第22話 罪の帽子 1

れんにぃ、どうしたのさ? 今日、夕食、食べないの?」


 テーブルに出されたままのグラタンとサラダの皿を見つめてそうが訊いた。

「シーッ! 放っといてあげて。今、作業室アトリエに籠ってるんだけど……」

 一華いっかが人差し指を唇に当てて目配せする。

「実はね、今日、ちょっと色々とあったのよ。ややこしいことが」



        ♠


    カララン!


 港町神戸。レトロな風情を今に残す乙仲おつなか通り。

 オリーブ色の扉が開いてドアベルが鳴った。

 その音色さえ、いつも以上に澄んで華やかに聞こえたのは気のせいだろうか?


「いらっしゃいま……せ……」


 店の共同経営者オーナーで接客担当の長女・一華が目をみはった。

 まさに、今、入店してきた客に見覚えがある。それもそのはず、現在人気沸騰中の新進気鋭のバイオリニスト・高木陽那たかきひなではないか!

 海外の権威ある賞を獲得したバイオリンの腕は言うまでもない。その容姿の艶やかさ、優雅さ……!

 TVや動画では見たことがあるものの、こうして本物を目の当たりにすると、アナウンサーの内定を勝ち取った一華でさえ言葉を失うくらい――素晴らしい! 

 まさに那、その名の通り照り輝いている……!

 透き通るような白い肌、しなやかな肢体。柔らかにウェーブを施した長い髪は明るい蜂蜜色。セーブルのコートから覗くスカートを揺らして麗しのバイオリニストはまっすぐに一華が立つカウンターの前へとやって来た。

 にこやかに微笑んで、

「お帽子をオーダーメイドしたいんですけど?」

「喜んで!」

 おっと、これはマズイぞ、一華。居酒屋じゃないんだから。

 とはいえこの応対からも一華がいかに興奮しているかわかると言うものだ。

 裏返った声のままテーブルコーナーへいざなった。

「ど、ど、どうぞ、こちらへ!」

 例のごとくアトリエから漣が美味しい紅茶を持ってやって来た。

 そんな漣を高木陽那はじっと見つめて、

「あなたが噂の帽子職人さんね?」


 ―― 初めまして。佐藤漣さとうれんと申します。


「わ、わ、私は佐藤一華さとういっかです。あの、あなたは高木陽那さんですよね? 存じておりますっ」

 ようやく覚醒したらしい。アナウンサー科卒業の接客担当、一華の舌が廻りだした。

「当サトウ帽子屋にお越しくださりありがとうございます! 光栄です! それで――どのようなお帽子をご希望なのでしょう? どうぞ、なんなりとご要望をお聞かせください!」

 高木陽那はきっぱりと一言で言いきった。

「〈罪の帽子〉をお願いいたします」


 沈黙。



 更に続く、長い沈黙。


 テーブルに置かれた紅茶から湯気がゆっくりと立ち上って行く。

 帽子屋の店内の隅々にまで静寂が沁み込んだ頃、美しいバイオリニストは再び声を発した。

「私が作っていただきたいのは〈罪の帽子〉です」

「あの――」

「私は、罪の子なんです」

 サッと右手を上げる。演奏の始まり。帽子屋兄妹きょうだいには幻の弓が見える気がした――

「私の母は妻子ある男性に恋をして、私を身籠りました。私が母を唯一尊敬できる点は、母が一人で私を産み、育てあげたことです。妊娠を知った母は、以来2度とその男性に会うことはなかった」

 小休止。小さく息を吐く。

「その母は一昨年、亡くなりました。私がバイオリニストとして認められたのを見届けた後でした。私は親孝行ができたと思っています」

 帽子屋兄妹に一切口を挟ませないまま、高木陽那は続けた。

「最近になって、過去の母の相手、私のDNA上の父なる人物が私に会いたいと連絡してきたのです。

 今回一回だけの条件で私は会おうと思います。この問題を長引かせたくないからです。これでピリオドを打ちたいと思っています。

 その時にかぶっていく帽子をつくっていただきたいんです。


 相手の男性は資産家です。富裕層に属していて生活には困っていません。母との不倫が原因で離婚して現在は一人住まいとか。

 彼自身の罪ではありますが、母がこの人の家庭を壊したのも事実です。ですから母も罪人です。そして私もまた、生まれながらに罪の子というわけです。

 今回、私は面会を承諾しただけで、口を利くつもりはありません。私としては、今となってはこの人にぶつけるべき言葉も思いつきませんしね。

 だから、帽子で表したいと思いました。

 今お話した、私の思いを込めた帽子――要するに『私たちは全員罪人だ』という――そのメッセージが伝わる帽子を、ぜひ、作ってください」



       ♠


「もちろん、漣にぃは断ったんだろ?」

「ええ。即座に、きっぱりとね」


       ♠



 ―― お断りします。


「あの、高木さん、誠に申し訳ありませんが、兄はお引き受けできないと申しています」

 高木はまたたきをして、

「引き受けていただけない理由をお教えくださいませんか?」


 ―― 帽子は人を美しく飾るものです。僕はそのお手伝いをすることを何よりの喜びとして帽子を制作しています。

    それなのに〈罪の帽子〉? そんな否定的な帽子など作れるわけがない。また、作りたくはない。作るつもりもない。


 高木陽那は瞼を伏せた。

「残念ですわ。あなたはプロだとお見受けしたのに。私の誤解でしたのね」


 ―― え?


「私もプロですが、私は自分の好きな曲だけ・・を演奏してはいません。身の毛のよだつほどおぞましい曲も求められれば弾きます。また、美しくて、楽しい曲だけを弾いたりもしません。

 時にはいたたまれないくらいゾッとする曲、自分が嫌悪する曲も引き受けます。

 それがプロフェッショナルというものではありませんか?」


 ―― 心外です。第一、音楽と帽子は違いますよ。逆に、僕はあなたにお伺いたい。あなた御自身の好き嫌いにかかわらず、音楽も究極、人を幸福にし、安らかにするものではないのですか?

    今あなたがおっしゃったイヤな曲、悲しい曲、辛い曲だって、人をおとしめたい、いじめたい、なじりたい――などと人を不幸にするのが目的ではないはず。

    最終的には、言葉にならない想いや悩み、更には、その答えや光明こうみょう、救済をもたらすものでしょう?



  パチン!


 一華は吃驚した。兄ではない。今、指を鳴らしたのは音楽家の方だった。

「そこよ!」

 高木陽那は立ち上がった。

「あなたが、今、まさにおっしゃった〝言葉にならない想い〟――それです。私は今、苦しんでいるんです。もがいているの」

 掌で喉を抑える。息ができないという風に。

「わかっています。実際は憎しみも恨みも言葉で伝えるしかない。でも私は一言もしゃべりたくないのよ。それに言葉では追い付かない。不倫の子として生を受けて悩んだり苦しんだ今日までのいろんな思いを、今更、一度の面会で言い尽くせる? そんな便利な言葉なんてこの世界に存在しないわ!」

 椅子を引いて、バイオリニストは再び腰を下ろした。テーブルの上で両手を組んで、言った。

「わかっていただきたいわ。あなたがプロなら、私の激しい、行き場のない、この想いを汲み取って……寄り添っていただけないかしら?

 あなたの作った罪の帽子をかぶって、私はその人に会いに行きたいの」


 ―― ……


「お答えください。

 私は全てをさらけ出しました。この難解な課題を出された今、帽子職人プロのあなたはどうなさいますか?

 いとも容易に拒絶なさいますの?

 だとしたら、掲げられている看板に偽りありね? HPにも記しているじゃないですか? あれは嘘?


 〈サトウ帽子屋はあなたのお望みのお帽子を真心を込めてお作り致します〉 」



        ♠


「うわっ! 流石に新進気鋭の音楽家! 上手うわてだな! そんな風に言われたら……」

「でしょ?」

「で、漣にぃはまんまと〈罪の帽子〉を作ることを承諾した、と」

 サトウ帽子屋末弟はニヤリと笑って、

「よし! ではここからが僕の出番だな!」






 ―― 颯かい?


 アトリエに入って来た弟に顔を上げずに兄は指で尋ねた。


「うん。事の顛末てんまつは一華ねぇに聞いたよ。今回はまた、いつにも増してハードルが高いねぇ!」

 ドサッとテーブルに書物を置いておどけた調子で颯は言う。

「ご要望にお応えして罪のハナシ、見繕ってまいりました!

 まずは直球勝負のど真ん中、〈緋文字ひもんじ〉The Scarlet Letter 。ナサニエル・ホーソン著。

 1850年出版のアメリカのゴシックロマン小説だよ。当時の言葉で夫以外と関係した〈姦通〉の罪を犯した女主人公が生まれた子供の本当の父親の名を明かすのを拒み、罰として衣服の胸に姦通の頭文字、緋色の〈A〉の字をつけて生活する。こんなのあり? って今の人間なら叫んじゃう過酷な生き方だよね。


 〈チムニーズ館の秘密〉はアガサ・クリスティのマープルシリーズの一作。

 不倫が鍵になってる、とても美しくて悲しい物語。僕は何度読んでも犯人が可哀想でたまらない。

 比較的新しいのではジョン・アーヴィングの〈サイダーハウスルール〉とかさ。フウ!」

 颯は大息を吐いた。兄の顔を覗き込んで、

「だめ? ピンと来ない?

 うん、正直言うとさ、僕もだよ。所詮しょせん、他人事。今度ばかりは助言なんてできっこないや。だってさ、不倫どころか、僕、恋愛経験ゼロなんだもん。漣にぃはどう?」

 さりげなく水を向ける次男坊だった。

 兄は笑った。


 ―― まぁ、俺は帽子作りが恋人みたいなもんだから。


「言うじゃないか! それって帽子の女神に身も心も差し出してる、みたいな?

 アンデルセンの名著〈雪の女王〉はおとなしくて綺麗な兄ちゃんをかっ浚って監禁してたけど、それでいくと、さしづめ漣にぃは帽子の女王に誘拐されてるわけか。そして、一華ねぇが剣を振り翳して助け出しに行く、と。ベストキャストだな! 僕、この筋立てで小説サイトへ投稿してみようかな」


 ―― 馬鹿なこと言ってないで……俺はともかくおまえははモテるんじゃないのか、颯?


「いや、ゼ~ンゼン」

 だが、今はここで兄弟同士で〝彼女いない歴〟を披露しあっている場合ではない。

「理解するのは諦めるとして、逆に僕、教えてくれる人がいたらぜひ訊きたいよ。

 例えば、久生十蘭ひさおじゅうらんの〈胃下垂症と鯨〉。

 たった4ページ足らずの短編でさ、病気療養で逗留してた夫の友人に恋して家を出される若妻の話。

 でも二人にそういうリアルな関係はないんだよ。この場合、どうやら女の方の片思いみたいなんだけど。女が男と交わした会話が『あのね』と『さよなら』

 たったこの二つの言葉だけだもの。これでも不倫!?

 こういうことってあるのかなぁ?

 たまたま結婚しちゃった後で、実は『この人だ!』とピピッときた人に出会った時、人は不倫しちゃうのかな?」

 颯は髪を掻き毟った。

「だめだ! わからない! やっぱり今回は無理だよ、僕たち、不倫の前に恋をしなくっちゃあ!」


 ―― だな。


「じゃあさ、〈不倫〉に特化しないで、もっと大きく、そのもの、〈罪〉で行ってみる? 罪、罪……」

 何で帽子一個でこんな目に合わなきゃならないんだよ、と口を尖らせる弟。

「罪にまつわる話をし始めたら、それこそ手に負えなくなるよ? 原罪、オリジナルシンから出発しなくちゃいけない――」


 パチン。

 兄の指が鳴った。


 ―― 今、何と言った、颯?


「え? 原罪……オリジナルシン……?」


 ―― それだ! シン・・。そう、英語で罪はシン……sin と言うんだったな!

   シンか……




♠〈緋文字〉ナサニエル・ホーソン著 鈴木重吉訳 新潮文庫:他

♠〈チムニーズ館の秘密〉アガサ・クリスティ著 高橋豊訳 ハヤカワ文庫:他

♠〈サイダーハウスルール〉 ジョン・アーヴィング著 真野明裕訳 文春文庫

♠〈胃下垂症と鯨〉久生十蘭著 《十蘭レトリカ》河出文庫収録

♠〈雪の女王〉 アンデルセンの童話3 福音館文庫:他

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