第21話 よくわからないけれど【彼】
店から出て、静香と別れた。本当の意味で。彼女の最後の笑顔が目に焼き付いた。ひどく儚げな笑顔だった。もしかして、今彼女は泣いているんではないか。思わず振り返って見たけれど、彼女の背中は凛として、一度も振り返る事はなかった。俺はのそのそと自分の道を進み始めた。
静香と出会った日もちょうど今ごろの季節だった。パチンコに負けて、自販機の影でホットコーヒーを飲んでいた時だった。
「靴紐ほどけてますよ。」
そんな風に彼女はなんで俺に声をかけてきたのだろう。いつも履いていたスニーカーの紐を俺は結んでいなかった。それでこけたこともあるくせに、結ばなかった。それくらい、当時の俺の中には何もなかった。
立ち止まり、スニーカーを見てみるとしっかり紐が結んである。あの頃とは違うスニーカーだけど、静香が結んでくれた。
「ほどけない結び方があるの。」
そう言って、買ったばかりのこのスニーカーの紐を結んでくれた。本当にほどけることはなかった。
スマホが震えた。彼女から今日の待ち合わせ場所を問うメッセージだった。彼女はこの結び方を知っているだろうか。知らない気がする。
静香に出会った頃、俺は本当に何もなかった。何も考えなかったし、何も感情が動かなかった。そのことに気付き始めたのはいつからだった?何も考えてないことに焦り始めたのは。考えるようになったのは。
静香のおかげではないのか。スニーカーの紐の様に、彼女は俺の家にきては洗濯をして、歯ブラシを変え、お茶を丁寧に入れてくれた。そういうものが少しずつ俺の中に降り積もってくれたから、俺は今こんな風に生きれる様になったのではないか。
今更気付くなんて。
言えばよかった。せめて最後。ただのお礼だけじゃなくて、もっとちゃんと。
もう見えなくなった静香が行った道をまた振り返った。もういないとわかっているのに。
追いかけるか?いや、それは違う。静香はちゃんと自分の道を進んだ。きっかけは間違いなく自分なのだから。
空を仰ぎみると綺麗な夕焼けにうろこ雲が広がっていた。なんだか無性に秋刀魚の塩焼きが食べたくなった。彼女にLINEをしてみるといい店を知ってるそうだ。
思い出した。あの日のご飯、秋刀魚の塩焼きを出してくれたんだっけ。彼女は家で魚を焼かないよ。臭くなるんだって。
ありがとう。本当に。届くといいな。
よくわからないけれど綺麗な夕焼けに祈った。
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