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刀魚 秋
Prologue
幼いころ、狼と会ったことがある。
西日の差し込む教室に立ち、エリアナはちらと廊下の気配を見た。立ち尽くす少女の、気弱そうな表情を見据えて、仄かに煌く金の瞳を瞬かせる。
――魔術の行使を一般人に見られるのは、そう珍しいことではない。
扱う力の特質上、ごまかしはいくらでも利く。顔を引きつらせた同級生に手をかざし、幻惑の魔術でもって記憶を封じてしまえばいい。それだけで、魔女はイタリア出身の留学生になる。
内緒よ、と。
口にしかけて、目撃者の顔をまじまじと見た。
いるのだかいないのだか、いつも教室の隅で震える、存在感の薄い娘だ。それでもエリアナが彼女を認識しているのは、西欧人とのハーフだとかいう目立つ外見と、漢字と横文字の並ぶ特異な名前のためだった。
確か――八咲ルディという。
気弱そうな所作に違わず、眉は八の字を描いている。対して、つり目がちの瞳は、怯えの中に
その瞳孔が。
縦に細くなるのを見る。
「貴女、悪魔ね」
唇を吊り上げて問えば、少女はびくりと肩を跳ね上げた。途端に視線が泳ぎ出す。何かを言いたげに開閉する口が滑稽だった。
たっぷり間を置いて――。
同級生は震える声を上げた。
「あなた、魔女なの?」
「そうよ」
幻惑の霧を携えたまま、エリアナは小動物へ歩み寄る。この国にあってはひどく特徴的な青い髪を揺らして、彼女は蠱惑的に嗤った。
「ねえ、貴女、私の悪魔にならない?」
震える頬に指先を這わせる。ルディの赤い瞳が、眼鏡の奥で震えた。
その唇もまた、同じように
「あなた、の?」
僅かに声の調子を明るくして、期待を滲ませたルディに、魔女は会心の笑みを浮かべた。一つ頷いてから、その頬を愛おしげになぞってみせる。
金色の眼差しで、真っすぐに赤を捉えた。普段は見た者を惑わす魔性の瞳だが、今だけは何の術式も施していない。
――これは
「貴女の全てを差し出しなさい。私の総てを貴女にあげる。私の願いを叶えるうちは、貴女の望みを聞いてあげるわ」
言えば――。
怯えた少女は、目を見開いた。
度の高い眼鏡が西日を反射する。表情は隠れて見えなくなった。ルディから見れば、逆光で隠れているであろう顔を、エリアナは静かに歪める。
もし断られるなら――記憶を消す必要がある。
悪魔に対して術をかけるのは、一般人を相手取るときのそれと労力が違う。今から集中しておかねばならないのだ。
しばらくの沈黙があった。遠くの校庭から上がる声を聞きながら、エリアナが手を離そうとしたときである。
「愛して」
ルディが唇を震わせた。
「わたしを、愛して」
西日の向こうの目は未だ見えない。それでも、確かに視線が交わされていることを、魔女は悟っていた。
唇に弧を描く。
「よろしいわ」
右手の親指を噛む。皮膚の下に流れる鮮紅が、小さな音を立てて流れ出した。
歯に残る鉄錆の味を舐めとって――。
僅かに開いた悪魔の唇へ、零す赤を挿し入れる。
「――この幻惑の魔女エリアナ・カファロが、貴女を愛してあげましょう、八咲ルディ」
頷くように。
少女の喉が小さく鳴った。
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