夏、したたる。
ziggy
夏、したたる。
「――ところで」
わたしは、わたしの隣に座るサラリーマン風の男性に話しかけます。
「ここって結局、なんていうバス停なんですか?」
朝早くからの雨が青草を濡らし、ベンチに座るわたしたちの頭上でトタンの屋根を叩いていました。
「さあ? 俺が最初にここに来たときにはもう名前んとこハゲてたしねえ」
と、彼は答えます。
ふむ、つまりこのバス停は、相当前からろくに手入れをされていない、ということになるようです。
「運転手さん、頑なにバス停の名前アナウンスしませんもんね」
「へえ、この路線未だにそうなのか。運ちゃんも代替わりしてるはずなんだけどな。なにがしかの信念でもあるのかね? 伝統かな?」
「職務怠慢じゃないですか?」
「かもね」
となるといよいよ気になってきますね。この寂れたバス停の名前が。
彼もまたそうだったようで、隣を見れば腕組みをして思案顔をしていました。
つられてわたしも、バス停の名前が書いてあったらしい時刻表のあたりを眺めてみます。しかしそこにはかすかな名残が見て取れるだけでした。
しとしと。というよりは――ざあざあ。
夏特有の短くも強い雨が、ろくに舗装もされていない凸凹道の上に大小さまざまな水たまりを作っています。晴れの日の蝉に取って代わり、あたりの雑木林からの蛙の大合唱が、湿った空気を大いに震わせていました。
ふと上を見上げてみれば、裸電球の周りを一匹の蛾がぱたぱた飛んでいます。夜入ってきて取り残されたのでしょう。電球にくっついては離れ、くっついては離れて、光の中に鱗粉を散らしています。わたしは、そんな様子をぼーっと見ながら、ふと、口を開きました。多分、何も考えていなかったと思います。口から出かかった場を持たせるためだけのあてのない言葉は、しかし次の瞬間に、低いエンジンの音と道の向こうで上がる水飛沫に遮られて、口から出る間もなく忘れてしまいました。
見れば、雨粒にライトを反射させながら、バスがこちらに走ってくるのが見えます。
――楽しいおしゃべりの時間はおしまいのようですね。
「じゃ、いってきます」
わたしはベンチから立ち上がって、座ったままの彼にいつものあいさつ。彼も柔らかに微笑んで応えてくれます。
「ん。いってらっしゃい――おっと」
「ひゃぁっ!?」
バスが急ブレーキをかけ、飛沫がわたしのスカートやソックスをびしょびしょにしました。
「うぅ……」
「あちゃあ……ご愁傷様」
対してベンチに座った彼には一滴の水も飛んでいません。スーツには泥跳ねもなく、苦笑いを浮かべながらこちらを見ています。
「うい嬢ちゃん、早く乗んねい」
バスの中から、運転手さんがぶっきらぼうに声をかけてきました。さっきの陰口の意趣返しでしょうか。まさかね。
「いってきます」
もう一度ベンチの彼にそう声をかけて、わたしはバスに乗り込みます。彼はひらひらと手を振って応えてくれましたが、ドアが閉まるとその姿はガラスを流れる水滴ですぐにぼやけてしまいました。
朝早いこともあり、車内には誰の姿もありません。わたしは適当に座ると、うつらうつら船をこぎ始めました。学校まで少し、仮眠でも取りましょうか。
眠気でかすんだ目で外を見ると、ベンチに座った人影が小さくなっていくのが朧げに見えます。
わたしはガタガタ震える窓に頭をコテンともたれかけさせて、それを見えなくなるまで目で追っていました。
さてさて。
これはわたしと、あの陽気で、ちょっと意地悪なサラリーマンとの、他愛ない夏の記録です。
期待せずに、ご笑覧あれ。
○
『おはようございます。一九六〇年七月十八日、午前六時。全国の天気をお伝えします』
あれも、酷い雨の日のことでした。
わたしが母の実家が近いこのあたりに引っ越してきてから、一ヶ月ほど経った頃でしょうか。
わたしは普段、山一つ向こうの隣町の高校に、自転車で通っています。かなりの田舎ということもあって、全校生徒百五十人程度の少々小さめな学校です。
いつも多少の雨ならば気にせず自転車を漕いでいくわたしですが、その日は訳が違ったのです。
夜中から降り始めた雨は朝には本降りとなり、雨粒が激しく屋根を叩く音は室内まで聞こえていました。雨樋からは絶え間なく水が零れていましたし、池も瞬く間に溢れ、庭で鯉がのたくっているという有様です。
天候最悪。さらに極めつけには。
「これだけ降ってギリギリ警報出ないレベルっていうのが憎たらしいですねえ……」
ラジオから流れる無機質な音声は、未だわたしの住む地域において、大雨・洪水『注意報』しか発令されていないことを繰り返し告げていました。それが何を意味するかといえば――『警報が出ない限り生徒には登校義務がある』という、残酷この上ない現実です。
「うぅ……気象台の目は節穴でしょうか……台風ですよね、これ」
未練たらしくラジオに張り付いたままのわたしの耳に、階下からお母さんの声が響きます。
「いつまでラジオとにらめっこしてんのよ、いい加減降りてきなさい」
そんな殺生な。
……嗚呼、どうやら腹を括るしかないようです。観念して朝食に向かうとしましょうか。
「今行きますよ……お母様」
「はい? バス停……ですか?」
「ん。ずいぶん古いけどまだ通ってるんだって」
「それを使えと?」
「そういうこと。ほれ、地図」
「手書き……」
朝食の席での唐突なその提案は、しかしなかなかに魅力的なものでした。
わたしはちょうど、この豪雨の中、わざわざ雨合羽を着込んで山道を歩いていかねばならないのかと憂鬱になっていたところでしたので、もしバスに揺られているだけで学校まで行けるというのならば、それはもう議論の余地もありません。しかし――
「でもお母さん、そのバス、いつ出るんですか?」
問題はそれです。もし発車の時間が上手い具合に合えば、バスに乗る分多少家でのんびり出来ます。しかしここは相当に田舎ですし、バスなんて一日の本数でもたかが知れているでしょう。それを一本でも逃してしまえば遅刻は免れません。いつごろ家を出るか、それが大きく関わってくるわけです。
そんな、いたって真剣なわたしの問いに対して、お母さんはといえば――
「知らーん。だって私使ったことないんだもん」
――の一言。そりゃないでしょう。
だもん、じゃねえですよ。
「じゃ、どーするんですか」
「まあ、行き当たりばったり?」
「勘弁してくださいな」
うーん、今家を出れば、なんとか徒歩でも学校に間に合う時間なのですが。
しかしまあ、いかに雨合羽を着ていても、この雨では膝から下がびしょ濡れになるのは間違いないでしょう。しかも普段自転車で通っている道程を徒歩で行かねばならないわけですから、当然ながら楽な道のりではないはずです。その上これだけの雨。道は相当に泥濘み、一日二日では戻らないでしょう。
つまりはしばらく自転車通学は出来ないということで、バスを使わないならば数日は過酷な徒歩通学ということになります。
素晴らしい。筋肉痛確定です。がっでむ。
一方バスを利用するとどうでしょう。恐らくわざわざ合羽を着ずとも、バス停まで行くくらいならば、地図を見る限り対して濡れるほどの距離ではなさそうです。
ふむ、家から少し歩いてしばらく待っていれば、勝手に箱状の乗り物がやってきて、学校まで乗せていってくれる。何とも魅力的ではありませんか。これでしばらく通学できるというならば大歓迎ですね。
しかしながら、万が一、いや、微妙にその可能性が高いので千が一くらいにしておきましょうか。では、千が一。千が一バスに乗り遅れた場合、もはや打つ手なしです。遅刻確定。
詳細な本数は実際に時刻表を見てみないと判りませんが、一時間に一本もないでしょう。このリスクは無視できませんね。
わたしは朝食の出汁巻き玉子を咀嚼しながら思案します。この出汁巻き玉子旨っ。さっすがド田舎。産みたてほやほや近所直送はひと味違いますね。まず素材が違うというか……。
いや感激してる場合じゃないです。急がないと選択肢が勝手に一つになってしまう。
わたしは味噌汁でご飯を無理矢理流し込み、決断します。
よし、これでいきましょう。ていうかこの味噌汁旨っ。やっぱり素材が以下略。
結局わたしが出した結論は、徒歩でも登校が間に合う今の時刻にバス停にいれば、まあ乗り遅れることもないのではないかという無難極まりないものでした。
さすがに間に合うでしょう。まだ六時四十五分ですから。毎日遠い学校や職場に通っているおかげで、我が家の朝は早いのです。家で多少のんびり出来るという利点を諦めざるを得ませんでしたが、まあ、明日からは安心してのんびり出来ると思えばどうということもないでしょう。
ふむ、概ね非の打ち所のないプランと言えるのではないでしょうか。脳内会議を重ねた末にこの案を採用したわたしの判断は、とりあえずは正しかったと言えるでしょう。
――しかし。
「うわあ、うわあ……抜かりました」
バス停までの道のりを楽観視して、雨合羽を着なかったのは愚かでした。いや全く。愚の骨頂と言えるでしょう。……愚の骨頂の意味はニュアンスでしか知りませんが、お馬鹿さんの最上級という感じですよね。多分。
そう、わたしはまさにそれでした。
あろうことかわたしは、夏の大雨に付随する強風のことをすっかりすっきり失念していたのです。
なまじ家を出たときちょうど風が止んでいたために、気づかないうちにしばらく歩いてきてしまいました。案の定出発して十五分ほどで思い出したように強風が吹き荒れ始め、あれよあれよという間にお気に入りの折り畳み傘が二階級特進。頭のてっぺんから爪先まで数分でずぶ濡れです。……風のことを差し引いても、折り畳み傘を選んだのは失策でした。
うぅ……神様仏様、わたしがいったいなにをしたとおっしゃるのでしょうか……
この分では鞄の中も悲惨な状況になっているでしょう。ああもう、誰ですか雨合羽がいらないなどとほざいたのは。ええわたくしです。がっでむ。
溜息混じりに、お母さんのくれたバス停までの地図(ずぶ濡れ。再利用不可)を見れば、どうやら目指すバス停はもうすぐそこのようです。服がびしょ濡れで気持ち悪いですが、ここまできて引き返すのもシャクですし、もう割り切っちゃいましょう。わたしはお亡くなりになった傘を袋に入れて鞄にしまい、ぱちゃぱちゃと水音をたてながら先を急ぎます。
「……あれですか」
水を吸って泥濘んできた地面を革靴越しに感じながら、さらに五分ほど進んだ頃でしょうか。いい加減濡れた体が冷えてきたあたりで、ようやく木立の中に佇む、バス停らしきトタン張りの建造物が見えてきました。
やっとですか。待ちかねましたよ。わたしは雨にかすむ景色の向こうのそれに駆け寄ります。
駆け寄ります、が。
あと十歩ほどのところでわたしは立ち止まってしまいました。理由は、ふたつ。
ひとつは、そのバス停のおんぼろさに閉口したことによります。
周りには草がぼうぼうと生い茂り、トタンの屋根にも雑草が生えています。まさに風化していると言った様相のその姿は、ほぼ背後の森と同化して見えました。何というか、もうコレ押したら倒れそう。そんな感じです。
そして、そのぼろさに目を取られた〇・五秒後に気付いたふたつめの理由。
それは、ぼろいバス停のぼろいベンチに腰掛けた、先客さんの存在でした。
「…………」
いえ、先客さんはぼろくないですよ?
わたしは雨に打たれていることも忘れて、そこに突っ立ってその先客さんを眺めます。彼は上下スーツでビシッとキメたサラリーマン風の姿で、しかしそのお堅い出で立ちと対照的に気だるげにベンチに座っていました。その視線はどこを見るでもなく虚空を見つめ、こちらに気付いた様子もありません。心此処に在らず。というか、どこにもなさそうでした。見た目としては大体二十代前半といったところ。結構若いように見えます。
この大雨に中にあって、スーツのズボンの裾すら濡れていません。
……おっと、ぼーっと雨に打たれてる場合じゃありませんでした。そろそろ雨を凌がないと、この真夏に風邪を引いてしまいます。わたしは取り急ぎ屋根の下に入り、スカートとセーラーの裾を軽く絞ると、そのサラリーマンの隣、ベンチの端っこに腰を下ろしました。
彼はわたしに気づくと(気づくのが遅い)、ちょっと驚いたような顔をしましたが、すぐに柔和に微笑みました。
「や、おはよう」
気さくな挨拶に、わたしは自分のびしょ濡れの服を見下ろして、ちょっと苦笑いしてから応えます。
「おはようございます」
「ああ、ごめんよ。ベンチを独占しちゃって。そんな端っこじゃ狭いだろう」
彼はベンチの上に置いてあった鞄を下に降ろすと、横にずれてスペースを作ってくれました。
「あ、どうも」
「いえいえ」
彼はにこりと笑うと、また前を向きます。
……この辺の人でしょうか?
彼の横顔を横目に見ながら、わたしはそんなことを思案します。学校がある町の方はともかくこの辺は相当過疎化が進んでいますので、越してきて一ヶ月ほどにして、近所に知らない顔がほとんどいなくなりました。絶対的な人口が少ない故に、しばらくするとみんな勝手に知り合いになってしまうのです。それに人間が住んでいる場所に限れば、相当に狭い地域ですから。
それだけに、この遭遇は新鮮でした。会う人も大抵おじいちゃんおばあちゃんですし、そのかっちりとしたスーツ姿も田園と雑木林ばかりの景色には不似合いです。実に目新しい。
ただ彼の着ているスーツは、なんだか型が古いように見えます。大体三十年前、わたしのお父さん世代が新入社員だった時期の主流、みたいな感じでしょうか。社会の教科書の近現代のあたりで見たことあるようなやつです。ちなみにお父さんは大工さんなのでスーツは着ませんが。
誰かのお下がり……というには、やけに新しい気がします。背広もワイシャツもピンと張って、そう、まるで卸したてのような。
うーん……。
センスがないんでしょうかね。
などと失礼極まりない予想を立てているうちに、向こうは向こうでこちらを横目で観察していたらしく、わたしの体を頭のてっぺんから爪先まで眺めてから怪訝そうに口を開きます。
「きみ、全身ずぶ濡れだけど……何かあったの?」
「いやこの雨で濡れたに決まってるでしょう」
「雨……?」
彼は不思議そうな顔をして、バケツをひっくり返したような空を見上げ、「ああ、なるほど」と呟きました。
何がなるほどなのでしょう。まさか雨に気付かなかったわけでもあるまいに。なんだか、ちょっと変わった人ですね。
わたしは、狭いバス停の中を見回します。茶色くくすんだ壁に、もはや貼ってあるというよりこびり付いているといった方が似合うような風化したポスターがくっついています。ほとんど判読できませんが、断片的な図柄から見て、どうやら花火大会の告知のようですね。そしてその上には、インクが掠れて見えにくくなった時刻表がありました。
あー、さすがド田舎です。一日四本しかありません。朝の便は七時二十分です。家を出た時刻から考えると、あと十五分といったところでしょうか。
わたしは鞄からハンカチを取り出し、服の水分を吸わせます。気休めですが、多少はマシになるでしょう。
うわっ、泥はねてるし。
「……きみは、この辺の子かい?」
服のシミを落とそうとやっきになっているわたしの隣で、彼は先程わたしが抱いたのと全く同じ疑問を口にしました。
「はい、まあ、越してきたばかりですけど。あなたは?」
「あー、俺? 俺は生まれも育ちもここだよ。ずっと、ここにいた」
「…………」
そう言う彼の表情に、わたしは、ふっと暗い寂しさがよぎったように思ったのです。
「……バスを待つ間、しばらくお話でもしませんか?」
彼の顔に柔らかな喜色が浮かんだのを見て、そんなことはそのうち忘れてしまいましたが。
それからしばらくわたしと他愛もない話をする間、彼はなんだかやけに嬉しそうでした。初対面にしては饒舌ですし。
いろいろと話しました。学校のこと、街のこと、この辺がどう変わったか等々。
彼とのお喋りはとても楽しかったのですが、なんだか彼と喋っていると、彼は目の前にいるのにまるで独り言を喋っているような気分になりました。それは、瞬きをしたら、目を開いたときには誰もいないのではないのかというような、妙な気分でした。
そうして十分ほど話していたころです。道の向こうから、遠雷のようなエンジンの音と雨粒にきらきら反射するヘッドライトの光が見えてきました。
水飛沫をあげながら到着したそのバスは、えーと、その、これまたなかなかに年季が入ったものです。
……まあ、有り体に言ってぼろいバスでした。なんというか、この風化したバス停に似つかわしいと言いますか……。というか、ほんとにバス通ってたんですね。ここ。
プシュー、と音を立て、わたしたちの前でドアが開きました。
わたしは入り口に足をかけ、ちょっと中を覗いてみます。おや、意外にも中はきれいですね。あちこちガタは来てるみたいですが、ゴミも落ちてないし、なかなかいいじゃないですか。少なくともバス停のベンチよりは遙かに快適そうですし、ほかの乗客も乗っていないのでゆっくりできそうです。
……一瞬、このきれいさも客がほぼ乗らないからじゃないかという不吉な考えが頭をよぎりましたが、気のせいということにしましょう。
わたしはバスに乗り込みます。そして改めて車内を見渡し、座る座席の目星をつけます。
ふと振り返ると、例の彼はベンチに座ったままでこちらを見ていました。
わたしはひょいとドアから顔を出し、尋ねます。
「あの、乗らないんですか?」
対して彼は、にこりと柔和に笑って言いました。
「ああ、俺はただの雨宿りだからね」
と。
○
結局、雨は強くなる一方だったため、お父さんが車で迎えに来てくれました。
いやあ、ありがたいです。これだけの豪雨を前にして、濡れずに帰れるとは。本当に学校の電話で家に連絡してて良かったですねー。
……と、浮かれていられたのはお父さんの車が到着するまでのこと。
えー、その、よく考えたらうちの車、軽トラでした。
級友たちの視線が痛い……。
もう少しマシな車はなかったのかと抗議しますが、
「馬鹿野郎、こいつは今年発売したばっかの新車なんだぞ」
とのこと。新車だろうが軽トラは軽トラです。そしてわたしは野郎じゃねぇです。
確かに徒歩よりは万倍良いし、この辺の地域で車で帰れるというのはとても得難い幸運なのですけども、女子高生の乗り物としては……ねえ。
溜息を吐きつつ、ガラス窓にもたれて外を眺めます。
窓を雨水の筋が絶え間なく滑り落ち、景色を歪ませていました。
「……そういえば」
「あん? どした」
「あ、いえなんでも」
……そういえば、一日雨止みませんでしたけど、バス停にいたあの雨宿りさんはどうなったのでしょう? 一日中雨宿りしてたんでしょうか?
……まさかですね。
雨は、日付が変わる頃に止みました。
○
「おや、雨宿りさんじゃないですか」
「そういうきみはずぶ濡れちゃん」
「誰がずぶ濡れちゃんですか」
「誰が雨宿りさんだ」
あくる朝、わたしたちは件のバス停で再会することとなりました。
昨日とうってかわり、草の露を朝日がきらめかす爽やかな晴天です。
「おはようございます」
「おはよう」
彼は、昨日と変わらず退屈そうにバス停のベンチに腰掛けていました。
わたしは彼の横にちょこんと座り、ここに来るまでの間読んでいた文庫本を閉じて膝の上に置きます。
「晴れましたね」
「晴れてるねぇ」
「昨日とは大違いです。いっつ さにー」
「でもおかげで昼からは蒸し暑くなると思うと憂鬱だよね」
「……何でそういうこと言うんですか」
「あっはっはー」
時刻は昨日とだいたい同じくらい。
けらけら笑う彼のとなりで、思わずわたしも顔がほころぶようないい天気です。……まあ、確かに昼からは暑くなりそうですね。
「ところで雨宿りさん」
わたしは本を鞄に仕舞いながら言います。
「その呼び名で通すつもりかい」
「いいじゃないですか。可愛くないですか? 雨宿りさん」
「……まあ何とでも呼びなよ、ずぶ濡れちゃん」
「それで通すつもりですか」
「いいじゃないの、可愛いでしょ」
「それは可愛いんでしょうかね……まあいいでしょう」
閑話休題。この調子では話が脱線してるうちにバスが来てしまいます。
「で、なんだい?」
「ああ、そうでした。雨宿りさん、昨日結局雨止みませんでしたけど、どうなさったんですか?」
「一日中雨宿りしてた」
「いやいやいやいや」
さらっと言いましたけどそんなことあってはならないです。
聞き間違い……ではないですよね。え? 本気で言ってます?
「え? え? え? あの、ちょっと待ってください。格好から察するに雨宿りさん、会社員ですよね? 昨日会社の方は……?」
「行ってない」
「はい!?」
「えーと、ほら雨だったし」
「軽ーっ!?」
あれ、会社ってこんな簡単にサボタージュできるようなものでしたっけ。
この高度経済成長真っ最中の我が国において、サラリーマンの皆様はそれなりの激務を強いられているはず。
そう気楽にすっぽかせる類のものではないでしょうに。
「まあまあいいじゃないの、俺が無断欠勤する理由なんて」
「この上無断ですか!?」
「はっはー」
「なにを笑ってるんですかっ」
「いや、母さんに叱られてるみたいだと思ってさ」
「~~~~~~~~っ」
何でしょうこの大人が子供をあしらってる感じ。自分だってまだ相当若いくせに。
ひとたび都会に出れば、右も左もビジネスマンみたいなご時世に、こんな人がいるとは。知りたくなかったです。
「なーんてウソウソ。はは、冗談だよ」
「で、ですよね! きっとやむにやまれぬ事情が……」
「謹慎処分になってるから実は出勤しなくてもいいんだよね」
「じぃざす」
事情重っ。そして口調軽っ。
「いやー、それでも言い訳をさせてもらえばさ、うちの会社人遣い荒すぎるんだよねー。確認の時間はくれないしさー。上司の尻拭いは全部俺らに行くしさー。残業残業で定時とかあってないようなもんだしさー」
「何でわたし、朝からサラリーマンの生々しい愚痴を聞かされてるんでしょうか……でも大変ですね、じゃあそれで仕事でヘマをして……?」
「ううん、ムカついて上司殴っちゃった」
「えっ」
「一発で謹慎。それでこのザマ」
「ええええええ!?」
「ひどいよね」
「首が飛ばなかっただけで御の字でしょう……ていうかふつう飛びますよね」
「人手不足だからねー。人件費とかアレだし。まあこの不況のご時世にルンペンにならなくて済んでる分運がいい方だと思うけどね」
「るんぺん?」
ユニークな言葉ですね。流行語か何かでしょうか? わたしその辺疎いもので。
「ああいうのを取り締まってくれるような法律ってないのかなあ」
いや、それは多分一九四七年から施行されてるアレですよね。今時高校の授業でも習いますよ。雨宿りさん。
むー。それにしてもこのおちゃらけたサラリーマンがそんな事情を抱えていたとは……
「だいたいそんなところ。ここにいたのは、んー、まあ暇つぶしかな」
「暇つぶしが暇を生み出しているじゃないですか」
「……あはは」
曖昧に笑う雨宿りさん。目が泳いでます。
「とにかくまあ、やることもないし、えーと、そう、ここは俺のお気に入りの場所だからさ……うん。そんな感じ。以上。おわかりいただけただろうか」
「まあ、大方いただけましたけど……じゃあ、なんでスーツなんですか? 会社には行かなくていいのに」
「……あはは」
再び曖昧な笑いです。目が泳ぐに加え、冷や汗も光っています。
「?」
「それよりさ」
「うわ、露骨」
分かりました。触れませんよ。
「さっき読んでたそれ、誰の本?」
「また微妙なところに飛びましたね……。芥川龍之介です」
「へー、その年で文学に親しむとは感心だ。芥川ね、そういえば死んだとか聞いたな」
ん? なんか妙な言い方ですね。芥川と聞いて最初のイメージがそれですか?
なんというか、最近のことのように話しますね。
なんだかズレた人です。まあ、それは昨日の時点で分かっていたことではありますが。
……あ、そういえば。
「そういえば雨宿りさん、今日、なんかやけにバス遅くないですか? もうここに来てからかれこれ十分くらい経ちましたけど」
「ん、ああ。そうだね。まだ二日目だから知らないだろうけど、このバス停、というかこの路線は時間のズレが大きいんだ」
「へえ」
「ひどいときには前後十分くらい」
「なるほど」
面倒な路線ですね。だからあんなに乗客もいなかったのですか。でもまあ、十分遅れるくらいなら平気でしょう。昨日バスで登校してみた限りでは、かなり余裕を持って着きましたので十分くらいなら問題ないはず。
「雨宿りさん、時間見せてもらっていいですか?」
「ああ、はいよ」
雨宿りさんは腕時計を巻いた左腕をわたしの目の前に差し出してくれました。
ふむ、七時二十一分ですか、もしバスが後十分遅れたとしても全然大丈夫ですね。余裕余裕、です。
ていうか腕時計古っ。コレ、見覚えありますよ。越してくる前に東京の時計専門店で見た覚えがあります。確か二十年前に生産が終わったというやつだったと思います。生産終わってからは値段が高騰したとか、お父さんがうんちく垂れてました。雨宿りさん、もしかしていいとこのお坊っちゃんなのでは……それにしては発言が庶民的でしたが。
何にしても時間の方は心配いらなそうです。
「もうちょっとのんびりしますか」
「え? 時間大丈夫なの?」
「はい、後十分くらいなら余裕そうです」
「いや、次の便は十時だけど」
「……え?」
「え?」
えっと、何を言ってらっしゃるのか、失礼ながらさっぱり分かりませんね。だって、え?
ひどいときでも十分遅れって……。
あれ? 『次の便』?
わたしは、頭の中でさっきの台詞を反芻します。
――このバス停、というかこの路線は時間のズレが大きいんだ――
――ひどいときには前後十分くらい――
――前後十分くらい――
「あ」
「バスなら、きみが来るちょっと前に出たけど……ここでのんびりしててもいいの?」
………………がっでむ。
「うあー」
昼休み開始のチャイムが鳴り響くと同時に、わたしは間抜けな声を漏らして机に突っ伏します。
生まれて初めて、遅刻をしてしまいました……。しかも、約四十分の大遅刻。
「抜かりました……大失態です……大失態です……」
「もー、いい加減元気出しなってー。遅刻くらい誰でもするよー」
前の席に座る友人が振り向いて、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でながら言います。
「でも……わたしまだ転入して一ヶ月ですよ……? 悪目立ちしちゃいますよぅ……」
「だぁいじょぶだって。あたしなんて一ヶ月に三回は遅刻してるよ」
「さーちゃんは度が過ぎます。内申どうなっても知りませんよ」
「あたしは家の酒屋継ぐから関係ないもん」
「卒業時はまだ未成年ですよね?」
「ま、なんとかなるんじゃない?」
「おー、くれいじーがーる」
気楽でいいですね……。ホントになんとかしそうな気がしてきますよ。高校生ですでに就職先まで決まっているとはうらやましい限りです。
お弁当を鞄から出して机に広げながら、話題は再びわたしの遅刻のことに移ります。
「んで、なんだって遅刻しちゃったのさ。しっかりもののあんたが」
「だって雨宿りさんが……雨宿りさんが紛らわしい言い方するから……」
「雨宿りさん?」
「ほら、昨日の」
「ああ、あのバス停にいたとかいうサラリーマンのお兄ちゃんね。でも四十分は遅れすぎでしょ」
うぅ……分かってますよ。責任転嫁です。四十分遅れということは、わたしがバス停に着いた時点で遅刻は確定だったのですから。
「で? どんな人なのよ。結構若いって言ってたよね。かっこいい?」
聞かれて、わたしはあのバス停で一人ベンチに腰掛けた彼の姿を思い浮かべます。背は……座っていたからはっきりとはわかりませんが、あまり高くはなさそうでしたね。見た目的には線が細目の印象で、全体的に穏やかな感じでした。……でも上司殴ったとかおっしゃっていたし、人は見た目によらないと言うのは本当のようです。そうですね、顔は整っている部類でしょう。でも、それ以上に……
「かっこ……いいかもしれませんけど。……それよりもなんだか不思議な人なんですよね」
「ふしぎ?」
「なんて言うか、雰囲気がないって言うか……存在感がないって言うか」
「地味ってこと?」
「いえ、どちらかと言えば陽気で、よく喋る方なんですけれども」
「真逆じゃん」
「でも、なんだか空気と喋ってるような気分になるんです。それに、やけに世間ズレしてるし……と言うよりは時代錯誤っぽいんですよねー」
「変人じゃん」
「……まあ」
確かに、今思い返してみれば、相当おかしな人ですね。悪い人ではなさそうですが。
「ふーん。あ、そうそう。それ聞いて思い出したんだけどさ、そのバス停って、ちっとばかし昔っからちょっとした噂があるらしいんだよね」
「噂?」
「そう、噂」
「どんな?」
「いやさ、鉄板だけど怪談。あそこ、幽霊が出るって噂があるんだよ」
「……ゆーれい、ですか」
へえ、幽霊。なかなか古典的な。近頃はあまり聞かなくなってきましたが、まあ確かにあのバス停の雰囲気では無理からぬことですね。あそこで彼以外の人に会ったことありませんし。
「何でも、誰もハッキリ見てないんだけど、ベンチに座った黒い幽霊なんだと。ひょっとしてその雨宿りさんとかいうサラリーマン、噂の幽霊なんじゃないの?」
「そんなありがちな怪談みたいな……。雨宿りさんは人間ですよ」
確かにちょっと変わり者ではありますがね。ちょっとばかり時代錯誤で、現代の常識が抜けてて、雰囲気がないからってそんな……。
……時代錯誤。
……現代の常識が抜けてる。
……雰囲気がない。
……スーツ姿。『黒い』スーツ姿。
……………………ゆーれい。
「……あはは」
「というわけで雨宿りさん。雨宿りさんは幽霊さんなのですか」
「そうだよ」
終了。
…………。
「いやいやいやいや。もう少し引っ張ってくださいよ」
「え? ごめんなんか俺失敗した?」
「あっさり過ぎますよぅ! もうちょっと何かないんですか? ほら『……なぜ分かった?』とか『ついに知ってしまったか……』とか、そうでなくともしらばっくれるとか! そういうのよくあるじゃないですか」
「えーと……なぜ分かった?」
「うぅわ白々しっ」
……とまあ、ネタばらしは前述の通りあまりにもあっさりしたものでした。
いや、あっさりにもほどがあるでしょう。もはや拍子抜けです。逆に自分の結論が疑わしくなってきました。
ただいま、場所はもちろん例のバス停。時刻は夕方五時半といったところです。学校帰りですね。
「雨宿りさん、本っ当に幽霊なんですか?」
「自分で聞いておいて何を……」
「あー。すみません。それは重々承知しているのですけども、なんというか……あまりにさらっと認められてしまったもので」
「んー、コレ俺が悪いのかな……まあいいや。むしろ何でずぶ濡れちゃんは俺が幽霊だと思ったわけ?」
「雨宿りさん、怪談になってますよ」
「え、マジで? まさか……そんな面白いことになっているとは」
「なんか嬉しそうじゃないですか?」
「なるほどなるほど。んー……でも」
雨宿りさんは首をかしげます。
「それだけの情報で俺を幽霊だと思った訳じゃないだろ? ガキじゃあるまいし、ずぶ濡れちゃんは噂を鵜呑みにする性格には見えないしね」
「まあ、むしろ噂は疑ってかかるタイプですけども、いやあの、いくつかの観点から見てそれしかないかなって」
「へえ、面白い。じゃあ俺が幽霊である証拠を並べて見せてくれよ。俺は疑ってかかるから」
いたずらっぽい目をこちらに見せて、雨宿りさんはにやっと笑います。朝は子供をあしらう大人に見えたのに、なんだか今日はスーツを着た高校生に見えますね。ホントに掛け値なく楽しそうです。
「そんな大したものじゃありませんよ? えっと、まず雨宿りさん、今が何年か分かります?」
「いや」
即答ですか。この時点でまともな大人の資格を失っている気がしましたが、黙っておきましょう。
「一九六〇年です。日本は、一九五五年からの神武景気、一年間のなべ底不況を挟んでただいま、再び急激な経済成長の真っ最中ですよ。現在不況の二文字はどこにもありません」
「ええ? うっそ、なにそれうらやましい」
「まあ結局、誰かが儲けてるってことは誰かが割を食ってるってことだと考えれば、手放しでは喜べませんけどねえ」
「なにその後ろ向きな悟り」
「えへへ、お父さんの受け売りです」
「あらあら。……それじゃ、ほかには?」
「はい。雨宿りさん、その左腕の時計は、ご自分で買われたものですか?」
「うん。東京に出張したときにね」
「それ、今は庶民にはとても手を出せない値段になっています」
「ん?」
雨宿りさんは怪訝そうな顔をして自分の左腕の時計を眺めます。
「そんなでもなかったけどな」
「そうですね。二十年ほど前なら」
「……?」
「その時計の生産は、二十年前で止まっています。故に値段が高騰しているわけですが、生産されていた当時は他の時計とそう変わらない値段だったそうです。雨宿りさんの話を聞く限り、この時計を今の値段で買えるほどの収入があるとは思えないし……」
「うん。歯に衣着せようね」
「あとはそうですね……雨宿りさん、芥川龍之介についてどれくらいご存じですか?」
「んーと、俺がガキの頃に出てきたね」
「あ、もういいです。決定的すぎます。芥川龍之介が亡くなったのは三十年は前ですよ」
「ありゃ」
「まあ、他にも大昔の流行語を使っていたりだとか、細かいことならまだいくつかありますけど、大きいのはそんなところです」
「ふむ、なかなか鋭いね、ずぶ濡れちゃん。名探偵になれるよ。でも、無理にこじつけてしまえばそれらはまだひっくり返せる程度だ。それにさっきの芥川の話にしても、さっき俺が言うまではただの違和感だったんだろ? 確信を得るには不十分だ。それを確信に変えたものが、何かあるんじゃないか?」
「……はい。自分で気づいてらっしゃるかどうか知りませんけれど、……こういうこと本人に言って良いんでしょうか? 雨宿りさん……雰囲気というか、存在感がまるっきりないんです。何もいないところで独りで喋っているような……。物証にもならない曖昧なことですけど、わたしが確信を持ったのはそこです」
「なるほど雰囲気がない……ねえ」
「まるで独り言を言っているかのような気分でしたけど、本当に独り言を言っていただけとは思いませんでした」
「失礼だな、ちゃんといるよ」
雨宿りさんはちょっとむくれてみせます。それから、いつもの表情に戻り、すっと立ち上がりました。
「雨宿りさん……?」
「んー。でも俺ならまだ疑うかな。雰囲気なんて曖昧なものではまだ自分の結論を信じないと思う。……ちょっと、それ貸して」
彼はこちらへずいっ、と近づき、わたしの方に手を伸ばします。
「あ、えっと、ええっ!? あ、雨宿りさん……?」
急な接近に硬直するわたしをスルーして、雨宿りさんはわたしの鞄から、水筒を引っこ抜きました。
「ずぶ濡れちゃんの名推理に敬意を表して、最後の証拠は俺が見せてあげるよ。あ、先言っとくけど透けたり浮いたりしないからね? 出来ないし」
そう言うと雨宿りさんは、水筒のキャップを外します。
「麦茶?」
「水ですけど」
「まあなんでもいいや――見てて」
雨宿りさんは水筒を、飲み口を下にして仰ぐように持ち上げると、溢れ出る水を――飲む?
否。頭からかぶりました。
「……っ!?」
目をまん丸にして驚くのは今度はわたしの番でした。
いきなり水をかぶった雨宿りさんの行動にではありません(もちろんそれにも相当度肝を抜かれましたが)。
水筒から重力に従ってほとばしり出た冷水は、果たして彼の体を微塵も濡らすことなく、彼の体の上を滑り落ちたのでした。
西日がきらきらと反射し、彼のスーツの上を滑る水滴は琥珀色に輝きます。透き通った宝石を散らしたような、ある意味幻想的とすら言える光景に、息を飲みました。……まあサラリーマンが水をかぶってるだけなんですけども。
地面に流れ落ちた水は水たまりを作りますが、彼の体には染み一つありません。
彼のスーツが類稀なる撥水性を発揮したと言うことでは、どうやらないようです。その証拠に、直接水をかぶった頭も水が流れた頬も、全くもって濡れた様子はなく、髪についた水滴すらそれを湿らせる様子もなくするりと滑り落ちていきます。
彼の体は水をかぶる前と何も変わらず、乾ききったままでした。
水筒から流れ出た水が全て地面に吸われ、染みだけが残った地面をわたしは呆然と眺めます。
「えっと……これって、どういう……」
「濡れないんだよ。俺は」
雨宿りさんはベンチに水筒を置きながら言います。
その視線は、わたしと同じく地面の染みに注がれています。まるで、取り返しのつかないものに、あてのない視線を送るように。
濡れない? あんな頭から水をかぶって?
え? え? えっと、つまり……。
「だいたい分かったかい?」
「ゆ、幽霊って水を弾く材質なんですか?」
「違ぇよ」
ちょっと真面目モードに入っていた雨宿りさんが見事にずっこけました。
「斜め上の発想をするねえ、きみは」
「それは褒め言葉ですか……?」
「この文脈でそれはないだろ」
「ですよね」
雨宿りさんは、はあ、とため息をついて、すっかり気が抜けた調子になって説明を続けます。
「濡れないってことを分かりやすい例として挙げたけれど、要するに、俺は変化しないんだよ」
「変化しない……」
「濡れないし、乾かない。汚れないし、汚れは落ちない。何も、変わらない」
雨宿りさんが見せたそれは、わたしの出した証拠にちょうど足りなかったもの。異常性の提示でした。たとえどんなに彼の言動の違和感を指摘したとしても、それは彼が変人だという証拠にはなるかもしれないですが、人外だという証拠にはなりません。
「なんか失礼なこと考えてない?」
彼が示したそれは、見事にそれを補い、結論を確固たるものにしたのです。
「……ま、つまりは、さ」
彼は口を開き、ぽつりぽつりと零すように語り始めます。それは、独白のように。
「俺の時間は止まっているんだ。一人っきりで、何一つ変わらないままでいつまでも生きていく。ずっと、ずっとそうしてきた。この目に見える空はいつも同じ。憎たらしいほどの晴れ空だけは、俺の体と同じで変わらないんだ」
言いながら少しずつ、彼の表情に寂しげな影がかかっていくように思いました。
そして、彼は言葉を紡ぎます。
「俺が死んだ、あの日からずっと」
山がそのままざわめいているような蜩の声が、ひどく遠くで聞こえているような気がしました。
○
「もうすっかり暗くなったよ。早く帰りな」
半ば放心していたわたしは、その言葉にただうなずいて、ふらふらと帰路につくほかありませんでした。
家に戻ったわたしは、ご飯を食べるよりも前に、真っ先にお風呂に向かいます。
たぶん、今何かを食べても喉を通りはしないでしょう。頭はいっぱいで、胸は詰まり、食欲もわきません。
だから、いったん湯船に浸かって、頭を整理することにしました。
かぽん。
タイルの床に落ちた手桶が間抜けな音をたてます。
ぴちょん。
濡れそぼった天井から、滴が一滴湯船に落ちます。
「……ぶくぶく……ぷはっ」
わたしは顔を上げると、湯気が立ちこめ白濁した空気をいっぱいに吸い込んで、一つ大きなため息をつきました。
「は……ぁ」
えーと、何から整理していけばいいんでしょうか。
雨宿りさんが幽霊さんで、それで……えっと?
………………何が問題なんでしたっけ?
頭がぐるぐるし過ぎて、何を考えればいいのか判然としません。
わたしは記憶を遡ってみます。
今まであったこと、ひとつずつ。
……あの日。
あのバス停で雨宿りさんに会ったこと。
雨宿りさんといろいろ話したこと。
さーちゃんから例の噂を聞いたこと。
雨宿りさんに聞いてみたこと。
雨宿りさんが水をかぶったこと。
雨宿りさんが、幽霊だったこと。
……。
…………。
………………。
「……そっか」
わたし、幽霊に遭ったんだ。
言っちゃえば、それだけのこと。
奇妙なことに、わたしは初めてその事実を意識したような気がしました。
わたしは天井を仰いで、どこを見るでもなく中空を見つめます。雨宿りさんが最初に会ったときにしていたように。
……何が解決したわけでもないのに、なんだか、頭の中が空っぽになったような気分でした。あんなにぐるぐるしていた頭の中身は、いつのまにか湯船に溶けて流れ出ていってしまったかのようです。
そうだ、相手は幽霊なんだから、わけがわからなくて良いんだ。
そんな妙な安心とともに、わたしはぼーっと中空を見つめ続けました。
のぼせきっているわたしがお母さんに救出されたのは、だいたいその三十分後でした。
「………………気が緩みすぎました」
お母さんのため息混じりの小言を聞きながら、まだ頭がうまく回らないままでもそもそとご飯を食べます。うわ、味わかんない。大好物のコロッケがタワシか何かに見える。
味気ない夕飯を食べた後も、頭はまだぼやーっとしていました。ソファーにぐったりと横になると、特に何を見るでもなくテレビを眺めます。ブラウン管の向こうのニュースキャスターさんが口をせわしなく動かしているのが見えますが、何を言っているかは全く頭に入ってきませんでした。
「ねえ」
もやがかかった意識の中に、お母さんの声が割り込んできました。
「んぅ……」
わたしは首だけを動かしてそちらに顔を向けます。
「ん……何ですか……?」
「あんたさ、そろそろ通学路も元に戻っただろうし、自転車通学に戻ったら?」
……ああ、そうですね、そろそろ頃合いです。
「おはようございます、雨宿りさん」
翌日、何食わぬ顔でバス停に現れたわたしに、雨宿りさんはちょっとびっくりしたような顔をしました。
「あれ、ずぶ濡れちゃん。もう来ないかもと思ったのに」
「来ちゃいました」
「幽霊がいるバス停なんて、不気味だろう」
言いながらも喜色を隠さない彼に、わたしは思わずくすりと笑みを零します。
「今更、ですよ」
二日ほど前から決めていたことなのですが、わたしは昨日、バス通学に切り替える旨をお母さんに伝えました。バス代はお小遣いから出すことになりましたが、まあ大したことではありません。
お母さんは、早起きして朝食とお弁当を作らなくてもよくなったと喜んでいましたが、バス時間のズレが大きいから今までと同じ時間に出ると伝えるとぐったりしていました。
なんにせよ、これで毎日の足の筋肉痛とはさよならです。
「勘違いしないでよねっ、別に雨宿りさんのためにバス停に来たんじゃないんだからっ。みたいな」
「何それ、四十年後くらいに流行りそう」
道の向こうから、聞き慣れてきたエンジンの音が遠く聞こえ始めました。今日はちょっと早いようです。
「……でもたぶん、わたしはバスで行く方が都合が悪かったとしても、こっちの道を選んだと思いますよ?」
雨宿りさんはキョトンとして首を傾げます。
「……どうして?」
雨宿りさんが言うと同時に、エンジンの音がわたしたちの前で止まりました。
わたしは立ち上がって、ぷしゅーという音とともに開いた乗り口に、片足をかけながら応えます。
「だって、新しくできた友達が幽霊さんだなんて、とっても素敵じゃないですか」
ドアが閉まりました。
ガラスの向こうで、びっくり顔で固まっている雨宿りさんに、わたしはにこりと笑いかけます。
それを見て、ゆっくりと笑顔に変わっていく彼にほほえみ返してから、わたしは席に座りました。
「嬢ちゃん、毎日毎日一体誰と話してるんだい。あの誰もいないバス停でよ」
ガタガタと揺れるバスの中で、不意に運転手さんが言います。
「友達ですよ」
何だ、気づいてたんですか、あそこに誰もいないことに。黙っているなんて人が悪いですね。
……うぅ、それにしても暑いです。扇風機とか無いんでしょうか?
「……そうかい。友達ができたんか。そいつぁいい」
「失礼な。友達くらいいますよ」
「あ、いや……まあいいか。ところで嬢ちゃんよ、今日は鞄持ってねえみたいだけんど、忘れたんか?」
「いえ、今日は使わないんです。授業はなくて式をやって終わりなので」
「ふーん、そりゃ何でまた」
ぽたり。
朝から容赦なく照りつける日差しにきらめいて、汗が一滴、顎を伝ってスカートに落ちます。
「ふふ、明日から夏休みです」
○
放課後。
バスから降りると、雨宿りさんはまた少しびっくりした顔で迎えてくれました。
「あれ、ずぶ濡れちゃん。今日は早いね。どうしたんだい?」
「今日は授業なしの半ドンなんです」
「ん? 今日って土曜日なのかい?」
「いえ、今日は木曜日です。明日から夏休みに入るのですよ」
「へえ、夏休み。懐かしいね」
「年中休みですもんね」
「……歯に衣着せようか」
なぜかへこむ雨宿りさん。大人は分かりませんね。年中休みなんてサイコーじゃないですか。
「それにしても大荷物だねずぶ濡れちゃん」
「あは……教科書とか持って帰ってなくて」
「小学生か」
そして迎えた、夏休み初日。
「おはようございまー……なにしてんですか」
バス停に行くと、雨宿りさんはベンチの上でなにやらゴソゴソとやっていました。
彼はわたしに気づくと、首だけでこちらを振り向いて言います。
「おや、ずぶ濡れちゃん。今日から夏休みなんじゃないのかい?」
「授業はなくとも学生には部活というものがあるんですよ。雨宿りさん」
「あー。あったねえそんなもん」
学校生活は忘却の彼方ですか……。見る限り結構お若いですけど、学生時代は部活もやっていたでしょうに。忘れるの早くないですか? ……あ、そうだ、雨宿りさんは幽霊なのでした。しかも、少なくとも数十年前に死んだ。
そりゃあ、色々と忘れますよね。
雨宿りさんは、こちらを向いてベンチに座り直します。
「ずぶ濡れちゃんは何部なんだい?」
「わたしですか? わたしは水泳部です」
「ほお、水泳部。俺が学生だったときは無かったけど、学校にはプールがあるのかい?」
「はい、一応ちゃんと二十五めーとるのが」
「ほお、そりゃご立派な」
「屋外だから夏しか使えませんけどね」
「ずぶ濡れちゃんは学校でもずぶ濡れちゃんってわけだ」
「無駄に上手い……でもちょっと不愉快」
閑話休題。
「……で、何をなさってたんですか?」
「ん? ああ、ほら」
雨宿りさんは体を横にどけて、ベンチの上のものを見せてくれました。
ベンチの上には、小さなりんごのかけらが一つちょこんと置いてあり、その周りで角を生やした生き物が二匹、がちゃがちゃと音をたてて取っ組み合いをしていました。
「あ……かぶと虫」
「うん、よくこうやって暇つぶししてる」
二匹のかぶと虫は、角を突き合わせては離れ、突進したり横合いからすくい上げたりして、せわしなく動き回っています。
確かに見ていて飽きませんね。
「あれ、このりんご、どこから出てきたんですか?」
「ああ、弁当。俺の」
「持ってるんですか?」
「うん。ほら」
言うと、雨宿りさんは重そうなお弁当箱を鞄から取り出しました。
ふたを開けてみれば、ごはんにごましお、梅干しに卵焼き、おひたしに佃煮と、至ってふつうなおかずが並んでいます。りんごは、端っこに添えられていました。
なかなかおいしそうなお弁当ですね。
「わぁ、すごいです」
「普通だろ」
「これは誰が?」
「まあ、俺が」
「すごい、雨宿りさん料理できるんですか?」
「まあね。大したことないよ」
「わたし料理出来ないから尊敬ですよー。ちょっとこの卵焼きとかつまんでみていいですか? わたし甘いのが好きなんですが……」
「やめとけやめとけ。幽霊の一部を食べるなんて」
「一部?」
雨宿りさんの一部? このお弁当が?
確かに彼の持ち物ではありますが……一部とは?
……む、というか、よく考えたら数十年前に死んだ雨宿りさんのお弁当の中身なんて、今頃腐るどころか消滅しているはずです。言ってしまえば鞄だって相当ぼろぼろでしかるべきですよね。
これは一体……。
「いや、なんていうかさ」
雨宿りさんはこめかみをポリポリ掻きながら言います。
「俺にも詳しくは分からないんだけども、俺が死んだときに持ってたそいつらも、俺の一部として見なされちゃったみたいなんだよね。だから、すっごくヘンな言い方をすると、そこに置いてあるそれは、弁当の幽霊やら鞄の幽霊ってこと」
「お弁当の幽霊……」
地球一おかしな言い回しですね。ちょっと気に入りました。
「時々気が向いたときに食べてみるんだけど、ほっておくと元に戻ってるんだよね」
「へえ、便利ですね。あ、便利じゃないか。死んでるし」
「んー。歯に衣着せようか」
わたしは、雨宿りさんの隣に腰を下ろします。逆隣りではかぶと虫がチャンバラをしているので、いつもよりちょっと狭いです。
いつもよりちょっと、近いです。
「……」
ちらりと、わたしは横目で雨宿りさんを見やります。
彼の体は、スーツに多少土埃がついている程度で、外傷どころか服のほつれもありません。彼が死んだときから何も変化していないと言うならば――彼はそもそも、どうやって亡くなったのでしょう。
「雨宿りさん、あの、失礼ですが――どうやって亡くなったか……覚えてますか?」
「……今更『失礼ですが』って言われてもねえ」
ん? 今までわたしそんな失礼なこと言ってましたっけ。
「す、すいません……」
「いや、いいよ。気にしてないから大丈夫。あー、ちょっと待ってね」
雨宿りさんは中空を見つめ、ちょっと眉を寄せてなにやら思い出しているご様子。
あれー? そんな一生懸命思い出すほど曖昧なんですか?
「えーと、うん。たぶん熱中症」
たぶん、ですか。
「うん。なんか、さーって血の気が引いた後、ふら~っと意識が飛んじゃったからよく分かんないんだよね」
ええ……。自分の死に様なのに……。
「そ、そんな適当で良いんですか?」
「死んでみりゃこんなもん」
「悲愴感ないなあ……何か未練とかないんです?」
「いんや? 別にうらめしくない」
「そもそも本当に幽霊なんですかね……」
「それは俺も時々思うなあ」
何というか、気が抜けるというか……。
幽霊『らしさ』ってものが丸っきりありませんね。
「んー。強いて言うなら……」
「言うなら?」
「その未練を見つけるのが、俺の未練なのかもしれないね」
「……自分の未練を探す幽霊ですか。また変な言い回しですね」
ははっ、と。雨宿りさんは小さく笑って、ベンチから立ち上がりました。
「でも、あると思うんだよね。どこかに。あの日のどこかに」
「あの日の……」
雨宿りさんは空を仰ぎ見ます。なびく入道雲は、その目には映らない。
「俺はあの日で止まったままだ」
透明な空に向けられた彼の目には、いつの景色が見えているのでしょうか。
「でも、見つけたら、前に進める気がする」
それでもその目は、真っ直ぐでした。
「……見つかるまで」
「?」
「それが見つかるまで、暇つぶしくらいには付き合いますよ。雨宿りさん」
「…………ありがとう。ずぶ濡れちゃん」
ぴんっ。
「「あっ」」
小競り合いをしていたかぶと虫の一匹が、ベンチの外に放り出されました。
○
つうっ、と。
火照る頬をすべり落ちて、雫がシャツに落ちます。
蝉の声が林間を埋めつくし、肌にしみこみます。
日差しが地面をじりじりと焦がし、地面からの照り返しすら、目に眩しいほどでした。
「………………あつい、です」
「暑いねえ」
朦朧と視線を漂わせ、ため息とともにこぼしたぼやきに、雨宿りさんはなんということもなさそうに応えます。
「うぅ……何でそんな平然としてるんですか」
「いやあ、ふつうに暑いと思ってはいるけどさ。こう何年も何年もずっと外にいると、ねえ」
「……さいですか」
セーラー服の裾をパタパタさせて風を送りますが、濡れて張り付く布の感触があるのみです。うわあ、きもちわるい。
八月七日。
夏もいよいよ盛りに入り、気温も急激に上昇してきました。『昨日の方がよっぽどマシだった』という感想を日々更新中。
「でもさ」
雨宿りさんがいつもの調子で口を開きます。
「いいじゃん、ずぶ濡れちゃん学校行ったらプール入れるんでしょ? 水泳部なんだから」
「雨宿りさん、この際言っておきますが水泳ってそんな涼しいすぽーつじゃないんですよ?」
「そうなの?」
「暑いし、疲れるし日焼けもします。その上行き帰りが長いから全く涼んだ気はしません」
他の運動部の皆さんによく言われます。涼しそうとか楽そうとか。一日五、六キロ泳いでから言ってほしいですね。極めつけにあのおんぼろバスには冷房がついてませんし。
時刻は、いつものバスよりも一本分遅い午前十時。朝とは比べものにならない日差しに、わたしは力なくベンチに体を預けていました。くてっとして、しなびた野菜みたいな気分です。
まずここまでくるのに相当疲れました。いつもの倍は長く歩いたような気がします。はあ。
ぐったりのわたしを見、それからわたしの足元を見て、雨宿りさんは苦笑します。
「……というか、それはそのいつもの倍は重そうな荷物のせいでしょ」
「……まあ、そうですね」
わたしの足下には、いつもの通学鞄よりかなり大きなスポーツバッグ。てかてかと陽光を反射するそれは、確かに普段のものよりも数段重いです。わりといいお値段もしました。わたしはくすりと笑って、なめらかなその表面を撫でます。
「なんだって今日はそんな大荷物なんだい?」
「……今日はですね、隣町で水泳の大会があるんです」
夏の水泳大会。隣町の市民プールを貸し切って行われる、この辺では一番大きな大会です。これで規定タイムを突破すれば、県大会に進めるわけです。大きいと言っても地区大会。規模はたかが知れていますが、周辺のいろいろな学校の水泳部が一堂に会するのはなかなかに壮観です。水泳部がある、つまりプールがあるほかの学校はかなり遠いので、普段すれ違うようなこともありませんし。
「へえ、大会。ずぶ濡れちゃんも出るのかい?」
「はい。わたしこう見えてけっこう部活では活躍してるんですよ?」
「ふうん、意外だな。ずぶ濡れちゃんはどっちかっていうと、大人しめの文化系って感じがするけどな」
はあ、文化系。ですか。わたしは、日々の練習ですっかり浅黒く焼けてしまった自分の肌を眺めて言います。
「どこがです? まあ確かに元々文化系ですけども」
「いや、ここで会うときもよく本を読んでるし、それに--」
ぴっと。雨宿りさんはわたしの目の前に指を突き出します。
「そこだよ」
「……ほくろ?」
「いや、そんなとこにほくろないよきみ。目だよ。目。俺は学生の頃は、というか生きてた頃は『バリバリ体育会系!』みたいなダチばっかりだったからさ、そういう人の目を見ると『あ、俺たちと違うな』ってぱっとわかるんだよね。俺自身はそんな肉体派じゃなかったんだけど」
「ほー……」
「それに、その口調も、いわゆる体育会系的上下関係用の敬語じゃないよね。人格に根っから染み付いているような、違和感のない言葉遣いだ。育ちが、というか教育がよかったのかな?」
「ほえー……」
前から思ってたんですけど雨宿りさん、観察眼というか洞察力がありますよね。『幽霊の証明』のときもそうでしたけど、こっちの言葉端の違和感とか、その裏の感情とかを拾って、筋道立ててしまう。炯眼、と言う感じです。
ちなみにこの敬語については微妙に違いますね。教育が良かったと言うよりも、これは恐らく、ゴツゴツでガチガチのガテン系お父さんのもとで育った反動みたいなものだと思っています。自己分析ですが。
「んー、そだね。文学部とか似合いそう」
「あ、中学ではそうでしたよ」
「……中学では?」
急になにやら考え込む雨宿りさん。わたし今なんかおかしいこと言いました?
「どうしたんですか?」
「あ、いやなんでも。文学部ってことは、じゃあ小説やらを書いたり?」
「いえ、ひたすら図書室の本を読んでたらいつのまにか卒業してました。部員もわたしひとりでしたし」
「部活でやる意味あるのそれ? ……ていうか部活なのそれ?」
お喋りもひと段落ついたところで、すっかり聞き慣れたエンジンの音が響いてきました。わたしは荷物を手に席から立ち上がります。う、重い……。
ぷしゅー。と、いつも通り間抜けな音を立てて、おんぼろのバスがわたしたちの前で止まりました。
荷物を引きずるようにしてバスに乗せようと四苦八苦していると、ふっと手の中から重さが消えました。
「……あれ?」
背後から伸びた手がわたしから鞄を取り上げ、ぽいとバスに放り込みます。後ろを向こうとしたわたしの両肩に、ぽんと手が置かれました。意外にもがっしりとしたそれが、わたしの肩を優しく、それでいて力強く包んでいました。
「いってらっしゃい。がんばれよ」
肩越しに聞こえる雨宿りさんの声。
わたしは前を向いたまま、微笑んで友人に応えます。
「はい、いってきます」
「………………」
わたしは、沈んでいました。いや、気分がとかじゃなく、水中に。
プールの底から見上げる水面には光の網がゆらゆら揺れ、口から零れ出た泡が上っていって弾けます。
プールサイドの喧騒もどこか現実味なく遠くで響き、ひやりとした柔らかい水が心地よく肌になじんでいました。
こうしていると、なんだか自分が周りの世界から切り離されたような気分になります。
……静か、です。
視線を横に向ければ、少し先に壁。赤いペンキで書いてある数字を見るに、ただいま水深は一・七メートルです。わたしはウォームアップ用のプールの端っこ、ちょうど一番浅いところに居ました。斜めに見上げる向こうの水面近くには、まばらに泳いでいる人が見えます。陽光に輝く水面は、そのあたりだけくしゃくしゃにかき回されていました。再び視線を真上に戻します。
『……! …………!!』
透き通った水中に、遠くから友人の声が響いてきました。水中に反響するそれに耳を凝らせば、どうやらそれはわたしの名前を呼んでいるようです。むう、せっかくのんびりしていたのに。
わたしはすうっと水をひとかきし、プールの底を蹴って水面に向かいました。
ざぶん。
塩素の匂いのする空気が肺に流れ込み、頭上にあった喧騒が急にリアルになります。プールサイドを見れば、わたしに声をかけた友人は遠くでも何でもなく、ほぼわたしの真ん前にいました。
「……ぷはっ。さーちゃん、呼びました?」
「うわー、相変わらず息長いねぇ。ほら、あんたの番。そろそろだよ」
彼女は濡れた頬に張り付く髪を掻き上げながら、ちょっと不機嫌そうに言います。
「ん……もうそんなに進みましたか」
体をプールサイドに引き上げるわたしと入れ替わりに、もう競技が終わったらしいさーちゃんがプールに飛び込みました。なんだかクールダウンにしてはなんか泳ぎが荒々しいです。どうやら良い記録が出なかったみたいですね。
ぽたぽたとプールサイドに垂れた水滴は、びっくりするような速度で乾いてゆきます。突き刺さるような日光に焦がされ、地面は熱したフライパンのようにジリジリしていました。
「うわ、あっつ」
その容赦ない温度を足の裏に感じながら、競技用のプールに移動します。見ればちょうどわたしの組が召集されているところでした。危なかった。さーちゃんに感謝です。
横を見れば、同じ組の他校の女の子が緊張気味に合図を待っています。わたしの視線に気づくと、ぺこりと頭を下げてくれました。初々しくてかわいいですね。一年生でしょうか。笑顔で応えて、わたしも位置に着きます。
『女子、五十メートル自由形、予選八組のコース順を申し上げます。第一コース……』
響くアナウンスを尻目に、わたしは観客席の方を見やります。観客席と言っても、プールサイドの端にを椅子を並べただけです。各校の部員たちや、ぱらぱらと親御さんたちの応援も見えます。わたしの場合はお母さんが応援に来てくれているはずですが……。あ、いた。椅子の上で暑さにやられてぐでっとなってます。おーい。娘が泳ぎますよー。
えっと、それから――――
……それから?
わたしの視線は観客席のあたりをふらふらとなぞります。……あれ。なんでしょう。他に見るところなんてないはずですが。わたしは、何を探しているのでしょう? 視線の動くままにさせながら、わたしは思案します。ちょうど、話そうと思っていたことを、ふとした拍子に忘れてしまった時のように。
考えている間に、アナウンスで自分の名前を呼ばれました。あわてて思考を中断し、観客席と運営に頭を下げます。足元を見れば、髪から滴った雫がぽつぽつと点を二つ。自分の影に落としていました。
わたしはそれを見ながら、思います。
――――なんか、足りないなあ。
『いってらっしゃい。がんばれよ』
不意に、そんな声が聞こえた気がして、わたしは頭を起こしました。あわててあたりを見渡すも、その声の主の姿はありません。
「…………」
数瞬考えて、わたしは自分が何を、いえ。誰を探しているのかに気づきました。
――――ふふっ。ばかだな。
わたしは、空を見上げます。入道雲の間に覗く、深く透明な青空を。
そっか。わたしはいつの間にか、彼の姿を探していたんですね。あの古ぼけたバス停で、一人座っていた彼を。ひとりぼっちで、いつまで経っても変わらない空を恨めしげに睨みつけているであろう、彼を。
わたしは自分で少し驚きました。この前知り合ったばかりのはずの友人は、いつのまにわたしの中でこんなに大きくなっていたのでしょうか。
そしてわたしも今、同じように空を見上げています。
だけど、その空は――――
ちくり。
…………あれ?
なんだろう、この気持ちは。
…………『寂しい』。
寂しい。寂しい。寂しい。
でも、なぜでしょう。いつもだって、わたしは雨宿りさんとあのバス停で別れて学校に来ているはずなのに、こんな気分は初めてです。自分で理解できない自分に、戸惑います。
……。…………。わからない。わからない、けど。
――――深呼吸。
わたしは、前を向きます。
わからないけど、わかってることもあるでしょう。たとえばほら、雨宿りさんがなんと言ってわたしを送り出したのか、とか。
そう、『がんばれよ』と、そして――――
ふと、もう一度だけ観客席に目をやります。当然、雨宿りさんがそこにいるなんて都合のいい展開は起こりません。それに、起こらなくていいんです。
だって、彼は『いってらっしゃい』と言ったから。
わたしは『いってきます』と言ったから。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴぃーっ。
ホイッスルが五回鳴って、わたしは飛び込み台に上ります。構えを作って、水面を睨みます。
とりあえず、胸を張って『がんばりました』と言おうじゃないですか。
『用意……』
笑顔で『ただいま』と、言おうじゃないですか。
ぷしゅー。がたん。
バスが停車し、わたしは、今やすっかり見慣れた景色の中に降り立ちます。ペンキの剥げたトタン屋根が、テラテラと西日を反射していました。
うなりをあげて走り去るバスを見送り、わたしはバス停に向き直ります。
「……よう。どうだった?」
スーツのサラリーマンが、古びたベンチに座って、こちらに向け柔らかな笑みを浮かべていました。
相変わらず、振り向くまで居るのか居ないのかわからないような雰囲気のなさです。夕日の茜色を映す黒いスーツを眺めながら、今日もこっそり安堵しているわたしを確認しました。
「はい。優勝は惜しくも逃してしまいましたけど、次の大会には進めました」
「そいつは重畳。でも優勝は残念だったね」
「ええ、隣の子が意外な伏兵でした」
まさかあの緊張に縮こまってた子があれほどとは……出場名簿見てみたら三年生だったし。
「あーあ、ちょっと欲しかったですねー。優勝杯」
「いいじゃないか、来年もあるんだろ?」
「まあ、そうですけど。あ、そうそう聞いて下さいよ。今日さーちゃんがですね……」
「いや、誰?」
わたしは笑って、今日のことを報告します。ずっと待ってくれていた彼に。一つ二つと今日の出来事を話す間、雨宿りさんは笑みを浮かべて黙って聞いていてくれました。
少しずつ景色は青黒く変わっていき、森の空気を震わせるような蜩の声がわたしたちを取り巻いていました。
ひとしきり話した後、雨宿りさんは、それで、と言います。
「それで、ずぶ濡れちゃん。今日は楽しかったかい?」
「――はい。まあちょっと残念ではありましたけど、楽しかったです……よ……?」
………………あれ?
楽しかったですよ。それを口にした直後、なにかが胸に引っかかりました。
そう、楽しかったです。…………でも。
わたしの胸に、いつの間にか消えたと思っていた感情が蘇ってきました。ちくり。と。
「……ずぶ濡れちゃん?」
キョトンとして問いかける雨宿りさんの顔を見て、それから森の木々の向こうに沈む夕日を見て、わたしは笑って応えます。
「いえ――――なんでもありません」
ぎこちなかったかもしれませんけど、今のわたしには、この気持ちを正確に伝える言葉はありません。だから、今は『なんでもない』のです。
「……そうかい」
そんなわたしの表情を見て何か察したのか、雨宿りさんはそう言ったきりでした。夕日はいよいよ紅々と燃えて、その眩しさに、少し視界が滲みました。
「ずぶ濡れちゃん」
呼ばれてそちらを見れば、雨宿りさんはわたしと同じように、夕日を眺めていました。
「教えて欲しいんだ。今日は、晴れてるかな」
「…………」
「きみにも、同じ夕焼けが見えてるかな」
その目は優しく、そしてどこか、寂しそうでした。その表情に、また胸が疼きます。
…………痛い。
しかしその痛みは、寂しさを少しだけ和らげました。彼のその表情を見たとき、わかってしまったのです。雨宿りさんもまた、同じ痛みを感じていることを。
そして、気づきました。この痛みの理由に。わたしと雨宿りさんの間にある、越えられない壁に。
それは、時間。
自分の見ている景色が、相手にとっては存在していないかもしれない。
二人でいるけど、ひとりぼっちです。
わたしが見るのは、今日の空。
では、彼が見るのは、いつの空でしょう?
理由がわかっても、やっぱりうまく伝える言葉は出てきませんでした。
「……見えませんよ。雨宿りさんと同じ夕焼けは、見えません」
「…………」
わたしも、再び夕日を眺めます。太陽は、森の輪郭を真っ赤に染めて、木々の隙間から光を投げています。
雨宿りさん。こっちの空は晴れていますよ。そっちの空も、晴れているんですよね?
「でも」
じゃあ、きっと。
「きっと同じくらい、綺麗です」
「…………そっか」
雨宿りさんは、ふっと柔らかく笑って、目を伏せました。わたしも、目を閉じます。
きっと、この寂しさはなくなりはしないでしょう。
それでも、分け合えば、はんぶんこ。
分け合えば、つながる。
この痛みが、どんな隔たりも越えて、この大切な友人とわたしを繋いでくれるでしょう。
寂しさから、互いの存在を確かめ合えるでしょう。
「――ずぶ濡れちゃん」
「はい?」
「おかえり」
「……はい。ただいま、です」
茜色の残光が、木立の向こうに消えました。
○
雨宿りさん。
あのバス停に行けばいつだって、そこにいてわたしを出迎えてくれる、誰も知らないわたしのお友達。
いつしか彼との時間は、わたしの生活の中に組み込まれていました。
あの水泳大会以来、わたしはそれをより強く感じるようになっていたのです。
「おや。ずぶ濡れちゃん、今日はやけにハイカラな格好だね」
「その言い回しはあなたの死んだ年を考慮しても古いですよ。雨宿りさん」
「あれ?」
「……まあ休日ですし。おしゃれくらいしますよ」
「ん? もう日曜日か。というかずぶ濡れちゃん、いいのかい? せっかくの休日なのに。俺なんかのところに来るより、お友達と出かけたりした方が楽しいんじゃないの?」
「この辺に女子高生が遊べるところがあるとでも?」
「あー……うん。そりゃもっともだ」
毎日毎日、彼はいつでもわたしを待っていてくれました。
「おはよう。なんだか今日も大荷物だね」
「ちょっと遠いところまで行きますけど、今日はついに水泳の県大会なんです。わたしも出るんですよ」
「あー、この前のやつの続きみたいなもんか」
「はい」
「がんばってきなよ」
「はいっ!」
朝早くとも、日が暮れていても、必ず。
「お。お帰り。どうだった?」
「うぅ……県ともなるとやっぱり段違いといいますか。予選の中位で精一杯でした」
「あちゃあー。でも、精一杯頑張ったんだろ?」
「まあ、そうですけど。なんというかスポーツは結局、結果がすべてみたいなとこありますし……なんだかもやもやします」
「ふうん、結果がすべて、ね。じゃあその結果の話をしようか」
「?」
「今日、楽しかった?」
「――――はいっ」
「よし」
それが嬉しくて。その毎日は楽しくて。
……でも、なんでしょう。
「雨ですねえ……」
「ん? へえ、今日は雨なのか」
「ああ、見えないんでしたっけ。雨」
「雨どころか曇りも雪も見えないねえ」
「ただただ晴天だけ、と」
「まあそうなるかな」
「雨宿りさんどころか日照りさんですね」
「人を自然災害にみたいに言うな」
彼と一緒に過ごすうちに、わたしの中に、なにかが積もっていきます。
「雨宿りさん」
「ん?」
「雨宿りさんの通ってた高校ってどんなだったんですか?」
「高校? そんなもんこんなド田舎の一般庶民が行けるわけないだろう」
「え? えっと、じゃあ雨宿りさん、雨宿りさんはわたしくらいの年の時、何してたんですか?」
「いや、普通に中学生だったよ?」
「え? えっと、その、え?」
「ていうかきみだって、その年だったら高等女学校に通ってるはずだろう? 前言ってた『中学の頃』ってどういう意味? 女子なのになんで中学?」
「こーとーじょがっこー? えぇ? うぅ……ん? …………あ! わかりました!」
「なにが」
「雨宿りさんの頃と今では、学校制度の仕組みが違うんですよ!」
「なんと」
「えーと、そう。今で言う高校は、雨宿りさんの時代で言う『中学校』なわけです」
「へえ……そりゃ知らなかった」
「わたしの高校も、元は旧制中学だったらしいですし」
「男女一緒の学校に通ってるってことかい?」
「はい、もちろん」
「おったまげー」
「じゃあ改めて雨宿りさん、雨宿りさんの『中学校』ってどんなだったんですか?」
「えっと確か、隣町のほぼ中心にあって、校庭の真ん中に池が二つあるんだよね」
「ほうほ……う?」
「あと中学校なのに砂場やブランコがあって、というのも近くの小学校に長年校庭の一部を貸してるんだ」
「へ、へえ……」
「はは、ありゃ相当変わった学校だったなぁ」
「あはは……(あれえ? それってまんまうちの高校のことじゃ……?)」
それは、あのちくちくとした胸の痛みのようでいて、でもなんだか、落としちゃいけない気がして。
「おはようございま……あれ、いない……うわあっ!? なんで地面に倒れ伏してるんですかぁ!?」
「……あぁ、おはよう。今日は早いね」
「いやいやいや世間話には戻れませんよ!? 何なんですかその状況!?」
「いや、なんだ、その、死んだときの再現をね?」
「……再現? なんだってそんなことを?」
「…………いろいろと思うところがあるのさ」
「思うところ……」
「あ、そうそう。地面に寝そべっても服汚れないってなにげに便利だな」
「それが思うところじゃないですよね?」
そしてなぜか、それを意識する度に、この他愛のない日常を、たまらなく愛おしく思うのでした。
「ずぶ濡れちゃん」
「はい?」
「えいっ」
「ふぁっ!?!?!?」
「うわあー、やわらけっ」
「あまやろりはん!? いふぁいれふ! なんれほっへをふまむんれふか!?」
「いや、なんていうか、ホントにそこにいるのかなーって」
「あにわへわはんないほとひってるんれふか!?」
「ごめん何言ってるかわかんない」
「~~~ッ!! はなひてくらはい!」
「あ。ごめんごめん」
「なにわけわかんないこと言ってるんですか!?」
「うん。言い直しご苦労さん」
「それになんですか『ホントにそこにいるのかなー』って!? いますよ、失礼な!」
「礼儀についてはあまりきみに言われたくないけどね」
「――っ! なんなんですかもう! いるかいないかわかんないのは雨宿りさんの方でしょうが!」
「………………そうだね」
「?」
「うん。そうなんだよねえ。そうだなあ。俺の方がよっぽどいるかわかんないよなあ。なに言ってんだろなあ」
「えっと……雨宿りさん?」
「…………」
「……?」
「えいっ」
「ふぁっ!?!?」
そんな彼との毎日は見る間に過ぎ去って行き――
「あ。おはようずぶ濡れちゃん……あれ、なにその距離間」
「……もうほっぺをつままれてはたまりませんからね」
「あー、ぷにぷにだったなあ」
「~~っ!」
「わー! ごめんごめん! 鞄を振り回さないで!」
「……まったくもう。せっかく人が楽しい話を持ってきてあげたというのに」
「楽しい話?」
「聞きたいですか?」
「聞きたいねえ」
「そうですね……じゃあ、誠意を見せてください」
「誠意?」
「昨日のこと。真面目に謝ってください」
「……ごめんなさい! もう無断でずぶ濡れちゃんのほっぺをつまんだりひっぱったりこね回したしません!」
「されてたまりますか。んー、まあ微妙ですけど、許してあげましょう。わたしは器が大きいですから」
「そりゃ素晴らしい。で、なに?」
「雨宿りさん、今夜暇ですか?」
「俺が暇じゃないときはないよ」
「あ、そうでしたね。雨宿りさんは万年暇人でした」
「台詞に悪意こもってない?」
「気のせいです」
「あー……うん。わかった。それで?」
「はい、えっと、あの……うぅ……」
「?」
「こ、今夜……花火を見に行きませんか?」
夏休みは、終わりに近づいていました。
○
八月二十二日。
今日は毎年恒例の、いわゆる『納涼花火祭』が開かれます。
こちらへ引っ越してきたのは最近ですが、それまでに何度も遊びには来ていましたので、この花火祭にはほとんど毎年参加しています。規模は小さいですが、田舎の澄んだ空に、小ぶりながら鮮やかな花が咲くのはなかなか風情のある眺めです。
そして今。
時刻は午後八時を十五分程回ったころ。
わたしは、待ち合わせ場所のいつものバス停に向かっているところです。
「あ、いたいた。雨宿りさーん」
わたしは彼の姿を認め、カラカラと下駄を鳴らして走り寄ります。
「お、来たね……ってうわ。何その格好」
「ん? ああ、これですか」
くるり、とわたしはその場で回ってみせます。その動きについて、長い袖がひらりとはためきました。
よし、どうやら変なところもないみたいですね。
「えへへ、浴衣です。わざわざ箪笥から出して、お母さんに着付けしてもらいました」
わたしが着てきたそれは、薄紅色の地に、二匹の金魚が泳ぐ一番のお気に入りです。といっても、実は祖母の代からのものなので、身長が合うまで着れず、つまり着るのは今日が初めてになります。幼い頃からこれが着れるようになるのを楽しみにしていたものです。ついでに髪の毛もまとめてもらいました。
お母さんは、『あんたもそういう年頃になったのねぇ』とやけにニヤニヤしていましたが、やかましいわ。です。
「えらく気合い入ってるねえ……死人相手に」
「ワクワクが一瞬で吹っ飛ぶ発言はやめてください」
「結局俺スーツだし」
雨宿りさんは自分の体を見下ろして苦笑いしています。
「そこは……うーん」
でもそうですね。浴衣に対してスーツって……流石に絵面が悪すぎます。
せめてもうちょっと若者っぽい服だったらなあ……。
「んー。仕方ないなあ。ずぶ濡れちゃんのその気合いに応えて、俺もいっちょ青春っぽく行くか」
「?」
言うと、雨宿りさんは背広を脱ぎ捨ててベンチに置きます。続いてネクタイを抜き取り、ぷちぷちとワイシャツのボタンを二つ開け、袖をまくって最後にくしゃりと髪をかきあげました。
「ふふん、どうだい」
そこには、学生まで若返ったような雨宿りさんの姿がありました。
「わぁ……!」
なんて言うか、なんて言うか、高校の先輩みたいです。スーツのズボンも、うちの学校の制服の下と大して変わりませんし。さーちゃん、朗報ですよ。新しい友達はかっこいいです。
……あ、そういえば。
「ねえ、先輩」
「先輩?」
「気づいてませんか? 雨宿りさん、わたしの先輩に当たるんですよ。あの隣町の学校なんでしょう?」
そう。雨宿りさんにはまだ言っていませんでしたが、雨宿りさんは本当にわたしの先輩なのでした。
正確に言えば、わたしの高校の前身に当たる旧制中学の出身と言うことになります。
「へえ、ずぶ濡れちゃんが後輩か。なんか、面白いな」
「まあ、何十代も上ですけどね」
「まーね」
わたしたちはへらへらと照れ隠しのように笑います。
「いいね、なんかこういうの」
「そうですねえ、先輩」
「おう、後輩」
「先輩は後輩のこと後輩って言わないと思いますけどね」
花火祭は、夜八時半から始まります。
花火を打ち上げる辺りには、花火が始まる少し前からいくつかの夜店が開きます。お祭りに欠かせないあれこれが売りに出されるのですが、始まってからだと込んでいるし、せっかくの花火を行列に並びながら見るのももったいない。
しかし手ぶらで見るには味気ないです。
というわけで。
「ところで、さっきからその手に持っている袋は何なんだい?」
「これですか? ふふ、先回りして買っておきました。じゃーん」
わたしは持っていた袋から中身を出して見せます。
「お? うおっ、焼きそばとたこ焼きじゃん」
「ラムネもありますよー」
「おー、すげぇ」
……反応が完全にお祭りではしゃぐ子供のそれになってます。若返りすぎですよ。
ん? あれ? とっても得意げに見せびらかしたところですけど、雨宿りさんって、食べ物食べられるんでしょうか? お弁当は食べるって言ってましたけど、あれは『お弁当の幽霊』ですし……。
どうなんでしょうか。
聞いてみました。
「あー、うん。たぶん食べられるよー。ほら、俺ずぶ濡れちゃんの水筒にも触れたし。カブトムシにも触ってたじゃん。触れるんなら食べられるよ。たぶん」
食べられるそうです。
「そういうものなんですかねえ……?」
「そういうもんなんじゃない?」
じゃあ、そういうことにしましょう。
「ちなみに、逆の手に提げてるのは?」
「蚊取り線香です」
「おお、久々に嗅ぐ匂い」
「幽霊は蚊に刺されませんしね」
あれ、でも触れるんなら刺せるということになるんでしょうか。もし刺せるとして、吸った血は雨宿りさんの言うところの『幽霊の一部』ということになりますが……うーん、気になります。
「……にしても花火祭かあ、ずいぶんと久しぶりだな。生きてたときは毎年行ってたよ」
「おお、流石地元民」
雨宿りさんは懐かしげに目を細めます。
「死んでからは?」
「……。一人で花火見てもつまんないだけだろ」
「まあ……そうかも」
わたしは一人でも大丈夫ですけど……中学からは大抵一人で見に行っていたし。雨宿りさん、案外寂しん坊ですね。
「それはそうと――どこで見るんだい?」
「え?」
「だから花火をさ」
「……え」
どこで、ですか? んー、さして考えていませんでしたが、例年は店であれこれ買い込んだ後で、露店の近くの植え込みのあたりに座ってのんびり見ていました。順当にいってその辺りでしょうか。
雨宿りさんにその旨を伝えると、
「いや、言っとくけど俺、町や村には下りられないよ?」
………………え?
「以前試してみたことあるけど、なんていうかな。山の境辺りに来ると、どうしても足が進まなくなるんだ。なんかこう、理屈じゃなくて、足を前に出そうって気が失せるというか……」
……ええ?
「まあ、なんだ。つまり俺、地縛霊だから」
えええええええええええ!?
「雨宿りさん、ここから動けないんですか!?」
「まあある程度の自由はあるけどさ、山からは多分自分の足じゃ出れないみたい」
初耳ですよ! じゃあ水泳大会の時の切ない妄想も完全に希望無いじゃないですか。うわあ、凹みます。見に来てくれるどころか山から出れないとは……。
いやいや、そんなことよりどうしましょう。プラン崩壊です。いやそもそもプラン無かったんですけど。うわあ、わたし山の中から花火が見えるところなんて知りませんよ? どうしましょう、せっかく誘っておいて----
わたしがおろおろわたわたと困惑していると、見かねたのでしょう。雨宿りさんは一つため息をついて苦笑いを零します。
「仕方ないなあ、じゃあ俺が連れてってやるよ」
……え?
「俺だけのとっておきの場所に」
雨宿りさんはにかっと笑って言います。
雨宿りさんの、とっておきの場所?
「とっておき、ですか?」
「おう、とっておきだ」
今や彼の目は、青春真っ盛りの少年のような、いたずらっぽい輝きに満ちていました。
「始まるまで時間がない。急ごう」
そう言って、こちらに差し出される彼の手。
「ほら、行こうぜ後輩」
「……はい、先輩!」
きっと、今わたしも同じ目をしているでしょう。
わたしは、その手を取ります。
「そっちの荷物持つよ」
「あ、どうも」
袋を雨宿りさんに手渡し、彼の後について走り出しました。
繋いだ手からは、彼の体温が流れ込んできます。幽霊らしくもなく。
でもそれは、雰囲気のない、空気のような彼が、確かに存在していることを教えているようでもありました。
雨宿りさんの革靴がかつかつ音をたて、わたしの下駄がカランコロンと鳴きます。
二人並んで、わたしたちは森の中へ。
…………森の中へ?
「はっ……はぁっ……」
わたしたちは、林道の脇道を走っていました。
履き慣れない下駄を履いた足は痛み始めています。気を抜いたら石ころや木の根っこで転んでしまいそうです。
「もう少しだよ。……ほら」
「!」
不意に、視界がぱあっと開きました。
着いた場所は、森の中にぽっかりと穴をあけたような大きな池でした。
池。
「……」
「雨宿りさん」
「ん?」
「池、ですよね、ここ」
「池だね」
「……花火を、見に来たんですよね?」
「うん」
「………………」
周りは樹木鬱蒼と茂り、こおろぎの声が絶え間なく聞こえます。
手にした蚊取り線香が、ぱたぱたと続けざまに二・三匹蚊を落としました。
「こんなとこから見えるわけないじゃないですかっ!」
森の中から花火を見るなんて聞いたことないですよ!
確かにさっきのバス停よりは打ち上げ場所に近いですけども……。
こんな時までわたしをからかったんですか!?
「……せ、せめて少しでも始まる時間が遅れないでしょうか。その間に別の場所に……」
「無理だね。ここの花火は毎年八時半きっかりに一発目が上がるのが伝統だから」
「がっでむ!」
うぅ……先ほどのあの目はこういう意味だったんですか? だとしたらタチが悪すぎですよぅ……。せっかく楽しみにしていたのに……。
当の雨宿りさんはといえば、暢気に腕時計を見ています。
「雨宿りさん――」
文句を言おうと口を開いたわたしを、雨宿りさんは口元に人差し指を立てて制しました。
「……しー……っ」
彼はニヤッと笑って、そのままの指で、すっと池の方を指さします。
指し示されるままに、池に目をやった瞬間――
――水面に、花が開きました。
それに目を奪われた次の瞬間、頭の上で、ぱん、という小気味いい破裂音が響きました。
見上げれば、大きく開いた木々の間から、ちょうど花火が覗いています。それが水面に映り、極彩色の火花が空と水面、鏡写しに躍っていました。
木々で区切られた空は、狭いが故にいっぱいの花火で埋まっていました。
「……! う……わぁ……っ!」
雨宿りさんは、言葉を失うわたしを得意げに見やります。
「学生の頃は毎年、こっそりここに見に来たもんさ。実はここは打ち上げ場の裏なんだ。ぎりぎり山の中だし、どこよりも近い」
「すごいです!」
「惚れた?」
「いえ」
「うわ、ばっさり」
「でも」
「?」
「正直この眺めにはベタ惚れです」
「……気に入ってもらえて何よりだよ」
わたしはそれからひとことも喋らずに、水面と空の、光の乱舞に見入っていました。
光の筋が空を泳ぎ、頂点に達したところで花開きます。
寸の間遅れて、ぱん、という音。
次第に一度に上がる花火はその数を増し、空を見上げるわたしたちの頬を涼やかに照らしていました。
「 、 。」
ぽつりと雨宿りさんが何かを言った気がしましたが、花火の音でよく聞こえませんでした。
「?」
「あ、いや、何でもないよ」
雨宿りさんは取り繕うように喋り始めます。どうかしたのでしょうか。
「いや、誰かと一緒に見る花火なんて、何十年ぶりだろうなね」
言いながら花火を眺める雨宿りさんの目は、しかし花火の向こうの、どこか、遠くを見るようでした。
「きっときみが来なければ、俺はずっとあそこで、独りぼっちだった」
「雨宿りさん……」
そう言って、静かに笑いました。
わたしも微笑んで、また極彩色の水面と空を眺めます。
本当に、本当に綺麗です。
こんな景色を見せてくれた彼にお礼が言いたい。そう思って口を開きかけたとき、わたしは気づきました。
雨宿りさんの表情は、確かに優しげに微笑んでいるのですが、その目にはなぜか、わずかに退屈の色が。その微笑みには、あの夕日を見ていたどこかやるせなさげな寂しさが見て取れました。
そして、今やその視線は空ではなく、力なく地面に向けられていました。
――――どうして? 雨宿りさん、何を見てるんですか? いえ、何故見てないんですか? ほら、こんなに、空が綺麗に彩られているのに。
…………空?
「雨宿りさん、見てください。ほら、あんなに大きくて赤い」
わたしは、小さな緑の花火を指さして言いました。
「ああ、目が覚めるような赤だね」
………………。
わたしは、彼の横顔を見つめます。そして、気づきました。色とりどりの光に照らされながらも、その瞳には、花火が映っていませんでした。
「……っ!」
雨宿りさん、見えてないんですね?
考えてみれば、すぐ分かることでした。彼は本当に、一人で見る花火がつまらないと思ったから見に来なくなったのでしょうか? 彼は毎年、この場所にこっそりと花火を見に来ていたと言っていたじゃないですか。そう、『俺だけのとっておきの場所』に。
見に来なくもなるでしょう。彼にはもう、花火は見えないのだから。
何より、彼は何度も言っていたのに。『あの日と同じ空しか見えない』と。わたしは、そんな簡単なことにも気づかないで、独りよがりではしゃいでいたのです。
きゅうっ、と、胸が痛くなります。心が、痛くなります。
彼と同じ花火が見えないことに? いえ、そんなことではありません。
彼は、それでもなお、わたしに何も言わずに黙っているのです。見えているフリをしている。
嘘を吐いている。わたしに罪悪感を抱かせないために。
そんな嘘を、わたしは彼に、吐かせてしまっている。
わたしのための、優しく、そしてひどく悲しい嘘でした。
では、それを知ったわたしは、知ってしまったわたしはどうすればよいのでしょう。言えばいいのでしょうか。『気を遣わせてしまってごめんなさい。嘘を吐かなくてもいいんですよ。花火はやめにして、二人で一緒に見れるものを見に行きましょう』と。
その言葉は、優しく耳触りが良く――――我ながらあまりにも卑怯です。
確かに優しいです。自分にだけ。自分の罪悪感だけを薄めて、彼の気持ちを、丸ごと知らなかったフリして、自分だけを救うなんて。
そんなこと、許しちゃいけない。そんな自分を、許しちゃいけないんだ。
……だから。
「雨宿りさん」
「ん?」
「……花火、綺麗ですね」
「……そうだね」
わたしたちは、互いに互いのための嘘を抱え込みました。
空に光を散らす大小様々の花火を見ながら、わたしは心の中で、雨宿りさんに語りかけてみます。
ねえ、雨宿りさん、こっちの空は花火がすごく綺麗です。
あなたの見る空がどんな風なのか、わたしには見えませんけれど。
せめて晴れているといいなあ。
せめて星くらい、見えていたらいいなあ。
それならきっと、同じ空が見えるから。
彼に通じることが無くとも、精一杯の気持ちでした。
わたしたちは、静かに笑い合ってラムネの栓を抜きます。
飲み口から溢れだした泡が、互いの喉に涼を流し込みます。
かりん、と、ふたりのラムネ瓶のガラス玉が同時に音をたて、最後の大輪が鏡写しに咲きました。
「…………」
すうっと景色が暗くなります。わたしは余韻に浸りながら、静かに立ち上がりました。
「終わり……ですか。あー、キレイでしたねえ。ほんとに大感動です」
「……」
「じゃあ、帰りましょうか」
「……」
呼びかけるわたしには応えず、雨宿りさんは座ったまま池を見つめています。
「雨宿りさん?」
「……そろそろだな」
「……?」
雨宿りさんが、星明かりを映す水面を指さします。
「ほら、見て」
「……? …………っ!」
すいっ、と仄かな光が目の前をかすめました。
それに驚いている間にも、池の周りの草むらからひとつ、またひとつと、小さな光の玉がふわりと舞い上がります。
それらはどんどんと数を増し、淡い緑色の尾を引きながら飛び交い始めました。
「………………蛍」
「花火の終わりの楽しみだよ。花火が終わって、暗くなると飛び始めるんだ」
池は、今度は無数の光の玉を映して輝きます。淡く、儚く、美しく。
「花火、誘ってくれてありがとう。俺もなにかしてあげたかったけど、幽霊の俺にできるのは、これくらい」
「雨宿りさん……」
たくさんの光に包まれて、わたしたちはまるで二人だけで星空に浮いているようでした。
雨宿りさん。この蛍は、一緒に見れていると信じていいですよね。
「……ねえ、雨宿りさん」
「なんだい?」
「来年も、また一緒に来ましょうね」
「…………」
少しうつむいてから、雨宿りさんはふっと静かに笑って見せました。
「……雨宿りさん?」
その表情は優しく儚げで。
そして思えば、このとき彼の中でなにかが変わったことを、わたしに告げていたのでした。
○
八月三十一日。
夏休み最後の日。
……ではなく、わたしの学校では一足早く始業式です。
文化祭の準備も本格化する二学期の始まりである今日は、あいにくの大雨に見舞われました。
田んぼの水は溢れ用水路は増水し、蛙の大合唱すら大雨でかき消されています。
遠雷がごろごろ響き、時折稲妻が走るのが窓から見えました。水たまりもくっついてしまってもう池のようです。
最悪の天候。
まるで、夏の最後の悪あがきのようです。
なのに。
それなのに。
「まだ警報出ないって、もはや陰謀感じちゃいます……」
いやいや、さすがに出るでしょうこれは。
しかしラジオから流れる声は、大雨・洪水注意報しか出ていないことを無情に告げていました。注意報では学校は休みになりません。
つまりは新学期早々この大雨の中を学校に向かわねばならないということです。
なんということでしょう。
昨日まであんなに晴れていた空が(悲)劇的なびふぉー、あふたー。
バス通学に切り替えていたことがせめてもの救いですが……。
「ほらー、早くご飯食べないと遅刻するよー」
…………ブレませんね、お母さん。
わたしは階段を下ります。
あの後。
奇跡的に、雨は一時的に弱まりました。
その隙を縫うように、わたしは家を出ます。家の前には巨大な水たまり。本物のほうの池から飛び出してきた鯉が跳ねまわっていました。
「君も毎回毎回大変ですね……」
ちょいちょいと足で鯉を池に追いやってから、すでにびしょびしょになってしまった靴と靴下に嘆息しつつ、先を急ぎます。
あのバス停までは、大体十五分程度かかります。今日は雨が弱まるのを待っていたためにいつもより余裕がありません。滑る青草を踏みしめては、何度も転びそうになりました。
傘を差すのももどかしく、弱い雨とはいえずぶ濡れになりながら、走る、走る。
雨足は少しずつ強くなってきます。
それとともに、少しずつ近づいていた雷の音に、この時わたしは気付いていませんでした。
急げ。急げ。もう少し。
あの人は、今日もわたしをいつものように迎えてくれるでしょう。
あのバス停まで、もう少し。
曇り空を砕いて、雷鳴が轟きました。
水たまりが急に近づいて、雨粒が、わたしの背中を打ちます。
○
雨はすっかりその強さを取り戻し、辺りの景色も、またざあざあと降る雨にかすんでしまっています。
それでも何とか、わたしはあのバス停にたどり着くことができました。
もやがかかる視界の向こうに、あの錆びついたトタンの屋根が雨で洗われているのが見えます。
服はもうずぶ濡れ。
頭のてっぺんからつま先まで水浸しです。
そう、まるで――
「最初に会った時みたいだね。ずぶ濡れちゃん」
背後からの声に振り向けば、雨宿りさんがわたしに傘を差し掛けて立っていました。
「おはよう、ずぶ濡れちゃん。今日はまたひどい雨だね」
「え…………」
「さあ、おいで。風邪はもう引かないだろうけど、とりあえずは雨を凌ごう」
「……傘なんて持ってたんですね」
「一応鞄の底にね。さ、行こう」
「俺、ここを離れようと思うんだ」
雨宿りさんのその言葉を聞いたときの気分を一言で言うならば、
『----ああ、やっぱりそうなんだ』
といった感じでした。
予想していたわけではありません。でもその言葉は、不思議にわたしの胸にすとんと落ちたのです。
うつむきがちに、隣の雨宿りさんの顔も見ないまま、わたしはぽつりと漏らしました。
「見つけたんですか?」
雨宿りさんは、ゆっくりと寂しげな笑みを浮かべます。
「見つけた。そう言えるんだろうね」
「何を……?」
「ダメだよ」
いつもの調子のままで、雨宿りさんは初めてわたしをきっぱりと拒絶しました。
「雨宿りさん……」
「俺には、きみの答え合わせをすることはできない」
「……」
「でも一つ言えることがあるとすれば、俺が見つけたのは未練なんかじゃなかったってことかな。そんなもの、ある気がしていただけなんだ」
雨宿りさんは、横目でわたしと視線を合わせます。
「結局俺は、ここに存在していたかっただけなんだと思う。未練を探すとか何とか理由をつけてさ。生きているような気分でいたかったんだ」
視線を戻して、そして雨宿りさんは上を見上げます。天井ではなくちょっと斜めに、大雨の空を。
「強いて言うなら、俺は、生きていた自分にけじめをつけたんだと思う。あの日に残してきたのは、きっとそれなんだ。だから今、俺の時間は動き始めた」
……あの日の夕焼け。
思えば雨宿りさんは、あのときから気づき始めたんでしょう。『すでに存在していない自分』に。生きているような気分で、それでも時間から置いて行かれた自分に。わたしなんて、彼のその止まった時間の中にたまたま紛れ込んだまぼろしのようなもので、互いに見えていても、たとえ触れても、同じ時間は生きられない。
彼は『あの日』で止まっていた。だから、雨宿りさんはここには『存在していなかった』。たぶん、あの花火がそれを彼の中で決定付けたのでしょう。
「俺なんか、死んだ時点でとっくにいなかったんだ。まだいるようなフリをして、生きていた俺に固執して」
遠くから、水が跳ね飛ばされるような音と、唸りのようなエンジンの音が聞こえてきました。
雨宿りさんは立ち上がって、寂しげな表情をこちらに向けます。
「生きているきみと一緒にいてわかった。俺はここにいちゃいけないんだ、って。それを教えてくれたのは、きみだ。……ありがとう」
「雨宿りさ……」
「だから」
バスのヘッドライトが、雨宿りさんの背後から眩く輝きました。
「俺みたいに長居しちゃだめだよ。ずぶ濡れちゃん」
バスは、無人のバス停を通り過ぎました。
「えへへ、やっぱりわかります?」
思わず苦笑します。しばらくは気付かれないと思ったのに。雨宿りさんは苦い顔をして、ちょっと言いづらそうに口を開きました。
「……きみの体を見た」
「わたし、変な顔してませんでした?」
「いや、ほとんど無傷だったよ」
「よかった」
女の子ですもの。気になります。それが自分の死に顔でも。
「この雨に気づいて、心配だから見に行ってみればだよ。当の本人は入れ違いでバス停のほうにいるし」
「あはは……」
まったく、笑い事じゃないよ。言いながらも雨宿りさんは苦笑を漏らします。
「やっぱりさっきの雷で?」
「はい。たぶん感電死したんだと思います」
「そう。なんにしてもご愁傷さま」
「実感、無いですけどね。一瞬だったし」
死んでみればこんなもん。
雨宿りさんが以前言った台詞が、今更のように思い出されます。
まさか、本当にそうだとは思いませんでしたけどね。
「地縛霊になってなかったらだけど、自分の葬式くらいには出なよ?」
「お父さんとお母さんの泣き顔は見たくないなあ……」
「ダメだよ。区切りは付けないと。俺みたいになっちゃうぜ」
雨宿りさんはいつものように軽い調子で笑って、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でます。
ずぶ濡れで冷えきった体に、ほんの少し、彼の温もりが入り込んだ気がしました。
「俺みたいにずるずるとここにとどまってちゃダメだよ。きみがなにを探さなきゃいけないかはわからないけど、探すのをやめちゃダメだ」
「……はい」
その言葉は抽象的でしたが、それでも、雨宿りさんが何をわたしに言いたいのかはわかりました。
自分のように止まるな、求め続けろ。そして----進め、と。
「じゃあ、もう行かないと」
その言葉と同時に、道の向こうから、またエンジンの音が聞こえてきました。
「え? ……何で――」
キョトンとするわたしの頭をぽんっと軽く叩いて、雨宿りさんは道の向こうに視線を向けます。
バスは見る間にわたしたちの前まで来て、その飛沫が雨宿りさんのズボンの裾を濡らしました。
「……っ!」
そしてドアが開きます。
車内は目も潰れんばかりの光で満たされ、見通すことが出来ません。窓からも同様に光が溢れ、中の様子はまったくわかりませんでした。
雨宿りさんはバスの乗車口に片足をかけます。
「雨宿りさん」
その後ろ姿にわたしが呼びかけると、光の中の人影はゆっくりと振り返りました。
「……どこへ、行くんですか?」
「どこかへ」
「また、いつか会えますか?」
「分かんない」
光の中の雨宿りさんの表情は、影が差していて読めません。それでもいつもと同じ調子で喋る彼の声が、わたしの心をほぐれさせました。
「……正直言えば、きみには幽霊なんかになってほしくなかった。俺みたいに、なってほしくなかった」
光に目が慣れてきて、雨宿りさんの表情がわずかに見えてきました。
「何が、きみの人生のけじめになるのか、それは俺には分からない。だから、俺がきみに言えることは、何もない」
その顔は、いつもと違う寂しさを湛え、それでも笑って。
「でも、話したいことは、まだいっぱいあるんだけどなあ……」
わたしは、口を開きます。わたしだって、いっぱい話したいことがあるから。
でも、胸が詰まって、うまく言葉が出てこなくて。
「ずぶ濡れちゃん、ありがとう。きみと過ごした最後の夏が、俺は本当に幸せだった」
影が少しずつ光の中へ消えていきます。
「きみが見つけてくれて、幸せだった」
ああ、ずるいですよ。
自分の言いたいことだけ言って。
「それじゃあ、元気で----」
「雨宿りさん!」
光に呑まれていくその手を、わたしの手が掴みました。
「ずぶ濡れちゃん――」
嫌です。嫌です。
行かないで。
置いていかないで。
一人にしないで。
寂しい。寂しい。
ずっと一緒にいましょうよ。
優しい嘘も、なくならない痛みも抱えたままでいい。
また一緒に、蛍を見ましょうよ。
胸に渦巻いて溢れ出しそうになる言葉を必死に飲み込み、代わりにたった一言、吐き出します。
飲み込みきれなかった、一筋の涙と一緒に。
「わたしも、雨宿りさんに会えて、幸せでした」
光の中で、雨宿りさんが静かに笑ったのが朧げに見えました
そしてわたしたちは、別れの言葉を口にします。
今まで毎日言い合った台詞を、こんどはふたりを逆にして伝えます。
握りあった手を、握手の形にして。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
曖昧で不確かな、わたしたちの最後の会話でした。
ドアが閉まり、ゆっくりと動き出すバスを見送ります。雨宿りさんがいつもしてくれていたように。
眩しいのを我慢して、精一杯笑顔で見送ります。
あの窓の中は光っていて見えないけれど、あの中からわたしは見えるはずだから。
「……あーあ。行っちゃいましたか」
道に出て走り去るバスを見送ってからしばらくして、わたしはベンチに腰を下ろしました。
初めて、今までずっと雨宿りさんが座っていた側に。
そこに彼の温もりが残っているかなんて分かりませんでしたけど、彼が撫でてくれた頭には、それが確かに残っていました。
「……ちょっとくらい泣いたって、ばれないですよね。こんなにずぶ濡れなんだし」
言葉の最後は、震えていました。
伝い落ちる雨と違って、頬を濡らすその雫は、熱くて。痛くて。
上を向いても、止まらなくて。
「……行かないでよぉ……」
それでもわたしは進まなきゃいけないんだ。
彼と、約束したから。
弱音はこれで最後だと、わたしは大泣きする空に誓いました。
これが、わたしと雨宿りさんの、夏の終わりです。
○
「へえ、そんなことが」
わたしの隣に座る少年は、目を丸くして言います。昼下がりのバス停にて。
ふー、と息をつくと、彼は今しがた飲み干した空き瓶をくしゃりと握りつぶしました。
柔らかいですね。ぺっとぼとると言うそうです。そのなかでもとてもつぶしやすい種類だとか。
「それからずっと、そんなずぶ濡れのまんまなんすか?」
「まあ、そうですね」
「ホント最初はビックリしたっすよ。なんか使われてないバス停に、尋常じゃなく汗かいてる人がいるって思ったっすもん」
「む、失礼な」
あれから、随分と経ちました。
バス停はついに全く使われなくなり、バスはもう通っていません。晴れてバス停から廃墟に昇格(降格?)といった感じです。ぼろさにも磨きがかかりました。
もともと人が全く通らない場所でしたので、最近までずっと独りで暇を持て余していたのですが、たまたま涼しい日陰を求めてその辺をフラついていた彼が、最近は話し相手になってくれています。
「それで、ここでずっと未練探しっすか」
「見つかるのが未練かどうかは分かりませんけどね」
「……その雨宿りさんって人は、いったい何を見つけたんすかねえ」
「さあ? でも、それをわたしが知っても仕方ないですよ。わたしはわたしの何かを見つけなきゃいけないんですからね」
雨宿りさん、ごめんなさい。思いっきりしちゃってます。長居。
「そうっすね。……でも」
「でも?」
彼は優しげに、そしていたずらっぽく笑います。
「それが見つかるまで、暇つぶしくらいなら付き合うっすよ」
「おお~、少年、おっとこまえ~。どうです? わたしの恋人にでもしてあげましょうか?」
「遠慮しとくっす。ずぶ濡れさんのことは好きっすけど、幽霊は趣味じゃないんで」
「うわー正直。いっそ清々しいですね」
彼は、おもむろに周りを軽く見渡し、それからわたしを見て、言います。
「さっきの話で行くと、今ずぶ濡れさんにはこの景色、大雨にしか見えてないってことっすか?」
「はい。基本水浸しです」
「うっわ、つまんないっすねえ」
「歯に衣着せてください?」
なぜでしょう。今なんだかちょっと雨宿りさんの気持ちがわかった気がします。
「…………」
ざあざあと、雨のシャワーがトタンの屋根を軽快に鳴らして、水たまりに小さな飛沫をあげます。
髪の毛から伝い落ちた滴が、ベンチに落ちました。
――――この景色は、やっぱりまだわたしが進めていない証拠でもあるんでしょうね。
「……行ってらっしゃい、って、また会えるんすかねえ。そんな知らないとこ行っちゃったのに」
彼は、手を頭の後ろで組んで、空を見上げます。
「さあ、分かりません。ただ……」
「ただ?」
「案外ひょっこり帰ってくるかもしれませんよ?」
「また何で」
「だって」
わたしは視線を横に逸らし、ぼろぼろのバス停の隅っこを見て、思わずくすりと小さな笑みを零しました。
「あの人、鞄忘れて行きましたから」
「……そうっすね。僕も会ってみたいっす」
「ふふ。結構気が合うかもしれませんね」
探し物はまだ見つかってないけれど。
ゆっくりと、拾い集めていきましょう。
嗚呼、今年も雨に打たれて。
夏が、したたる。
〈了〉
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