1, Witch meets,

 強引に引いた腕が震えていた。

 校門をくぐり、日暮れの街を十分ほど歩いた先に、エリアナの家がある。その扉の前に辿り着くまで、後方の悪魔は口を開こうとしては閉じていた。

「ただいま、お母さん」

 扉を開きながら声を上げる。走り寄る足音と共に現れるのは――。

 彼女が拠点、、としている住宅の、家主の妻である。

 顔立ちはごく日本人的だ。黒い髪と黒い瞳は、外国人にしても目立つ容姿であるエリアナとは似ても似つかない。母と呼ばれることにさしたる違和感も見せぬ面立ちを、ルディの赤い瞳が食い入るように見ている。

 母と呼ばれた女の表情が怪訝に歪む。眼鏡越しの瞳が隠れるように俯いた。

 それを横目に。

 一段高い玄関に立つを見上げた魔女は、仄かに光を宿す瞳で、真っすぐに彼女の瞳を射抜いた。

「『捨てられてたから、拾ったの。ペットよ』。飼っていいでしょう?」

「な!」

 声を上げたのはルディである。弾かれたように顔を上げたのは、音で分かった。唇から吐き出される息が、声にならずにエリアナの耳を掠めていく。

 彼女がようやく言葉らしいものを掴んだ刹那――。

 母と呼ぶ女は、二人の前で、ひどく穏やかに相好を崩した。

「そうなの。今回はしょうがないけど、今度からはちゃんと相談しなさいね」

 耳元で声が詰まった。会心の笑みを浮かべ、素直に返事をしてから、彼女は後方で固まるペット、、、を振り返った。

「上がりなさい。それとも、立ったまま講釈を聞きたいの?」



 椅子に腰かける。

 エリアナの部屋である。一つしか用意されていない椅子の上から、行き場を失ったように立ち尽くすルディに向けて、床を指す。

 ――座りたいなら座ればいい。

 今日からここは彼女の家でもある。

 おずおずとカーペットに座り込んだ黒髪が、狼の耳のように跳ねた癖毛をいじっている。抗議の視線をくれる赤い目に向けて、エリアナは唇を吊り上げた。

「訊きたいこと、あるでしょ」

 足を組みながら言えば、思い切り息を吸い込む音がした。

「ぺ、ペットって、どういうことですか。どうして、受け入れられちゃうんですか、わたし、人間なのに!」

「そうよね」

 吐き出される大声に、溜息が漏れる。ほとんど衝動的に声を掛けたはいいものの、何も分かっていないままの契約であったことに違いはない。エリアナはルディについておよそ見当がつくが、彼女の方は、一体何をされたのかと混乱するばかりであろう。

 それは公正フェアではない。

「私のことから説明しましょう」

 金の瞳を部屋に巡らせて、廊下の足音に耳を澄ませようとしてから、急に面倒になった。

 ――まあいいか。

 どうせ誤魔化せるのだ。無為な神経は使わぬ方がいい。代わりに意識を集中させるのは、神妙な顔をしてこちらを見上げる、眼鏡の奥の瞳である。

「さっきも言ったけど、私は魔女。魔術なら大体そこそこ使えて、特に得意なのは幻惑。だから――」

 ひたりと。

 持ち上げた指先を、ルディの眼前に翳す。

「『貴女は私のペットよ』」

 声に乗せた魔力は通じないだろう。唐突な行為に、ルディの瞳が大きく見開かれ、次いで何度か瞬いた。

 それで相好を崩す。

「――普通の人間だったら、これで終わり。私が飽きるか向こうが死ぬかするまで、永遠にペット決定ってわけ」

「でも、わたしは」

「貴女は人間じゃないでしょう」

 先程から指摘しようと思っていたことである。

 まるで自分が人間であるかのような言い草をする。先の契約のときにも確認したはずだが、エリアナの見立てが間違っていなければ、彼女は紛れもなく悪魔のはずだ。

 そのはずが。

 ルディの方は硬直してしまった。息が詰まるのがエリアナにも分かる。途端にぶれた赤い瞳は、八の字を描く眉と相まって、泣き出しそうなほど歪んでいるように見える。

 ――まさか。

「自分がなんだか分かってないの?」

 少女の喉に言葉がつかえた。エリアナを離れた視線が床をさまよって、引き結ばれた唇が震える声を上げる。

「わ、わたし、この前の誕生日に、狼になっちゃって」

 ――曰く。

 十七歳の誕生日は満月だったという。

 元より身体能力に優れ、あらゆる部活動の助っ人として、驚異的な記録を叩き出してきた。帰宅部であるがゆえに公式の記録は残っていないが、彼女の名声は学校中に知れ渡っている。

 まさか、その理由が人でないから、、、、、、だとは――考えたこともなかったらしい。

 運悪く異形の姿を両親に見られて以降、彼女は最低限の金銭と賃貸を与えられ、一人で放り出された。元々、そこまで大事にされていたわけではないのだと、黒い髪が自嘲的に俯く。

 ――彼女の今までの扱いは、今はどうでもいいのだが。

「とんだイレギュラーってやつね」

「イレギュラー――ですか?」

 眉間に皺を寄せたエリアナが、瞬くルディを見た。何の魔力も宿していない金の瞳は、苛立ちの煌めきを宿して息を吐く。

「悪魔ってね、普通は死んでも転生するのよ。力も記憶もそのままで」

 悪魔は――。

 貶められた者たちの総称である。遠い時代に命の枠組みを外れた、異形の存在だ。

 神の定めた国に行けはしない。寿命が尽きれば転生し、再びこの世界に現れる。その際に、いくつかの記憶や力を取りこぼすこともあるようだから、ルディがエリアナを知らぬことには何の違和感もなかったが――。

 ――悪魔であることすら忘れていようとは。

「それなら、魔女のことも契約のことも知らなくて当然、ね。初めてよ、こんな悪魔」

 尤も、エリアナとて、契約はこれが二度目であるが。

「魔女っていうのは――」

 言いながら、繊手は足許に置いた鞄を探る。慣れた感触を無造作に引き上げて、仔犬のような風体をした狼の前に翳した。

 ――黒い表紙の本である。

 文庫本ほどの大きさをしている。彼女が大規模な魔術を行使する際には、必ず手にしているものだ。五百余年を魔女として過ごしてきたのだから、今更なくとも構わないのだが、何となくあった方が落ち着く。

「禁書を開いて、魔術に魅入られて、ついでに不老になった人間たちのこと」

「たちって、い、いっぱいいるんですか?」

「そりゃあね」

 世界各国に散らばり、気紛れに潜む禁書に、偶然出くわしてしまった人間たちの総称だ。ほとんどが人間に擬態しているだけで、本質的には人として生きることを辞めている。魔術に選ばれてしまった以上は、意識せぬ限り制御ができないのである。

 魔術というのは確かに便利だが、そう科学と変わるわけではない――と、彼女は思っている。もっと情緒的な、科学が踏み込まぬ領域を支配しているだけで、使い勝手はスマートフォンと同じだ。一定の手順を踏めば、望む力が発揮される。

 尤も――。

 手前勝手な魔術の濫用をよしとしない者もある。

 天使と言われる神の尖兵を、エリアナは良く思っていない。命の規則なるものを遵守すべく、人の身でありながら生命の枠組みを外れた魔女の魂を、すくに来るのだ。

 そこまで言えば、首を捻ってばかりの仔犬も、ある程度の事情を察したようだった。

「えっと、それじゃあ、契約っていうのは」

 喉を整えるために口を閉じて、返答は頷くだけに留める。

 悪魔は――契約によって、失われた力を取り戻す。その代わり。

「貴女は私を守るのよ」

 天使からね。

 現実味のない言葉に曖昧な声を漏らした悪魔の瞳が、分かりやすく曇った。

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