第四話 『終わりの向こう側へ』
『助けてください。マスター』
メッセージはそこで終わっていた。
身体の芯が強張った。
それは冗談ではなく、脊髄を氷の手で撫でられたかのような冷たい感覚。
肺が圧迫されるような息苦しさを覚えて、僕は一度だけ大きく息を吐いた。
ディスプレイに映る『マスター』という短い文字列。
僕のことをそう呼ぶ人間は一人しかいない。
「――ユネ?」
彼女の名前を言語化して明確に理解した。このメッセージは彼女からのものだと。
理解と同時に、無数の疑問が僕の頭の中を駆け巡った。『何故?』、『どうして?』、『どうやって?』。
あまり上等ではない脳みそが、なけなしのリソースを使い並行処理で僕に疑問を投げかける。頭の中に数え切れないはてなマークが乱舞する。しかし、それら一つ一つを満足させる論証を立てるまでには至らない。
『ユネからのメッセージ』と言う仮説に対して、僕は何の否定も疑問も呈せず、ただそれが真実彼女からのものである、そう認識した。
いや、それは嘘だ。
そう思い込みたかったのだ。それがユネからのメッセージであると。
指がこめかみに装着されたVRデバイスに触れる。
小心者かつ疑り深い――これが僕の自己認識だ。
石橋を叩くだけではまだ心配だ。渡れない。結局崩れるまで叩き続けて渡ることができない、と言うのが名取響一と言う人間――そのはずであった。そんな僕にとって、物事が仮説の段階のまま、それに対応する行動を起こすことは極めてイレギュラーな事態だった。
しかし、ユネからのメッセージ、彼女がまだ
この二週間で少しずつ整理してきた――自分ではそう思っていたユネへの想いが、たったひとつのメッセージで呆気無く初期化された。
自分でもよく分からない、熱情とも言える奇妙な感情に頭がぐるぐると回る。
滑らかにスタンバイ状態から通常起動状態に遷移したVRデバイスの音声認識APに、僕は起動命令を発した。
「APコード『エヴァーグリーン・ファンタジア』、実行スタンバイ。起動オプションはデフォルト。第一接続は自室メインマシンで」
何百、何千回も口にしてきたEGFの起動コマンド。だけどこれほど奇妙な感情を以ってそれを口にしたことは一度も無い。
僕の長年の相棒は五秒と間を置かず、VR接続用コンソールを僕の視界に投影した。
VRネットワーク接続準備中というステータスが表示された。
シークバーがゆっくりと動く。その間に、僕はベッドの上に仰向けに寝転がった。
LEDの蛍光灯に照らされた六畳分の正方形。
言うまでも無く、見慣れた自室の天井。
その色は僕の中にある一番古い記憶よりも、どこか日に焼けたように見えた。
「その前に……」
VRネットワーク接続の事前シーケンス実行の傍ら、まーくんにインスタントメッセージを飛ばす。日課のランニングの時間なので、直ぐの返信は無いだろう。それはそれで構わない。それほど長い時間向こうに居れるとも思えないし。
視界に表示されたコンソールの表示が変わる。そこには『接続スタンバイ完了』という素気ないシステムメッセージ。
「――起動」
実行命令を発して数瞬、意識が沈む。
古いエレベータが急に止まった時のような、身体だけをそこに残して魂だけが落ちていくような奇妙な感覚を感じながら。
僅かな間を置いての覚醒。僕は無限の広がりを持つ白い空間に居た。
僕の周りで色とりどりのしゃぼん玉が弾け、何百メートルもありそうな構造体がゆっくりと横を通り過ぎていく。しゃぼん玉が弾ける音は高く軽く、構造体が膨大な空気を押しのけて横切っていく音は低く重い。
まるで非現実的な空間ではあるが、現実世界のそれと同じく緩やかな空気の流れが
いつも通りのVR接続の視覚・聴覚の接続フェーズが終了すると、これまた耳慣れた管楽器のファンファーレが響き、僕の視界一杯に画像イメージが表示された。
イメージの上部には『エヴァーグリーン・ファンタジア』の文字。SNSサイトと全く同じ――青地の文字列に緑と茶色の蔦が絡まったデザインだ。緑溢れる大地を高い崖の上から俯瞰し、中央には手を繋いだ少年と少女の後ろ姿が描かれている。
一年前のグランドクエスト達成と共に最終稿として採用されたこのタイトル画面。背を向けた少女の姿はどこかユネに似ている気がする。
目の前に投影されたタイトル画面に指先が触れると、ポーンと言う電子音と共に波紋が広がった。
≪System Announce≫
≪VR-MMORPG エヴァーグリーン・ファンタジアの世界にようこそ!≫
≪接続するゲートウェイサーバを選択してください≫
「やっぱり、どのゲートウェイも閉じてるか……」
表示された接続先ゲートウェイのリストは灰色一色。灰色はサービス外――EGFに接続できないことを意味している。サービスが終了しているのだから、当然といえば当然だ。
EGFでは全世界を通して単一のゲームサーバに接続するが、接続のための踏み台にするゲートウェイサーバはある程度地域によって分割されている。日本からアメリカのゲートウェイに接続してゲームをプレイすることもできるが、通信速度や品質が落ちるだけで特にメリットは無い。
ゲートウェイの区分には、日本エリアに東南アジアエリア、北米エリア、オセアニアエリア、南極エリアなんていうのもある。
もちろんリストの表示は全て灰色だ。
それでも僕は、ゲートウェイのリストを更に下へとスクロールさせる。
スクロールさせどもさせども、その表示はどれも灰色。
徐々にスクロールバーは最下部に近づくが、不思議と僕に焦りは無かった。
最細分表示したゲートウェイの数は千を優に越えるため、その全てを見終えるには少しの時間を要した。
――そして見つけた。
リストの最下部。灰色で埋め尽くされたリストの中にただ一つだけ、緑色――『正常サービス中』のステータスを示すゲートウェイがあった。
『GW-0x00 □□□□エリア:正常稼動中』
「0番ゲートウェイ……十六進数表記でエリア表示は無しか。開発者用の検証ゲートウェイかな?」
検証ゲートウェイは、定期メンテナンスなどのサービス停止中に、開発者アカウントに限定公開されるゲートウェイだ。メンテナンス終了直前、最終的なサービスの正常性確認に使用されていたと聞く。
通常サービス時にはサーバごとダウンさせてしまうので、全ての開発作業が終了した現在、それが稼動しているのはおかしい――と言うか、そもそも僕のような一般アカウントで表示されていること自体がおかしい。
二ヶ月前に行われた最後のマイナーアップデートから、今までそれが放置されていたとも考えにくい。
「それでも他に方法が無いのなら……」
これはきな臭い。チープなものの例えをするのなら、何かハリウッド的な非日常の世界に巻き込まれれそうな、そんな感じ。
そう思うと同時に、そんなサイバーパンク的な展開なんかありえないという楽観と、ユネへの想いが僕の指先をリストへと運んだ。
そして、僕の指先がその『0番ゲートウェイ』に触れると同時。
ばちんっ!
擬似再現されたサウンドエフェクトを聴覚が認識するよりも先に、VRでの投影許容限界を遥かに超える痛みが、指先を通して僕の身体を駆け巡った。
リストから弾かれた僕の指先が稲妻の尾を引く。
「うぐぇっ!?」
蛙が潰されたような情け無い声を漏らして、僕はその場に蹲った。
指先から全身に流れた、焼け付くような痺れと痛みは、退く様子が全く無い。
それどころか、耳を劈くような大きな耳鳴りと、平衡感覚を粉々にぶちこわすような眩暈が僕を襲い始めた。
「ちょっ……これはITUとWHOの基準に引っかかるでしょ……」
VRゲームで初めて体験する、現実世界でもそうはお目にかかれないだろうと言う強烈な激痛に僕は悪態を吐く。
これは良くない。
痛みよりも、脳みそがぐわんぐわんとかき回されるような眩暈の方が気持ち悪い。耐え切れず、頭頂部を掻き毟りながら僕は身体をよじらせた。
≪System Announce≫
≪『GW-0x00 □□□□ゲートウェイ』が選択されました≫
≪ユーザID:10008230 プレイヤーネーム:ヒビキ キャラクターレベル:297≫
天上から慣れ親しんだ綺麗な女性の声が響く。
昔から変わらないその楚々とした声。誰が聴いても心地良く、聴き易い周波数にチューニングされた美しい声。それを地面に這い蹲り、のた打ち回りながら聞いているとなんだかムカムカしてくる。
一人だけすました顔しやがって。顔なんて見たこと無いけど。爆発してしまえ。
昔からあなたのことは気に食わなかったんだ。緊急メンテの時も淡々と告知するだけじゃなくて、フリでも良いから、もうちょっと申し訳なさそうにしてくれよ。
いくら現実の人間の声を使っていたとしても、ユネの方がよっぽど人間らしい!
≪住基ネット連携によるアカウント認証――正常完了しました≫
「う……ぐぅぅぅっ……」
この際だから言わせてもらおう。
六年間で溜まりに溜まったこの鬱憤、ここで晴らさないでいつ晴らすでか。廃ユーザの運営に対する恨み辛みは、アウストリアスの大環の海底遺跡ダンジョンより深いぞ。
イベント会場のラグ地獄。限定アイテムを無料配布とか、ちょっと考えれば分かるだろうに。複垢での多重取得でBAN祭りというのも実にいただけない。後付で告知するな。他にはモブのポップ調整。緊急メンテとかなんとかでいきなり切断された挙句、リログしたらそこはモンスターハウスとか、本当に洒落にならない。廃レベル帯のデスペナって取り戻すのにどれだけ大変か分かってるの?
まだまだ出てくる出てくる。
だけどだめだ。いよいよ頭が回らない。
≪GW-0x00とのREMAK応答によるQbW接続確認――正常完了≫
≪第○○形而世界『エヴァーガーデン』とのイデアコネクション確立――正常完了≫
≪□□□□との第七盟約 第百三十二条 第六項に基づき――≫
「ぁ……やば、ホントに落ち……」
システムアナウンスが耳慣れない単語を口にする。
しかしその声は、厚手の毛布に包まったようにもう殆ど聞こえない。
体中を苛んでいた痛みもどこか遠くに感じる。視界はぼやけて意識も朦朧。
焦点の定まらない視覚で、白い空間に無数の亀裂が入るのを見た。無限に続くと思っていたその空間は、がしゃんとガラスのような音を立てて呆気なく割れた。
外に広がっていたのは、何もかもが存在しない無明の空間。
そのどこが上か下かも分からくなった空間の中で、身体が強い力に引き摺られる。
決して視認することの出来ない、何か大きな渦のようなそれに巻き込まれる。
その前に、今度こそ僕は意識を失った。
そして声は言う。
それは僕には聞こえない。
その何も無い空間で―――あるいは空間ですら、何もかもが存在しないそこで。
≪□□□□ Announce≫
≪『エヴァーグリーン・ファンタジア』 グランドエンディング・アフターストーリー≫
≪最終エピソード『電気羊の異世界プロトコル』を開始します≫
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