺は決意した。
自分を騙してまで隠していたそれと、向き合うことを。
俺は、自分の未練を見つけて、ここを去る。
〇
蛍をふたりで見た後、ひとりまたベンチに座った俺は、静かに目を閉じた。
ずぶ濡れちゃんは、次は始業式の日に来るという。だからそれまでに、答えを出すんだ。
死んでからのことが、死ぬ前のことが、そしてずぶ濡れちゃんに出会ってからのことが、次々に浮かんでは消えていった。
俺は考える。
何が俺を引き留める? 何が俺をこの山に縛る?
なぜちょうど山ひとつなのか。境の先に出ると何があるのか。
砕け散った嘘の正体。引っかかった自分の言葉。
けじめ。何にけじめをつければいいのか。
あの日に閉じこめられたわけは。
ずぶ濡れちゃんとの時間が、壊したものは。
俺は考える。
俺は考える。
俺は考える。
俺は考える。
俺は…………
…………
……
「…………そっか」
そして、目を閉じてから九日目の朝。
俺は目を閉じたままで呟いた。
「俺、本当は自分が死んだって、認めてなかったんだ」
何十年も、あの日に閉じこめられていた幽霊の、あまりに滑稽な未練の正体。
もはや未練とも言えないそれは、『生きていたい』だった。
一九六〇年八月三十一日。
ようやく、俺は死んだ。
土砂降りの雨が屋根を叩いている――――
〇
バスは、無人のバス停を通り過ぎた。ざあざあと注ぐ雨が、景色を霞の向こうに覆い隠していた。
俺は、目の前の少女を見る。
ずぶ濡れちゃんを見る。
たった今新しく生まれた、ずぶ濡れの幽霊を。
「えへへ、やっぱりわかります?」
ずぶ濡れちゃんは、恥ずかしげに苦笑する。死んだ本人にそんな顔をされたら、俺はどうすればいいんだ。
「……きみの体を見た」
俺が苦い顔でそう言っても、
「わたし、変な顔してませんでした?」
なんて。死に顔を見られたのが恥ずかしいとでも言いたげに。
「いや、ほとんど無傷だったよ」
「よかった」
彼女は本当に安心したように言う。そんな態度はまるで生きていたときのままで、少しずつ俺の心もほぐれていった。もしかしたら、そのためにずぶ濡れちゃんはこんな物言いをしているのかもしれない。
「この雨に気づいて、心配だから見に行ってみればだよ。当の本人は入れ違いでバス停のほうにいるし」
「あはは……」
「まったく、笑い事じゃないよ」
言いながら俺も、苦笑が零れる。彼女は、振る舞い全部で言っているかのようだった。わたしは、大丈夫、と。
「やっぱり……さっきの雷で?」
「はい。たぶん感電死したんだと思います」
ずぶ濡れちゃんは何でもないことのように言う。
「そう。なんにしてもご愁傷さま」
「実感、無いですけどね。一瞬だったし」
実際、正直なんでもないのかもしれない。俺がそうだったように。そうか。自分の死に対する俺の態度は、こんな風に見えたのか。
死んでみればこんなもん。
俺が言ったその言葉を、彼女も今味わっているのかもしれない。
「地縛霊になってなかったらだけど、自分の葬式くらいには出なよ?」
「お父さんとお母さんの泣き顔は見たくないなあ……」
「ダメだよ。区切りは付けないと。俺みたいになっちゃうぜ」
軽く冗談めかして、俺は言う。でも、正直なところ切実な思いだった。俺と同じような目にあって欲しくない。もしかしたらそれも、俺に言えるようなことではないのかもしれないが。
俺は、ずぶ濡れちゃんの頭を撫でる。あのときとは違って、濡れて冷えきった髪が指に絡んだ。それでも、やっぱりその奥に、確かに彼女の温度を感じた。
俺は、万感の思いを込めて言う。はっきりとは言えない。それは彼女の道を縛るかもしれないから。
それでも願いを込めて言う。頭を撫でる手に、ほんの少し力を込めて。伝われ、伝われと。
「俺みたいにずるずるとここにとどまってちゃダメだよ。きみがなにを探さなきゃいけないかはわからないけど、探すのをやめちゃダメだ」
ずぶ濡れちゃんは、俺の目をまっすぐ見つめてから、こくりと、確かに頷いた。
「……はい」
俺は小さく微笑む。これでもう、俺に言えることはもう無い。だからもうこれで――――お別れだ。
「じゃあ、もう行かないと」
その言葉と同時に、道の向こうから、またエンジンの音が聞こえてきた。
「え? ……何で――」
キョトンとするずぶ濡れちゃんの頭をぽんっと軽く叩き、俺は手を挙げてそのバスを出迎える。いや、俺が出迎えるんじゃない。あれが、俺の出迎えなんだ。
目の前に停車したのは、いつも見ているのと変わらないバス。ただ、ずぶ濡れちゃんがいつも乗っているバスよりも、若干新しいように見えた。
ん? いや、違うな。新しいんじゃない。むしろ古いんだ。
はは、だってこれ、俺がここからの通勤に使ってたバスじゃないか。
ドアが開く。
車内も全くそのまんまだった。革張りの座席、こぎれいな通路、ご丁寧に手すりに付いた傷まで。
俺は乗車口に片足をかける。
「雨宿りさん」
後ろから呼びかけられる。俺は振り向いて、彼女の方を見た。彼女はなぜか眩しそうに目を細めて、不安げな表情を浮かべていた。ずぶ濡れちゃんには、別な風に見えているのか?
ためらいがちに、ずぶ濡れちゃんが口を開く。
「……どこへ、行くんですか?」
「どこかへ」
そうとしか言えない。ここじゃないどこか。
「また、いつか会えますか?」
「……わかんない」
俺は正直に応える。もう、きみに嘘は吐かない。何一つ。
「……正直言えば、きみには幽霊なんかになってほしくなかった。俺みたいに、なってほしくなかった。何が、きみの人生のけじめになるのか、それは俺には分からない。だから、俺がきみに言えることは、何もない」
情けないけど、俺はもうなにも、きみの助けにはなれない。
だから言えることはないんだけど――――
「でも、話したいことは、まだいっぱいあるんだけどなあ……」
ああ、だめだ。もう俺はカッコつけることも、大人でいることも出来ない。ただただ、むき出しの感情を、言葉にするだけだった。
「ずぶ濡れちゃん、ありがとう。きみと過ごした最後の夏が、俺は本当に幸せだった」
そう。俺は幸せだった。
「きみが見つけてくれて、幸せだった」
でも、ひとつだけ、心残りなことがある。
……知りたかったな。
「それじゃあ……元気で」
きみは、俺と出会って――――
「雨宿りさん!」
彼女に背を向けかけた俺の手を、彼女のちいさな手がつかんだ。
「ずぶ濡れちゃん――」
その手は、わずかに震えていた。
うつむいたその顔は、何かをこらえるように口を結んでいる。
そして彼女は顔を上げる。まっすぐな視線が、俺を強く見据えていた。
濡れた頬をひとすじ、雫が伝う。
雨垂れ? いや違う。
だってつないだ手に落ちたそれは、こんなにも、温かい。
「わたしも、雨宿りさんに会えて、幸せでした」
一番聞きたかった言葉が、俺の最後の迷いを吹き飛ばす。
最後に、ふたりが浮かべたのは、やさしくて強い、微笑みだった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
不確かな約束をひとつ残し、こうしてふたりは、ひとりになった。
〇
ここじゃないどこかへ向かうバスの中。
俺は、一つの座席に腰を下ろした。
窓にもたれて、外を見る。あのバス停はもう遙か遠く、土砂降りの雨は、いつしか止んでいた。
俺は運転席の方を見て、その後ろ姿に声をかける。
「これから、どこへ行くんだい?」
前を向いたままの運転手は、応える。
「どこへでも行けるさ」
俺と同じ声だった。
「おまえはこれからどうしたいんだ?」
運転手が振り向いて尋ねる。
俺と同じ顔だった。
「さあ? これから考えるさ」
「……そりゃいいや」
――――どこへ行くのか?
どこかへ。
――――またいつか会えるのか?
わかんない。
――――これからどうしたいのか?
さあ? これから考えるさ。
……でも。
いつかまた、会いに行きたいな。
「ところでおまえさ」
「……ん?」
「鞄、忘れてきたぞ」
「げっ」
……俺はバスに揺られて、きみから遠ざかっていく。
ひとりぼっちのきみを残して、ここじゃないどこかへ行く。
いっしょのふたりはまた、ひとりとひとりになる。
それでもほら、目を閉じてみればすぐそこに。
きみの微笑みが、炎天に滲む。
〈了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます