9, Witch is warming,

 斜陽は未だ校庭を照らしている。

 ひと気をなくした西日の中で、エリアナは対峙する影を見た。

 月乃に戦う気がないのは事実のようだ。丈の長い白衣で覆った手は、口許を押さえて動かない。

 腹の立つ態度ではあるが――。

 言及はしない。ここで気が変わられて困るのはルディだ。

 幸いにして、日没まではまだ時間がある。加えて遮蔽物がないグラウンドである。最も――とは言わないまでも、ジェヴォーダンにとっては戦いにくい場所のはずだ。

 それでも有利とはいえないが。

「ルディ」

 うろたえたままの少女の名を呼ぶ声が、自然と咎めるような色を帯びた。助けを求める赤い瞳を、今度は睨んでやる。

「腹を括りなさい」

 そんなこと言われても――尻すぼみに俯いた眼鏡が、夕日の反射で瞳を隠す。

 それでも、のろのろと動く指先は、剥き出しになった足にようやく触れた。

 引き締まった太ももが歪む。見る間に肥大し、狼のそれを彷彿とさせる形状を取った足先は、鋭く伸びた爪の先までもが黒く染まっていた。腕に同じ力を纏うことには躊躇があるようで、袖がはじけた右腕に触れる気配はない。

 感心したような声を上げるのは月乃である。微動だにしない己の悪魔の後方で、彼女は牙めいた歯を剥き出しに笑った。

「おや、力の使い方は知っていらっしゃるようですね? 記憶喪失だと聞きましたが」

「そういえばそうね」

 魔女二人分の視線を浴びたルディが、所在なさげに視線を足へやる。

 ――天使との戦いでは言及している暇もなかったが、力を扱うことはできるようだ。

 尤も、不安げにこちらを覗く上目から察するに、理解しているとは言い難い。言い訳でもするようにもごもごと動く口も、彼女の困惑をはっきりと伝えてきた。

「本当に、何となく――なんです、よく分からないですけど」

 使えるんです。

 尻すぼみに閉じた声は、それきり沈黙した。校庭に吹き抜ける風を待たずして、重い沈黙を容赦なく壊すのは、笑みを浮かべた無貌の魔女だった。

「まあ、戦うのに支障がないのでしたら結構です! 私の悪魔、準備を」

 言われる通りに頷いたジェヴォーダンが、おもむろに右腕を持ち上げる。

 溶け落ちるように、その細腕から影が零れた。生物めいてうねるそれが、肘の先に集まって、鎌を象る。ちょうどカマキリが持つのとよく似た形のそれを、彼女は興味もなさげに指でなぞった。

 ――ジェヴォーダンが生物的な得物を好む理由を、エリアナは知らない。わざわざ訊くような間柄でもない。拘りというほど強い意志を感じる女でもないから、おおかた本人にしか分からぬ真っ当な理由があるのだろう。

 ともかく、この戦いに関してルディに渡せる情報は少ない。それでも知らないよりはましだと結論づける。あちらが持っている女王への知識と比べれば、およそ公正フェアではないが。

 風になびく銀の髪を、食い入るように見つめる彼女の耳に唇を寄せて、エリアナは小さく囁いた。

「あれと影を重ねちゃ駄目よ。死にたくなければね」

 仔犬めいた狼は、喉の奥を鋭く鳴らした。

 そこで初めて、月乃が不服を顔に浮かべる。

「そういうことを先に言っては、面白くないですよ!」

「煩いわね。公正フェアじゃないのは嫌いなの。そっちだって女王様のことは色々知ってるでしょ、イーブンよ」

 言うことは他にない。軽く手を振ってやれば、気だるげなジェヴォーダンの瞳が持ち上がった。

 ――試合開始だ。

 西日を遮り、影が迸る。悪魔の影から伸びあがる切っ先が、ルディの首筋を狙った。

 咄嗟に少女の腕が弱点を庇う。赤く飛び散る液体が、グラウンドに黒く染みを残した。

 小さく呻く女王がバランスを崩したのを、影の悪魔は見逃さない。

 跳躍した銀糸が夕日に染まった。無防備な娘の懐めがけ、右手の鎌が振るわれる。

 果たして――。

 辛うじて逸らされた体を見送る赤い瞳が、かすかな喜悦に染まった。

 西日に伸びた影が重なる。奇妙に波打った二人分のそれが、音もなく爆ぜる。

 光を遮られて振り向いたルディを――。

 黒が呑む。

 悲鳴をも遮るそれに体を拘束されて、無防備になった顔に、ジェヴォーダンの左手が食い込んだ。

 吹き飛んだ眼鏡の行方を追って、エリアナの視線はルディを離れる。しばしの静寂が満ちた中で、影の悪魔はようやく声を発した。

「で――反撃は?」

「味方に攻撃するなんて、わたし、できません」

 鼻から零れた血を気にも留めずに、ルディはなおも停戦を要求している。人としては至極真っ当な言い分だ。

 魔女や悪魔にとっては、似つかわしくないことこの上ない。

 能面のような顔をしていたジェヴォーダンも、わずかに呆れの色を浮かべたように見えた。伺い見る月乃の表情は未だ崩れない。それどころか、ますます現状を喜んでいるようにも見える。

 深い溜息が影を揺らした。

「悪魔は殺し合うものだ。僕も君には何回殺されたかわからないし――」

 持ち上がる鎌に、逆光で影がかかる。日暮れにたたずむ影が黒く染まった。

 こらえきれずに月乃が笑った。悪趣味に漏れた声が、外界から遮断された耳に届く。張り詰めた静寂の中にあって、憂いを纏う赤い瞳は、低く声を漏らした。

「今から何回殺すかもわからない」

 狼の首筋に鎌が当たる。

 ここにきてようやく、エリアナの心が揺れた。死ぬだの殺すだのと散々言ってきたが、彼女とて本気で口にしたわけではない。今回の手合わせは単なる小手調べだ。天使との戦いとは本気度が違う。

 ――どうやら、そう思っていたのは彼女だけのようだったが。

「ちょっと、そこまでやる? 今日が初陣よ。手加減なさい」

「一回くらい殺せば衝撃で戻るかもしれないだろ」

「そりゃそうかもしれないけど――」

 にべもない返答に息を吐いた。悪魔は死んでも死なないのだから、一度の殺害はショック療法としてはメジャーなのかもしれないが、ルディ――ひいては女王の場合は事情が事情だ。

 もう一度殺されるのだけは、勘弁してもらいたい。

 自身の感情を上手く表す言葉が見つからないうちに、唇をわななかせたのはルディだった。

一回くらい、、、、、?」

 その声が。

 天使と対峙したときのそれとよく似ていて、エリアナは拘束されたままの少女を見た。

 自由な指先が握られて、右の掌に触れるのを見る。見る間に歪んだそれが黒い狼の爪に変わる。いとも容易たやすく千切られた影の鎖に、ジェヴォーダンの瞳が驚愕を湛える。

「軽々しく――命を語るなァッ!」

 力任せに突き出された拳の一撃が、女の腹をまともに捉えた。

 不意の衝撃に吹き飛ぶ体を追う。一度の跳躍で一気に距離を詰めた彼女は、立ち上がる猶予さえ許さない。

 本気で殺す気だと、さしものエリアナも悟った。

 駆け出したところで脚力は人間と同じだ。月乃にほど近い場所で戦いを続ける彼女たちに届こうはずもない。最悪、あれが死んでも構わないか――と思いながら、なおも足に力を込める。

 恐れているのは、影の悪魔の死ではない。

 女王の一方的な暴虐は続く。ジェヴォーダンの頭を左腕で地に押さえつけ、変化した右手が持ち上がる。殺戮の爪は、満悦の笑みを浮かべる月乃の腕を掠め――。

 息が鋭く詰まる。斜陽にぎらつく黒い腕も気にならない。今まさに月乃を捉えんとする眼差しの前に飛び出して、その左腕を強引に引く。

 ――胸の中にとらえた頭の感覚に、エリアナは安堵の息を吐いた。

 衝撃で我に返ったらしいルディの吐息が、制服に熱を孕ませる。それが生きている、、、、、人間のそれであることに、肩の力が抜ける思いがする。

 目の前の魔女は――。

 被った人間の皮の下から、黒く蠢く不定形の化け物を、わずかに晒していた。

 見るだけで精神に干渉してくる、形容不能の中身、、だった。エリアナですら、見て良い心地はしない。未だ精神が人間に近しいルディであればなおさらだ。やり場をなくした視線の先で、ジェヴォーダンは自身の魔女を見ないよう、背を向けてのっそりと立ち上がっているところだった。

 ぎひひ、と悪趣味な笑い声が響いた。高揚しきった瞳が満足げにエリアナを見る。

「こういうのは反則になるんでしょうか? 悪魔に反則も何もありませんか!」

「うだうだ言ってないで、早くそれ、隠しなさいよ」

「これは失礼!」

 裂けた白衣ごと、もう片方の手が傷口を覆った。

 それで、ようやくルディを離す。眼鏡をなくした瞳の下が赤く染まっていた。あからさまに視線を逸らす彼女から、エリアナもまた視線を離す。

「――で? もう結構かしら?」

 鼻を拭く少女を横目に捉えながら問えば、返答には少々の時間があった。

「どうします? 私の悪魔」

「君の仰せの通りに」

 言うなり影に戻ったジェヴォーダンに、戦意はないようである。ついでに月乃の思考もおおよそ把握しているようだった。

 事実、さざめく己の影に頷いて、月乃は満足げに笑った。

「今日のところは、ここまでとしましょうか。女王の動きは充分に観察させていただきましたし!」

「そうして頂けると、ありがたいわね」

 感情の読みにくい表情に息を吐く。

 最後まで彼女が介入して来なかったのが奇跡のようだ。気まぐれで奔放な無貌の魔女は、いつその姿を晒すか分からない。精神干渉にある程度の耐性を持っている魔女たちは、一部だけであれば耐えることもできるが、斜陽の元に全容を晒されてはたまったものではない。

 ましてルディでは――。

 到底耐えきれるものではなかろう。悪魔の耐性には個人差がある。彼女と契約しているジェヴォーダンなど、あれを直視すれば到底生きてはおられないほど、中身、、が苦手なのだ。

 安堵したのはエリアナだけではないようだった。へなへなとくずおれたルディが、自身の眼鏡を這うように探しながら、涙ぐんで笑った。

「よかったぁ。ようやく帰れるんですね」

「まだよ。止血くらいはした方がいいでしょう?」

 眼鏡を渡しながら言ってやる。ひび割れがひどいようだから、至近距離でにこやかに笑ってやったエリアナの顔も、ガラスの亀裂に邪魔されていることだろう。明日にでも買い替えてやらねばなるまい。

 それでも――。

 魔女の方からは、見開かれた丸い瞳がよく見えた。

「もう帰りたいんですけど!」

 腹の底から大気を揺るがす叫び声は、今度こそ無視された。

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