11, Witch and Quack
予備の制服を渡す。
実にせわしない一日が終わり、朝日が昇ってもなお疲弊しきった顔で休息を訴えるルディを叩き起こして、エリアナは自身の髪をまとめている。鏡を見ることなく、完璧にまとめ上げる作業にも、いい加減に指先が慣れた。
その様子を興味深げに見守る悪魔に、一瞥をくれる。
服はともかく、ひび割れた眼鏡ばかりはどうしようもなかった。視界が欠ける感覚は、エリアナには想像のしようがないが、不便なことは不便だろう。こちらもどうにかせねばなるまい――と、悟られぬように溜息を吐く。眼鏡が原因で戦闘力が落ちたのではあまりに情けない。
「週末、制服と眼鏡買うついでに、貴女の家の処理でもしてきましょう」
頓狂な声で応じたルディが、首を傾げて目を瞬かせたのが見えた。
その手にあるのは、エリアナが天使との戦いに備えて買い溜めた制服の一つだ。幸いにしてルディとはそこまで体型が離れてはいないし、残りの三日ばかりを乗り切るのにも支障はないだろう。
結んだ長い髪に、念のため手櫛を通す。流れるように指を通り抜ける感触に、自賛の溜息が漏れた。
「お母様とお父様、いらっしゃるんでしょ。幻惑かけて、貴女の存在をなかったことにするの。でなきゃそろそろ行方不明扱いよ」
「それは――必要ないと思います」
弱々しい声に向き直る。
俯いた少女は、真新しい制服をのろのろと持ち上げていた。眼鏡の底の瞳がどんな色をしているのか、エリアナからは窺い知れない。
曰く――。
元から両親との折り合いは悪かったのだという。どちらにも似なかった外見のせいなのだと、言いにくそうに語尾を濁す。
緩やかに横たわっていた確執は、狼になった日から急激に加速した。学校に近いマンションに部屋を用意され、生活に必要な金を振り込まれ、電話越しの会話すらなく暮らす――。
だから親のことはいいのだそうだ。
「元々いないようなものだから、わたしは」
振り絞るように言って、ルディはパジャマの上からスカートに足を通した。
悪魔の外見が転生で変化することはない。人のように生まれてしまったというなら、どちらにも似ない娘の遺伝子の出所で揉めるのも道理だ。両親が人だったというのなら、狼に変身する娘など恐ろしくてたまらないのだろう。双方ともに哀れな話である。
哀れではあるが。
「手間は省けるわね。家賃は?」
「両親が払ってます」
「そう。どうしたい?」
「どうしたいって」
ようやく、ルディの瞳がこちらを見た。自身の制服を纏いながら、魔女は金色の目で悪魔を一瞥する。
「家に帰るつもりがあるなら、貴女がそこで生活してるってことにしてあげる。そうじゃないなら引き払ったことにするわ」
どちらにせよ、さしたる労力ではない。学校の随所にかけたのと同じ術式をルディの部屋にかけるか、管理人を幻惑するかの違いだ。
エリアナの家にいる限り、彼女の地位は人型のペットを脱しない。相応に尊厳のある人間ならば、そうそう耐えきれる状況ではないだろう。心が追い詰められる前に放してやらねば、契約者としては胸を張れまい。
息をするだけの沈黙が、しばらく続いた。服を着替える衣擦れの音だけが響く室内で、静寂にかき消されそうな声がようやく答えを返す。
「――ここにいます」
「意外ね」
「家にいたって、どうせ独りですし、それに」
言いにくそうに口を閉じたルディが、スカーフを巻きながらエリアナをちらと見た。普段から見えにくい眼鏡の奥が、ひび割れに隠れて余計にわからなくなる。
浮かぶ感情を見透かすより先に。
「天使が襲ってきたとき、わたしがいなかったら、エリーは――」
――そんなことか。
思わず溜息を噛み殺し損ねる。ついでに湧き上がってきた仄暗い怒りを押し殺すこともせず、エリアナは自身の悪魔を睨んだ。
「別に、私はどうとでもできるわよ。多少は危険でもね。そうでもなきゃ、ここまで生きてないわ」
魔女としては中堅の部類だが、悪魔と契約せずに生き抜いた年数を数えるなら、最古参にあたる滴ともいい勝負だ。下級の天使であれば、目をくらまして逃げることなど造作もない。数が少ないならば正面から戦うこともできる。
魔女としては破格の戦闘能力は、エリアナの誇りの一つだ。多少の危険が伴うのは承知の上であるし、そもそも生きている以上、死の危険から逃れることはできない。
たとえ、それが女王であれ。
わずかに不服を示したルディの方は、それでも――と駄々をこねた。
「守れるかもしれない命を見捨てるなんて、嫌なんです」
そう、と手短に返事をする。
何が原因でそうも拘るのかは知らないが、エリアナが付き合う話でもあるまい。それが互いの身を守るのであれば、それに越したことはないのだ。
脱いだ服を畳み、ベッドの上へ投げ出す。帰るまでには母親だと幻惑した女が片付けているだろう。
代わりに鞄を持ち上げた。
「ま、何でもいいけど。行きましょう。遅刻するわよ」
言えば、仔犬のような足取りがついてくる気配がした。
通学路に交わす言葉はない。正門前に立つ滴が、素知らぬ顔でルディを呼び止めていたようだが、エリアナには関係のないことだった。
教室の席に座って、隣の仔犬を待つ。チャイムの五分前になっておろおろと現れた彼女は、席に着くなり耳打ちした。
「きょ、今日は大丈夫でしょうか」
「何が?」
「ほら――」
言葉尻を濁す態度でようやく見当をつける。
どうやら、滴が何かを吹き込んだようだった。恐らく、天使が今日も侵入してくるかもしれないだの、戦いぶりを楽しみにしているだのと言ったのだろう。逆鱗に触れねば随分と気弱げな表情が、ますますエリアナに近寄った。
――遊ぶなと後で言っておかねばならない。
「平気でしょ。流石に他の連中を向かわせるわよ。滴が」
目も合わせずに言ってやる。確か今日の一限は現国だ。日本に来てからかなり時間が経っているが、一応は昨年からの留学生という体をとるエリアナにとっては、真面目な態度を見せておかねばならない授業でもある。
教科書を机に用意する彼女の隣で、悪魔は歯切れ悪く唸った。脅しともとれる台詞を吐いた張本人を信じろとは、流石に酷な要求だったらしい。
まあ――。
滴の性格には追々慣れていくだろう。
それよりも、実戦に役立つことを気にしてもらわねばなるまい。
「割れたら外でも見てなさいな。運が良ければ見られるでしょ」
「それ、運がいいって言うんですか?」
「いいんじゃないの。普通は見られないし」
疲れ切ったような声にすげない返答をすれば、ルディはそれ以上の言及をやめた。
それで、エリアナの方は視線を窓にやる。
五月の半ばになって、凪いだ空は澄んだ春の色に初夏のにおいを孕み始めている。人だった頃にはよく感じていたはずの季節の移ろいへの感傷は、天使の襲撃を警戒する思いに沈んだ。
実際のところ――。
連日の襲撃というのは、さして珍しいことではない。
こちらが生物であるのに対し、あちらはただの機構だ。疲弊も憤怒も悲哀もない。異端狩りのために、淡々と末端を送り込んでくる。調子に関係なく実力が一定なのは、助かると同時に厄介でもある。
そうであるから、この学園の悪魔たちの間には、日を置かない襲撃に対応するために、暗黙のローテーションが組まれているらしい。
ルディの存在で多少は崩れたろうが、悪魔は暗黙の諒解のために顔をつきあわせるような律儀なものではない。おのずと彼女を組み込んだ順番が組まれていくことだろう。
見えない障壁を見上げる耳元で、小さく囁く声がした気がして、エリアナは意識を隣の少女に移した。
果たして向き直ったのは正解だったようだ。ルディの瞳が懇願するように見上げている。割れた眼鏡のフレームを鬱陶しそうにつまみながら、彼女は教室の喧噪にもかき消えそうな声で問う。
「この学園って、どのくらいいるんですか」
「さあ? 私、あんまり興味ないのよ」
主語がないのは彼女なりの気遣いだろう。その心配りに便乗して、こちらも世間話のような口調で息を吐く。
――言葉の方は真実だ。
学園の規模も正確には把握していない。同族だと認識している人間の顔は思い出せるが、数えようと思うとあやふやになる。そもそも、どうしても関わりを持たざるを得ない魔女や悪魔を除いて、積極的に言葉を交わす相手が少ない。
ただ。
「このクラスにはいないわ。私たち以外はね」
周囲を見回し始めた女王の転生体が求めていたであろう答えは、明確に返せる。
あからさまに安堵の色を浮かべる赤い瞳に息を吐く。そもそも、このクラスに悪魔なり魔女なりが潜んでいるなら、シェルターが割れた時点でなんらかの反応を示すはずだ――というのは、ルディの頭の中にはない発想らしい。
ホームルーム開始のチャイムが鳴り響く。開く気配のないドアを見るに、どうやら担任の準備は遅れているらしい。今回のクラスにしては珍しいことだが、生徒たちの間に広がるさざ波は、教師の心配よりも自由時間の延長を喜んでいるようだった。
教室中に広がるおしゃべりをよそに――。
見遣った先のルディは、固く指を組んで目を閉じていた。
「何してんのよ」
「今日が平和でありますようにって」
渾身の祈りだそうである。
悪魔の女王が神に平和を願うとは、滑稽きわまりない話だが、ルディの真剣な顔には水を差さないでやる。あまりすげなくしていて、関係がこじれるのは望むところではない。
それに。
裏切られたときが面白いのだ。
耳の奥がひび割れたような音で、ルディが絶望に表情を歪めたのが見えた。ほどなくして破られた結界に、蒼白な顔をして視線を落とした彼女へ向けて、エリアナは口許を歪める。
「無理そうね」
筆箱から取り出したシャープペンで、無反応なままのルディをつつく。ようやく顔を上げた彼女の憔悴しきった瞳を、窓の外に誘導した。
楽しげに視線を移したエリアナの眼前で――。
――茨が迸る。
見開かれたルディの瞳に、天使の断末魔が映っているのは、見るまでもなくわかる。派手に飛び散った血さえも呑み込むように、緑の奔流が空へ逆流していく。
どの悪魔が出ているのかは、おおよそ見当がついた。同時に立ち上がる必要がないとも悟る。下手に手助けをしに行けば、こちらの方が巻き込まれかねないような相手だ。
未だ教室のドアが開く気配はない。既に教師のことなど頭から抜け落ちて射るであろうルディが、引きつった声を上げた。
「行った方がいいですか」
「そう思う?」
「全然」
「賢明よ」
かろうじて捉えられたのはエンジェル二体の姿である。昨日と似たような編成だろうことは窺えた。
――それならあんなに派手に戦う必要もなかろうに。
この学園にいる悪魔も魔女も、一般人の後処理を気にして、目立つ戦いを避けようとする傾向にある。その中であれだけ暴れているのだから――。
「かかってるんですか?」
幻惑の術式を指して問うルディの疑問も、もっともである。
「あれ自体は、そういうのは使えないと思ったけど。私の陣の使い方は教えてあるから、勝手に使ってるんじゃないの。また調整しなきゃなんないかしら――」
昨日も大規模な術式を行使したのだ。十中八九、無理に魔力を流し込んでいるであろう悪魔の顔を思うと、苛立ちの溜息が口をつく。
――エリアナの魔力も無尽蔵ではないのだが。
こういうときばかりは、便利な能力を手にしているのも考え物である。眉をひそめて見詰める窓の外を、再びの緑が走った。
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