10, Witch and dead
「――ジェヴォーダンの獣、ですか」
いまいちよくわからないと、ルディの顔に書いてある。
斜陽が鎖されていく生徒用昇降口だ。部活動は未だに続いているようで、第二グラウンドからは活気のある声が聞こえてくる。
下駄箱に靴をしまう。腕から零れた中身を覆い、靴の方は脱ぎ捨てていった月乃のぶんは、そこらに散らかすままにしておいた。慌ててまとめるルディの律義さに目を細める。
コンクールを目指して練習に励む吹奏楽部の音にやられて、話題に上っているはずのジェヴォーダンは、保健室への道を先導する月乃の足許から、出てくるそぶりも見せない。沈黙した影を見詰めたまま、エリアナは溜息を吐いた。
「前の魔女がとんでもないヤツだったのよ。あれは――何? 魔女になったショックでああなったの? 元はクリスチャンだったんでしょ」
「私に言われても! 私、魔女の中ではそこそこ若輩ですから。お前たちよりはずっと長く生きていますが!」
月乃の頭の上でぐるぐると回る、跳ねた髪を見る。どう見ても毛束だが、彼女にとって――というより、
気にすることはしてやらない。
代わりに、名もない影の悪魔が名を得た話を聞かせてやる。
――ジェヴォーダンの獣は、十八世紀のフランスに現れた正体不明の獣である。
人を襲い喰らう、牛ほどもある巨大な黒い獣だったという。エリアナはちょうどその頃イギリスにいて、その姿をした彼女と直接顔を合わせたことはない。
元より意志の希薄な彼女は、契約を持ちかけられたときにもさしたる拒否はしなかったと聞く。フランスに潜伏していた悪名高い魔女が、とうとう新しい犠牲者を手に入れたというので、しばらく欧州では騒がれたのを思い出す。
「まあ、そういうヤツだったのよね。何て言うの、疑心暗鬼? 勝手に自滅するタイプの女っていうか」
案の定――。
ジェヴォーダンはそれに付き合わされて、見境のない殺戮行為に及んでいたという塩梅である。
もっとも、無理に従わされたということもなかろう。少なくともエリアナは、魔女に従うことはしても、その命を抗いがたい絶対としている悪魔を知らない。加えて、彼女は自ら動くことは少ないが、命じられれば躊躇のない性質だ。
まあ――命に並々ならぬこだわりを持つルディにそんなことを言えば、どうなることかは想像がつく。意図的に伏せた事実に気付く様子もなく、ルディはちらと月乃の影を見た。
とにかく。
かの魔女は人の中に紛れる天使にひどく怯えていた。
下級天使はまさしく機構といった風で、人に宿る知能も力もない。その分だけ欲と感情に毒されやすく、魔女の力にも人の力にも弱いのだ。
だが、それが上位となると勝手が違う。
感情も欲も知らない
そういう見えない敵を恐れるあまり、敬虔な女子供を中心に狙った殺戮の指示はやまなかったようだ。悪魔の襲来と知れば即座に皮を破り捨てる天使たちは、襲いさえすればすぐに判別できる。とはいえ、あの魔女の勘は思い違いばかりだったようで、上位天使との交戦の話はなかったと記憶している。
結局――。
派手な動きだったお陰で、その横暴も長続きはしなかった。
ジェヴォーダンが手にかけた人数が三桁に上ってからしばらくして、ようやく人に化けた天使がやってきた。
猜疑に踊らされる魔女に命じられ、獣の姿で現れた彼女は、その男が敵であることを即座に悟った。悪魔といえど、上位天使を相手に一人では到底太刀打ちできたものではない。人間の前でかの存在の皮を剥いでやるかどうか――と考えたかは知らないが、ともかくそこで、彼女は動きを止めた。
「勝つ手段を考えてたんだよ」
突然さざめいた影に、ルディが鋭く喉を鳴らしたのが聞こえた。
「その格好で喋ってるんじゃないわよ」
「姿を見られるよりはましだろ」
「こんな怪奇現象の方が見られたらまずいでしょうが。姿ならごまかしてあげてもいいけど」
彼女にも、彼女の魔女にも、確か幻惑の術は扱えないはずだ。
しばしの間がある。影から顕現したジェヴォーダンが、深々と溜息を吐いてエリアナを見る。引き裂かれたマントと騎士装束の隙間から、黒く影をこぼす傷跡が見えた。
「いくら天使とはいえ、人に収まったままじゃ思うようには戦えない」
「そうね」
それは事実だ。人間という器は、莫大な力を収めるには小さすぎる。
「だから上手くやれば勝てるんじゃないかと――思ったんだけどな」
その一瞬の逡巡が、向けられた銃口への反応を遅らせた。
神造武器に込められた銀の弾丸が、寸分たがわず己の眉間を狙っていることを感知したときには、既に発砲音は遠のいていた。フランスを恐怖に陥れた正体不明の
「で、撃ち殺されて終わりだ」
自分のこめかみに人差し指を向ける冗談めいた動作は、ルディには笑えないようだった。恐怖と同情をない交ぜにした表情で、じっと渦中の悪魔を見上げた。
気だるげな赤い瞳が、眼鏡の奥の目を見詰めている。口許は相変わらずぴくりとも動かない。同情を目に浮かべる女王の眼差しにも、思うところはないようだ。
「大変だったんですね」
「まあね」
それきり、無顔の魔女に付き従う悪魔は前を向いた。
「えっと、ちなみに、その魔女さんは?」
首を傾げる彼女に応じる声はない。当然である。こと周囲に無頓着なジェヴォーダンが、過去の契約者のことを覚えているはずがないのだ。もちろん、月乃ともなればなおさらである。
それで、エリアナの方が勘定をする。
「結構最近――三十年くらい前に死んだんじゃなかった? あれ嫌いだったから、よく覚えてないのよね」
「えっ、死、死んじゃったんですか」
「例の調子で突っかかって、本物の天使に当たっちゃったとか聞いたわよ。あの性格に付き合う悪魔も、これのほかにはいなかったみたいだし」
指さした先の銀髪を、ルディの瞳がまじまじと見つめた。
ジェヴォーダンにとっても初耳だろう。ほとんど契約者の影の中で眠っている彼女は、現実世界に疎い。表情を崩す様子はないが、感情に揺らぎはあるのだろう、エリアナの方を一瞥してみせる。
ルディの方は――。
わずかに眉尻を下げて、曖昧に影の女を見上げた。
「ご、ご愁傷さまです」
「よくある話だよ」
「そうなんでしょうか? でも――」
言いかけた声を笑声が遮る。さしたる興味もなさそうに話を聞き流していた月乃が、斜陽に光る眼鏡の奥で瞬いたのが見えた。
そちらに視線を向けてやれば、彼女はひどく楽しげな声を上げる。
「よく覚えてましたね。私、そんなのすっかり忘れてましたよ!」
「私も普段なら覚えてないわよ」
魔女は死ぬものである。
同胞の死にかまけている暇はない。次に神造武器の餌食になるのは自分かもしれないのだ。
であるから――焦点は死んだ魔女の方ではない。
「天使がパワーだったか何だかで、ちょっと話題になったのよね」
書に記される階級で言えば、六番目にあたる天使である。
六番目といえどそうそう動くものではない。大抵の場合は下位三階級が魔女狩りをして、中位以上の天使たちは天上で指示を飛ばすだけだ。元より最前線に立つ天使であると語られるだけあって、他の上位天使たちよりは能動的だが――積極的な降臨は珍しいことだった。
「ゲームで言うところの、レアボスキャラというやつですね!」
一言で纏めたのは月乃である。
驚愕よりも怒りに近い色を湛え、目を剥くルディが何か声を発する前に。
エリアナは鼻を鳴らした。
「ま、実質、ゲームみたいなもんよね」
「エリーまで!」
「本当のことじゃない」
にべもなくあしらってやれば、怒りは萎えたようだった。その代わりに色濃い悲しみを湛えて、ルディは瞳を伏せる。
「――死んだら戻ってこないんですよ」
「僕らは別だ」
君だって戻ってきた。
呟くジェヴォーダンが、月乃の代わりに保健室のドアへ手をかける。俯いたままの女王に一瞥をくれることもなく、無貌の魔女が扉の向こうへ転がり込んだ。
「こんにちは! アー、こんばんは、の方ですか?」
首を傾げた彼女の向こうで――。
黒い髪が振り向く。椅子に腰かけた女の、苦虫を噛み潰したような表情に、ルディが凍り付くのが感じて取れた。
髪と同じ漆黒の瞳が、無遠慮に傷付いた体を見回す。しばしの間をおいて、頭を抱えるように片手を額へやってから、彼女は魔女たちを睨みやった。
「高くつくぞ」
「私たちのは不可抗力よ。そっちに請求して」
指を向けた先で、月乃が笑顔のまま首を横に振る。女王が悪いんですよ女王が――などと言い訳の理屈をこねながら、彼女が女の影に隠れたところで、エリアナはようやくルディの方を見た。
言い訳に使われている女王の方は、普段は温厚な保健室の先生を見詰めて、声を失っているようだった。学園の魔女と悪魔には守銭奴として有名な彼女だが、一般生徒を相手にするときは猫を被っているようで、学内での評判は上々である。
もちろん、それはつい昨日まで
「あれも魔女。薬箱とでも呼んでおけばいいわ」
囁いた声を聞き取って、縫合用の針を手にした女が振り向く。剣呑な視線から隠れるようにしたルディの傷を一瞥して、彼女はエリアナに向き直った。
――地獄耳め。
心の中で毒づく彼女に気付いてか、女の瞳はますます険を深める。鬼のような顔の魔女に笑いかけてやれば、深々と溜息が返ってきた。
「君のツケもまだ結構残ってると思ったけど? 今ここで請求してやろうか」
「『気のせいじゃなくて?』」
「魔女相手に魔術を使うんじゃない」
ほんの戯れに向けた指先が押しのけられる。そのままルディの前に歩み寄った彼女は、鼻に残った血の跡に指を這わせた。
そのまま親指を口に含む。慣れた調子で噛み切られた魔女の皮膚に、契約の瞬間を思い出したのか、女王が慌てて声を上げる。
「あの、わたし、契約はもう――!」
「知ってる」
言うなり――。
――親指から這い出した血が、ルディの鼻を覆った。
処置は一瞬だった。顔を一発殴られた程度の傷は、魔女と悪魔にとってみればさしたる大事でもない。不快感に思わず顔をしかめるルディを尻目に、薬箱の魔女は既に次の処置に入っている。
ジェヴォーダンの方はなかなかに深刻だ。女王の力をまともに喰らって、生きているだけでも十分に運がいい。親指の傷口から零れる血が体を這うのをぼんやりと見ているが、相応に痛みはあるだろう。
まさか痛みまで夢の中に置いてきたということはあるまい。
影の悪魔が自身の
薬箱の魔女はわずかに青い顔をしていた。いかにも重たげに椅子に沈みこませた体で、彼女は処置を終えた患者を相手に、ぞんざいに手を振ってみせた。
「営業時間外だ。割増料金払ったら、さっさと帰るんだね」
頭を抱えた魔女に追い払われて、夕日も陰り始めた廊下に立つ。
ようやく帰れるんですね――と疲れ切った声を上げるルディにも、今ばかりは同意するほかになかった。
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