4, Witch is glad,

 天使というのは、正体不明の侵略者である。

 低位のものは人間にごく近い見た目をしている。ただし、その行動原理は生物というより機構に近い。世界の秩序の守り手――と言えば聞こえはいいが、その実、規則ルールを乱すものを無差別に殺戮する兵器のようなものだ。

「そこまでは分かってるわね」

 見遣った先の狼は、神妙な顔で頷いた。金の瞳を気だるげに瞬かせ、エリアナは息を吐いく。

「貴女には実感がないでしょうけど、天使ってのはそこまで弱いものじゃないのよ」

「そ、そうなんですか? でも――」

 それ以上の声を喉の奥に押し込めて、ルディは黙り込む。決定的な言葉を厭う態度に、思わず呆れたように足を組んだ。

 機構なのだから遠慮をする必要はない。

 ――と言って納得する相手なら、とっくに現状を理解することを諦めているはずだ。この期に及んで反論と質問を重ねてくるのだから、案外に強情なのである。

 居心地が悪そうなルディを一瞥して、滴の瞳が和らいだ。張り詰めた深刻さが穏やかに覆われる。

「今回、君が倒した相手なら、エリアナといい勝負かな」

 気弱な悪魔が、丸い目を大きく見開いた。思わず眉根が寄るのを、滴の瞳が緩慢に捉える。

 それが余計に腹立たしい。

 魔女の戦闘能力が悪魔に劣るのは当然のことだが、そもそも天使との戦いにおける魔女は一般人と同義である。たとえ最低位のエンジェルであっても、打ち倒せるだけでも強者に入るのだ。

 誤解は解かねばなるまいと、エリアナは一つ溜息を吐いた。

「私が弱いみたいで腹立つ言い方ね。言っとくけど、私は魔女の中ではそこそこ戦える方よ。少なくともシズクよりは」

「やめてよ、魔法って難しいんだから」

 機嫌を損ねた様子もなく、副会長はからからと笑う。色素の薄い茶色の髪が揺れるのを不機嫌に睨めば、ますます笑みが深まるのが見えた。

 それ以上の言及を諦め、視線を逸らしたエリアナに笑いを堪えられないまま、滴はルディに向き直る。

「――まあ、つまり、天使の侵入は魔女わたしたちにとっては大問題なんだってことがわかってくれればいいよ」

「はあ」

 曖昧に声を濁した悪魔は、それでも頷いた。実感には薄いようだが、状況は飲み込めたようである。

 昨日から思っていたことだが――。

 おどおどとした態度に反して、彼女は随分と肝がすわっている。

 エリアナには、ルディの逃げ道を塞いだ覚えはない。話に付き合うことを強要した覚えはないし、今だって、彼女が出て行きたいのなら出て行けばいいと思っている。

 ここから逃げるならそこまでだ。この程度のことにも向き合えないのなら、無駄に命を散らすだけになる。

 それは滴も同様なのか――。

 ひどく満足げに笑みを描いて、彼女は瞳を煌めかせた。

「ガラスが割れるみたいな音は聞いたよね。あれ、魔女と悪魔にしか聞こえないんだよ」

 息を呑む音がする。眼鏡の奥の赤い瞳が、動揺に震えた。

 ――置かれた状況は理解できても、悪魔であることは受け入れられないようである。

 ルディが声を失っているのをいいことに、エリアナは座り込んだ椅子を回した。

「魔女と悪魔が集まってるってことは、天使にとっては良い狩場ってこと。だから狙ってくる連中は多いんだけど、シェルターが割れることなんて、そうそうなかったのよ」

「割れたとしてもすぐ塞がったし、入ってくるのはエンジェル二体が関の山だったんだけどね」

 滴の溜息に、狼の悪魔が瞬いた。ぶれていた瞳が憂いを帯びて、魔女たちの間をさまよっている。

「――もっと強いのも入ってくるようになって、しかも塞がるのが遅くなった、ってことですか」

 答えの代わりに、魔女は同時に頷いた。金色の視線を交わして眉間に皺を描く。

 それ自体もゆゆしき事態だが、問題はまた別のところにある。

「天使の力が強くなってるのか、結界が弱まってるのか、両方か――どうにしても、私たちにはどうしようもないんだよね」

 ――原因が分かったところで、手の打ちようがないのだ。

 魔女たちはほとんど戦う力を持たない。悪魔たちに処理を任せるにしても、彼女らが相手取れる天使の数にも限りがある。そもそも、現在入り込んでいるのがごく低次の天使であるからどうにかなっているだけで、高位の存在になれば勝ち目はないだろう。

「今はまだ、私たちでも対処できてるけど。これがもっと強い相手になったときは」

 そこで口をつぐめば、ルディは顔を青くして俯いた。

 彼女の脳内で繰り広げられる想像を覗くことはできないが、その表情からしておおよそ正解だろう。引き結ばれた唇が震えて、赤い瞳が泣きそうにこちらを伺う。

 哀れなまでの表情を見つめて――。

 エリアナは不敵に笑った。

「――ってのが、昨日までの八方塞がりっぷりだったんだけど」

 ルディが顔を上げるのから視線を逸らし、滴と瞳を交わせば、彼女はようやく破顔してみせた。

「思ったより気楽に考えられそうだよ。何しろ、君が戻ってきた」

「わ、わたしですか?」

 二人分の視線を受けて――。

 狼の悪魔が眉尻を下げる。異様な回数の瞬きを繰り返し、言葉にならない声を上げ続ける彼女に、エリアナは指先を向けた。

 術式を使うわけではない。注目を集めたいときの癖なのだ。

「不思議な話よね? 昨日まで自覚もなかった悪魔が、今日になって急にあそこまで戦えるだなんて」

 もっとも、エリアナにとっても想定外だった。彼女の臆病さと狼狽を見るに、いくら潜在能力が高くとも、戦うことは難しいと思っていたのだ。

 まあ――杞憂であったのだが。

 魔女の指の先で、悪魔がひどく怯えたような顔をする。心なしか血の気の引いた顔を引きつらせて、彼女は恐る恐る声を振り絞った。

「わ、わたしって、ものすごく強かった――とか?」

「君は賢い子だね」

「いえ、そ、そんなことは、全然、ですけど」

 にこやかな表情を浮かべた滴の遠回しな肯定に、狼は尻すぼみに俯いた。とうとう涙が溜まり出した目尻が、光の反射で眼鏡に隠れる。

 それが少しばかり哀れで、それ以上の追い討ちはやめておいてやることとした。

「――ま、その辺の話は、訊かなくても生徒会長がしてくれるわよ」

 言った途端、勢いよく開いたドアを見やって、エリアナは笑った。

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