続・色々な色 ④たーまやー! の末路……

 ※文末に今回の「まとめ」を掲載しています。

  読みにくい文章に耐えられない方は、一番下まで画面をスクロールさせて下さい。


 カイガラムシから花火に、テーマが飛びすぎてしまった今回のシリーズ。

 前回は花火の歴史に目を向け、徳川とくがわ家康いえやすとの関わりを紹介しました。


 家康いえやすが見物して以降、花火は急速に広まっていきます。


 大名の屋敷では、競うように花火を行っていたと言います。また徳川とくがわ家光いえみつが花火を奨励したことで、庶民の娯楽としても定着していきました。反面、花火が普及するにつれて、火事も起こるようになります。


 事態を重く見た幕府は、1648年に町中まちなかでの花火を禁じるおふれを出しています。しかし一度だけでは効果がなかったようで、以後も何度となく同じお達しが出されています。たった30年で人々を魅了するとは、やはり花火には日本人の心を掴む何かがあるようです。


 当時の花火は、今で言うロケット花火やネズミ花火が主流でした。

 1712年頃に出版された事典には、線香花火も掲載されています。また1613年に家康いえやすが見たことを考えれば、ドラゴン花火もあったと見るのが妥当です。


 現在流通している線香花火は、ほぼ100㌫中国からの輸入品です。

 国産の線香花火は高級品で、贈答用にも使われています。


 花火の花形である打ち上げ花火が登場したのは、18世紀中頃と見られています。


 とは言え、黎明期れいめいきのそれは、20㍍程度しか打ち上げられない代物でした。

 結局、江戸時代後期になっても、打ち上げられる高さは50㍍ほどだったと言います。


 現代の打ち上げ花火は、打ち上げる高さが決められています。


 花火玉が大きいほど花火も広がるため、高く打ち上げなければなりません。

 直径1㍍以上にもなる巨大な玉は、なんと地上750㍍もの高さまで打ち上げています。江戸時代の限界が50㍍だったことを考えると、劇的な進歩です。


 有名な隅田川すみだがわ花火はなび大会たいかいは、1733年に始まりました。


 元々は疫病えきびょう飢饉ききんで亡くなった方の慰霊祭で、悪霊を払う意味合いもあったと言います。ちなみに花火を計画したのは市井しせいの人々ですが、慰霊祭を行ったのは徳川とくがわ吉宗よしむねです。


 近年の隅田川すみだがわ花火はなび大会たいかいでは、2万発以上もの花火が打ち上げられています。打ち上げの間隔も短く、川面が黒く染まる暇はありません。


 一方、1733年の花火大会で使われた花火は、たった20発程度でした。

 しかも打ち上げ花火ではなく、ロケット花火や仕掛け花火で、間隔もかなり長かったようです。それでも江戸の人々は、歓喜したと伝えられています。


 この時、花火師を担当したのは、鍵屋かぎやの6代目・弥兵衛やへえでした。


 現在でも花火が打ち上がった時には、「たーまやー!」や「かーぎやー!」と掛け声を発することがあります。「屋」と付いている以上、花火屋の名前であることは何となく判ります。しかし「鍵屋かぎや」や「玉屋たまや」の詳細は、あまり知られていません。


 掛け声では先に来ることの多い玉屋たまやですが、元々は鍵屋かぎやからのれん分けされた店です。1810年頃、鍵屋かぎやに務めていた清吉せいきち清七せいしち新八しんぱちと言う説もあり)が、両国りょうごくに店を構えたのが始まりとされています。


 一方、鍵屋かぎやの歴史は、1659年にまでさかのぼります。


 初代の弥兵衛やへえ奈良ならけんの生まれで、店は日本橋にほんばしにありました。店を構えた当初は、主におもちゃの花火を販売していたようです。


鍵屋かぎや」と言う名前は、王子おうじ稲荷いなり神社じんじゃに由来すると言われています。


 王子おうじ稲荷いなり神社じんじゃにはキツネの像があり、鍵をくわえています。

 王子おうじ稲荷いなり神社じんじゃを信仰していた弥兵衛やへえは、これにあやかり、「かぎと言う名前を付けたそうです。また王子おうじ稲荷いなり神社じんじゃには「玉」をくわえたキツネの像もあり、こちらは「たまの由来になりました。


 玉屋たまやを開いて以降、清吉せいきち玉屋たまや市兵衛いちべえと名乗るようになります。同時に隅田川で行われる花火に加わるようになり、鍵屋かぎやと共に人々を楽しませました。


 一般的には両国橋りょうごくばしより上流を玉屋たまや、下流を鍵屋かぎやが担当していたと言われています。

 鍵屋かぎやより歴史の浅い玉屋たまやですが、人気は彼等のほうが高かったようです。掛け声を発する際、「たーまやー」が先に来るのは、この名残なごりかも知れません。


 しかし1843年、玉屋たまやは火薬の調合に失敗し、店を全焼させてしまいます。被害が街にも及んだことから、玉屋たまやは江戸の中心部から追放されてしまいました。


 以降、両店で行っていた花火は、鍵屋かぎやに一任されることになります。ただ、やはり玉屋たまやは人気だったようで、追放されたことを嘆く声は少なくなかったようです。


 玉屋たまやのその後に関しては諸説あり、断言することは出来ません。

 ある資料では、一代限りで廃業したと説明しています。反面、明治の中頃まで花火を作っていた可能性もあるようです。一方、鍵屋かぎやは2017年現在も、花火を作り続けています。


 ◇今回のまとめ◇

 ☆江戸時代初期の花火は、ネズミ花火やロケット花火が主流だった。


 ☆現在の線香花火は、ほぼメイドインチャイナ。


 ☆国産の線香花火は高級品で、贈答用に使われている。


 ☆打ち上げ花火が作られたのは、18世紀の中頃。


 ☆初期の打ち上げ花火は、20㍍ほどしか打ち上がらなかった。


 ☆現代の打ち上げ花火は、打ち上げる高さが決まっている。花火玉が大きいほど、高く打ち上げなければならない。


 ☆元々、隅田川すみだがわ花火はなび大会たいかいは慰霊祭だった。


 ☆当時、花火師を担当したのは鍵屋かぎや


 ☆玉屋たまや鍵屋かぎやからのれん分けされた店。1810年頃、鍵屋に務めていた清吉せいきち清七せいしち新八しんぱちと言う説もあり)が、両国りょうごくに店をもうけたのが始まり。


 ☆鍵屋かぎやの歴史は、1659年にまでさかのぼる。初代の弥兵衛やへえは奈良県の生まれで、店は日本橋にほんばしにあった。


 ☆「鍵屋かぎや」や「玉屋たまや」と言う名前は、王子おうじ稲荷いなり神社じんじゃに由来すると言われている。


 ☆玉屋たまやは火事で全焼した。しかも町に被害を出したことをとがめられ、江戸の中心部から追放されてしまった。


 ☆鍵屋かぎやは2017年現在も、花火を作り続けている。


 参考資料

 花火の事典

 新井充監修 (株)東京堂出版刊


 週刊 江戸 №30

 (株)デアゴスティーニ・ジャパン刊


 江戸早わかり事典

 花田富二夫著 (株)小学館刊

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