第六話  『もう一度その手を』



「ユネっ! しっかりして! 目を開けて、ユネっ!!」


 脚の上に横たわる彼女――ユネに向かって僕は叫ぶ。

 僅かに聞こえる呼吸は薄い。今にも消え入ってしまいそうだ。


 彼女の顔に視界の焦点を当てて意識を集中するが、変化は起こらない。EGFでは意識を集中すれば表示されたHPゲージとキャラクターネームが表示されなかった。

 たとえ戦闘不能状態であっても、キャラクターネームだけは表示される。しかし、僕の目の前にあったのは、浅い呼吸を繰り返す青白いユネの顔だけだった。


 視線を少し落とせば、ユネの胸を後ろから貫く太い円錐の物体と、表現すらしたくもない彼女の極めてリアルな惨状。かつてのEGFでは、こんな残虐ゴア表現見たことが無い。


「マス……ター?」


 ユネはゆっくりと、まるでまどろみの中にいたかように目を開いた。


 そして、僕を赤い瞳で見つめると、あの日のようににこーっと笑った。

 今自分の置かれた状況が、全く理解できていないような、とても穏やかな笑顔だった。


「あは……マスター……マスターだぁ……」


 まるで赤子が甘えるようにユネは僕に両手を広げる。その手は血に塗れていた。

 ユネ自身の血なのか、別のの返り血なのかは分からない。それでも、その細い指先から滴る夥しいほどの赤い液体に、僕の呼吸は思わず止まる。

 ユネの首には、ぼろぼろになった赤いマフラー。

 僕がかつて愛用し、最後に彼女に贈ったものだった。


「最期にまぼろしでもマスターに逢えるなんて……やっぱり私は幸せだったなぁ……」


 かすれた言葉の最後を待ってから、ユネの口から血があふれ出した。

 顔を歪ませてユネが荒く咳き込む。


 脚の上の温かさが少しずつ失われるにつれて増して行く、かつてのEGFでは決して感じることの無かったこの喪失感。それは大きな違和感を伴う。


「喋らないで、ユネっ!!」


 僕は電光石火の意識で、右手を虚空に走らせた。

 そして、思い描いていた現象は期待通りに発現――しなかった。


「アイテムウィンドウが開かない――何で!?」


 僕の焦りとは裏腹に腕の中の熱はどんどん薄らいで行く。

 アイテムウィンドウは諦め、僕は自らの外套の中に腕を突っ込む。

 混沌に蠢く外套の中に腕を入れながら、僕は一本の小瓶を思い描いた。


「感触あり――これなら!」


 引き抜いた腕に握られていたのは、虹色に輝く水薬ポーションの小瓶――『神樹のソーマ』だ。

 アイテムウィンドウは使用できないが、外套が有するアイテムの収納能力は使える――意味が分からない。


「良い子だから効いてくれ……頼む……!」


 美しい装飾のされたガラス瓶の口を躊躇いも無く叩き折り、虹色の液体をユネの身体にぶっかけた。飲んでも効果はあるが、今は一刻を争う。どちらでも効果は変わらない。


「ぐ……う……ぁぁぁっ……!」


 ユネが小さく苦悶の声を上げるが、神樹のソーマの効果は劇的だった。

 胸に開けられた大きな穴は、昔学校で見た粘菌の増殖映像のように、みるみる内に修復されて行く。さすがは課金アイテム。消費アイテムのくせに、三本でプラチナコイン五枚分――五百円もするだけはある。


 神樹のソーマの効力は、対象一名の完全回復及び完全蘇生。再使用時間リキャストは極めて長いものの、通常手段では不可能な散魂状態からの蘇生も可能な、数少ないアイテムの一つだ。


 EGFでの戦闘不能状態は『昏睡』、『散魂』、『死亡』の三つに分類される。

HPがゼロになった段階で『昏睡』となり、五分経過で『散魂』へと変化、そして更に十分を経て『死亡』に遷移する。

 昏睡はアイテムや技能アーツ等、様々な手段で治療が可能だ。しかし散魂状態は、この神樹のソーマのような限られた手段でしか回復することができず、死亡状態から蘇生する手段は存在しない。

 死亡状態になれば『消滅』をウィンドウから選び、事前登録したホームポイントでリスポーンするしかない。


「最後の一個だったけど、取っておいて良かった……」


 正しく言えば使い切れなかった、だけど。

 完全に傷の塞がったユネの胸元を見て、僕はようやく息をついた。




 ユネの顔を確認すると、頬には薄いが、健康的な血の色が通い始めていた。

 今までの焦燥感は嘘のように消えている。


 穴の開けられた胸元は完全に元通り。ただ、装備品――白と紺を基調にした戦装束には効果が無いようで、白い胸元がぱっくりと覗いていた。それなりに大きい。眼福だ。ユネに土下座して頼めば見せてくれそうな気もするけど――いや、そんなことは今はどうでもいい。

 そのやや目に毒な光景から視線を外し、僕は地面に伏せられたユネの手を取った。


 ユネの目が再び開く。とろんとした瞳がぱちくりと二度瞬いた。


「……マスター?」

「うん、僕だよユネ……久しぶりだね」

「まだ……夢の続きを見てるのかな?」


 ゆっくりと左右を見渡す。まだユネの意識のギアはセカンドくらいのようだ。


「いや、夢じゃない。本当に僕だよ」

「本当に、マスターですか?」

「ああ、本当だよ。本当に本物だとも」


 ユネの細い指が僕の頬をぺたぺたと触る。輪郭を描くようにゆっくりと撫でる。

 怖々としたユネの指使いは少しくすぐったい。


 夢でもなく幻でもなく。確かに僕が、実体を持ったヒビキというキャラクターが自分の目の前に存在する。それを確かめると、ユネは表情をゆっくりと崩した。


「うそだぁー」


 へらっと笑った。


 軽い表情だった。

 色々とぶち壊しだった。


「……」


 ここはいわゆる感動シーンの筈だったのに。ネットユーザー的に言えば『神回』とハッシュタグを付けられても良いシチュエーションだったのに。もうちょっと気の利いた甘い言葉とか囁いてくれても良い場面だと思う。いや、僕もさすがに今回は用意してないけれど。

 頭の片隅でちょっとだけ考えていたそういう期待が、根本からぽっきりと折れた。


「本当にぶち壊すね君は。がまるで奇跡だったように思えるよ……」

「……実はどっきりで、後ろにパネルを持った仕掛け人のひとがいるんですよね?」

「君はいつもどこから、そういうアンティークな知識を仕入れてくるんだい?」

「りっちゃん様が言ってました。『美味しい思いをしたらまず疑え。人生そんなに甘くない。どっきりは、じゃぱにーず・とらじしょなる・かるちゃーだよ』って……」

「うん、まぁ、僕の中でも検索候補の最初に出てくるね、りっちゃんは……」


 やっぱり出た彼女の名前。

 ユネがこういう大事なシチュエーションで、妙な方向にハンドルを切ることがあったりするのは、大体がりっちゃんのせいだ。僕の人生のラスボスに違いない。


 しかし、この場面でこれはあんまりにもあんまりだ。ジト目にもなる。

 このまま彼女の掌で踊らされているのも癪なので、少し物理的な手段に出てみることにした。


「これでもまだ信じられない?」

「ふひゃぁっ!? ち、近いですマスター!?」


 ユネの身体を引き寄せて、ごつんと額同士を合わせる。

 ユネの身体は僕の脚の上。彼女の上半身は僕が抱えている。ユネは顔を真っ赤にして、唯一自由になっている両脚をじたばたとさせた。


 視界一杯に広がるユネの顔。長い睫毛にりんごのような赤い瞳。瞳は至近距離で見れば縦に裂けているようにも見えた。酷く充血した目の下に大きなが出来ている。寝不足だろうか。


「ちょっと近すぎるかな。視覚エンジンのフォーカス合う? フェローも僕達と同じやつ使ってるはずだけど」

「あああああ昔と変わらずドライですね!? 今はじゃありません! ショック療法かも知れませんけど、私には刺激が強すぎますー!!」

「まだ少し寝ぼけているようだから、もう少し近づいてみようか」

「ち、近づくって……これ以上近づいたら私史上最大の大惨事に!? って、その顔少し楽しんでますね!? スイッチ入ってますね、ますたぁーっ!?」


 オンラインゲームの中だと性格が変わる人って時々いるけど、僕もその一人だと思う。さすがの僕でも、リアルではこんな暴挙に出たりしない。


 じたばたと慌てる彼女の表情をしばらく楽しんでからようやく開放した。すかさず座ったまま器用に後ずさり、僕と距離を取るユネ。少しショックだ。昔はあんなに良い子だったのに……。


「『クォーツ』と戦うときよりもよっぽどどきどきしました……」


 心なしかとなったユネは、orzこんなポーズで呟いた。


「ユネはそのポーズが似合うねぇ」


 これだけリアクションが取れるならもう大丈夫だろう。傷が開いた様子も無いみたいだし、体力も完全に回復したみたいだ。

 まだ少し頬に紅潮の痕を残すユネに、手を差し伸べる。


「そういうわけで……僕も一体何が何やらだけど、どうも戻ってこれたみたいだよ」


 別離からの奇跡的な再会、と言っても離れ離れになってたかだか二週間だ。それほどシリアスにするのではなく、多分この位の落とし所でちょうど良いと思う。


「ただいま、ユネ。また会えて嬉しいよ」

「マスター……」


 差し出された僕の手に、ユネがゆっくりと視線を落とす。

 そして本格的に意識が目覚めたのか、ユネの顔からすぅっと感情の色が消えた。


「……ユネ?」


 今の騒ぎが嘘のように彼女が沈黙する。

 久しぶりの再会で喜ぶかと思っていたが、それは僕の思い上がりだったらしい。


 あまりユネらしくない、どろりとした感情が赤い瞳の奥で淀んでいるように見え

た。

 僕の差し出した手を無言で見つめるユネ。こんな反応は今まで一度も見たことが無い――一体何があったと言うのか。


 彼女が僕の手を取ることは無かった。






「ユネ殿ぉっ!?」


 ユネが自力で立ち上がった後、よく通る男の声が聞こえた。色々と忙しい。


 振り向けば、がっちょんがっちょんとフルプレートの鎧を揺らす青年の姿。

 携えた白銀の盾には『風見鶏のとまりぎ』のギルドシンボルが金で刻印されている。

 一言で表すなら超イケメン。それ以上、それ以下に表しようがない。ちょっとした所作の度にキラキラとした粒子が舞いそうな程度のイケメンだ。

 それもそのはず。彼はEGF のサービス開始時、当時十四歳のりっちゃんが、容姿パラメータをいじりまくって二徹の末に作り上げたフェロー――『アルフレド・シナモン』その人だったからだ。


 マスターであるりっちゃんに忠誠の限りを尽くす聖堂騎士カテドラルナイトで、『風見鶏のとまりぎ』に所属するフェロー達のまとめ役でもある。なお、シナモンという可愛らしい姓は、当時のりっちゃんが、近所のパン屋のシナモンロールにハマっていたことにちなむ。


「アルフ君……良かった……無事だったんですね」

「それはこちらの台詞です! 単身での囮などという無茶をして!」

「……」


 アルフはユネを責めているわけではない。心底心配したような様子だった。

 ユネは冷たく目を伏せるだけで、何も答えない。


「そのような危険な行いは、私や他のフェローに任せて下さい。ユネ殿は、リィ様とヒビキ様に託された大事な御身体。何かあれば今は亡きヒビキ様に顔向けが出来ませ――」


 目が合った。


 こちん、と彼は凍りついた。凍り付いてもイケメンだ。

 イケメンは何をやらせても画面映えするなぁ。ずるい。もげろ。


「やあ、アルフ。久しぶりだね、元気にしてた? 残念だけど死んではいないよ」

「ひひひひヒビキ様ぁっ!? な、何故このタイミングでこのような……あぁ、コレはかつてリィ様が仰っていたドッキリですね!? 憎き『クォーツ』め、この私のリアクション芸をエヴァーガーデン中にばら撒いて、『風見鶏のとまりぎ』の信用を失墜させようと言う卑劣な――」

「やっぱり兄妹だなぁ……」


 うろたえまくるアルフに、僕は納得するように頷いた。


 僕とりっちゃんとまーくんは一緒にEGFを始めているので、僕らのフェロー同士もゲーム開始当初からの付き合いだ。どこに行くときも一緒だったため、ほとんど兄弟のような間柄である。

 ちなみにアルフが真ん中でユネが末っ子。今はこの場に居ない更紗さん――まーくんのフェローが、歳の離れた一番のお姉さんという脳内設定がある。


「アルフ君、皆――更紗お姉ちゃんや、北方騎士団の皆さんは……?」

「あ、ああ、大丈夫です。結果論になりますが、ユネ殿が『ワーム』を引き離してくれたお陰で、敵集団の大部分を殲滅することが出来ました。今頃は、全パーティで本営の撤退準備を始めている頃でしょう」


 心配そうに尋ねるユネにアルフが微笑む。


「アルフ、ユネ、横から割り込んで申し訳ないけど状況を説明してくれるかい? サービスが終了したEGFにログインできたこととか、ユネが大怪我をしていたこととか、僕には一体何が何やらだよ。ユネの様子も少し変だし……」


 重傷だったユネに、完全装備のアルフ。かつてのEGFでは耳にした覚えの無い幾つかの単語に、何よりログインしてから感じ続けているこの違和感。聞かずにはいられなかった。


「やはり、ヒビキ様もリィ様達と同じく……」


 アルフがユネに目配せすると、彼女は無言で頷いた。

 その素っ気ない態度はかつてのユネとはだいぶ異なる――本当にこの二週間で何があったと言うのか。


「分かりました。後ほど、今私達の置かれている状況をお話しましょう。少々お話が込み入っていますので、本営――いえ、ギルドホームに戻ってからとさせてください」


 『風見鶏のとまりぎ』のギルドホームはまだ健在か。いや、僕らプレイヤーが居なくなってから二週間かそこらで潰されちゃ困るけど。


「ですが……」


 と、アルフはそこで一拍置いた。

 彼の言葉を引き金にしたかのように、地面が揺れ始める。

 周りの岩山からぱらぱらと小石が転げ落ち、荒れた地面が細かい亀裂を作る。先ほどから僅かに聞こえていた地鳴りのような重いうねりが、にわかに大きく鳴り響いた。


「私達が合流するのは、を片付けてからでないと――」


 右手に長大な斧槍ハルバートを構えてアルフが口を結ぶ。


 地面が、割れた。




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