第十一話 『ふたりのよる』
「やっぱり、ビールよりもジュースの方が美味しいよね……」
エヴァーガーデンの世界でも、子供染みた味覚はそのままのようだ。
竹製の器に注いだオレンジジュースを飲みながら、僕は独りごちる。
風呂上り、僕は縁側で寛いでいた。
ギルドホームの高い場所に建てられた僕の
部屋数はあまり多くないが、一つ一つの部屋はとても広い。お金さえあれば現実世界でも買えるだろう。例によって世界観ぶち壊しである。
ここはギルドホームの中でも高い場所に位置しており、広い芝生の庭を臨む縁側からは、街の大部分が一望できる。周りには、山に身を寄せ合うように植生する森林地帯。その向こう側には、ほぼ手付かずの草原に何本かの街道が走っていた。
既に時刻は午後七時を大分越えたあたりで、辺りは相当に薄暗い。西の地平に沈んだ晩照が、残り香のようなわずか光で草原を照らしていた。
商業区の家々も徐々に明かりを灯し始め、『鶏小屋』の中央から走る三本の目抜き通りが、光の川のような帯を象っている。
あの灯の下には、NPCの――亜人達の生活が営まれているのだろう。
「NPCすごい増えたねぇ……良い景色だけれども……」
この世界が滅亡の危機に瀕しているなんて到底思えない。
『水魔術』の初級
光量感知で自動的に点灯するよう設定してあった灯篭の火が灯る。システム機能は消滅したというのに、EGFでのそういう付加機能はまだ残っているらしい。
その光はLED灯よりも弱々しく、不便な事この上ないが、僕はこの奥ゆかしい明るさの方が好きだった。
「お風呂、いただきました……」
「先に入っちゃってごめんね。ユネも疲れているだろうに」
「マスターのお家ですから……」
ユネは首を横に振った。
彼女は水色のパジャマに身を包んでおり、腰の上あたりまである長い髪は、先の方で黒いリボンでまとめている。フェローと一緒の時間に寝る事はあまりないので、ユネの寝巻きスタイルは少し新鮮だった。
用意しておいたもう一つの器にジュースを注いで、彼女に渡す。
座るように促すと、ユネは従順に縁側に腰を落とした。
しかし――。
「……遠くない?」
その距離、実に五メートル。
「い、いえっ……」
これが四年間の間に広がった、僕とユネの距離とでも言いたいのだろうか。
辛い思いをしてきた四年間の裏で、暢気に平和に暮らしてきた僕への婉曲的な糾弾か。それをこんな方法で表現されるのは少し悲しい。
横を確認すれば、頬を赤く染め、僅かに目を伏せたユネの横顔。口元をへらーっと緩ませたり、キッと引き絞ったり、色々忙しい。
ああ、照れてるのね。四年ぶりだもんね。仕方ないね。
「ねぇねぇ、そんなに離れてたら、話できないよ?」
いやらしい笑みを浮かべながら、僕はぬるりと横にスライド。
アクロバットの初級
座ったまま五メートルの距離を滑った僕の姿は酷く気持ち悪いだろう。僕はビルドの関係上、多くのスキルを広く浅く取っているのでアクロバットの
「残念だったなユネ。そこは僕の距離だよ。ふひひ」
「そそそそそんなことにMP使わないでくださいっ!?」
「ほら、僕って、近接も魔法もだめだけど、MPだけは無駄に多いし」
顔を真っ赤にして抗議してくるユネに、僕はへらりと笑った。
器を持った左手と右手が触れそうな程度の距離。かつての僕とユネの距離だ。
「冗談は置いておいて……僕にとってはたった二週間だけど、ユネにとっては四年間なんだよね。辛いなら少し距離を置こうか? また、少しずつ慣らしていけば良い――」
と、再び距離を取ろうとする僕をユネの指先が制した。
水色のパジャマのだぼだぼの袖から少しだけ覗く白い指。
僕の甚平の裾を摘んだまま、そのままユネは視線を下げる。
「あのっ……近くに居てください……また離れてしまったら、今度こそ二度とマスターに触れられなくなってしまうような気がします……」
意を決したようにユネが言う。
「そうか、そうだね……じゃあ、離れられないように、もっと近くにおいで」
「え……近くってこれ以上……ひゃぁっ!?」
『合気道』スキルの初級
ユネは自分の欲求をあまり外に出さない。親としては手のかからない良い子ではあるのだが、男としては逆にそれが少し寂しい時もある。彼女が自分の願望を表に出した時には、思いっ切り甘やかしてあげなければ、いつかはパンクしてしまうだろう。
「甘えても、いいんですか……?」
小首を傾げてそう尋ねてくる。
その弱々しい言葉は、どこか僕との距離感を測りかねているようにも聞こえた。かつての自分はどうやって僕に接していたのか、どうやって僕に触れていたのか、そんな思考が不安そうに揺れる彼女の赤い瞳から見て取れた。
ユネの言葉には答えず、代わりに彼女の背中と頭に手を添えて、こちらにゆっくりと引き寄せる。
「良いんだよユネ、もう大丈夫だから。君は、君が望む事をすれば良い」
「……はい」
囁くように頷くと、おずおずと僕の身体に両腕を回す。
どこに手を留めたら良いのか――怖々と、文字通り手探りで探すユネの両手。普段は迷い無く剣を振るうトップレベルの術法剣士の面影はそこには無い。
しばらくして、ようやく落ち着く場所を見つけたのか、ユネが僕の薄い胸板に額を着ける。
「あは……マスターの匂いがします」
鎖骨の辺りに、彼女の吐息がかかる。お風呂に入ったためだろうか、わずかに湿り気を帯びていた。産毛を撫でるような感覚が少しくすぐったい。
「枯れ木のような、少し苦い香り……」
よりにもよって枯れ木か。
僕はりっちゃんやまーくんと比べると、情動がやや平坦らしい。その事をネタに、ギルドメンバーからはたまに『枯れてるね』とからかわれる事があったが、それをユネから直々に言われるとちょっとショックだ。
「でも、とても安心できる匂いです」
「僕としては、もうちょっと若々しい表現をして欲しかったけどなぁ。コロンでも付けてみようかな。ピーターさんのお店で売ってた焼肉の匂いがするやつとか」
おどける僕に、彼女はくすくすと笑った。
「それじゃあ、私はいつもご飯を持って行かないといけないですね」
「二人前で頼むよ?」
「マスターの分は大盛りにしておきますね」
「僕は少食だけども」
腕の中、僕を見上げてユネが微笑む。
周りにははもう夜の帳が下りていた。
灯篭が発する橙色の光と、ユネの独特な髪の色が混ざり合い、幻想的な色彩を呈している。
少し襟の開いたパジャマから覗くのは細い鎖骨。視線を落とせば、大き目のパジャマを着ていてもそれと分かる、それなりに豊かな曲線が彼女の胸元を描いていた。
全身を見れば、それは細く、実に頼り無い身体だ。しかし、ユネにくっつけた身体を通して感じるふにふにという柔らかい感触。
何と言うか、女の子の身体だった。
肉とか皮とか脂とか、そう言う物質的なものではなく、それは酷く観念的な感覚。
皆の揶揄は、全くの見当違いだ。
僕が皆の言う通りの情動が薄い人間ならば、今僕の中に渦巻いている、このもやもやとか、ぐるぐるとした感情は一体何だと言うのだろうか。
――人はそれを劣情と呼ぶ。
「マスター……何だかすごく真面目なお顔に……?」
「いやね、枯れ木でも人肌恋しくなる事があるもんだなぁ、って」
きょとんと一拍を置いて、ユネが照れたように目を逸らす。合点が言ったらしい。
「や、痩せっぽちのこんな身体じゃ、抱き心地なんて良くないです……更紗お姉ちゃんみたいに、女の人らしい身体の方がマスターもきっと……」
赤くした顔を隠すようにユネが両手で顔を負った。
「そんなことはないさ。君が君である限り、僕はユネにしか恋しさを覚えない」
「あの……久しぶりなので上手にはできないかもですけど、マスターが望まれるなら……その……あぅ……」
「……本当に君は可愛いなぁ」
パジャマのボタンに手をかけようとするユネの手を取る。
わずかに身じろぎをしたユネの髪が揺れる。ふわりと、蜂蜜のような甘い香りがした。
「四年間――いっぱい待たせちゃったね」
「私の利子は高いんですよ……?」
「あはは、それじゃあゆっくりと返して行く事にしようかな」
彼女の首筋に顔を埋める僕に、ユネははい、と頷いた。
ゆっくりと――果たしてどれだけかかるのだろうか。
一ヶ月? 一年? それとも十年?
ハッピーエンドに足る着地点はどこにある?
僕とユネの関係性、現実世界の僕の身体、エヴァーガーデンの安寧、それら全てが満足する最善解なんて存在するのか?
存在したとしても、『最弱の廃プレイヤー』であるこの僕に、それが成せるのか?
そもそも、これまでの出来事は全て虚構で、突然現実世界で目覚めるという可能性は?
ユネの甘い香りに満たされる脳髄の中、僕の中の一番冷たい部分が、僕にそう問いかけてくる。
その問いに僕は答えない。
夜が明ければ、この世界での現実が始まる。僕が望む望まないに関わらず、それは、淡々と、いくつもの事実を僕の前に並べて行くのだろう。
何の責任にも縛られずにユネに触れられるのは、これが最後になるのかもしれない。
だから、今夜だけは、この暖かさに身を委ねていたいと思う。
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