2, Witch encounters,

 結局――。

 ごねるルディを言いくるめ、彼女を家に住まわせることを決めて、一日は終わった。

 暗い部屋の中、机の下で警戒する少女に呆れながら一夜を過ごして――。

 エリアナは、教室のドアの前にいる。

 人目を気にしながら先に行ったルディは、もう自分の席に着いているだろう。エリアナなどは、女生徒が二人で歩いていたところで問題はないだろうと思うのだが、共に歩く彼女の方はよしとしないようである。

 まあ――そんなことはどうでもいいのだが。

 扉を開けて、慣れ親しんだ教室の中を歩む。一見して狼の耳にも見える、独特の癖を持った黒髪に真っすぐに歩み寄った。

 契約したばかりの少女は、眼鏡の底で何かを思案しているようだ。瞬く瞳はエリアナの様子に気付いてはいない。隣に座って鞄を探る同級生にも、特別に興味を遣っているわけではないらしい。

 それで。

 ルディの隣に座るクラスメイトに指先を向ける。

「『貴女の席、あっちでしょう』」

 ――開きかけた鞄が閉じる。

 ごめんね、と軽い謝罪があって、覚束ない足取りが、エリアナの席だった場所へ向かっていく。その背を見送ることもなく、当然の権利として隣に座れば、眼鏡越しの瞳が弱気な非難の声を上げた。

「え、エリアナさん」

「エリーでいいわ」

 遮るように一瞥する。眉尻を下げて言葉に詰まった彼女が、ようやく新しい言葉を見つけたころになって――。

 教室の扉が開く。

 入ってきたのは修道服の教師である。緩やかに静寂が満ちていく教室を見渡すなり、彼女はよく目立つ青い髪に目を遣った。

 ――目が合うなり。

「エリアナさん、自分の席に――」

「どうなさったのです、先生。『ここは私の席ですよ』」

 にこやかに笑って声を遮れば、幻惑の術式は完成する。隣のルディが俯いて青い顔をするのには目もくれぬまま、エリアナは会心の笑みを浮かべた。

 ――昨日、ルディに見られた大規模な術式の行使は、このためにある。

 彼女が最も長く滞在せねばならぬ教室は、その実最も危険な場所でもある。いくら幻惑を得意とする魔女とはいえ、いちいち一般人の記憶を消すのは消耗するし、何より面倒だ。

 そのあたりを解決するために、いわゆる結界を張っている。魔術の効きを維持するための補助的な意味合いが大きい。

 事実――。

 そうだったっけ、と笑った教師は、それきり言及をやめ、教科書を開くよう指示をした。

 納得がいかぬのは、隣の狼だけであろう。

「エリー、今のは、その」

 遠慮がちに小さく声がかかる。一瞥した先の眉は、眼鏡の底で八の字を描いている。昨日から散々見せている種のない手品に、彼女の良心は未だに咎めるようだ。

「使えるものは使わなきゃ損でしょう」

「で、でもぉ」

「おしゃべりはやめにしないと、今度こそ本当に注意されるわよ」

 そんな下らないことに力を使う気はないのだ。

 言いながら聖書を開けば、慌てたように隣の声は黙った。

 ――彼女らの通う私立清天教女学院は、ミッション系の学園である。

 エリアナのほかにも、世界の各国から積極的に外国人生徒を募集している。ハーフであるルディが、さしたる好奇の目もなく受け入れられているのも、恐らくは幼稚舎から所属する外国人が多いためだ。

 都市の中心部に位置するにもかかわらず、広大な敷地内に幼稚舎から大学までを抱えている。維持費だけでも莫大であろうに、時折改修工事も行われているのだから、相当な収入があるのだろう。それもこれも、いわゆるお嬢様学校として名を馳せているお陰だ――などと、エリアナは思っている。

 正門付近のチャペルでは、週に三度、朝の礼拝がある。日曜には学外にも開放されているらしいが、彼女は詳しく知らない。そもそも、学内の門の数さえ、はっきりは分からないのである。

 そういうわけで――。

 今日の一時間目は聖書に割り当てられている。魔女と悪魔が並んで聖書を読むなどと、このうえなく冒涜的な話だが、エリアナたちが相手取っている浄化の化身は、この中に出てくる天使とは恐らく関係がない。

 指示に従って適当に捲る指先に、ルディの視線が刺さる。居心地が悪そうに俯いた彼女は、時折腰の位置をずらしては周囲を窺っていた。

 助け船は出してやらない。

 彼女は既に人間ではない。こんな些細なことで警戒していたのでは、余計に怪しまれるだけである。慣れてもらうほかにないだろう。

 再びページを捲るよう指示が出たところで。

 ――硝子の割れる音がした。

 ルディが跳ねるように顔を上げたのが見える。何事もなかったかのように授業を続ける教師の声と、本を捲る乾いた音の最中で、彼女は答えを求めるようにエリアナを見た。

「――朝から元気ね」

 舌打ちをして立ち上がる。机の上に飛び乗って、茫然と見上げる眼鏡の奥の瞳を見下ろした。

「ルディ、スタンド・アップ。窓から飛び降りなさい」

「な、何言って!」

「天使が来たわ。時間がないの。それとも、教室を戦場にするおつもり?」

 言いながら――。

 机の上を歩き渡る。蛮行にどよめく同級生たちを無視して、エリアナは窓に手をかける。

 吹き込む風と、揺れる葉桜のむせ返るにおいが満ちる。教室内を振り返って、駆け寄る教師と、こちらを見詰めるクラスメイトたちと――学校そのものへ。

 指先を向けて――。

「『先生、保健室に行ってきます』」

 ――窓枠を蹴る。

 放り出された体が支えを失う。臓腑だけが上に引っ張られる不快な感覚がする。窓から身を乗り出したルディだけが、泣きそうに顔を歪めているのが見える。

 そして。

 狼が咆える。

「エリー!」

 追いかけるように飛び出した脚が――。

 黒い狼のそれに変わっている。

 ひどく叫びたいような思いで、エリアナの唇が弧を描く刹那に。

 ――叩きつけられる。

 脳髄から足先までを駆け抜けた衝撃が、体中の力を奪う。流れ出す赤に視界が覆われる。一瞬だけ暗転した意識の底で、頭と首が潰れた痛みに顔をしかめた。

 巻き付く蛇の腹の感触にも慣れたものだ。彼女の力の象徴たる獣が、頭と首を食らう。当事者であるエリアナは、これがどんな光景なのかを知るすべはないが、痛みがしないだけ彼女にとってはましだ。

 ぼんやりと視界が戻ってから――。

 立ち上がって、スカートの裾をはたく。顔を撫でると、蛇の鱗が傷を覆っている感触がした。

 縦に細くなった瞳孔を、隣のルディへ向ける。狼の足をしたままの少女は、怯えたような顔で瞬いた。

「このくらいで死ぬわけないでしょう」

 先の割れた長い舌で顔の血を舐める。ついでにずれた首の骨を治せば、はあ――だか、はい――だか曖昧な声を漏らした少女は、視線を空へ持ち上げた。

 幸いにして、グラウンドにひと気はない。こういうときは、第三だか第四だかまである運動場に感謝する。

 ――余計な力を遣わずに済む。

 ただでさえルディは初陣だ。それも悪魔としての自覚はない。彼女が内に飼う力からして、この学園に入り込めるような天使は相手にもならぬだろうが、エリアナの補助は必要だ。

 黒い表紙の本を開く。見据えた先に十字の光が差して、降り立つ三つの影がある。

「あ、あれが、天使――?」

 茫然と呟くルディの動揺も、致し方あるまい。

 一対の白い翼と光輪。いずれも白い衣に身を包んでいる。十字の刻印された仮面を被っているものが二体。十字の布で顔を隠す一体は、彼らをまとめるように前に立ち、長槍を構えている。

 そして。

 そのどれもが――断罪の言葉だけを口にする。

 エンジェルが二体と、アークエンジェルが一体だ。便宜上そう呼んでいるとはいえ、纏う不穏な空気は、歴史上に刻まれる天の御使いには当てはまるまい。

 いつ見ても怖気の走る姿に目を細め、エリアナは彼らの手にする武器を指す。ルディの瞳が釣られるようにそちらを見た。

「神造武器。魔女を殺せる、神の祝福。あれに殴られたら、いくら私でもひとたまりもないわね」

「――何で」

 動揺にぶれた声が、深い慟哭を孕んで零れる。

「何で、エリーが、狙われるんですか」

 今にも泣き出しそうな声だった。震える声に眉をひそめて、エリアナはそうね、と声を上げる。

「私たち魔女は、命の規則に反してるんですって。だから殺して、魂を天に導いて、正しく救って、、、、、、くださるそうよ」

 魔術に魅入られ、生命としての在り方を歪め、不老となった者たち――。

 大抵の魔女は、己の存在を正しいとは思っていない。人としての摂理はとうに外れている。

 だからといって――。

 ――天使を象る何かに命を奪われる義理もない。

「命の刻み方に、善し悪しがあるわけないじゃない。そう教えてやりたいと思わない?」

 とんだ詭弁である。

 それでも、彼らと対峙する理由としては充分だろう。まともに戦えるかは怪しいが、少なくともルディがエリアナの前に立つ動機付けにはなる。

 と。

 ――思っていたのだが。

 風が駆ける。エリアナの髪を巻き上げて、隣に立つ少女の姿は消えた。

 不釣り合いに大きな黒い腕が、ようやく視界に現れた刹那――。

 叩き伏せられたエンジェルの頭が、地面との間に擦れて潰れる。赤く体液をまき散らして息絶えたそれが、未だのたうつのには目もくれず、ルディは真っすぐに残る天使を見た。

 飛び出したのは二体目のエンジェルである。構えた弓につがえられた矢がルディを捉えんとする。

 その一打を見切り――。

 狼は跳躍した。

 神造武器の穂先が地を捉える。赤い瞳が好機を見逃すはずもない。躊躇なく振り下ろされた脚が、容易に首元を引きちぎる。

 残るアークエンジェルがたじろぐのを――。

 憤怒に染まった瞳が睨む。

「殺したけりゃ殺されてから言え」

 ――低く。

 吐き出したが早いか、ルディの腕がその胴を捉えた。

 崩れ落ちる下半身を睨み遣る。眼鏡に散った赤い体液を気にする様子もなく、彼女は人のものへ戻った拳を握った。

「――いっぺん、死んで来いッ!」

 沈黙がある。

 眼前で繰り広げられる惨状を見詰めていたエリアナの方は、開いたきり出番をなくした本を、所在なく閉じるほかなかった。

 ――あれだけの煽り文句で、ここまでやろうとは。

 殺戮劇の主役である少女が周囲を見渡している。散った死骸と体液の染み付いたグラウンドに泣きそうな顔をして、彼女は血まみれのまま震えた。

「わ、わた、わたし――な、なんてこと――」

 ――貴女のせいよ貴女の。

 思わず口を衝きそうになる台詞を堪えて、溜息に代える。この大惨事の隠蔽を図るべく、己の中の魔力に呼びかけるついでに、エリアナはルディへ瞳を向けた。

「食べちゃっていいわよ」

「へ」

「悪魔って、天使を食べると寿命が延びるの」

 寿命が尽きたところで転生するのだから構わないが、今生での契約は引き継がれない。今の契約を維持するつもりがないのなら、人としての天寿を全うするのも、悪くはないだろうが――。

「でも、まあ、そうね。命を無駄にしないためにも、食べて差し上げたら」

 ――情けない悲鳴は、一時間目の終わりを告げるチャイムに掻き消された。

 天使の骸に手を伸ばし、散々迷ってからおずおずと口を開けるところまでを見届けて、エリアナは悪魔に背を向ける。

 大抵の悪魔が食らうとはいえ、見ていて気持ちのいいものではない。肉と骨を噛み砕く生々しい音だけで、顔をしかめたくなるほどなのだ。

 思いの外美味だったのか、食が進んでいる様子のルディに声を掛ける。顔を上げた口から翼がはみ出しているのに眉をひそめて、魔女は息を吐いた。

「食べ終わったら報告に上がりましょう」

「報告って、ど、どこに?」

 そんなの決まってるじゃない――と、唇を吊り上げる。

 普段から、互いに好き勝手にしている相手である。エリアナも顔を合わせるのは久々だ。

「生徒会よ」

 その前に、ルディの汚れた制服を何とかする方が先か。

 悪魔の口に消える翼から目を逸らし、エリアナは一つ息を吐いた。

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